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さるところで見かけた内容ですが、ハ・ガの既知未知に関しては、三浦つとむも誤った認識を示しているようです。
以下、論破してみるのでご感想をお聞かせください。

1.
「きみの嫁さんは私が見つけてあげるよ」

この文の正しい解釈は以下のようになる。

「きみの嫁さん」と言えば、聞き手は《何を指し示しているか分かる》ので、それを既知情報と言う。
「きみの嫁さん」ってどういう意味?とは尋ねないわけで、つまり、「は」により主題として提示することが可能だ。

一方、見つけてあげるよとだけ言われても、【誰が見つけてくれるのかは聞き手にとって未知情報】だ。
ゆえに、見つけてあげるという述部の主格として「私」を指定して、未知情報から既知情報に変換する必要がある。
つまり、未知情報であるところの「私」を主格として指定することが「が」の役目なのだ。

2.
(三浦つとむの認識開始)
独身の男性に向かって

  ・きみの嫁さんは私が見つけてあげるよ。

と友人がいうときに、聞き手にとって自分の「嫁さん」は既知で、「私」は未知だとは、どんな鉄面皮な学者でも主張できまい。 
(三浦つとむ「『が』と『は』の使いわけ」:『試行』NO.45 1976.4.)
(三浦つとむの認識終了)

彼のこの基準に従えば、

  ・(今まで黙っていたが)きみの嫁さんは私の友人が見つけたんだよ。

と友人がいうときには、聞き手にとって「きみの嫁さん」は既知で、「私の友人」は未知になる。
「きみの嫁さん」や「私の友人」は、既知であっても未知であっても「は」や「が」を自由に使えることになる。
これでは使い分けの基準にはなり得ない。

3.
もっとも彼は、《話し手は自分にとって具体的に既知であろうと未知であろうと、聞き手にとって具体的に既知であろうと未知であろうと、そんなことに関係なく同じように、「は」を使うのである。》
とも言っているから、それでよいのだろう。

ただ、この認識の根拠が、《既知と未知とは認識の問題であるが、認識は具体的なものから抽象的なものへ立体的な構造をもって成立するから、既知か未知かとあれかこれかの発想で形而上学的に割切るわけにはいかない。【抽象的でよければ何でも既知になる】。新しい素粒子もブラック・ホールも雪男も新聞雑誌で知ったから既知であるが、具体的にはどれも未知としかいいえない。》
と述べていることにあるらしいことを考えても、やはり彼は勘違いしていると言わざるを得ない。

【抽象的でよければ何でも既知になる】とは、《聞き手が「何を指し示しているか分かる」なら、それは既知情報である》ということを意味していると思われる。
しかし、抽象的で構わないのであり、《何を指し示しているか分かる》ならそれでよいのである。
なぜなら、それが「は」の主題提示という役割だからだ。
「新しい素粒子もブラック・ホールも雪男」も、それが《どんなものであるのか》まで示す必要は無いのだ。
三浦は、ここでボタンを掛け違えた。

「きみの嫁さんは」と主題提示すれば「は」の役目は完了する。
見つけてあげるよとだけ言われても、誰が見つけてくれるのかは聞き手にとって未知情報だ。
ゆえに、見つけてあげるという述部の主格として「が」を用いて「私」を指定することで、未知情報から既知情報に変換する必要がある。
むろん、未知情報であったそれ(私)を既知情報として聞き手と共有するためである。
「見つけてあげるよ」の主格として既知ならわざわざ指定する必要はないのであり、それを指定するのが「が」の役割だという点を三浦は見落としていたと思われる。

反論なさる場合は、その箇所を明記した上で論理的にお願いできれば助かります。

質問者からの補足コメント

  • >そういう考え方ができるのなら

    当方は、三上章の主格補語という概念に触れて、既知未知説の有効性を認識しました。
    ビビッときましたね。(笑)

    むろん、内容的には違うところもあるのかもしれませんが、散見するところによると大野晋が同じような考え方をしているようです。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/11/16 18:44

A 回答 (11件中11~11件)

まあ、寝言は寝て言え!



ハ・ガの既知未知に関しては、既に多くの方の結論が出され、質問者の誤りが明示されていますが?

今更、八つ当たりとは片腹痛いということです。
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