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中学の時の社会科教師が、クラスのやる気の無さにキレて教えてくれなかったのですが。

江戸時代に西洋の国なのにオランダが貿易を許されていたのは何故なんでしょうか?

オランダはキリスト教の布教活動はしなかったんでしょうか?

10年ぐらい気になってます。

A 回答 (5件)

オランダはプロテスタントであり布教活動をしなかったからです。

加えて、島原の乱では船を出し砲撃まで加えてます。それほど日本との貿易を望み江戸幕府もこれを認めたわけですね。
しかし、その後平戸に設けた倉庫の破風に1639年の西暦年号(キリスト教年号)を掲げた事を口実に長崎の出島へ移転を命ぜられています。これから見てもキリスト教であっても布教活動をしないということが条件となっていたのではないでしょうか。
このことは、稲佐の外人墓地に葬られている商館長デュルコープの墓に十字架が刻まれているにかかわらず見逃されていることからも察せられます。ま、表立った事にならなければ黙認されてたんでしょうね。
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この回答へのお礼

オランダ、幕府ともにそれぞれのうまみが得られたという事ですね。

お礼日時:2005/05/02 11:38

そもそも家康の顧問として、イギリス人のウィリアム=アダムズ(三浦按針)とオランダ人のヤン=ヨーステン(耶揚子)がいましたから、この時期はイギリス、オランダとの貿易も盛んだったことが分かります。


ところが1623年のアンボイナ事件が起こり、イギリスはオランダとのアジア地域における主導権争いから脱落、モルッカ諸島から撤退するとともに、日本にあった平戸商館を閉鎖して日本からは手を引きます。
スペインはメキシコ銀山の経営に本腰を入れるため、日本から撤退。
つまり鎖国以前の段階で、イギリス、スペインは日本から引揚げたというのが真相です。
ポルトガルも貿易立国から植民地で商品を生産して売るという国策に変更。
その後オランダは島原の乱で幕府を応援して点数を稼ぎ、1641年ポルトガルからマラッカを奪い、1652年にはアフリカ大陸最南端にケープ植民地を建設して、日本への通称ルートの制海権を握り、ポルトガルを駆逐。
こうしてヨーロッパ勢力はオランダを残して日本から撤退しますが、再度アプローチしなかったのは中国情勢にあります。
明が滅亡し清朝が成立しますが、鄭成功など明の残党が台湾を拠点に抵抗します。
この為、1655年以降「海禁政策」を取り、中国の海外貿易が激減します。
アジアの巨大市場が消えたわけですから、アジア貿易は急速に冷え込み、ヨーロッパの香辛料の暴落も手伝って、敢えて日本市場に来るヨーロッパ諸国は無かった訳です。
日本が貿易を断ったというより、先方が撤退を通告してきたという側面もあります。
幕末期に再度アメリカなどが来たのは、捕鯨基地として日本を利用したかったのが理由ですから、世界史から見ればこの間の理由は見えてくると思います。
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この回答へのお礼

世界史全体からの流れもあるのですね。

お礼日時:2005/05/02 11:35

本当に大まかな話なので、ひょっとすると間違いがあるかもしれませんが・・・



安土桃山時代から江戸時代にかけて日本で布教されたのはカトリック系のキリスト教でした。広めたのはイエズス会の宣教師で、フランシスコ・ザビエルが有名ですね。

また、彼らが広めたカトリックは、偶像崇拝(キリスト磔刑の十字架や聖母図を信仰の対象とし、拝むこと)をするキリスト教なので、日本人の信徒はマリア像や十字架をあがめました。
それで、幕府がキリスト教を禁じた際、信徒かどうかを確かめるために、踏み絵をさせた訳です。(カトリックの信徒にとっては十字架や聖母図は踏めませんからね)

ところが、そのころ日本に進出していたオランダ商人はプロテスタント系キリスト教(偶像崇拝を否定するキリスト教)信徒が多かった(ここ以降は多少あやふやな記憶ですので、あまり自信ありません)ために、「我々はキリスト教ではない。証拠に十字架なんぞはいくらでも踏んでみせる・・・」というようなやり取りがあって、「オランダはは邪蘇教(ヤソ教=江戸時代におけるキリスト教の呼び名です)ではない」というのが幕府の公的見解になって、出島でのみ貿易を許可された・・・という話だったと思います。

ただ、実際は、幕府もオランダが「ちょっと変わった」キリスト教であるということは知っていたようですが、鎖国しているとはいえ、世界の状況も知っておいた方が良いということで、目をつぶっていた・・・という話もあります。

長くなってしまいましたが参考になれば・・・
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この回答へのお礼

宗教に疎いもので、偶像崇拝の違いは分かりやすかったです。

お礼日時:2005/05/02 11:33

 こちらのサイトにオランダが貿易を許された理由が書いてあります。

私が、以前きいたのもたしかこういった理由だったと記憶しています。
 付け加えるならば、当時はイギリスとも交易を行っていましたが、イギリスは日本との貿易に不可欠であった生糸の入手が困難であったことなどから1623年に日本を退去しました。
 その後島原の乱が起こってポルトガルとも断交し、結局中国とオランダが残ったのです。

参考URL:http://takatami.hp.infoseek.co.jp/kyusyu/nagasak …
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この回答へのお礼

貿易と宗教の分離、確かにオランダの方が幕府にとって付き合いやすそうですもんね。

お礼日時:2005/05/02 11:30

幕府が警戒していたのは、カソリックですから、プロテスタントのオランダは特に問題視しなかったのでしょう。

当時はオランダも大国ですから、スペインやポルトガルの影響を排除するには、オランダの勢力を取り込んだ方が得策です。

事実、島原の乱において、オランダ軍が原城に対し艦砲射撃で、幕府を支援しています。

この時代、世界はドイツ30年戦争の時代であり、カソリックとプロテスタントが世界大戦をやっていたのです。いわば島原の乱とは、ドイツ30年戦争の太平洋戦域なんですね。
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この回答へのお礼

カソリックとプロテスタントの違いですか、なるほどです。

お礼日時:2005/05/02 11:27

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