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何故なら、憲法12条で、憲法は、憲法を守る事を国民に要求しているからです。これは憲法の国民への「命令」です。憲法には明確に、「しなければならない」と命令形で書かれてあります。従って国民は憲法の「命令」に従わなければ成りません。すなわち、命を懸けて憲法を守れ。と言う事です。

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

そして、供託金300万円は、明確に憲法44条に違反しています。従って、国民は公共の福祉の為に、これを放置できません。憲法違反に成るからです。

国民は供託金300万円を廃止させる為に、そして公共の福祉の為に、命を懸けて戦う義務が有りますよね?なぜなら、それが憲法が国民に命じるところだからです。国民は憲法の命じる所に従い、自らの生命を投げうって供託金廃止の為に戦わなければ成りませんよね?

質問者からの補足コメント

  • 吉田 松陰

    安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策(暗殺)を提言する。

    さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。

    安政6年(1859年)、梅田雲浜が幕府に捕縛されると、雲浜が萩に滞在した際に面会していることと、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武次郎が雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。

    評定所で幕府が松陰に問いただしたのは、雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画である間部詮勝要撃策を自ら進んで告白してしまう。

    この結果、死刑を宣告され、安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷で執行された。享年29。

      補足日時:2023/04/24 12:25
  • ソクラテスを知りませんか?ソクラテスも処刑されました。ソクラテスは、吉田松陰と共通したところが有ります。

    何事も志がなければならない。志を立てることが全ての源となる

    志ある人は、その実現のためには、溝や谷に落ちて屍(しかばね)をさらしても構わないと常に覚悟しているものだ

    目先の安楽は一時しのぎと知れ
    百年の時は一瞬に過ぎない
    君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ

    本当の誠実さを持ちながら行動を伴わない人はいない、本物の誠実さがあるというのであれば、行動しなさい
    死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし

    私を使役して、道を行なうことに心がける者が大人であり、
    反対に、私の欲望を満足させる事を目的とするものは小人である

    今の幕府も諸侯も、もはや酔っぱらい同然だから救いようがない。在野の人が立ち上がることを望む以外に頼みはない

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/04/24 18:15
  • あなたは、自民党の為に働く、日本の5毛党ですね。
    ____________
    五毛党( wǔmáo dǎng)とは、中華人民共和国における中国共産党配下のインターネット世論誘導集団を指すネットスラングである。正式名は網絡評論員(インターネットコメンテーター)、2005年ごろまでは書き込み1件当たり5毛(5角(=0.5元)≒10円)が支払われていたことからこの蔑称が名づけられた。

    通常は一般人を装い、インターネット上のコメント欄や電子掲示板などに、中国共産党政権に有利な書き込みをする。または共産党「それに関連する事」を批判する人に対する集団攻撃をする。

    ネットを通じ、世論誘導をする役割を担っている。2015年時点で、約1050万人程度いると見られている。中国政府が世論操作のためにSNSに投稿させている「やらせ書き込み」は、年間で4億8800万件に上る。

    No.32の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/04/25 16:04
  • もとより、いきなりテロに討って出ろとは言っていません。あらゆる策を打ったのち、万やむを得ずテロを選択するのです。

    吉田松陰だって、長州藩に堂々と、テロの企みを申し出ています。驚いた長州藩は危険人物として、松陰を牢屋に入れました。

    後に、松陰は別件の事実確認の為、幕府から呼び出しを受けたのですが、長州藩は松陰がテロを企んでいた事は伏せていました。

    ですから、松陰は、幕府の取り調べで、別件の事実確認の事だけ話していれば釈放されたのですが、松陰は聞かれてもないのに、ペラペラと、テロを企んでいた事をしゃべってしまい、それで打ち首に成ったのです。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/04/25 16:19
  • 吉田松陰だって、幕府の要人の暗殺を提言しましたが、自分ではやってないですよ。ただし、それでは口だけかと言われたくないので、幕府の取り調べでは自ら自白して、首を切られています。

    私だって、こうして、逃げ隠れする事無く、公然とテロを企んだ吉田松陰を擁護しています。政府が私を逮捕したければ、いつでも逮捕できるでしょう。

    No.40の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/04/26 09:23
  • 当たり前すぎて、言うまでもない事を、あなたは理解していないようです。

    憲法に書かれた国民の権利は、只、憲法に書き込むだけで守られるものでは有りません。憲法12条が言うように、「不断の努力」が必要なのです。

    その不断の努力の中には、「暴力」も含まれるのは自明の事です。

    No.35の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/04/26 09:51
  • 供託金300万円を差し出さなければ、立候補させないと言うのは、公共の福祉に反する事は明白です。

    ベンジャミン・フランクリンは民主主義者ですが、議会で、「財産の無い者には投票権を与えるな」と主張する者に対して、こんな演説をしています。「ある男がロバを飼っていて、その男にはロバという財産が有ったので、投票権が有った。しかし、ロバが死んでしまって、その男は投票権を失った。諸君、私に教えて欲しい。投票権は誰に有るのか?その男か、それともロバか?」

    No.36の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/04/26 10:28
  • HAPPY

    一旦、志を立てた以上は、後は日本の偉大な思想家である吉田松陰先生の言葉に従って、只、目標に向かって駆けるのみです。我に続く者が居るかどうかは、我の問う所に非ず。只、駆けよ、敵は幾万居ようとも恐れるに足らず、只、ひたすら駆け、単騎突入せよ。それが鎌倉武士以来の日本国の武士の伝統です。

    No.58の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/04/29 05:57
  • プンプン

    それは詐欺ですよ。最高裁判所が詐欺をやって良いのですか?

    分からないから白紙で投票したのに、勝手に「あなたは裁判官を信任したので、その責任を取ってもらいます」と言われたようなものです。

    こういうのを詐欺と言います。ネットで良くある手口です。うっかりクリックしたら請求書が来たようなものです。自分では意識していないのに、勝手に承認したとみなすのは詐欺です。

    No.69の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/04/30 19:27

A 回答 (70件中1~10件)

そんなことを考えるのは極左暴力集団だけでは? 目的は手段を肯定するわけではないです。

供託金300万円の廃止は必ずしも否定しませんが、民主的手続きによってすすめなければなりません。
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この回答へのお礼

>民主的手続きによってすすめなければなりません。


木村隆二だって、いきなりテロに走ったわけではないです。供託金は憲法違反だと訴訟を起こしています。しかし裁判所は木村容疑者の主張を認めませんでした。

従って、木村容疑者は、供託金が無いので立候補もできず、裁判にも負けて、万策尽きて、やむを得ずテロを決行したのです。

自民党は山口県出身の吉田松陰を尊敬していますが、その吉田松陰もテロリストです。

吉田 松陰

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策(暗殺)を提言する。

間部要撃策とは、老中首座間部詮勝が孝明天皇への弁明のために上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが受け入れられなければ討ち取るという策である。

松陰は計画を実行するため、大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出るも拒絶される。次に伏見にて、大原重徳と参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受け、京に入る伏見要駕策への参加を計画した。

しかし野村和作らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎ら弟子や友人の多くは伏見要駕策に反対もしくは自重を唱え、松陰を失望させた。松陰は、間部要撃策や伏見要駕策における藩政府の対応に不信を抱くようになり草莽崛起論を唱えるようになる。

さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。

安政6年(1859年)、梅田雲浜が幕府に捕縛されると、雲浜が萩に滞在した際に面会していることと、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武次郎が雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。

評定所で幕府が松陰に問いただしたのは、雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画である間部詮勝要撃策を自ら進んで告白してしまう。

この結果、死刑を宣告され、安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷で執行された。享年29。

お礼日時:2023/04/24 12:22

まず日本語勉強しましょう


許されないから「テロ」なのであって、少なくとも日本においては許されるテロなどというものは存在しません。
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この回答へのお礼

吉田 松陰

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策(暗殺)を提言する。

間部要撃策とは、老中首座間部詮勝が孝明天皇への弁明のために上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが受け入れられなければ討ち取るという策である。

松陰は計画を実行するため、大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出るも拒絶される。次に伏見にて、大原重徳と参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受け、京に入る伏見要駕策への参加を計画した。

しかし野村和作らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎ら弟子や友人の多くは伏見要駕策に反対もしくは自重を唱え、松陰を失望させた。松陰は、間部要撃策や伏見要駕策における藩政府の対応に不信を抱くようになり草莽崛起論を唱えるようになる。

さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。

安政6年(1859年)、梅田雲浜が幕府に捕縛されると、雲浜が萩に滞在した際に面会していることと、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武次郎が雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。

評定所で幕府が松陰に問いただしたのは、雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画である間部詮勝要撃策を自ら進んで告白してしまう。

この結果、死刑を宣告され、安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷で執行された。享年29。

お礼日時:2023/04/24 12:23

> 公共の福祉の為に、命を懸けて戦う義務が有りますよね?



本気でそう思うなら、やれば?

ただ、合憲と考えてる人や、興味のない人をテロに誘うのは、違憲であり違法な。
憲法擁護論としては不成立。
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この回答へのお礼

んな戯言は、偉大な吉田松陰先生の受け入れられる事では有りません。

吉田 松陰

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策(暗殺)を提言する。

さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。

安政6年(1859年)、梅田雲浜が幕府に捕縛されると、雲浜が萩に滞在した際に面会していることと、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武次郎が雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。

評定所で幕府が松陰に問いただしたのは、雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画である間部詮勝要撃策を自ら進んで告白してしまう。

この結果、死刑を宣告され、安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷で執行された。享年29。

お礼日時:2023/04/24 12:29

どんな理屈を以てしても


テロは絶対に許されないことですし
法的にも許されておりません。

供託金廃止問題については一理ありますが
テロとは明確に別次元のお話です。
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この回答へのお礼

>テロは絶対に許されない


そんな戯言は、偉大な吉田松陰先生の受け入れられる事では有りません。

吉田 松陰

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策(暗殺)を提言する。

さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。

安政6年(1859年)、梅田雲浜が幕府に捕縛されると、雲浜が萩に滞在した際に面会していることと、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武次郎が雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。

評定所で幕府が松陰に問いただしたのは、雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画である間部詮勝要撃策を自ら進んで告白してしまう。

この結果、死刑を宣告され、安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷で執行された。享年29。

お礼日時:2023/04/24 12:28

#3



ごめん意味不明。
吉田松陰はテロ計画で処刑されました、までは読めましたがそれが質問とどう関連するのでしょうか?許されるテロは存在しないというご自身の命題を否定したいということでしょうか?

ちなみに民主主義ではない前近代の体制における主流派・反主流派の権力闘争をいまの価値判断で評価するのはナンセンスです。
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この回答へのお礼

吉田松陰先生は、テロを肯定されていた事は確かです。

お礼日時:2023/04/24 13:41

> 憲法を守る為ならテロも許されますよね?


いいえ。
公共の福祉に反する行為は、憲法が適用されません。

なお、第十二条が国民に課しているのは、
憲法が国民に保障する自由及び権利を保持すること、
公共の福祉のためにこれを利用すること、
です。
憲法を守れとは、言ってはいません。
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この回答へのお礼

憲法には明確に、「しなければならない」と命令形で書かれてあります。

お礼日時:2023/04/24 13:39

ただの揚げ足取りの幼稚な言葉遊びなら、子供相手にどうぞ。

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この回答へのお礼

そう思われるなら、回答しないでください。

お礼日時:2023/04/24 13:38

>自民党は山口県出身の吉田松陰を尊敬していますが、その吉田松陰もテロリストです。



 一種の専制国家であった江戸時代には許されても、現代の民主主義国家では許されないのがテロでしょう。それから人物を尊敬すること=テロ容認ではありません。飛躍しすぎでは。
 ちなみに私は吉田松陰はただのテロリストだと思っております。
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この回答へのお礼

>私は吉田松陰はただのテロリストだと思っております。


国会議事堂の中に、銅像として立っている、伊藤博文、大隈重信、板垣退助の三人は、皆、吉田松陰先生の薫陶を受けて、明治維新の大事業を成し遂げたのです。

そもそも明治維新とは、徳川幕府に対する反乱であり、テロなのです。

お礼日時:2023/04/24 13:38

憲法の下にある各種法律や条令などに違反するのでテロは憲法を守る事にはならない。

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この回答へのお礼

>憲法の下にある各種法律や条令などに違反する


憲法は、憲法の下にある各種法律や条令などよりも、偉いです。

従って、憲法は、憲法の下にある各種法律や条令などに従わなくても良いです。

お礼日時:2023/04/24 13:34

> んな戯言は、偉大な吉田松陰先生の受け入れられる事では有りません。



それが戯言。

吉田松陰は、言わば憲法改正に反対している。
一方のあなたは、「憲法違反だ!」と言う主張であって、全く性質が違う。
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この回答へのお礼

>松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている


自民党が日本最大の障害であり、自民党政権を倒さなければ成りません。

お礼日時:2023/04/24 15:20
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