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保科正之について。

Wikiによれば
<寛永13年(1636年)には出羽国山形藩20万石を拝領した。この時、高遠の領民の間で「今の高遠で立てられようか、早く最上の肥後様へ」と歌われる。「どうして今の高遠でやって行けよう、早く正之様の最上(山形)藩へ移りたい」という意味で、正之の高遠での善政が忍ばれる。実際に3000人に上る高遠の領民が逃散(農民が家や土地を放棄して逃亡すること)し、正之の後を追って山形に行ってしまう。>

領民の逃散について、幕府の咎めはなかったのですか?

A 回答 (1件)

話の出所の記載がなく、風証の域を出ていないですね。


山縣藩に行った百姓は田畑を得られますか?得られませんでしょう。
通行手形が無いのに関所をどうやって通ったのでしょう。
関所は百姓の逃亡を防ぐ為に作られた物でで有り、通り抜けは困難です、
通り抜けたとしても、その地の役人に捕縛されれば元の領国に送り返す
事が大名間での了解事項になってます。

保科正之の善行を讃える話として後世の人間が蒔いた風評と考えますが
如何でしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<保科正之の善行を讃える話として後世の人間が蒔いた風評>ですね。
この話は、このwiki以外には見つからなかったです。

お礼日時:2023/07/28 15:46

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