「人は不可能だと思うとき、やりたくないと決心しているのである」
 っていうのは、スピノザの言葉なのでしょうか?
 教えてくださいお願いします。

A 回答 (1件)

スピノザの言葉とされています。



参考URL:http://www2c.airnet.ne.jp/mats/ethica.files/spin …
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この回答へのお礼

 どうもご回答ありがとうございます。
 やっぱりスピノザですね!

お礼日時:2001/09/29 21:56

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Qインフルエンザワクチン、今から2回接種できる?

先日子供は1回目を接種し、今度2回目の予定なのですが、
大人の私と夫は1回でいいものとずっと思っていたためまだ受けていません。
近々受けないと・・・と思っていたところ、友人達は皆、2回接種をしていると聞きました。
近くの病院では大人でも2回接種を推奨していて、みなそうしているのだとのこと。
確かに、1回よりは2回のほうが有効率があがるのでしょうが、大人は1回で十分だと以前聞いていたので全く考えてませんでした・・・。

2回のほうがいいのならやはり2回受けたいなと思い始めてきたのですが、この時期からの2回接種は可能でしょうか?
12月第1週に1回目、月末頃2回目・・・というスケジュールになるかと思うのですが・・・効き目としては、もしかして2回目は遅すぎて意味なくなってしまいますか?

Aベストアンサー

>この時期からの2回接種は可能でしょうか?
問題ありません。もちろん、もう少し早く接種された方が良かったと思いますが、効果は十分期待できます。

>12月第1週に1回目、月末頃2回目・・・というスケジュール
>2回目は遅すぎて意味なくなってしまいますか?
接種間隔としては、推奨されている期間に含まれますので、問題はありません。

詳細は下記の厚生労働省のQ&Aを参考して下さい。

参考URL:http://www.mhlw.go.jp/houdou/0111/dl/h1112-1d.pdf

Q以下のスピノザの言葉の、典拠、意味、使い方について

お世話になっております。


ジャック・ラカンのセミネール「精神分析の四基本概念」を読んでいたら、
つぎのようなスピノザからの引用文に出会いました。

「cogitatio adaequata semper vital eandem rem」

この一文は、スピノザのどの著作で、どのような文脈で用いられているのか、教えてください。

ラテン語の素養がまったくありませんが、この文の意味を教えてください。

どのような意図をもってラカンが用いているか、なども、もしよろしかったらご回答ください。


ちなみに、該当箇所は、四章の三節、
ページでいうと岩波の翻訳65ページの、後ろから二番目の段落です。

Aベストアンサー

ご質問のラテン語の箇所は、スピノザからの引用ではありません(vitalは誤記、正しくはvitatです)。
ここでは単に「スピノザにならって言うならば」と、自分の鍵概念を、スピノザが『エチカ』で「定理」をあげていったのを模して、ラテン語で言っているだけです。ですから典拠明示がないんです。

「妥当な思考というのは、同じことを回避する」ぐらいの意味です。

繰り返し言われているのは、自我とは無視と誤認の領域であるということ。ですから合理的な思考は、同じことを避けるんです。けれども、現実界は同じところに回帰してくる。だから"res cogitans"(考えるもの)は現実界と出会えない、という脈絡です。

ラカンは十代半ば、スピノザに傾倒して、『エチカ』の構成を表した図を部屋に貼っていたといいます。その傾倒は一時的なものではなく、最初の重要な著作『人格との関係から見たパラノイア精神病』の冒頭に、スピノザの『エチカ』の第三部定理57からのラテン語の引用が置かれてありますし、また、セミネールの中でも1960年代にIPA(国際精神分析学会)から排除されたことを、スピノザの大破門にたとえる言及もあります。デカルトやアリストテレスなど、ラカンが言及する先哲は多くありますが、スピノザは彼らとは少し異なる、特別に近しい思いを抱いていた哲学者であったようです。

ご質問のラテン語の箇所は、スピノザからの引用ではありません(vitalは誤記、正しくはvitatです)。
ここでは単に「スピノザにならって言うならば」と、自分の鍵概念を、スピノザが『エチカ』で「定理」をあげていったのを模して、ラテン語で言っているだけです。ですから典拠明示がないんです。

「妥当な思考というのは、同じことを回避する」ぐらいの意味です。

繰り返し言われているのは、自我とは無視と誤認の領域であるということ。ですから合理的な思考は、同じことを避けるんです。けれども、現実界は同...続きを読む

Qインフルエンザ予防接種は1回?2回?

昨日インフルエンザ予防接種を受けました。近所の個人内科医では1回3500円ですが、別の個人眼科医では2000円と安い上に注射針が通常より細く痛みが少ないと聞き初めて眼科で予防接種を受けました。

通常12歳以下は2~3週間あけて2回摂取、12歳以上は1回でokだと思っていました。ところがその眼科では年齢に関係無く原則2回摂取だそうです。1回だとワクチンの有効性が50%、2回で80%と説明していました。

・・・?インフルエンザのワクチンって病院ごとに値段が異なるのは知っています。でも中身は製造メーカーが違っても同じものだと思っていましたが違いますか?2回摂取が原則ってことは他の病院での1回分より量が少ないのでしょうか?濃度が薄いのでしょうか?

逆に質も量も同じとしたら他の病院では有効性が50%のまま2回目を推奨しないのは不親切な気もしますがどうでしょう?2000円にお得感を感じましたが2回受けると割高な気もします。でも1回だと50%だけど2回打てば80%なんて聞くと2回受けようか・・・と普通なりませんか?

主人は高くついても2回受けたほうが予防率が上がるのなら小さい子供もいるし今年は2回受けようと言います。勿論私もそうするつもりですが・・・皆さんは2回受けていますか?1回と2回の違いをご存知の方教えて下さい。

昨日インフルエンザ予防接種を受けました。近所の個人内科医では1回3500円ですが、別の個人眼科医では2000円と安い上に注射針が通常より細く痛みが少ないと聞き初めて眼科で予防接種を受けました。

通常12歳以下は2~3週間あけて2回摂取、12歳以上は1回でokだと思っていました。ところがその眼科では年齢に関係無く原則2回摂取だそうです。1回だとワクチンの有効性が50%、2回で80%と説明していました。

・・・?インフルエンザのワクチンって病院ごとに値段が異なるのは知っています。でも中身は製造メー...続きを読む

Aベストアンサー

もともとは2回摂取が基本でした。

が、数年前ワクチンが不足した時1回摂取でも効果がかわらないのなら1回でいいんじゃないか?という議論があり、1回摂取でも効果が認められたので1回摂取がメジャーになりつつある。
こんな現状です。

同じ量を間隔をあけてもう一度摂取することにより、より強く免疫をつけることができます(ブースター効果なんていいますが)

何回摂取をするかは#5さんのおっしゃるように医師の考え方です。
当院では1回摂取を基本としていますが、受験生など確実に効果を出したい方には念のため2回摂取を勧めています。あくまで念のためというスタンスです。

Qスピノザの言葉

”Ego sum cogitans.”という表現はデカルトの発想への批判なのでしょうか。

Aベストアンサー

「Cogito,ergo sum」という命題が「Ego sum cogitans」という命題に等しいのだと注釈しています。
というのは、「私は考える、ゆえに私はある」という命題は、一見すると、考えるという作用から作用の主体である私の存在を推論しているように見えますが、それは懐疑の過程において必然的にいきつく意識の直証的事実を表現したものと考えるべきであって、すなわち、私が何かを疑っている限り、疑っている当の私の存在は絶対に確実でなければならないという直観的事実を表現したものと考えるべきである、ということです。

Q2回目(2回以上)の告白で付き合った方、

2回目(2回以上)の告白で付き合った方、
1回目手紙を渡してメール(返事)が来なかったけど、2回目(2回以上)の手紙でやっとメール(返事)が来たという方いますか!?
諦めきれず、2回目のチャレンジを決行しようとしている私に、希望を下さい…。

Aベストアンサー

知り合ってどのくらいなのかわからないのですが

あなたがその方を思っていることは必ず伝わるし
それが希望というか 違いますか

忙しくてメールの返事をし忘れたということも
あるのでは
あとでメールしよう でも気づいたらちょっと
時間がすぎていて タイミングのがしたって
ありますよ

好きなら行動してください
そしたらいい結果待ってますよ

Qスピノザについて

哲学者のスピノザについていろいろと詳しく教えてください

Aベストアンサー

 
スピノザは、バルーフ・デ・スピノザと云い(ラテン語名は、ベネディクトゥク・デ・スピノーザ)、「明晰判明な判断」と「懐疑」の哲学者ルネ・デカルトと同じ頃の人です。

スピノザは、先祖がポルトガル出身で、オランダ生まれのユダヤ人で、若い頃から天才をうたわれ、ユダヤ神学界では、若きスピノザに期待するところが非常に大きかったとされます。

しかし、スピノザは独自の思索を続け、重ねて行くに連れ、伝統的なユダヤ教の教義や神学と、自分の思想が矛盾することを見いだしました。スピノザは、ユダヤ教の神の否定につながる主張を明確にします。

ユダヤ教指導者たちは、スピノザに様々に説得を試みますが、スピノザは態度や考えを変えることがなく、遂に、ユダヤ教指導者は、スピノザを神学教団から追放する決定をします。これは、当時たいへんな決定であったので、自己の存在基盤が、社会的に一切失われることをも意味します。

スピノザはオランダで、隠棲と思索の生活を続けます。社会的基盤をスピノザは失ったので、スピノザは、相当に生活に困窮したろうという考えがあり、貧困のなかで、レンズを磨いて(レンズを製作して)生計を稼ぎながら、思索を続けたという話が伝わっています。

しかしスピノザは、確かにレンズも磨いていたようですが、貧困とか困窮という状態ではなく、彼を評価する後援者や庇護者がおり、不断は慎ましやかな生活でも、結構、経済的に困らないだけの財産を持っていたとされます。

スピノザは、観照の思索を行う隠者のような人物の印象があるのですが、確かに、孤独で、深く思索を積み上げて行った人ですが、別に人間嫌いではなく、交友関係も国際的に広く、当時の哲学者や政治家たちとの交流も持っていました。

また彼は「行動の人」でもあり、その「倫理」の銘ずるところ、自己の生命を賭けても、ある災禍(戦争・内乱など)を防ごうと、単身、有力政治家に会見にでかけたこともあります。政治家が、目的とした場所にいなかったので、スピノザの活動は歴史に残っていませんが、そういう行動の人でもあったのです。

そこで、スピノザが築き上げた思索はどのようなものであったかと云うと、或る意味、この時代を超えていたとも言えます。デカルトは、中世哲学の「信仰」との調和を念頭した思考法を批判し(と云っても、彼が批判したのは、晩期スコラ哲学と呼ばれるもので、スワレスらが代表していた考えで、これは、13世紀前後の盛期スコラ哲学とは、相当に違うもので、デカルトは「中世」を乗り越えたつもりで、実は、晩期中世の思想に対峙していたのです)。

デカルトは、信仰の真理ではなく、「理性」の明晰判明な判断、論理的な理性的思索こそが、哲学にとって必須なものであるとし、「理性」の哲学、理性の世界認識の方法を提示します。これを、近世哲学の端緒とも見るのですが、デカルトはまた、ライプニッツらと共に、「大陸合理主義」の始祖ともなります。

大陸合理主義は、イギリス経験論哲学に対立して語られるもので、ヒューム、ロック、バークリーらが代表していた、イギリスのこの思想潮流は、その後、大きな意味を持ってきます。

しかし、そういう話ではないので、デカルトが「理性」を重んじたと同様、スピノザも理性を重んじ、論理学的に思索することが、至高の思索の方法であるとします。特に、「数学」は、論理のなかの論理で、数学こそ、理性の結晶であるとの考えを持っていました。

デカルトは、スコラ哲学の概念である「延長実体」と「思惟実体」を、純粋化してとりあげます。延長実体とは、広がりのあるもので、つまり「物質」のことです、思惟実体とは、意識や思考を持つ何かで、これは「精神」のことです。

デカルトは物質と精神を峻別します。それらは、それぞれ別の合理的法則でこの世にあるのだとします。しかし、物質と精神が完全に独立だとすると、何故、精神が物質の世界を認識できるのか、また何故、精神が物質の世界に影響を与えることができるのか分からなくなります。

デカルトは、精神と物質は独立した実体であるが、例外的に、人間の大脳のある場所で、両者が交差しているとしました。この辺りの話は複雑になります。

しかし、デカルトの合理主義では、善や倫理をうまく根拠付けることができなかったのです。合理論のカントは、理性には、実践理性があると主張し、あるいは「実践理性」を発明し、実践理性の原理には、善や倫理を志向する法則があるのだとします。

スピノザの思想は、最初から、この善や倫理の問題を、どう解決するかに関わっていました。彼の主著は、『エティカ』と云いますが、Ethica とは、「倫理学」という意味です。

「エティカ」において、スピノザは、世界を構成している物質や精神という「実体」についての考察・吟味から始めます。ここの辺りは、デカルトの考えに似ているのです。精神と物質という二つの実体があるのだ、という前提で話が進みます。

しかし、スピノザは「実体」という概念を、非常に厳密に定義します。スピノザの定義からは、精神と物質は、実は実体ではない、という結果になります。それは、根源の実体の二つの属性における「様態(モード), modus」であるとスピノザは主張します。

スピノザは、実体は、存在世界にただ一種類しかなく、それは無限の実体で、無限のモードを持った実体だとします。デカルトの合理論が、二元論なら、スピノザの世界合理論は、無限モード実体論ということになります。

無限のモードを持つこの実体を、スピノザは、「自然 Natura」と呼びます。人間には、何故、物質と精神しか認識できないかと云えば、人間が、モードにおいて有限で、精神と物質の二つのモードしか持っていないため、無限の実体である「自然」を真に知ることができないのだとします。

スピノザは、モードである物質と、モードである精神について、その法則を考察し、人間の感情や、価値意識や、精神の現象よ呼べるものを、整然と分類し、整理して行きます。

こうして、スピノザは、物質モードにおける自然の「必然法則」というものを主張し、また精神モードにおける自然の「必然法則」を主張します。しかし、この二種類の法則は、実は、「永遠の相のもと」では、「自然」の持つ必然法則の二つの側面でしかないのです。

スピノザは無限のモードを持つ唯一の実体を、「自然 Natura」と呼びましたが、またこの実体を「神 Deus」とも呼びます。世界の存在や現象は、人間の認識できるものもできないものも、一切は、この唯一の無限の実体にして「必然法則」を備える「神即自然 Deus sive Natura」の変容顕現だとします。

これがスピノザの「汎神論的一元論」です。この考察の結果として、スピノザの哲学では、「必然法則」に従うことが、倫理的法則に適い、かつ神の法則にも適い、これが人間の最高の「自由」であるとなります。

スピノザの思想は、必然であることが自由であるという「汎神論的一元論」で、それはまた「倫理学」でもあるのであり、スピノザは、彼の云う「神」に論理的信頼を置き、それは「神=自然」に陶酔しているようにも見えるので、スピノザを「神に酔える人」とも評します。

なお、スピノザの思想は、神秘主義的な面もあるのですが、彼自身は、理性主義で、合理的論理的であると確信していました。彼の汎神論的一元論は、「純粋論理」の思索の結果であると彼は考え主張しました。

「エティカ」の構成は、エクレイデスの「幾何学原論」と同じような体裁を取っており、無定義概念、公理、公準が並び、これらに基づいて、スピノザは、或る命題を一つ一つ、論証して吟味して行き、その結論が証明されたと最後に述べ、「QED」の文字を置きます。

一つ一つの命題を、彼は「定理」と呼び、彼の「汎神論的一元論」は、公理的・幾何学的秩序において証明されたものであると、スピノザは主張しました(彼の「エティカ」は、公理論的体系を持つ数学の本の形を取っているのです)。

スピノザの必然法則が自由であるという「一元論」は、彼の「神=自然」を、「物質」と置くと、マルクシズムの弁証法的唯物論の世界論とよく似ており、また、現代の物理学が構想する哲学的な世界論ともよく似ています。

スピノザの主張は、必ずしも純論理的ではなく、直観的でもあったのですが、スピノザの思想の重要性は、あらためて現代において見直されているとも云えます。
 

 
スピノザは、バルーフ・デ・スピノザと云い(ラテン語名は、ベネディクトゥク・デ・スピノーザ)、「明晰判明な判断」と「懐疑」の哲学者ルネ・デカルトと同じ頃の人です。

スピノザは、先祖がポルトガル出身で、オランダ生まれのユダヤ人で、若い頃から天才をうたわれ、ユダヤ神学界では、若きスピノザに期待するところが非常に大きかったとされます。

しかし、スピノザは独自の思索を続け、重ねて行くに連れ、伝統的なユダヤ教の教義や神学と、自分の思想が矛盾することを見いだしました。スピノザは...続きを読む

Q今年の2回東京競馬場の開催日程について

http://www.jra.go.jp/keiba/calendar/2014.pdf

上記のJRA公式サイトによりますと、
2回東京は2014/04/26(土)から2014/06/01(日)までで、この翌週の
2014/06/07(土)から3回東京、となっています。
ということは2014/05/18(日)=2回東京8日目であり、それ以降は
2014/05/24(土)2回東京9日目
2014/05/25(日)2回東京10日目
2014/05/31(土)2回東京11日目
2014/06/01(日)2回東京12日目
ということでしょうか?


競馬開催って8日間がセットだったはずなのでは?
なぜ2回東京って12日間、という半端な開催数なのでしょうか?
(どこかの競馬場が大型改修工事中で使えないためのしわ寄せ、とかの理由でしょうか?)

詳しいかた、お願いします。

Aベストアンサー

詳しいわけではありませんが年初の開催変更情報は見ております。
2回東京は去年も12日間でした。今年も札幌競馬場のリニューアルや、中山競馬場のスタンド改装等工事の影響で変則開催?になっています。
番組、代替開催、輸送の絡みでほぼ全ての競馬場にしわ寄せが来ます。
----------
《2014年開催》
札幌競馬場:2回・14日
函館競馬場:2回・12日
福島競馬場:4回・24日
新潟競馬場:3回・28日
中山競馬場:4回・33日
東京競馬場:5回・46日
中京競馬場:4回・24日
京都競馬場:5回・47日
阪神競馬場:5回・40日
小倉競馬場:2回・20日
----------
《競馬法による規定》
・年間総開催数 36回以内
・一競馬場の年間開催数 5回以内
・一回の開催日数 12日以内

Qスピノザの考え方について

スピノザは、下記の問いにどういうふうに答えているのでしょうか?

1.人間は死んだらどうなるのか?
2.なぜ、人間は生きるのか?(理由がなければ自殺するはず)

Aベストアンサー

なるほど、質問者さんの問題意識の所在がわかりました。

> アインシュタインの言葉に”スピノザの神しか信じない”という言葉を見つけたのが、スピノザを知ったきっかけでした。

アインシュタインはこういうことを言ってたんですね。知りませんでした。
でも、すごく納得がいくような気がします。
おそらくアインシュタインは、アウシュビッツ以降、あるいは原子爆弾という大量殺傷兵器の登場以降、どのような神が可能であるか考えたとき、ユダヤ教やキリスト教におけるような、絶対的な超越者としての神ではなく、スピノザのいう汎神論的な神、世界の一切の事象のなかに顕れる神しか信じられないと思ったのではないでしょうか。
そうした残虐行為を神は許したのか、それさえも、神の意志だったのか、ということは、キリスト教やユダヤ教を信仰する人々にとって、きわめて大きな問題だったでしょうから。

ただ、スピノザの言う汎神論は、キリスト教やユダヤ教のバックグラウンドを持つ人、そうして、そうした一神教をある種、呪縛のように感じ、そこから外へ出ようとする人には何かとっても魅力的なもののようなのですが(たとえばユダヤ系アメリカ人であるバーナード・マラマッドの小説『修理屋』なんかにも出てきます)、わたしなんかから見ると、何か、ピンとこない、わかりにくい感じがします。日本的汎神論、あるいはアニミズムなんかと根本的にちがう。ほんというとここで回答なんてできるほど知っているわけじゃないんです。ごめんなさいね。

さて、そのうえでおぼつかない回答を続けます。

まずですね、スピノザは前の回答でも『エチカ』から引用したみたいに、あらゆる生物は存在することを目的とする、と考えます。そうして、自己の存在を維持し、それを高めようと努力するものである。この努力が精神と身体に関わる場合を、衝動=コナトゥスと呼ぶんです。

この存在するという目的のために、必要なものを求めるのが欲望。この欲望が「人間の本質そのもの」(第四部定理18の証明)といいます。

だから、彼にとって「善」とは単に「役立つことが確実に知られているもの」(第四部定義一)。悪とはその反対。
さらに、感情のなかで「喜び」に着目する。というのは、喜びから生ずる欲望は、強力なものだから。
そうしてこの「喜び」をふやすものが善。へらすものが悪。「善悪」を存在者にとっての単なる尺度のひとつに過ぎないものとしたところが、スピノザの非常にユニークなところです。

スピノザも自殺者についてふれていて、第四部定理18の備考の第三で

「自殺者は、無力な精神の持主であり、自己の本性に抗う外部原因の前で完全に屈服せるひとである」

としています。
つまり、「存在する」という大きな目的があるにもかかわらず、それを妨害しようとするものに屈服した者である、と。

たとえば自殺を選択するのは、自由意志によってである、という考え方があるとします。
スピノザはそういうことに反対します。
赤子は乳を自由意志で欲すると信じ、臆病者は逃亡を自由意志で欲すると信じるが、それはまるで石が自由意志で落下するというのと同じ、単に、自己の行為の原因に対して無知であるというにすぎない。意識が思いこんだ自由は、意識の本質に根ざした錯覚にすぎない。

スピノザは、人間の自由意志を認めません。
意志は自由な原因とは呼ばれえない、としている(かなりここらへんはあらっぽく話をすすめています)。

そうであるならば、自由とはいったいどういうことなのか。
上で言ったコナトゥスから能動的な情動が生じてくるとき、自由になる。人間は生まれついて自由なのではなく、みずから自身を自由にするものなのである、と。

ただ、このあとは、この自由は神に対する知的愛が生じ、これがわれわれに最高の平和をもたらす、という方向に行くんですが。


> アインシュタインは自殺しなかったのは、やっぱこう、相対性理論とかに自分の人生に自分なりに目的を見出して、まあ死ぬまでこれについて考えて生きよう、と決意したんですかね。

アインシュタインはヒトラーが政権を執ったときに、ドイツから亡命しています。当時、ドイツは原爆を製造していて、同じようにアメリカに亡命したほかの物理学者と共同で、原爆の危険性を訴え、アメリカも原爆研究を進めるように促したんです(アインシュタイン自身は手紙に署名しただけ、とされています)。それで、アメリカでの原爆製造計画が大幅に早まった、という経緯があった。アインシュタイン自身は、原爆製造にいっさい無関係ではあったのですが、そのことに深く責任を感じ、第二次世界大戦後は積極的に平和運動に献身しています。
その一方で、量子理論を認めようとしなかったり、なかなかアインシュタインっていう人はカラフルでおもしろい人であったように思います。

自殺というのは、なかなかやっかいな問題で、わたしはあまりちゃんと読んだり考えたりしたことがないんですが、新潮文庫から出ている中島義道の『カイン 自分の「弱さ」に悩むきみへ 』はお説教にならず、哲学への筋道をつけようとしてあって、読みやすかったように思います。もし興味がおありでしたらごらんになってください。

なるほど、質問者さんの問題意識の所在がわかりました。

> アインシュタインの言葉に”スピノザの神しか信じない”という言葉を見つけたのが、スピノザを知ったきっかけでした。

アインシュタインはこういうことを言ってたんですね。知りませんでした。
でも、すごく納得がいくような気がします。
おそらくアインシュタインは、アウシュビッツ以降、あるいは原子爆弾という大量殺傷兵器の登場以降、どのような神が可能であるか考えたとき、ユダヤ教やキリスト教におけるような、絶対的な超越者としての神で...続きを読む

Q七五三を2回するのはおかしいでしょうか?

今年、七五三(数え3歳)をする娘の母親です。
七五三参りを2回する、というのはやはりおかしいでしょうか?
3歳と7歳の2回、という意味ではなく、3歳なら3歳のお参りを2回、という意味です。
例えば、1回目は地元で、2回目は遠方の実家で、というような感じで・・・。

過去の質問を検索してみましたが、お宮参りを2回した、という話はありましたが七五三を2回した、という話は見つけられませんでした。
やはり、非常識でしょうか。

経験のある方、または聞いたことのある方がいらっしゃいましたら、お話を聞かせてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

非常識ではないと思います。子供の成長のお祝いですよね。うちの娘は2回やりました。数えで3歳(満2歳半)で、地元で写真撮影とお参りをして、その半年後に夫の田舎に帰省した時に、義母が用意した着物を被せて(着せないで被せただけです。義母がそうしなさい、と言ったので)夫の家の近くにある神社にお参りしました。写真は、義父が撮ったスナップ写真のみです。

違う話になりますが、結婚披露宴も2回でした。夫の田舎が遠いので、高齢な親類の負担を考えたのと、ご近所の皆さんにもお披露目する必要があったためです(田舎ってそうですよね)

一緒にお祝いしたいという気持ちがありがたいですよね。素敵な七五三になるといいですね。

Qスピノザの考えについて。

学校の授業で、哲学者たちの考えを色々と学んでいるのですが、スピノザ哲学がよく理解できません。哲学素人なので、わかりやすく教えて頂けると嬉しいです。
1、「人間には、自分の存在を保持するのにあらゆる人間があらゆる点で一致しているということ以上に、価値あるものを望むことは不可能である。」
2、「われわれは個物をより多く認識するにつれて、神をそれだけ多く認識する(あるいはそれだけ多く神を理解する)。」

上記二点がよく分からないんです;特に2、は「直観知」と関係しているようですが、そもそも直観知とは?また、直観知と2、はどう関係しているんでしょうか?

本やネットで探しても難しい説明ばかりで・・・。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

質問者さんは高校生の方ですか。

高校生の方ぐらいを想定して、できるだけわかりやすく書きます。
ちょっと正確ではない部分もあるので、もし学部の方でしたら、こんなところで質問をせずに、先生に聞いてください。

まず、これはスピノザの主著『エチカ』に出てきます。
『エチカ』の正式なタイトルは「幾何学的順序で証明された倫理学」、これを見ただけで、あるていどスピノザがやろうとしていたことがわかりますね。「倫理学」つまり、道徳と言ってもいいと思いますが、道徳的なことがらを、まるで幾何学の証明をやっていくように、論理的にやっていこうとしたものです。

> 1、「人間には、自分の存在を保持するのにあらゆる人間があらゆる点で一致しているということ以上に、価値あるものを望むことは不可能である。」

こう書くとむずかしそうなんですが、これはそんなにむずかしいことを言っているわけではありません。

「自分の存在を保持」というのは、自分を傷つけたり損なうことなく生かそうとしている、ということです。あらゆる人間は、自分が傷つけられたり損なわれたりすることなく生きていたいと願っている。そうして、それ以上のことを望むことはできない、と言っているのです。

この存在するという目的のために、必要なものを求めるのが欲望です。
わたしたちがふつうに使っている「欲望」とは意味がちょっとちがいますが、「食欲」とか「睡眠欲」みたいなものを考えると、たしかに欲望の根本にはそのことがあるとわかりますね。

スピノザは、この欲望が「人間の本質そのもの」(第四部定理18の証明)と言っています。

さて、スピノザの思想の最大の特徴は、本当の意味で存在するのは神だけである、という点です。人間の精神も、身体も、物体も、神の延長としてある、と考えたのです。ひとりひとりの人間も、鳥も、石ころも、葉っぱも、空も、川も、すべて神の「様態」(さまざまな現れ方)にすぎない、というのです。こうして、神とその様態以外の何ものも存在しない、と考えるのです。

> 2、「われわれは個物をより多く認識するにつれて、神をそれだけ多く認識する(あるいはそれだけ多く神を理解する)。」

というのは、鳥や、石ころや、葉っぱのなかに、神を見いだす、ということです。

これはどういうことなんでしょうか。

人間は、外的な原因によって、さまざまな感情が生じます。たとえば「怒り」はその人の存在を損なうものです。自分の存在を損なうような感情に引きずられまいとする欲求がその人のうちに生じる。こういうとき、人間は「自由」になる、と考えます。このように、真の自己保存の欲求は、人間の認識を発展させていきます。

こうしてわたしたちは、自分が神のなかにあるものと発見することができるようになる。
そうすることで、わたしたちは自分が孤立した無力なものではなく、神のなかに同化したものと見いだすにいたるのです。

直観知というのは、ここでは簡単に言ってしまえば、神を見いだすということです。
神の存在をこうだからこう、とか、ああではないから、きっとこうなんだ、というふうに、推論によって導くのではなく、わかりやすく言ってしまえば「ぱっとわかっちゃう」ということ。

以上、参考まで。

質問者さんは高校生の方ですか。

高校生の方ぐらいを想定して、できるだけわかりやすく書きます。
ちょっと正確ではない部分もあるので、もし学部の方でしたら、こんなところで質問をせずに、先生に聞いてください。

まず、これはスピノザの主著『エチカ』に出てきます。
『エチカ』の正式なタイトルは「幾何学的順序で証明された倫理学」、これを見ただけで、あるていどスピノザがやろうとしていたことがわかりますね。「倫理学」つまり、道徳と言ってもいいと思いますが、道徳的なことがらを、まるで幾...続きを読む


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