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大化3年(647年)に渟足柵(現在の新潟県新潟市沼垂付近と比定される)の設置が記録されてますね。
質問は、「城」や「館」という漢字があるにもかかわらず、なぜ「柵」を採用したのでしょうか?
(井沢元彦は、「異民族」側が籠もった「基地」のことを「大和朝廷」は「柵」と呼んだ、と書いていますが)

A 回答 (4件)

おそらく、柵戸と呼ばれた移民の行政拠点が「柵」で、軍団や鎮守府などが置かれた軍事拠点としての性格が強いものを「城」としているのでは?


その根拠としては、蝦夷の乱が少なかった出羽に「柵」が多く、蝦夷との衝突が頻発している陸奥や、出羽北部に「城」が多いからです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<柵戸と呼ばれた移民の行政拠点が「柵」>
<軍団や鎮守府などが置かれた軍事拠点としての性格が強いものを「城」>
というように使い分けしていたのですね。
乱が少ない出羽・衝突が頻発している陸奥や、出羽北部を比較すると、なのですね。

お礼日時:2023/06/16 00:05

養老年間(717年 - 723年)に渟足柵が沼垂城の名で機能していた(推定)説と、慶雲2年(705年)の越後城が、改名された渟足柵ではないかの説。



(大昔のことでわからぬ)
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この回答へのお礼

そうですか。

お礼日時:2023/06/16 00:05

城の場合沼垂城と呼びます。

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この回答へのお礼

そうでしょうね。

お礼日時:2023/06/16 00:01

平地に木材で柵を造って防壁とした砦だったのでしょう。



おそらく水田を蝦夷の襲撃から守るためのもので、蝦夷は馬術にも長けていたはずですから、馬防柵の意味もあったのではないでしょうか。

或いは、こちらの方が本筋かもしれませんが、日常的には柵内は大和朝廷の領土であることを示す境界線の意味合いが強かったのではないかと思います。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
意味ははっきりしないも
1.木材
2.馬止め
3.境界線
どれも含みそうですね。

お礼日時:2023/06/15 23:59

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