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永井路子が、白村江の敗戦や壬申の乱のころについて、対談で次のように語っています。

<唐じたいの国内も不安になって、退いていくわけ。
当然、日本から唐軍も引き上げる。>

質問は、当時、日本に唐軍が駐留していたのですか?

A 回答 (7件)

唐は、白村江戦勝後に、度々日本に数十人から数百人の使節団を送っている。

捕虜交換・返還など戦後処理問題や、白村江の戦い後に唐と新羅の関係が悪化したため、日本に同盟を求める交渉のためだったと思われる。

ただ、天智天皇の崩御直前に2千名ほどの軍が軍船50隻余りで筑紫に押し寄せ、壬申の乱が勃発する直前までの半年ほど駐留し続ける事態が勃発している。

永井路子はそのことを言っているのでしょう。
唐軍駐留の目的は、冒頭に書いたものとほぼ同じと思われるが、当時の唐は、侵略と謝罪を繰り返す新羅の二枚舌外交に押される一方だったが、チベットの吐蕃王国との戦いの激化で、兵力を朝鮮半島に回せなかったため、強硬に日本と同盟して兵を引き出すために強引に圧力をかけることを狙っていたと思われる。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました 。
1.<白村江戦勝後>に唐は<使節団を送っている。>のですね。
2. <天智天皇の崩御直前に2千名ほどの軍が>ですね。
上記については、日本側の資料では恰好が悪く書けないのですね。おそらく唐側の記録によるのですね。

お礼日時:2022/12/26 08:52

永井路子さんという方は知らないですが、誰もが思い違いをしているということは良くあることです。


白村江はご存じのとおり百済の再建を掛けて百済・倭(日本)連合軍が唐(と新羅)と戦ったものです。これに負けた日本は次は我が身と北九州などに水城や古代山城を整備したわけですが、唐は朝鮮半島支配を目論んでいただけだったので日本に来ることはありませんでした。高句麗と百済を滅ぼした唐・新羅は、半島の支配権をめぐって争い結果的に新羅が支配することになりましたが、それは唐の国力が落ちたためでしょう。
これらを短くまとめようとして、そのような言い方になったのではないでししょうか。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
彼女は、正しくは「唐の圧力が減った」ということを言いたかったのですね。

お礼日時:2022/12/27 10:18

お礼について〈上記については、日本側の資料では恰好が悪く書けないのですね。

おそらく唐側の記録によるのですね。〉

日本書紀に書いてあると思いますよ。筑紫に唐軍2千人が天智天皇崩御の前後に半年ほどいたことは。
その辺一帯は日本側も守りを固めていましたし、戦闘にはなりませんでしたからね。たった2千人ですから唐側も戦う意思はなかったでしょう。
日本としては、同盟しない代わりに、そこそこの物資を与えて退散願ったということでしょう。
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうございます。
不勉強でした。
<日本書紀に>なのですね。
唐は武力をちらつかせながら説得(恫喝)に来たのですね。

お礼日時:2022/12/26 16:36

そんな史実はありませんね。



そもそも白村江の戦いは、日本は無理やり連れ出されただけで、なんの国益にも絡んでいませんし、唐・新羅がその後、半島への興味失った云々は、日本と関係ありません。

当時の日本は、乙巳の変がおきました。非主流派の中大兄皇子を中臣鎌足が煽って、主流派の蘇我入鹿を暗殺したテロというかクーデターです。大化の改心なんてうそ。全部、日本の発展に努めた蘇我の功績を闇に葬り、律令国家建設の貢献を丸パクリした彼らのプロパガンダです。

その中臣鎌足こそ、実は百済から亡命していた百済王豊璋です。これは、御用学者以外、ほぼ全員が認めている、いまや自明の歴史上の事実です。彼は、日本に興味なく、百済復活実現するため乙巳の変を起こした。その権力で、日本をむりやり戦争に借り出して、百済復興のために、唐、新羅連合軍と戦ったのが、白村江の戦いです。結局負けてしまいましたが・・・

なぜ、教科書で習う歴史が、フェイクばかりかと言えば、日本書紀の記述を、検証もしないで認める御用学者の説をもとにするからです。

日本書紀は、テロリスト側の中臣鎌足の息子の藤原不比等が変遷しました。邪馬台国からの伝統を消し、大和朝廷設立の歴史を隠し、物部や蘇我の功績を抹消し、3~4王朝の交代を隠し、天皇家の万世一系を捏造し、藤原の権力を盤石にするという、テロリスト側を正当化する必要があったのですね。

ちなみに日本書紀では、中臣鎌足の出生もわかりません。さらに、白村江の戦いでの消息がいっさいわかりません。当然です。百済王として亡命し、戦争中は、豊璋として存在しているのですから。

蘇我は滅びても蘇我系の権力は残りました。天武天皇は蘇我系。一方、天智天皇(中大兄皇子)は、テロリスト側です。壬申の乱は、その戦いで、一時的に権力の取り返しがなされます。

その後100年抗争が続きますね。奈良の都は天武系。テロリスト権力が、政権をとったのが、京都、平安京です。豊璋の子孫が藤原。それに丸め込まれた天皇家との400年の蜜月と繁栄が平安時代。つまり、外国人ののっとり政権です。

日本が日本人の誇りによって、政権を取り戻すのは鎌倉です。天皇の万世一系は残念ながら、全部まゆつばです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<そんな史実はありません>ですね。

お礼日時:2022/12/26 06:53

そのような事実はありません。

退いていったのは兵士ではなくて、日本に対する関心といった抽象的な表現です。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<日本に対する関心といった抽象的な表現>なのですね。

お礼日時:2022/12/26 06:50

永井路子が、そのような発言をしていたかどうか知りませんけれども、日本に唐軍が駐留していたという史実は、聞いた事が無いです。



日本側であれ中国側であれ、そのように書かれた文献など発掘されていないと思いますが。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<文献など発掘されていない>ですね。

お礼日時:2022/12/26 06:49

永井路子氏のこの対談は読んだことはないのですが、唐軍が日本に駐留していたという歴史的事実はないでしょう。



そんなことがあればそもそも防人なんていう制度もなかったですよ。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<歴史的事実はない>のですね。

お礼日時:2022/12/26 06:48

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