いつもお世話になっています。
趣味で拙い小説を書いているのですが、
登場人物の一人を牛車で登場させたいのです。
(平安貴族なんかが使った、豪華な感じの)
記憶でなんとかなるだろうと思ったのですが、
やっぱり間違えたら嫌なので、
正しいかどうか聞きたいのですが。

簡単でいいので、皆様の知識を分けて頂けないでしょうか。

・牛は黒い牛ですよね?(なぜかそういう記憶が...)
・引っ張ってる車の上に乗ってるのは「輿(こし)?」
・輿に掛かっているのは「御簾(みす)」?←すだれみたいなやつ
・牛は従者が引っ張っている?
・速度はまさに牛歩、かなりゆっくりである?
・乗り降りのときは、輿ごといったん下に降ろす?

と、このくらいなのですが、できれば参考画像なんかの
載っているHPなど教えていただけるとうれしいのですが。
よろしくお願い致します。

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A 回答 (5件)

>>・牛は黒い牛ですよね?(なぜかそういう記憶が...)


茶色い牛もいます。
まちがっても白黒まだらはいませんが(^_^;)

>>・引っ張ってる車の上に乗ってるのは「輿(こし)?」
輿は前後に轅を付けて人が担ぐ乗り物で、牛車とは違うものですが、貴人が乗る部分の構造は網代輿とよばれる輿と同じ形ですね。

>>・輿に掛かっているのは「御簾(みす)」?←すだれみたいなやつ
そうです。

>>・牛は従者が引っ張っている?
引っ張るというか、禦しています。
絵巻などを見ると、口環につけた綱を引いている場合もあれば、牛の脇に侍して鞭でせき立てている絵もありますね。

>>・速度はまさに牛歩、かなりゆっくりである?
まあ、人の歩く速さくらいだったようです。

>>・乗り降りのときは、輿ごといったん下に降ろす?
いえ、榻(シジ)とよばれる持ち運べる踏み台を付けて、乗車は後ろから、降車は牛を轅から外してから前からおこないました。

>>できれば参考画像なんかの載っているHPなど教えていただけるとうれしいのですが。

http://www.nighthawks.com/gissha.htm
http://www.office.pref.iwate.jp/~hp0909/seika/ko …
http://www.cave.co.jp/arcade/guwange/enemy/enemy …
http://www.din.or.jp/~kaokao/ken/sec4/rm1/p702e. …
http://www.din.or.jp/~kaokao/ken/sec4/rm5/p1109e …

参考URL:http://www.nighthawks.com/gissha.htm , http://www.office.pref.iwate.jp/~hp0909/seika/ko … , http://www.cave
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この回答へのお礼

ありがとうございます~
こんなに早くお答えがいただけるとは....
しかもこんなに詳しく....
何だか申し訳ないような気がしてきました。

とてもとても参考になりました。
もう一度、ありがとうございました!

お礼日時:2001/09/17 14:42

タイ北部のとある少数産学民族の村で、牛車に実際に乗りました。

と言っても平安時代に貴族が乗っていた優雅なものではなく、木製のリアカーみたいなのを引っ張っていくものでした。
ゴムのタイヤやサスペンションもなく、それでいてでこぼこ道を走るものだからゆれることゆれること。落ちたら死ぬので、文字どおり必死にしがみついていました。
牛の速度って、以外と早く、駆け足すると20km/hくらいは出てたんじゃないかな?下りの坂道では、牛も必死です。止まれば牛車に挽かれてしまう。(ブレーキなんてない!)上り坂のときはかわいそうなくらい頑張って引いてくれました。

あまり優雅な話ではありませんでしたが、実体験を話した方が、小説にもリアリティが出るかと思って書いてみました。
PS まさか「経験者」から回答があるとは思わなかったでしょ?
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この回答へのお礼

思いませんでした。

最後の一文に爆笑させていただきました。
完全にやられましたね。

<落ちたら死ぬ
凄いですねぇ.....
平安時代もたいして道は良くなかったと思うので、
かなり揺れたでしょうね。

すごく良い話を聞かせていただきました。
考えてなかったけど、乗り心地のことも
盛り込もうかな?と思います。

貴重な体験談、ありがとうございました(^.^)

お礼日時:2001/09/17 20:50

こんにちは。

ごく一部だけ。

白黒まだらが、いないのは、あのまだら牛はホルスタインと言って、牛乳生産の為に昭和以降に輸入し品種改良されて作られた牛なので当時はその原種も日本にはいませんでした。
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この回答へのお礼

そっか!
だから日本人には長い間、「乳製品」はポピュラーじゃなかったんですね。

ついでに思い出しましたが、映画とかドラマの時代劇で
サラブレッドに乗ってるけど、
あれも嘘なんですよね~
日本にいた馬はもっと小さい奴だったんですよね。
脱線してしまった....(^_^;)

ありがとうございました!

お礼日時:2001/09/17 15:31

下の方に重複するかもしれませんが、分かる範囲でお答えします。



>・引っ張ってる車の上に乗ってるのは「輿(こし)?」
輿は輿なんですが、牛車の場合「網代(あじろ)」と呼ばれる牛車専用の輿です。

>・輿に掛かっているのは「御簾(みす)」?←すだれみたいなやつ
その通り御簾ですが、牛車にもランクというものがあり、ものによっては御簾ではなく部屋の中で使う「机帳(きちょう)」(数箇所に切り込みのあるカーテンのようなもの)を使うものもあります。

>・牛は従者が引っ張っている?
従者の中でも、貴人の世話をする「舎人(とねり)」や牛車専用の子供「牛飼い童(うしかいわらわ)」というものがいたようです。

>・速度はまさに牛歩、かなりゆっくりである?
その通りです。徒歩で牛をひきますのでそうなります。ただ急ぐことも出来たようで(従者と牛が走れば)、その時はかなり揺れたようですよ。

>・乗り降りのときは、輿ごといったん下に降ろす?
リヤカーの荷物の上げ降ろしを思い浮かべてみて下さい。牛車の場合も似ていて乗り物じたいを傾けはします。けれど舎人や牛飼い童が引いて持つ方をじかに地面には下ろしません。「沓脱ぎ(くつぬぎ)」と呼ばれる格子型の箱が牛車の乗り口の下に置かれ、そこに牛車の胴体を支えさえます。貴人もそこを踏み台として乗り降りします。

これらは「源氏物語」や他の平安時代の物語、それらにまつわる小説や漫画などで説明されていることを述べました。ただ訳者や作者の判断で解釈されている場合もあるので、まずは物語じたいをよくお読みになるのをおすすめします。
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この回答へのお礼

詳しくお答え頂き、ありがとうございます。
やっぱり、知ってる人はさらさらっと
答えられちゃうんですね・・・
スゴイ。

「源氏物語」...ちゃんと読んだ事はないんです(^_^;)
がんばって勉強します。

お礼日時:2001/09/17 15:20

図書館へ行くと源氏物語や平家物語などの絵巻物があります。

それらを参考にしたらどうでしょう。
・牛は黒い牛ですよね?(なぜかそういう記憶が...)
確かに記憶では黒牛です。ホルスタインみたいなものではありません。たぶん、茶、グレーもあったでしょう。

・引っ張ってる車の上に乗ってるのは「輿(こし)?」
腰ではなく馬車みたいに居住区もくっついてます。

・輿に掛かっているのは「御簾(みす)」?←すだれみたいなやつ
はい。
・牛は従者が引っ張っている?
従者は烏帽子をかぶらないものもいます。

・速度はまさに牛歩、かなりゆっくりである?
速くなっても馬の速歩は超えないでしょう。

・乗り降りのときは、輿ごといったん下に降ろす?
輿ではありません。おぼろですが乗り降りに決まりがあったような・・・・。
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この回答へのお礼

さっそくのお答え、感謝いたします。
図書館は今や私の憧れです...(遠い目)
無理に時間つくれば行けない事はないと思うのですが。
3歳児がいると、なかなか.....(ため息)

お時間割いていただき、ありがとうございました。

お礼日時:2001/09/17 14:51

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Q愛知県から埼玉県狭山市へ転勤になりました。

主人が埼玉県狭山市に転勤になりました。5才・4才の子供がいます。保育園・幼稚園情報も考慮のうえ引っ越したいのですが、まったく土地勘がありません。
こちらの情報で埼玉は治安が悪いとかダイオキシンの問題があるとか知りましたが、狭山市とはどんな所でしょうか?通勤時間を30分として転居候補地を教えていただけないでしょうか?

Aベストアンサー

建築の元監督です。狭山市に住んでいます。

狭山市は東京都心から35kmの距離ですが、周辺の市に比べると田舎です。
隣接する川越市・所沢市はいずれも30万人都市ですので、多くのことは、こちらの方が充実しています。

保育園・幼稚園についても同様です。川越市・所沢市の方が多く選択肢があります。
狭山市には市立の幼稚園があります。但し、この市立幼稚園には給食はありません。弁当です。


治安ですが、東京郊外都市に比べては、安定しているでしょう。
ダイオキシンの問題については、解消の方向に進んでいます。
かつては狭山市とその周辺にいた、不法産業廃棄物業者も激減しました。

通勤30分圏ですが、電車は西武鉄道(プロ野球のライオンズの親会社)のみですのでその沿線です。

車ですと、狭山市は幹線道路が少ない上に、
1.入間川という河川=橋がある。
2.市の真ん中を線路=踏み切りや陸橋がある。
3.国道16号の交差点はいつも混んでいる。

といった理由により、勤務地が狭山市のどの辺りにあるのかによって、通勤時間が、だいぶ変わってきます。
また、来年以降、狭山市駅西口再開発が始まります。
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車の生活がメインなら、狭山市駅西口周辺は、避けた方が無難です。


ただ、元々狭山市は、首都圏に通勤する地方出身者の住宅地として、発展してきました。
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駐車場完備の都市公園や、大型スーパーもあり、住み暮らすには悪いところではありません。

ひとつだけ、適応判断が必要な所があります。
市の南端に「航空自衛隊輸送師団 入間基地」があります。
昼間は、市の西半分の地域(=滑走路のレイアウトの関係)は、自衛隊機の騒音がかなりのものです。
夜間の離着陸訓練は、行われていません。夜は静かです。
昼の騒音が気になる人は狭山市の西半分地域に住むことは避けるべきでしょう。
私が住んでいる狭山市駅の東側は、静かなものです。


我が子(4歳)も来年から、すぐ近くの市立幼稚園です。もしかしたら、公園で知り合う新しい友人の一人になるかもしれませんね。

建築の元監督です。狭山市に住んでいます。

狭山市は東京都心から35kmの距離ですが、周辺の市に比べると田舎です。
隣接する川越市・所沢市はいずれも30万人都市ですので、多くのことは、こちらの方が充実しています。

保育園・幼稚園についても同様です。川越市・所沢市の方が多く選択肢があります。
狭山市には市立の幼稚園があります。但し、この市立幼稚園には給食はありません。弁当です。


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Q牛車について

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Qこの度、埼玉県狭山市の狭山工業団地内に転勤となり引っ越しをする事になり

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川越の近くの者です.30分以内で済むかはわかりませんが,川越は「小江戸」といわれ,古い町なので,全般に道が狭く,渋滞がひどいですよ.歴史がある街ですが,所沢や狭山同様,道路事情はこの辺全般悪いです.
川越は,農道のような脇道にそれても,(みんな同じことを考えているのか)渋滞気味.ただ,30万都市でクレアモールなど,活気はありますね.

特に国道16号はいつも渋滞してて,長距離トラックが非常に多いですね.ロジャースのところで国道16号がカクッと直角に曲がる場所あたりが特に車が詰まってます.

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Q牛車以外での移動方法

武士は馬に乗って移動すれば早いですが
貴族は素早く移動したいと思った時はどんな方法で移動していたのでしょうか?
牛車での移動ばかり頭に浮かぶのですが・・・。
それとも、貴族でも馬を乗りこなしていたのでしょうか?
教えて下さい。お願いします。

Aベストアンサー

貴族も馬を乗りこなしていましたよ。

そもそもは神武天皇が東征した時から、天武天皇の壬申の乱のちょっとあとくらいまでは、天皇が自ら馬に乗って合戦をやっていましたから、その頃から、貴族のたしなみとして馬に乗れなくてはいけなかったと思いますよ。

質問者さんの、イメージされている貴族というのは、平安時代頃の貴族だと思いますが、もちろん、その頃でも、乗馬は貴族のたしなみです。

大阪府枚方市には「禁野(きんや)」という地名が残っていますが、ここは平安時代には皇室の狩りの場所で、一般人が入る事が許されなかったので禁野と呼ばれた場所なのです。

この枚方の禁野で、あの在原業平が、近くの渚院に住んでいた文徳天皇の皇子・惟喬親王とともに、よく狩りしていた話が伊勢物語にも登場しますよ。

Q狭山市の特産物は何?

狭山市の特産物を調べています。教えてください。

Aベストアンサー

元、狭山市民でーす!
皆様の仰られるように、「狭山茶」が1番有名ですね。
お茶製品もいろいろあるんですよ。
「茶饅頭」「お茶キャンディー」「お茶ワイン」etc.....。
市役所に行けばいろいろと、特産品が展示されています。

他にはあまり知られていませんが、「葡萄」が特産品です。
結構、たくさんのぶどう園があるんですよ。
こっちのほうも「ワイン」「葡萄ジュース」なんか、ちゃんと作っています。
ぶどう狩りのシーズンは、ぶどう園も盛況しています。

あと、ほうれん草の栽培も多いみたいですね。

ただ、狭山市は工業もさかんなので、特産品は少ないですね。
(HONDAの工場なんか、有名なんですよ)

埼玉県の市町村のホームページや特産品が記載されているサイトを参考URLに記載しておきますね。
参考にして下さい。
「狭山市ホームページ」に行きたい場合は「狭山市」をクリック、特産品を見たい場合は「特産」をクリックしてください。

参考URL:http://www.takusan.net/link/furusato/saitama.htm

元、狭山市民でーす!
皆様の仰られるように、「狭山茶」が1番有名ですね。
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Q牛車っていつごろなくなったの?

平安時代、光源氏が乗っていたような牛車はいつごろまで使われていたのでしょうか?
農民や商人が牛に引かせた荷車ではなく、貴人の乗り物としての牛車です。
武士は馬や駕篭に乗っていたイメージがありますが、実際のところはどうだったのでしょう。
また京の都以外の土地では牛車は使われていなかったような気がしますが、そのあたりもどうなのでしょう。
貴族たちは鎖国が解かれて、馬車や自動車が登場するまでは牛車をつかっていたのでしょうか。
それともやはり駕篭を使っていたのでしょうか。

Aベストアンサー

>牛車はいつごろまで使われていたのでしょうか?

室町幕府(家光は記録がありますが)義政まででしよう。
将軍といっても、参内する時は牛車だったようです。
道路事情が悪い地方では、牛車に代わって「輿」に乗っていました。
木製タイヤで牛が引ける牛車は、地方では使い物になりません。

>武士は馬や駕篭に乗っていたイメージがありますが、実際のところはどうだったのでしょう。

平家の棟梁・源氏の棟梁又は将軍は(参内の場合)畿内までは「馬」「輿」「籠」に乗り、畿内からは牛車でした。
その家臣は、馬・徒歩です。
やはり道路事情と、スピードが原因でしよう。
(馬と言っても、サラブレッドでなく日本馬です)

>京の都以外の土地では牛車は使われていなかったような気がしますが、そのあたりもどうなのでしょう。

先に述べた通り、道路事情その他で牛車は使っていなかったようです。
ただ、応仁の乱を避け、領地の四国・宿毛に逃れた「一条家」は、京文化を懐かしんだのか、館を御所と命名し、地名を京風に改めました。飾りだったのか牛車もあったようです。大文字焼きもありますよ。^^;
公家文化に憧れていた、駿河の今川家も同様です。
確かな事は、実用的でなかった事ですね。
一条家では、戦国大名化し、馬に乗って戦い、滅んでいます。
お歯黒武将である今川家は、輿と馬を使っていたようです。
(史実では、乗馬の方が多いです)

>貴族たちは鎖国が解かれて、馬車や自動車が登場するまでは牛車をつかっていたのでしょうか。

幕藩体制になると、天皇家・公家は自前の収入が無くなります。
幕府から毎年「10万石が支給され、うち3万石が天皇家、残りが公家」です。
牛車自体の運営費にも困っていたようですね。
基本的に、天皇家・公家は「御所近辺」を出る事はありません。
牛車を使う機会は、少なかったようです。
幕末、孝明天皇は幼い皇太子(明治天皇)の手を引いて、町の駄菓子屋でお菓子を買ったとの記録があります。
公式行事以外は、徒歩なんでしよう。

>牛車はいつごろまで使われていたのでしょうか?

室町幕府(家光は記録がありますが)義政まででしよう。
将軍といっても、参内する時は牛車だったようです。
道路事情が悪い地方では、牛車に代わって「輿」に乗っていました。
木製タイヤで牛が引ける牛車は、地方では使い物になりません。

>武士は馬や駕篭に乗っていたイメージがありますが、実際のところはどうだったのでしょう。

平家の棟梁・源氏の棟梁又は将軍は(参内の場合)畿内までは「馬」「輿」「籠」に乗り、畿内からは牛車でした。
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Qこの度、転勤にて狭山市勤務になります。家賃などを考慮して日高市の高麗川

この度、転勤にて狭山市勤務になります。家賃などを考慮して日高市の高麗川駅近辺に引っ越そうと思っています。狭山工業団地への車での通勤となると朝の渋滞等はどうでしょうか?お教え願います。

Aベストアンサー

川越の近くの住民です。

また高麗川とは、ずいぶんへんぴな場所に...(以下自主規制中)
ま、家賃からして現実的な選択とも言えますが。

ずばり主な渋滞箇所は川越日高線と国道407号。朝は、武蔵高萩の交差点(武蔵高萩駅付近の国道407号との交差点)付近が難所。国道側も混んでいるし、川越日高線じたいも。そこを曲がれば何とかなります(国道の渋滞は北向き車線が交差点の南側北側両方、南向き車線が交差点の北側が混んでますね)。川越日高線から交差点を南側(つまり右折)に曲がれば、なんとかその渋滞から逃れられるのでは。

それにしても、毎度毎度、武蔵高萩駅周辺、渋滞でうんざりですよ。

あと、日高カントリークラブ過ぎた角で、国道からそれて、狭山側に曲がった方がいいですよ。そのまま南下して圏央道のICのあたりまで行くと、また渋滞が始まるから。

あとは狭山工業団地まで比較的スムーズなことが多いです。ただし、その道が狭山工業団地を過ぎて、入間川に下って坂道になるんだけど、ディスカウントストアのジャパンの手前(坂道が下り始めるあたり)からまた渋滞が始まり、そして国道16号と交差し、入間川を超えてその先、狭山市役所の向こうまで朝は「延々と長い渋滞」ですよ。なので、ディスカウントストアのジャパンより先にくだらないこと。とにかく、入間川の橋周辺は朝は混雑します。

で、日高市は、こうゆうところ:
http://tamagazou.machinami.net/koma.htm

日高はバスが貧弱な町として県内で有名なので、クルマは手放さない方がいいですよ。

ちなみに地名の「高麗」(こま)の由来知ってます?
昔、朝鮮で工芸やっている職人たちがここに帰化人として移り住んだ場所なんですよ。

何か質問があればどうぞ。分かる範囲で答えます。

川越の近くの住民です。

また高麗川とは、ずいぶんへんぴな場所に...(以下自主規制中)
ま、家賃からして現実的な選択とも言えますが。

ずばり主な渋滞箇所は川越日高線と国道407号。朝は、武蔵高萩の交差点(武蔵高萩駅付近の国道407号との交差点)付近が難所。国道側も混んでいるし、川越日高線じたいも。そこを曲がれば何とかなります(国道の渋滞は北向き車線が交差点の南側北側両方、南向き車線が交差点の北側が混んでますね)。川越日高線から交差点を南側(つまり右折)に曲がれば、なんとかその渋...続きを読む

Qゼロ戦を牛車で運ぶ

三菱重工航空機製作所で製造したゼロ戦を、牛車に積めるほどの大きさに分割して、小牧?各務ヶ原?へ牛車で運んでいましたが、なぜ工場内あるいは近接地に最終組立ラインと滑走路を設けなかったのですか。
当時の軍なら民間の土地を強制的に取り上げて、用地を確保するなんてことは、簡単にできたと思うのですが…。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「ラインを組んで、効率的に大量生産する」ってのはアメリカがT型フォードで確立したやり方ですが、そういうことをやる「思想」というのが当時の日本にはなかったのです。そもそも「効率」が当時の日本のどこにもそんな思想がないのです。
例えば航空機にしてもエンジンの生産と機体本体の生産を調整するって思想がない。だから、エンジンの生産工場でなにかトラブルがあって(特に大戦後半になって物資不足になってくると)エンジンの生産数が落ちてもそれに対して機体の生産を調整する考えがないなら、「エンジンがない機体」がじゃんじゃん作られちゃう。
整備のためのエンジン本体や部品をフィリピンの港に運んできても、どこの飛行場でどんな部品が足りないという情報が皆無だから無計画に部品が運ばれるだけ。だから、前線の基地ではいつも部品が不足していた一方で後方の港では新品のエンジンが行き先がなくて倉庫に山積みになっているなんてことがザラだったのです。

特にひどかったのが陸海軍間の対立で、例えば陸軍の航空機生産工場が空襲されて当分生産できなくなる。一方隣にある海軍の工場は被害を逃れたけど、空襲で資材の補給が滞ってアルミが不足して生産できなくなったとします。陸軍の工場にはアルミがある。海軍の工場には機械が残っている。こういうときに陸軍側が資材を分けてあげるとか、海軍の機材を陸軍に貸すなんてことは、絶対に、ありえない。陸海軍は同じメーカーに作らせていたのですけれど、自分たちの敷地に相手の関係者を入れるのはご法度中のご法度だったのです。

ちなみに日本軍の整備能力の低さは戦後のアメリカの戦略爆撃調査団をして「プアー(貧弱)」とあきれさせるほどでした。試運転ゼロでいきなり使ったりしたんだぜ。

「ラインを組んで、効率的に大量生産する」ってのはアメリカがT型フォードで確立したやり方ですが、そういうことをやる「思想」というのが当時の日本にはなかったのです。そもそも「効率」が当時の日本のどこにもそんな思想がないのです。
例えば航空機にしてもエンジンの生産と機体本体の生産を調整するって思想がない。だから、エンジンの生産工場でなにかトラブルがあって(特に大戦後半になって物資不足になってくると)エンジンの生産数が落ちてもそれに対して機体の生産を調整する考えがないなら、「エンジ...続きを読む

QAGA治療 狭山市

狭山市でAGA治療している病院を教えてください。

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AGA治療薬のプロペシアは万有製薬から出ているので、万有製薬のホームページで医療機関の検索ができますョ。

参考URL:http://www.banyu.co.jp/

Q戦国時代から江戸時代初期。参内に牛車を使いましたか

慶長8年、家康に将軍宣下があり、このとき牛車の使用を許可しています。
そこで疑問があるのですが、この当時、牛車の使用を許可された公家や武家は、実際に牛車に乗って参内したのでしょうか。
普段は使用しなくても、特別な儀式に参列する場合には牛車に乗ったのでしょうか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは ひさかたぶりで回答させていただきます。
『徳川実紀 東照宮御実紀』の慶長八年三月廿五日の条(2月21日が将軍宣下)に、次のような記述があります。
将軍宣下御拝賀として御参内あり。一番雑色十二人。-中略-七番御車。(糸毛なり。)牛二疋。牛飼二人。舎人八人。白丁二人。榻(*しじ)持一人。御階持一人。-中略-九番米澤中納言景勝卿。毛利宰相秀元卿。越前宰相秀康卿。豊前宰相忠興卿。若狭宰相高次。播磨少将輝政。安芸少将正則。此輩各塗輿にのり。舁夫八人。-以下略-
ここで、「御車。(糸毛なり。)」とあるので、家康が牛車を用いたことが分かります。また、「榻(*しじ)」は、牛車から牛を外した時に、牛車の轅(ながえ-牛に牛車を結ぶ部分)の軛(くびき)を支え、なおかつ牛車に乗る人物が、乗り降りする時の踏み台とする物で、この榻を持ち歩く者がいることからも、牛車の使用がわかります。ただし、この時代には牛車が大きく、高くなり、榻では乗り降りに高さが足りなくなり、五段の階段の「桟(はし)」を使用するようになります。これが、「御階持一人」の「御階」のことになります。また、扈従する者の内、高位者は、塗輿を用いています。
ところで、牛車の使用の許可の宣旨についてですが、正確には牛車に乗ったまま大内裏の外郭門を通過して、内裏の外郭門(内裏外郭の春華門・建春門・朔平門まで入れるとされますが、建礼門説もあります)まで牛車で乗り入れることを許す宣旨のことです。牛車の宣旨が無い(一般の公家・親王等)場合には、大内裏の外郭門で牛車を降り、徒歩で各目的地に歩いて向かうことになります。
牛車の使用の制限はないようです。特に八葉の牛車は、地下でも使用ができました。ただ、牛車の種類と乗車する者の身分により、使用制限はありましたし、車の装飾等が華美になりやすいために、制限が加えられることもありました(以上は、平安時代の中期・後期)。さらに、鎌倉時代になると貴族社会全体に活力が無くなり、牛車の使用が激減し、特別の行事に、摂関・大臣クラスが用いる特別な乗り物になります。南北朝・室町期の動乱を経過して、牛車が失われたり、牛車(牛飼童などを含め)の維持・管理ができなくなった公家も多く、摂関家・清華家クラスの公家でも牛車は使用されなくなってきて、腰輿(たごし)を使用するようになっています(牛車が廃絶したわけではありません)。武家の将軍は特別の行事の場合、牛車を用いています。
秀吉以降、特に天下人(秀吉・家康・秀忠・家光)の場合、将軍に任官し、牛車宣旨を賜った場合、家康の例のように拝賀参内等に牛車を使用しています。秀吉の場合は、後陽成天皇の聚楽第に供奉する場面でも牛車を使用しています。このような牛車の使用は、天下人・将軍の権威を見せるだけでなく、一大デモンステーションで、特に家康の場合、対豊臣の面でも、牛車を使用した拝賀参内の行列をすることで、新たな天下人の誕生を宣伝する意味も強かったものと思います。特に、扈従の大名が、関ヶ原の役の対抗勢力の中心であった上杉・毛利に、豊臣恩顧の主要大名ですから、その意図は明らかであると思います。
なお、石村貞吉著の『有職故実』に、次のような記述があります。
『宣胤卿記』、長享三年(1489)正月十日の条には、「今日室町殿(*足利義尚)、諸家参賀の式日なり。殿下(*関白一条冬良)より、今日御参賀の御乗用として、予の輿借り召さるるの間、皆具し進じ了ぬ。乱(*応仁の乱)よりこのかた摂家清華、皆以て板輿に乗り車の沙汰に及ばず。輿所持の方すら尚以て稀なり。末代の作法悲しむべし云々」とあるのでも、その衰廃の様が推測される。爾後、豊臣秀吉、德川家康、秀忠、家光などが参内の際に乗用したことがあったが、その後には、将軍参内のことさえなくなって、牛車の制は、全く廃絶してしまった。(*幕末、家茂の参内に用いられたとされます)

以上、長くなりましたが、参考まで。

こんにちは ひさかたぶりで回答させていただきます。
『徳川実紀 東照宮御実紀』の慶長八年三月廿五日の条(2月21日が将軍宣下)に、次のような記述があります。
将軍宣下御拝賀として御参内あり。一番雑色十二人。-中略-七番御車。(糸毛なり。)牛二疋。牛飼二人。舎人八人。白丁二人。榻(*しじ)持一人。御階持一人。-中略-九番米澤中納言景勝卿。毛利宰相秀元卿。越前宰相秀康卿。豊前宰相忠興卿。若狭宰相高次。播磨少将輝政。安芸少将正則。此輩各塗輿にのり。舁夫八人。-以下略-
ここで、「御...続きを読む


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