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小田原北条氏がいなくなり関東入りをした家康はチャンスでもありましたよね?
家康は頼朝を敬い吾妻を手本にしてましたから。
頼朝の拠点を手に入れましたから。

A 回答 (5件)

家康は小田原を拠点にしたかったのですが、秀吉から江戸に行くよう言われました。



港としての潜在性はあったものの、湿地帯で洪水が多かったため、あまり好んでいなかったようです。
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秀吉が死んだことがチャンス。


後は天下取りまっしぐら。
豊臣討つとは
第2の明智光秀みたいですね。
いやもっとすごい。
そう思いませんか。
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チャンスだなんて後世の人間が考える事であって、不安が一杯


だっと思いますよ、何せ未知の土地ですから、当時の秀吉には
逆らえませんから、Noとは言えませんから。
家康の真骨頂はここからですね、今川の人質時代に学んだ、兵法、薬学、
土木の知識で学者武将としての技量が活かされたと思います。
武力一辺倒の武将では成し遂げられなかった事柄です。

鎌倉が拠点に成るのであれば伊勢新九郎(北条早雲)が小田原でなく
鎌倉を拠点としました、時代は移り、鎌倉では拠点に成らなかったのです。
家康は神田川を外堀とした壮大な城を築きました。

自前の軍隊を持たず、源氏嫡流の血統だけで坂東武者を従え、臨時職の
征夷大将軍の官位を貰い、朝廷から軍事力をもぎ取ってた知恵と手並みは
参考にしたと思います。
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何がチャンスなのか分かりかねるが、家康は自分の意志で関東入りしたのではない。


秀吉の意向である。
秀吉の存在を抜きにしてはこの時期の家康のことは読み解けない。

秀吉が家康を関東に移封したのは、関東静謐と奥州仕置のためである。
家康は北条氏との関係が深かった関係でそれ以外の関東の大名や東北の勢力とのかかわりも強かった。
それらの情報やコネを生かそうとして、秀吉は家康を関東に移したのである。

そういうわけだから、家康に勝手は許されない。
もし秀吉を失望させれば家康は、東海移封を拒否して改易された織田信雄と同じ運命を辿る。
秀吉と家康とでは大きな力の差があったのである。
領内における家臣の配置からして秀吉の意向が大きくかかわった。
「チャンス」を蓄えるどころの話ではない。

家康は関東静謐と奥州仕置、果ては豊臣政権の維持に全力を尽くすことになた。
家康に「チャンス」が巡ってくるのは秀吉の死後であり、それは文字通り「秀吉の死」という幸運に恵まれた結果だった。
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関東は富士山の火山灰による関東ローム層が広がる農耕、特に水稲耕作には不適な地が多かった。

特に江戸周辺はそうで、家康が江戸入りしたころの江戸周辺がほとんど開発されていなかったのはそれが最大の理由だ。
だから家康が江戸転封をチャンスと考えたとは考えにくい。

そうは言っても、関東は日本最大の平野部で未開発地が多く、江戸は東京湾という絶好の港湾都市の条件を持つエリアだった。

そのことが、明治時代以降の日本にとっては、江戸が首都機能を持つ立派な世界的大都市になっていたことは、後背地に大きな未開発の平野を持っていたことも含め、その後の日本の近代化に大きく貢献したことは間違いない。

家康に拠点を江戸にしろと指示した秀吉、そしてその言葉にトンデモナイ苦労を強いられながらも立派に実現させた家康に、現代日本は感謝すべきだろう。
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