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江戸時代や明治時代において跡取りではない男性は母や祖母の家を継ぐことは多かったですか?

A 回答 (4件)

江戸時代や明治時代では、いわゆる子供のときに養子になって家を移るという男もそれなりにいました。

 結婚年齢になってから婿養子になって家を移る男もいました。 子供のときから奉公人として他家に奉公働きに出される男もいたし、流れ者になっていくもの、下働きに出される男もいました。

婿養子に出される先が、母の実家、祖父母の実家、姉や妹の嫁ぎ先というのもありました。 養子や婿になる先としては、けっこう親戚縁者が多いです。

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江戸や明治の時代でも、人口が多かったのは農家でしょう。
日々の労働をせずに、資産や家禄で収入を得られるような人は限られています。労働して生計を維持するというのが基本中の基本です。
「跡取り」というのは、単に労働力の一員であるだでなく、経営の指揮と責任を負う者であり、家のメンバーに対する監督責任権限者のポジションを得るのです。 責任を負いたくない場合には、さっさと隠居して、家督を長男や婿、養子に委ねるようにするのが多いです。隠居すれば、生活は保障され、いろいろの責任からもフリーになれます。

農家では、農地を耕作して収穫し生計を維持する必要があるので、家の労働の最低人数は必要で、若年死も考えると、必要最低限の人数の子ではだめで、1~2名は多めに産み育てるようにしていたようです。 男女にかかわらず農作業の労働の担い手です。 家によって(夫婦によって)男の子が生まれるか女の子が生まれるかということはあるし、出生順の男女は決まっているものではないのですが、5~6の夫婦の子の人数を男女別でみれば、男女はほぼ同数でしょう。
疫病や飢饉など、あるいは年貢負担などもあるし、農地自体を増やす大規模開発はないので、19世紀以降の人口は増えません。
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農村での田畑の面積も、2~3年の豊作や不作を別にして10年くらいでみれば収穫量も、労働人口も、同じ程度の状況が続いていたのです。
女は成人すれば嫁いで嫁ぎ先で働く、男は成人すれば嫁をもらうか、婿入りして働くというのが基本です。 たまたま、子が女の子であって青年期の男子労働力が不足しそうであれば早めに婿を取っていくという方策をとって労働力を確保したり、養子として男手を確保したようです。
最低の労働力人数を確保するということもあって、結果的に、余剰人員を抱えてしまう事態になると、生計・食事にも困るので、死亡率が高い幼少期を過ぎた段階で、過剰人員になると思われる者は、男でも女でも奉公に出されたりしていたようです。
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嫡男に後継者の兆しが見えるまでは飼い殺しで、その後に養子に出される事が多かったようです。


現在より養子に対するアレルギーは弱かったし、後継の男子がいない家にとっては養子こそが唯一の現実的な選択肢ですから。
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農民は小作農。



商家などは、丁稚奉公で嫁ももらえず
飼い殺しです。

武家は、やっかい叔父として
同じく飼い殺し。
やっかい叔父って、正式名称だ
ということです。

上手く養子に入り込むのも
おりました。

気が利いた人間は学問や武術に
励みひとかどの人間になりますが
例外です。
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江戸時代や明治時代において跡取りではない男性は母や祖母の家を継ぐことは多かったですか?」←これって知ってる人は死んでるのだから 後

てる書物を信じるか 信じないか・・なのだから あなたが自分で調べればイイだけでは?
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