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白村江の戦い以後の日本の外交は、遣唐使、遣新羅使、そして渤海使からわかるように、これら三国と国交があったようで、それぞれ目的や役割は違っていたようです。

遣唐使の記述に従うなら、渤海使は遣日本使であり、ウィキペディアによると727年から927年まで35回渤海国から派遣されているようです。

渤海使が日本に果たした役割について教えてください。

質問者からの補足コメント

  • 回答していただいた皆様ありがとうございました。
    youtubeでも検索して見ましたが、良く分かっていないようです。
    最近、日本史Bの教科書を見る機会があり、遣唐使に触れた記述部分で渤海使にもサラッと触れていました。

      補足日時:2022/08/28 12:55

A 回答 (2件)

御存じの通りに、高句麗が唐・新羅の連合軍に敗れて滅亡後に渤海が


建国されました。
高句麗からの移民は、武蔵国の高麗郡に住みました、百済からの移民は
難波と河内に住みました。
倭国は大化の改新を始めとして、唐の制度を取り入れた、国の基盤作りの
最中で、唐に向いていました。
渤海に軍を派遣する気が無く、余裕も無いのですが、大陸の情報は、
欲しいので、外交の表面での応対だったと思われます、倭国しか頼る国は
無いので、空手形を承知で渤海使を送り続けたのでしょうね。

WiKiに依れば、唐の真似して、朝貢貿易の形を取ったので、渤海側は
利益を得ましたが倭国は損するばかりで、なんの利益も無かったようです。
日本の外交下手は、この頃からの様です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「日本の外交下手は、この頃からの様です。」にその通りだと思いますし、それに加えて、大事な情報を一部の者だけで握って隠蔽する得意技も、この時からのように感じました。

お礼日時:2022/08/22 17:36

渤海の目的は、昔のように日本に援軍を出してもらうことにある。


しかし、日本は渤海よりも唐との関係を重視し、大陸に派兵することはなかった。
日本にとっての渤海使は渤海側から観た大陸情勢の情報入手が役割で、それはそれで十分だっただろうが、日本は渤海に援軍を送らなかったのだから、渤海にとっての渤海使派遣は失敗したことになる。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。

渤海国の視点での説明ありがとうございます。
日本に対しての朝貢貿易だったとすると、日本側は返礼品が大変だったようですが、平均すると5,6年に1回は公式の使節が200年間にわたって日本に訪れていたようですので、日本にとってそれなりの役割を果たしていたのではないかと思った次第です。

お礼日時:2022/08/22 09:12

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