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社会学ってイデオロギーですよね?同様に憲法学や歴史学なんかも特定のイデオロギーに結合しがちです。要は理論の中に論者の主観が入りすぎていて、主観的な前提が変われば簡単に結論もすり替わるため、結果を導くための規範的な方法論が存在しないという学問として致命的な欠陥を内包しています。
こんなものはそもそも学問とはいえず、貴重な学生時代にイデオロギーを学ぶのは、時間と金の完全な無駄遣いではないでしょうか。

A 回答 (6件)

その時代の臨界点の中での


その社会なりの精いっぱいの価値観からの実践が
積み重なる形で歴史は進んできている。

つまり現代の問題を丁寧に解決するための
前提となる経緯を理解する。

そういう意味はあると思います。
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> 要は理論の中に論者の主観が入りすぎていて、主観的な前提が変われば簡単に結論もすり替わるため、結果を導くための規範的な方法論が存在しないという学問として致命的な欠陥を内包しています。



人文科学、文学、芸術学、経済学、歴史学、地理学、心理学も、主観というか、観念、概念の操作が大前提にあります。 生物学のようなものも、観念、概念の操作なしには成立しないです。 
《論者の主観が入りすぎていて》の《入りすぎて》など論者の主観そのものでしょう。 数式を駆使していても、その数値表現の対象の把握の段階・ステージで概念操作を前提にしているので、統計処理や、観察結果を扱っても、そうした外的観察に無関係に論理的に概念操作で理論物理を組み上げても、主観というなら、すべてが主観です。

学問というのは、ある観点にたって理論体系を組み上げるものなので、それ自体が《規範的な方法論》を持ってます。 

「貴重な学生時代に」  幼児でも、小学生でも、20代でも、40代でも貴重であるとはいえるでしょうに、あえて「貴重な学生時代に」なのか、主観が過ぎるでしょう。 
思考や習慣の獲得、神経回路、体躯など、あるいは性成熟などの面からすると、かなり重要な意味を持つのは、十代前半までです。 もちろん、30代でも、50代でも、70代を過ぎてからも、重要であったり、当人や周囲からすると貴重であることもあります。

社会福祉、健康寿命、景気経済、所得、格差、心の知能指数EQ、私生活の満足、社会的成功敗退、差別、インフラや地域格差など、人々の個々人の関心事や幸福感、敗退感、衰弱などが、とても大きなことになっていて、社会が流動的であれば、十代後半からは、主観的な概念の思考・検討・批判の訓練を受け、自分なりの自立した安定的なイデオロギーをもてるように、勉学した方がメリットは大きいでしょう。

学問的にイデオロギーという場合は、「日常に浸透して自明視された意識のあり方」を指す場合が多いです。「言うまでもなく自然」であるとか「自明・当たり前・当然」であると思われている意識形態のことをイデオロギーというのです。「ジェンダーや発達障害、身体障害、精神障害、地域や施設にあるインフラの整備状況、賃金や課税、福利厚生施策、教育環境や諸制度、経済取引や経済制度への政治的助勢や規正」も、人々の日々の生活にも、中長期の生活にも大きな影響があります。 
それらについて、無知で、自然当然のものと考えたり、自分の感性・感覚だけで嫌悪や怒りを起こすような惨めな状態にならないように、気を入れて勉強されると少しはイイでしょう。 
もしも、既に大学生のような年齢になっていて、社会的概念の操作について基礎的な概念にも疎く、関心も低いのだと、この先、困る事態になる恐れが高いです。
中学の、国語、社会科のようなレベルからでも、小説や新聞、雑誌を読む、テレビの番組を見る、社会的話題に関心を向けるのがイイと思います。
台風や熱中症、山林火災、国際紛争、財政問題、インフラの劣化、自死念慮、虐待、雇用問題、環境税・持続可能性、何からでも、イイです。
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こんなものはそもそも学問とはいえず、


  ↑
学問には、認識学と、実践学が
あります。

認識学の典型が自然科学です。

実践学だと法学が相当しますか。


実践学は、社会に働きかけ
変革しようとする学問ですから
論者の主観やイデオロギーが
入るのは当然です。

社会学、歴史学などは、本来は
認識学であるべきなのですが
実際は、実践学的になりがちです。



貴重な学生時代にイデオロギーを学ぶのは、
時間と金の完全な無駄遣いではないでしょうか。
 ↑
法学なんか、十分に飯の種に
なるので、無駄、ということはありません。
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私も人と議論する時に前提に主観や価値判断がどれだけあるかは意識しています。

ただ前提となるイデオロギー自体の優劣に対する合理的思考もある程度可能だと思います。憲法は日本の最上位法であり研究に値すると思いますし、歴史学も内容によっては政治・経済を語る上で役に立つでしょう。主観の介在しない学問でも時間と金の無駄と思える領域はあるでしょう。
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論者の主観が入りすぎているため学問にならないとは言わないでしょう。

学問は答えが明確に定まっており、結果を導く規範的な方法論がなければならないものなのですか?そんなことはないはずです。そもそも憲法ができた最初の発想は君主を法によって拘束するためです。この一部民主のイデオロギーによって憲法制定が実現し、多くの人々が王の統治から解放され、望んだ幸せが手に入ったのです。確かに法学や歴史学は、明確な一つの答えをもつ自然科学とは大きく性質が異なります。しかし、自然科学だけで、人々が望む世界や健全な世界を実現することは可能なのですか?このような問いに答えるために存在するのが法学、歴史学、社会学なのであり、事実として、学問として必要ないのであれば、現代においてその研究がされている説明ができません。必要だから研究されてるのです。イデオロギーだからなんですか?特定のイデオロギーに結合した結果、今の世の中があり、大衆のイデオロギーによって国の政治は動きます。一つの政治の方針や条約、憲法で国の運命が大きく左右されたことは小中学の歴史で十分にご存じでしょう。人々の人生を幸せにも不幸にもしてしまうこの絶大な力を扱う術を学問としないなら、今ある大学の社会学部や法学部、ひいては学術会とはなんなのでしょう。
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学問のレベルに達していない社会学が多いのには同意します。


特に日本の社会学者のレベルは低い。

一方、学問的に瑕疵のない統計学的に破綻しない厳密な帰納法的手法を使ってアウトプットされた社会学の成果はちゃんと社会に還元されています。イデオロギーというのはその真偽を問うとかならず何処かで同語反復になる考え方のことですが、そうならないようハイエンドの社会学者はいつも気遣っています。

繰り返しますが日本の社会学は酷いです。。
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