
No.8ベストアンサー
- 回答日時:
徳川家康が、あと百年ぐらい生きて
いればそうなったかも知れません。
家康がやれたことは、天下統一が
精一杯で、それ以上は無理だったのだと
思います。
事実、徳川幕府初期では、藩をどんどん
取り潰していました。
武断政治といいます。
しかし、取り潰された藩の武士が浪人
となって、あちこちに不穏になり
遂に、由井正雪の乱が発生しました。
そのため、幕府は武断政治をやめて
文治政治に切り替え
藩の取りつぶしは激減しました。
No.7
- 回答日時:
> 江戸時代中期までは、江戸幕府は絶対的な権力を持っていて、地方の藩は歯向かえなかったそうです。
たぶん、その通りでしょうが、藩が徳川家に対抗出来ない状態であっても、徳川家もパワーがなかったのです。 いつから徳川家が弱くなったのかはハッキリしませんが、8代将軍吉宗の頃には、経常支出にも困る状況になっていて、幕政改革をせざるをえない状況でした。諸藩にしても事情は大同小異で、徳川家と諸藩の相対比較で徳川家が絶対的優位であったにしても、大規模な軍事行動を起こせるような余力はどこにもないのです。 どこかの1,2の藩・大名を排除して、徳川領にするくらいなら出来ないこともないでしょうが、10,20の大名地を没収し、その家臣団を失業させるか、徳川家に組み入れるかというようなことなど出来るわけがないでしょう。
明治になって版籍奉還が出来たのは、多くの大名家が借金の山を抱えていたを肩代わりするという交換条件や秩禄公債を出したからできたことです。
権威や権力だけでなく、財政的経済的に効果をだせるものがないと、一揆の頻発さえも抑えられないのです。
薩長がそれなりに力を持つようになったのも、経済政策のお陰です。
No.6
- 回答日時:
幕府自体が、大名の所領を安堵することで信頼と忠誠心を得るという体制なので、藩を全部潰すということは幕府の存立基盤そのものの破壊に繋がるからです。
幕府の財政赤字は、吉宗統治期を除いて幕府領の年貢が他の大名領より低かった事、財政赤字で首が回らなくなった大名家にほぼ無利子で貸付を行っていたこと、富士山噴火で縄文が壊滅した小田原藩の所領を被害を受けていない地域と交換してやったなどなど政策的な面もあります。
No.5
- 回答日時:
だんだん能無しになる世襲制で300年も続いたので限界でしょう。
世襲制で権力捨てて象徴になれるのは天皇家だけです。天皇家本当に世襲してるのかは諸説あるので怪しいのですがね。No.4
- 回答日時:
建前かもしれませんが、当時は朝廷もあったわけで、朝廷は中央集権で、日本全国が天皇の領土であり、守護は天皇の代理人として各地を治めていたわけです。
幕府も、元々の建前は、占領地を臨時に治めるための特例として朝廷が認めた組織です。
すべてを天領にすることは可能かもしれませんが、そうなると完全に天皇・朝廷と役割がダブることになってしまいます。
そうなると、実権を握っている幕府が、朝廷を潰し、天皇制を廃したことと同じことになってしまいます。
その辺の議論は幕府内でもあったかもしれませんが、当時の武士階級には尊王の意識は濃厚に残っていたわけで、それを実行しようとすれば、諸大名や幕臣の中からも反対論が噴出したことでしょう。
現実に実行に移せば、国を二つに分けた大戦争が起こったとしても不思議はありません。
江戸時代にしても、実態は幕府主導による幕藩体制であるにしても、建前は朝廷による中央集権国家であるわけです。だから将軍にしても各地の守護となった大名たちにしても、必ず天皇。朝廷から任命されていたわけです。
その建前を崩して全国天領化を実行すれば、大戦争を引き起こしかねないリスクがある以上、全国天領化は無謀な政策ということで却下だったでしょう。
No.3
- 回答日時:
全部天領にしたら国防の体制はどうするのですか、旗本八万騎だけでは
日本全土の防衛は不可能でしょう。
藩は独立した存在であり、武士の他に、土着の国人、豪族、地主
などが居ます、殿様の首を挿げ替えただけでは領地支配は出来ません。
領地を保全してくれるから、幕府に従っているのであって、それが無く
なれば、再び戦国時代に成ります。
No.2
- 回答日時:
農本主義で封建主義だったからです。
徳川幕府というのは、あくまでも軍事政権で「各地に居る大名などの領主、つまり《軍事指揮権を持つ実力者たち》を統率する権利を朝廷から与えられた人物」でしかありませんでした。
そしてその各大名には家老以下の藩士がいて、かれらもそれぞれが《軍事力を持つ家系》であり、それが地元の郷士などまで忠誠という信頼関係でつながって、国を治めているのが封建主義というものだったのです。
なので、もし自分達の領土に問題が起きれば、領主は藩士たちに命令して藩を守る行動をさせ、藩士たちはそれに従ったし、その約束で日常的な給料をもらっていたのです
なので、改易(領地を移動させること)や問題のある家を取り潰すことは可能でしたが、各大名の領地を取り上げることはできませんでした。
もし藩を取り潰すと、赤穂浪士のような「藩からの給料がもらえず、どこも雇ってもらえない食い詰めた軍人」がたくさん生まれるわけで、犯罪が多発することになります。
問題なのは、当時の日本が「封建主義的な統治法以外のやり方を知らなかった」ことです。
徳川幕府が大政奉還して明治政府になると、軍事政権ではなく「日本を収めている君主=天皇の直接統治」に戻ります。
なので、天皇は藩を解体することができ、同時に四民平等を行って「武士も農民・町民も関係なく、自分で働いて生計を立てる国民」に転換することができたのです。
幕府もこのような仕組みを考えていましたが、しかしこのやり方だと封建制度から脱して、徳川独裁(実際は天皇親政)から民主化に移行することになります。
将軍が藩を解体し徳川独裁体制になることは、各藩の大名も藩士も許さなかったでしょうし、逆に「武士」という身分制度に頼っている徳川幕府としては、解体した藩の藩士と農民・町民を平等な身分にすることも難しかったのです。
だから徳川幕府が幕末に考えていたのは「藩の領主を集めて、国会をつくる幕藩民主制」のようなもので、ある程度民主的な手続きで国家運営することはできても幕藩体制を徳川幕府が壊すことはできない、やるとしても相当な年月をかけて、少しずつ解体するしかなかったのです。
でも、世界情勢はそれを許さず、一気に明治維新になったのです。
No.1
- 回答日時:
「藩」は今で言う「国」のようなものですから
それを無理やり取り上げるのはロシアとウクライナの関係と同じです。
そこでまた戦が始まりますから、
戦いによる経済や人民の疲弊と比べれば
そこから得る利益は多くはありません。
各藩の自治にまかせて稼がせて、
個別狙いでその上がりを取るほうよかったんでしょう。
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