プロが教えるわが家の防犯対策術!

元寇の神風は本当にあったのですか?


弘安の役には神風があった事は確実なのですが、文永の役には神風があったのでしょうか。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に日本の出兵を正当化する為『元寇の時に神風が吹いて神々が日本を守ってくれた』と言ったのが文永の役の神風伝説の始まりと聞いた記憶があるのですが……

A 回答 (7件)

そういえば、


テレビでは戦闘中ではなく、
戦い済んで
帰国の途上で
起きた構成に
なっていたように
記憶。

日本が本当に迎え撃って
追い払えたかどうかです。
あれはどっちの勝ちだったか
見ていて
よくわからなかった。
    • good
    • 0

強風もですが、兵站の問題も大きい。


攻める側としては、そこそこ戦って速やかに兵を引くか、上陸して敵地で食料を調達するかの二択。食料調達が難しければ、黙って撤退も賢明な判断です。
    • good
    • 0

長崎の松浦市の海底で元寇船の遺跡(沈没船)が複数確認されているので、何らかの原因で沈んだのは間違いないと思いますよ。

季節柄から考えると台風の影響でしょうね。
    • good
    • 0

丁度台風の季節でしたね。


    • good
    • 0

文永の役で、台風と言えるほどの暴風雨があったとは思えないが、元軍撤退時に9百艘の軍船のうち百層が戻らず、数多くの軍船が崖などに衝突して難破した跡が目撃され、捕えられて首をはねられた兵もいる。



10月のあの辺の海は、台風ではなくてもよく荒れるので、夜の航海は避けるのが当時の常識だった。

文永の役で、元・高麗軍が動員した兵力は多くても4万程度だが、元軍側の記録では、未帰還兵が1万3千5百人とされている。激戦だったので戦死した兵も多かったのだろうが、退却中の難破で死んだ兵も多かったのだろう。

元軍側の記録によれば「日本は(想像と違って)人口密度が高く土地も広かった」と記したうえで、武者たちも意外に強く、打ち破っても後背地から続々と新手が出てくるので撤退したことにしている。さらに、遠征軍が窮地に陥っても、味方の援軍は海を越えなければならないので時間がかかることを挙げて、日本攻略の難しさも説いている。

4万という兵力は、本気で日本を占領しようと思っていたとは思えない兵力だが、ひょっとしてフビライは、日本が小さな島国で人口も少ないと思っており、だから4万程度で充分だと思っていたということだろうか。

弘安の役では、元が征服に成功した元南宋軍の兵士を加えて総勢15万人4千4百艘の大軍で攻め寄せたが、こちらは万全の防備を築いて待ち構えていた日本武士団に、上陸しても橋頭保を築くことが出来ず、海を彷徨っているうちに本物の台風にやられてしまった。
    • good
    • 0

1274年10月19日に博多湾に押し寄せた元軍は10月20日に百道、博多、箱崎と各地で暴れまわりますが、翌21日には博多湾より消え去ります。



この「文永の役」での元軍の撤退に関しては色々な説がありますが、現在では「神風が吹いた」という説は確率的に低いというのが通説になっているようです。

始めから元軍は九州の占領の意思がなく、ある程度の戦果が上がれば撤退と決まっていたのかもしれません。 たとえ3万の軍があっても、大陸からの援軍は見込めず、「20日の戦い」で矢も尽き、占領どころか長期戦はとても無理な状況だったはずです。

そして一番大きかったのが兵糧の問題で、それが元軍を内陸部に侵攻させなかった理由だったのではないでしょうか。

この事は元軍自身も出兵前から予想していたでしょうし、当然、日本軍も国内の兵糧をみすみす敵軍に手渡すことのないよう、手はずを整えていた事でしょう。そして時期的にも旧暦の10月といえば稲田も刈り取り済みのはずで、穀類はまとめられていたものと思われ、非常時の際、火を付ければ元軍の手に渡ることもなかったでしょう。そのことから逆に「弘安の役」は旧暦6月の来寇で当初より上陸目的で、刈入れ前の穀倉地帯を先ず占領する計画だったのではないかと想像されます。 ちなみに江南軍(元に降伏した南宋の兵で組織された軍)の船には大量の農機具が積み込まれていたといわれています。
    • good
    • 0

ちょうど台風のシーズンだったとか聞いた事があります。

秀吉は朝鮮出兵の折、御香宮に戦勝祈願に立ち寄ったとき、神功皇后の再来ともてはやされてますから、ひとたらしの秀吉は利用したのだと思います。元寇の時北条時政だったかは天候を見てたとも言われています
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!