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鎖国(?)は朝廷から政権を任されていた幕府が行ったもので、幕府の最高責任者であった井伊大老が開国を決断しても、それは勝手なものだと言えませんよね?
井伊大老は心情的には攘夷でしたが、しかし、相模国の沿岸部防衛をずっと担当していて、その時に水戸藩主徳川斉昭が築かせた品川の台場などを見て笑い、こんなのは役に立たない、小さな大砲を造ってもアメリカの軍事力にはかなわないという事を言って斉昭に嫌われる。そういうふうに諸外国の力の強いことを熟知していたので心情的には攘夷でしたが開国はやむを得ないと考えていましたか?戦争すれば日本は必ず負けると確信していましたよね。欧米諸国との通商条約にしても締結を拒否すれば清国のアヘン戦争のような事件になるという列強の警告を本気で信じていたのですか?

A 回答 (1件)

> 鎖国(?)は朝廷から政権を任されていた幕府が行ったもので、幕府の最高責任者であった井伊大老が開国を決断しても、それは勝手なものだと言えませんよね?



朝廷と幕府の関係などに無関係でしょう。 大老職に任じられているのですから、採決する必要は感じてたでしょう。 ずるずる引きずっていられないのは、前の老中筆頭堀田にしても同じです。 決断すべき役目であったのです。

> そういうふうに諸外国の力の強いことを熟知していたので心情的には攘夷でしたが開国はやむを得ないと考えていましたか?

個人の心情で政局を決するのはよくないと思っている幕領、老中、大老が多いでしょう。 当人がこうしたことで特定の心情を継続的に有していたと思うこと自体が間違いでしょう。 情勢判断で次々と心情は変わるものでしょう。 堀田と同様に、現状でのベターを選んでいる時点のものが、そのときの心情です。 ベターの選択を迫られる立場になる前に、そもそも通商や海軍力のことなど思念にはなかったという方が普通でしょう。 「諸外国の力の強いことを熟知していた」などはないでしょう。
ネットの記載ですが、
https://www.umoreginoya.com/life
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1853(嘉永6)年6月3日、アメリカ東インド艦隊の司令長官ペリーが軍艦四隻を率い浦賀に来航し、国交を求める国書を持参しました。この緊急事態に対応するため、直弼は7月に江戸に戻ると、幕府は品川台場の築造に着手し、彦根藩は羽田・大森の警衛を命じられています。一方で直弼は、米国親書に対する意見書「別段存寄書」を幕府に答申し、堂々と開国論を主張されています。翌1854年(嘉永7)年1月にはペリーが再び来航、3月に「日米和親条約」が締結されると、彦根藩は羽田・大森の警衛を解かれ京都守護に命ぜられたため、直弼も5月に彦根に戻りました。その後も毎年のように彦根と江戸との間を参勤される多忙な日々が続きます。
1857(安政4)年に米国総領事のハリスが幕府に自由貿易を要求する国書を提出すると、翌1858(安政5)年4月に国内外の難局打開のため大老に就任した直弼は、「日米修好通商条約」を調印、6月には紀伊の徳川慶福を将軍家定の継嗣に決定しました。開国は直弼の国際協調・平和思想に基づくもので、直弼は外国と戦争をすれば必ず負け、植民地となり、子孫まで苦渋の生活となることを見通していたのです。政治や外交は幕府に一任されていたので開国を決断してよかったのですが、尊王家の直弼が天皇のご意見や諸大名の考えを聞こうとしたことがかえって裏目に出て、日頃より幕府を良く思っていなかった薩長等の外様藩や、岩倉具視ら不平のある低位の公家が策動し、わが子慶喜を将軍継嗣とすることを狙っていた徳川斉昭をはじめとする一橋派が条約締結に消極的だった天皇を動かし、倒幕の密勅(偽勅という説もあり)を出してもらうという暴挙に出たのです。
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この記載の後半は筆者の解釈や思い込みが目立ちますが、井伊が1853年6月に提出したものには、 https://digital.asahi.com/articles/ASQ3T6V70Q3GP …
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国内に立てこもっているだけでは活路はなく、積極的に海外に出て交易をし、西洋の砲術と航海術を取り入れ、武備の充実により外国と対等に交渉できる力を身につけ、必要であれば鎖国に戻す――と主張した。
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彦根藩は「初度存寄書」と「別段存寄書」の二度に分けて通商肯定論を内容とする意見書を提出したが、初度は鎖国維持と海外雄飛という一見矛盾した論旨であり、別段では鎖国墨守を否定し、避戦と具体的な海外雄飛論を主張した。彦根藩では幕府からの再諮問を当初から予測し、初度・別段二通の原案を作成したのだという。なお、別段における開国とは戦争回避のための計策にすぎず、将来の鎖国復帰を明記しており、積極的な無条件通商開始論ではなく、一時的な戦争回避のための開国論であったとされる。

このような意見書を提出するのは、鎖国そのものに関しても強いこだわりを持ってないことの表明でしょう。堀田や井伊にしても、幼少期はともかく、成長するに従って、「政治家・君主としての情勢判断と采配」を身につけていったはずです。 個人的心情でつき進むなどはあってはならないと考えていたでしょう。 常に状況判断で采配していたはずです。 難局である、現在軽々に扱ってはならないことがらであるとなれば、なおさらでしょう。
政治、行政、継続、諸情勢、今後を考えることを若い時期に身につけてきたものと、自分の思い込みを主張して、達成感や昂揚感・自尊心に満足いれば済むような青春期を過ごすものとは、基本が違ってしまうのは致し方ないです。
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