プロが教えるわが家の防犯対策術!

中大兄皇子は、なぜ白村江の敗戦後、太宰府に水城を造ったのですか?本気で唐・新羅連合軍が攻めて来ると思ったのですか?

A 回答 (8件)

当時も半島よりも日本の方が豊かな国でしたからね。


為政者たるものが、唐・新羅連合軍が攻めて来る可能性を真剣に考えるのは当たり前でしょう。
当時の日本は海戦で完敗し、多くの陸兵も日本に帰れずに捕虜となっていました。つまり制海権は唐・新羅連合軍にあったわけで、高句麗滅亡後に唐・新羅連合軍はいつでもその気になれば北九州に上陸できる状況でした。

だから、日本に逃げてきた百済難民を中心に急いで水城を作って防衛体制を敷いたわけでしょう。

その後は唐と新羅が戦争を始め、両方から日本は同盟と援軍を求められましたから多少は安心できる状況になりましたが、百済移民の勢力を背景に朝廷を仕切っていた天智天皇は、新羅の勝利後は新羅が攻め寄せてこないかと再び落ち着けなかったでしょう。大津京への遷都はそういう恐怖心が背景にあったのかもしれません。

対新羅問題が落ち着き始めたのは、壬申の乱で勝利した天武天皇が、国内の天智勢力と百済勢力を排撃することで、新羅とも外交関係を修復してからでしょう。

天智系の桓武天皇の母親は、百済系の高野新笠と言われていますね。そのこと自体が、如何に天智天皇と百済系貴族が強く結びついていたかを証明しているように思えます。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答ありがとう!ございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2023/10/19 23:31

>本気で唐・新羅連合軍が攻めて来ると思ったのですか?



「攻めてくると思った」というより《攻めてくるんじゃないかと恐怖した》が正しいでしょう。

これは日本人が抱えている恐怖感の根本であり、いまでも「北朝鮮がミサイルを撃ち込むのじゃないか?」とか「中国がいつか攻めてくるのじゃないか?」というほぼ無根拠な心配と同じなのです。

まあ、北朝鮮はともかく「中国が攻めてこない、ってなんで言えるんだ?」ってほとんどの日本人が思うでしょ。でも軍事的に考えてみて「日本全土を中国が攻めることは不可能」であることはわかると思います。

船でやってきて、日本を占領・征服するにはとんでもない手間がかかるからです。もちろん日本もそれを防ぐために自衛隊に各種配備をしていますが、現実的に「中国が九州などに上陸して、陸戦をくりひろげながら日本を占領する戦争を始める」というのはほぼ無理筋です。

でもほとんどの日本人がその点について心配し恐怖心をもっています。だから政府も「大丈夫です。備えてます」という形で昔はソ連シフトだったのを、最近は九州沖縄を中心とした中国シフトにしているわけです。

当時の日本も同じだったといえます。白村江の戦いでなぜ倭国連合軍が負けたかというと《朝鮮という相手の土俵だったことに加えて、大陸からいくらでも兵士や物資が補給されたから》です。

特に当時は「中国は大きく、倭国人口の何倍も人がいて、米がたくさんとれて、技術力もある」と倭国の人たちは知ったわけで、それは今で言えば「中国は核兵器の技術があって、日本にいる中国人は戦争になったら日本で武装蜂起する」というような恐怖心とほぼ同じであるわけです。

だから朝廷内ので「唐は九州に軍隊を送らないか?」という質問に対して「送らない」と分かっていても「本当に送らないのか?絶対だな!!」と言われると、もちろん「将来にそういうことがない、とは絶対に証明できない」ので、結局「しょうがない。防塁を作ろう」ということになっていくわけです。

ちなみに白村江の戦いの敗戦によって、倭国の人たちは「大陸の巨大さ」を知ったと言われています。

そして同時に日本の小ささ、どれほど頑張っても島国には限界がある、ということも知ったわけで、その島国を極力効率よく防衛するために、倭国は日本になり、中央集権制度を敷いて律令制を整え「防人」という制度まで作って、日本を防衛する万全の体制をつくったわけです。

それらは「本当に攻めてこないんだな?」という問いにたいして「分からない」と答えるしかなく、恐怖に打ち勝つためには備えるしかない、からです。

今の日本の核武装議論も出発点は同じところにあります。
    • good
    • 1

もちろん本気でその可能性を感じていました。



ちなみに言えば、古代山城と言われるこれらは、唐の軍隊の前では無意味ということも知っていました。想定してる敵の人数が2~3桁くらい異なっているためです。実際に韓半島の古代山城は、200~300基がことごとく攻略されています。

ではなぜ、その古代山城を作ったかと言うと、まぁそれしかなかったからでしょうw
ちなみに言うと、金田城、大野城、基肄城は、おそらく元にそこが古代山城だったので、それを整備しなおしたものだと考えられます。それはこれらを作るのに時間が無かったため、場所の選定も含めて、すでにある古代山城を再利用したと考えるのが妥当だと思います。水城も同様で、発掘から当初は水城の”南側”に水が貯められていたのを、後に北側に貯めるように作り直されています。基肄城に関連する小水城も南からの侵攻を防ぐためと考えられます。
ちなみに、畿内ヤマト王権が再整備した古代山城は、ぐるりと1周壁の列石を並べていますが、それ以前の古代山城は精々U字の、前面だけ守る形の作りになっています。そういう意味では、大勢力を前に何とか持ちこたえる城を再整備で作ろうという意志を感じます。

しかし日本の考古学者はバカばかりなので、そのような当たり前の証拠が見えないらしい・・嘆かわしい。
    • good
    • 1

本気で思ったんだよ。



文化も経済も後進国の日本ですら朝鮮に攻めていけた。
唐や新羅ならもっと簡単にやってのける。
    • good
    • 1

>本気で唐・新羅連合軍が攻めて来ると思ったのですか?



そりゃそうでしょう。

でなければ、そんな防御のための施設はつくらないですよ。
多くの民を苦しめた防人の制度も、唐・新羅連合軍が攻めてくるとおもったために作られた制度です。

それに飛鳥にあった都を近江に遷都(667年)しています。これも唐・新羅連合軍に対する恐怖からでしょう。
    • good
    • 1

万が一、に備えるのが国防です。

無駄になってもいいから、唐・新羅連合軍の来襲から国を守るために、お金をかけて水城を築造したのです。
    • good
    • 1

後世の人間はどういう結果になったか分かっているが


『なんでそんなこと、なんでそんなものを』と言えるけど
同時代の人たちは本気で危惧したんだよね

ロシアウクライナ戦争だってどう終結するか?
その結果何が起こるか?
分かりますか?
    • good
    • 1

思わなきゃそんな人手もお金もかかるようなことはしないでしょうね。


まともな情報収集力も無い時代には「専守防衛」が何よりでしたから。
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A