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古代日本には、女性天皇はいました。

質問は、何故、摂政関白には、女性がならない・なれなかったのでしょうか?

A 回答 (8件)

摂政関白は「武力が必要」だったからです。



近代はともかく、古代の摂政や関白は武力での統率力が必要でした。
たとえば「842年 承和の変:伴健岑・橘逸勢という他氏の有力勢力を退ける。」というような記述がありますが《他の有力勢力》とは、大きな軍事力を持つ有力者集団のことで、これを「退ける」ということは武力で戦って勝った、ということです。

古代の日本は、寺社ですら武装化していたように「物事に決着をつけるのは武力」だったのです。

だから平清盛は源頼朝の父などを武力で殺し、結果的に頼朝で武力で政権を追われることになります。

どんな場合でも最終的には「武力」で決するのですから、事実の政治決断者は男性しかなれません。

話し合いなってあってないような時代ですから、荒くれものの男たちを束ね、政治力を保持できたのは男性だけ、です。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
<古代の摂政や関白は武力での統率力が必要>で、武力に近いのは男性だったのですね。

お礼日時:2023/01/23 11:40

#5です。

お礼ありがとうございます。

ちょっと補足。

「古代日本には、女性天皇はいました」
はい、女性天皇だけでなく、3歳ぐらいで即位した男児の天皇もいました。平家と共に壇ノ浦に沈んだ安徳天皇は満2歳で即位し、満7歳で崩御しています。

判断力が皆無の2歳児が天皇になれるのですから、女性が天皇になること自体は特に問題はなく、問題は「男系女子であるか?」という血筋(正統性)の問題であったわけです。

天皇が正統性を持つ人物であっても「能力的に無能」であれば後見人が必要になります。
後見人は「政治的な判断力が高く(必ずしも優れているとは言えない)、その判断が過ちであった時に状態を回復できる能力があること」が重要であり、それは学識だけでなく武力も必要であったわけです。

当時の武力とは「武器を使える兵士を束ねる指導力」という意味合いが大きいですから、となると武器を持たず戦争に参加しない女性(武家は別ですが、公家の女性は軍事に参加しなかった)は「政治的な能力がない」とするしかなかったといえます。

要するに「軍事的な危機の時に、自分の命を晒したことがない女性指導者では誰もついていかない」ということです。(男子は権力者になる前は、前線で指揮をとったりして兵士との信頼関係を築くわけです)

これが#5に書いた「摂政関白は「武力が必要」だったからです」という意味です。
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうございました。
<武器を持たず戦争に参加しない女性>は<政治的な能力がない」>とみていたのですね。

お礼日時:2023/01/25 08:35

天皇は君臨する王家。

大事なのは血筋です。だから、臨時の中継ぎとしての女帝も容認されたのです。
それに対して摂関は公家社会のトップです。院政期以前には、政界でトップとなった人物が摂関となって、その政治力で娘が産んだ子を次期天皇にしていただけです。摂関政治期に「摂関家」というのは結果的に親子で摂関が続いていた状態を指すもので、公家社会でトップに立てば誰でもなれたのです。ということで、公家として官職に就けるのは男だけですから、女が摂関になることは無いのです。
院政期になると、摂関家内部で誰が摂関になるか親子兄弟叔父甥での競争が苛烈になり、さらに摂関が相次いで若死にするという事態が発生して相対的に摂関の政治力が落ちました。そこに付け込んだ白河院は、若輩の摂関を任命してさらな摂関の影響力低下に成功します。また、これによって、特定一族(道長の直系子孫)だけが摂関になれるという習慣ができて摂関家という家格が固定化したのです。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
1.天皇  中継ぎなら女性「でも」、ということですね。
2.摂政関白  <公家として官職に就けるのは男だけ>ですね。

お礼日時:2023/01/23 11:44

No.3です。



>しかし、官僚のなかにそもそも女性がほとんど任用されておりませんか       ら、幅広く適任・・・が成り立たない、思いまますが。

官僚ではなく天皇家に近い人物を摂政関白として選ばれています。その中から幅広くです。
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この回答へのお礼

再度ののご回答ありがとうございました。
了解しました。

お礼日時:2023/01/23 11:40

古代から近代まではどこの国でもそうですが、政治の世界はほぼ男性のみでした。

女性が出産育児に時間を取られて、男のように政治に専念しにくかったことが原因でしょう。

日本の古代の女帝の場合、皇位継承を巡る権力闘争の結果として、有力な天皇候補を持たない主流派が力のある大后や皇后を半ば強引に天皇に押し込んだ経緯が多い。それが推古や持統など飛鳥時代から奈良時代の女性天皇だ。

平安時代以降の天皇は、祭祀中心で政治の実務は形式的になっていったが、奈良時代以前は天皇親政に近い形だったので、皇位継承は豪族たちの主導権争いもあって皇族暗殺・謀殺が相次ぐ激しいものとなったことが、女性天皇が相次いで出現した理由となった。

摂関政治は平安時代からだが、冒頭のような状況が安定していたかなり平和な時代だった。ゆえに、摂関家の長である男性が天皇の姻戚の権威で摂政関白となって政治の実権を握り続けたということになる。
平安時代後半の院政も、天皇が譲位して上皇となって、天皇の父親と云う権威で実権を握ったわけだが、この頃の天皇は男性ばかりだったので、女性はいなかった。
ただし、上皇の立場で実権を握った女性は、初代上皇でもあった持統天皇だけだが、ひとりは存在した。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<女性が出産育児に時間を取られて、男のように政治に専念しにくかった>ですね。
現代の総理大臣にも女性がいない、と同様ですね。
(ただし、官僚には少数ですが女性がいますね)

お礼日時:2023/01/22 18:11

天皇に摂政関白を付けたのは天皇が幼少であるとか女性の時です。

そもそも天皇と言うのは男性であることが大前提です。でも天皇になるには血筋などの条件が必要です。そこで女性天皇は条件に当てはまる男性を当てるのが困難なときだけなったのです。

一方摂政関白には明文化された条件はないので、血筋とは関係なく周りが当然と思う人物がなっていました。そこで摂政関白になる人物の条件は天皇より幅広いわけです。かつ「天皇は男性である」事が基本でしたので、摂政関白にあえて女性を選ぶ理由はありませんでした。この人が適任と思われる男性がいたら、即摂政関白になったのです。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
1. 天皇の場合 狭い血筋のなかに男性の適格者がいない場合には、女性を選出せざるをえなかった、のですね。(こちらは了解しました)
2. 摂政関白の場合 幅広く適任者を広く探せる、ということですね。
  しかし、官僚のなかにそもそも女性がほとんど任用されておりませんか       ら、幅広く適任・・・が成り立たない、思いまますが。

お礼日時:2023/01/22 16:09

その女性天皇は大抵天皇の子女など皇族でしたからね



摂関時代の藤原家の娘さん方は、皇子方のお妃としての役割がメインでしたから
やっぱり血筋と役割が異なるということでしょうね
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
有力者の娘さんは<皇子方のお妃としての役割がメイン>でしょうが、
その他の家の娘さんは官僚として任用され、いずれは摂政関白へという道があってもよい、と思いますが。

お礼日時:2023/01/22 16:15

天皇は皇族だからです。


女性の政治家はいません。
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この回答へのお礼

ノーコメント

お礼日時:2023/01/22 16:09

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