15日ほど前に再建された長崎出島に行ってきました、なかなか勉強になりましたし、長崎出島はオランダ人にとっても思い入れ深い地であるとか。
なんでも、オランダの歴史教科書に出島が紹介されてて、オランダがナポレオン率いるフランスに併合されていた時代に、唯一オランダ国旗を堂々と掲げていられたのが長崎出島であったとか、当時の日本もオランダを見捨てず支援したとも。
一方で、鎖国時代には日本はヨーロッパとしてはオランダとのみ貿易してましたよね、長崎出島が有名です、オランダ人以外の来訪を禁止していました。
オランダ商館医として、およそ150名が長崎出島に赴任していたようです。 その中でも出島三学者としてケンペル、ツュンベリー、シーボルトが特に優秀で有名であったそうです。
ですが、厳密にはケンペルはドイツ人で、ツュンベリーはスウェーデン人で、シーボルトはドイツ人であったそうです。 どうやらオランダ人のふりをしていたようですが。
そこで思ったのですが、当時のオランダ政府やオランダ東インド会社は、オランダ人以外のヨーロッパ人が長崎出島を訪れることを容認していたのでしょうか?
それとも、本来は容認していなかったのか?
鎖国時代や日蘭貿易長崎出島に興味ある人など、皆さんからのいろんな回答を待っていますね。
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
>どうやらオランダ人のふりをしていたようですが。
シーボルトが日本入国の際に、不自然なオランダ語を話していることから疑われた際に、「自分は山オランダ人(高地オランダ人)だ」といって方言による訛りだとごまかしたという話は、わりと有名かと思います。
>当時のオランダ政府やオランダ東インド会社は、オランダ人以外のヨーロッパ人が長崎出島を訪れることを容認していたのでしょうか?
3人とも、オランダ商館付き医師として派遣されています。オランダ側は「公式には」容認していなかったでしょうが、実際には、あるいは現場レベルでは容認していたはずです。スウェーデン人、ドイツ人はオランダ人とも同じゲルマン系で、言語・民族的に共通点が多いですから、なりすましは難しくなかったでしょう。
ちなみに当時の出島は女人禁制、商館長といえども夫人同伴は禁止されていたのですが、ブロムホフが出島商館長赴任時にオランダから妻子同伴で来日したため、大騒ぎになりました。最終的には妻子の在留は許可されませんでしたが、オランダ側には「禁止されていても、状況次第ではなんとかなる」という意識があったかもしれませんね。
既に他の回答にもあるように、当時のヨーロッパではまだ民族国家という意識がありません。地続きのヨーロッパ諸国では、君主の相続や戦争によって国境がコロコロ変わるような時代です。知識階級、貴族階級は、活躍の場を求めて留学したり他国の君主に仕えたり、というのがごく当たり前に行われていました(これは現代でもそうです)。
各国の為政者も、役に立つ人材であれば出身国は関係なく、雇用していました。
「地球の裏側」の東アジアで働きたい、鎖国の日本で医師として働きたい(研究したい)、という人材を求めるのは、オランダ人だけを対象にしていたのでは難しかったという側面もあったかもしれませんしね。
シーボルトの逸話は割と有名ですよね、あの三名はオランダ商館医として派遣されたようですね。現場レベルではオランダ人でなくても容認していたようです。
妻子同伴で出島に赴任しようとしたオランダ人もおられたとは、認められなくて残念ですよね。
当時はまだ民族国家の概念がなかったと、役立つ人材は出身国に関係なく欲しいものですしね。 ベストアンサー差し上げますね。
No.8
- 回答日時:
シーボルトが「山オランダ語だ」と言った、というエピソードを何人かの方が回答されていますが、これの面白いところは「山」にあります。
実際オランダは干潟を干拓した土地が主体でほぼ全部平坦《山なんてない》のです。オランダの最高峰は322m、他の国からみれば丘でしかないんです(ちなみに千葉県も最高峰が408mなので同じ感じ)
なのに「山」と言ってしまって、それに気が付かない日本人が面白い、ということです。
とはいえ、出島の最大の目的は「カソリックを日本に入れないこと」でしたから、他の貿易地も《カソリックじゃなければOK》というのが最初の基準でした。
シーボルトはプロテスタント発祥地のドイツ人ですから、もし日本側が「シーボルトはオランダ人ではない」と分かっていてもそれほど問題視しなかったのだと思います。
それと「最近の教科書は鎖国とは書かない」とされていますが、私は非常に違和感があります。
なぜなら「日本人が海外渡航することは固く禁じられていた」からです。
実際、戦国時代までは東南アジアのフィリピンやシンガポールなどに日本人街ができるほど、商人や売春婦さらには傭兵としての武士たちも海外に流出していました。
しかし江戸幕府の鎖国政策はこれらの渡航を一切禁止し、外国にいた日本人の帰国も禁止、船も概要航海できる帆船は禁止して、一枚帆の船しか認めなくなりました。
その結果、嵐に在った回船が漂流して、外国船に救助されることがあり、日本に帰国したくてもできない、運よく帰国できても幽閉される、などの状態になったわけです。
たしかに出島以外も幕府は海外と貿易や交流はしていましたが、他国のような庶民の流出流入を禁止していたのは「鎖国」と言って差し支えないと思います。
ふむふむ、やはり当時の日本はある程度の「鎖国」はしていたんですね、日本に帰れなくなった人も結構いたようです。
カトリックの流入を防ぐためでしたか、布教と植民地化を防ぐためでもあったんでしょう。
勉強になる回答でした、貴方へベストアンサー差し上げたい気持ちありますけど、きわどいところで他の人を選ぶことにしました。
回答ありがとです。
No.7
- 回答日時:
> 当時のオランダ政府やオランダ東インド会社は、オランダ人以外のヨーロッパ人が長崎出島を訪れることを容認していたのでしょうか?
岩波書店の【日本歴史10近世2鎖国:岩生成一】の中に、次のような記載があります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
結局寛永十二年の鎖国令によって、その全面的禁止となったが、これはオランダ人の多年切望したところで、かねてからその方向に向かって努力してきたところであった。
朱印船の渡航禁止に気をよくした蘭館長フランソァ・カロンは、さらに中国船の貿易停止を当局に進言したが、幕府は、その結果オランダ人が日本貿易を独占しては日本の経済に好ましからぬ影響が起こることを顧慮して、この方は拒絶した。
かくてオランダ人はその対日貿易開始以来わが鎖国前後に至るまでに、順次その競争国民の阻止・排除にほぼ成功して、日本をしてまったく東亜の国際社会から孤立せしめることができた。
これこそ日本の鎖国であって、これを裏からいえば、オランダ人の東亜における勢力の伸張・制覇であって、ちょうど当時蘭領東インド総督には有能敏腕のアントニオ・ファン・ディーメンがその任にあって、着々植民探険と貿易の伸張を図って、オランダ人の東亜経略の黄金時代を築いたが、わが鎖国による彼らの対日貿易独占の成功によって、ここにその制覇の重要な一環が完成されたのであった。
引き続いてオランダ人は、鎖国体制完成後において、この有利な独占体制の維持・存続に全力を傾け、諸外国民の対日通交貿易開始の企てを未然に阻止することに力を尽くした。
オランダ人出島移転の翌年一六四二年、わが寛永十九年六月二十九日、総督ファン・ディーメンは、前後三十六カ条に上る長文の書状を幕府に呈し、日本におけるオランダ人の立場が出島移転によって窮屈となったことに対し緩和を請願するとともに、重ねて南蛮人の日本侵略の意図とその阻止に対するオランダ人の協力を申し出で、ローマ法王とポルトガル人との関係深く、日本のキリスト教徒は常にその指令のもとに動き、さては大阪の陣・島原の乱も、法王下知のキリスト教徒の策動なることを述べて、ポルトガル船の来航を極力阻止すべきことを勧説した。
その後マカオ当局がポルトガル王の即位を報じ、対日貿易再開を折衝せしめんとして使節の派適を計画するや、総督ファン・ディーメンはこれに先立って一六四三年五月、書翰を出島商館長に送って、ポルトガル人がふたたび日本と通商を開くことを希望して国王が特使を派遣するという噂のあることを報じ力の及ぶ限り貿易再開を阻止すべきことを命じ、その後も……
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この記述だと、オランダは、【(オランダ以外の勢力)が日本に食い入ってくることを排除しようとしていた】のでしょうが、民族というか、個々人の出自についてはさほどのこだわりは持ってないようにも読めます。
(南蛮人)を忌避しているのは(ポルトガル王の勢力の下にあるものたちの交易が増える)ことを忌避・回避する手立ての範囲なのでしょう。北部欧州のものならば、さほど気にはしてないのでしょう。
No.6
- 回答日時:
オランダ、ドイツ、スェーデンは何れもゲルマン民族です。
オランダ人と言われたら、そのまま通ってしまいます。
No.4
- 回答日時:
当時のオランダ政府やオランダ東インド会社は、オランダ人以外のヨーロッパ人が長崎出島を訪れることを容認してはいませんでした。
オランダ人以外に出島に出入りしていたのは中国人だけでした。因みに、江戸時代に日本は鎖国をしていなかったというのが、最近の歴史の常識になってきています。
日本が鎖国していたといわれる17世紀半ばから19世紀半ばにかけて、幕府は完全に海外との交流を断っていたわけではありません。 長崎以外にも、対馬・薩摩・松前の3つの外交窓口を開いていました。 この4カ所を「四つの口」体制と言います。 「四つの口」については以下の通りです。
①長崎(出島)
オランダ東インド会社によって設けられた貿易の拠点「オランダ商館」が置かれ、長崎奉行の管轄下で貿易が行われました。 また、中国からも私貿易船が多く来航したため、幕府は市中に唐人屋敷を設置するなど統制しました。 こうして、幕府は貿易の利を独占することができたのです。
②対馬
朝鮮との国交の仲介には、対馬の宗氏があたりました。 対馬は耕地に乏しく、朝鮮との貿易は生命線でした。 そこで、豊臣秀吉による朝鮮出兵後の国交回復に尽力し、将軍の代替わりごとの通信使の来日を実現させました。
③薩摩
琉球王国からは、薩摩を介して慶賀使・謝恩使が来日しました。 中世、琉球王国は中国と東南アジア諸国との中継貿易で繁栄したが、ヨーロッパ人の進出によってその地位を奪われ、近世初頭の1609年(慶長19)年に薩摩の島津家久に征服されました。 琉球からの使節は、朝鮮通信使とともに、幕府にとってアジアの情勢を知る貴重なアクセス・ルートでした。
④松前
幕府は、蝦夷地南部を支配する松前氏をアイヌの首長と見立てて主従関係を結び、参勤交代を行わせました。 松前氏はアイヌとの独占交易権を認められていました。
このように、「鎖国」体制下にあっても海外との交流はかなり多くあったのです。
そもそも、「鎖国」を行っていた時代に、「鎖国」という言葉自体がありませんでした。 「鎖国」は後の世の人が作った言葉なのです。 だから「鎖国令」などというものは存在しませんでした。
当時の幕府は、「鎖国」という感覚はなく、「キリスト教の布教禁止」といった方針のもとに日本人の渡航を禁じ、取引国を段階的に制限していっただけです。 そして、徐々にすべての貿易を幕府の統制下に置いていったというのが実のところです。
幕府は外交を絶って孤立しようとしたのではありませんでした。 いわば外側からバリアを張って国内の支配体制(幕藩体制)の安定を図ったのです。 そこにあったのは、幕府のしたたかな外交戦略でした。
ふむふむ、近年の研究では『鎖国』は思っていたほど、厳密ではなかったんですね。 日本各地である程度交易はしていたみたいです。
幕府の外交戦略でしたか。
ただ、まったく鎖国ではなかったとまでは言い切れないものも感じています。
回答ありがとです。
No.2
- 回答日時:
当時ヨーロッパの国は単一民族国家じゃないです。
人は金儲けできる国に流れました。ポルトガルが勢力を伸ばした理由の一つが稼ぎ場として外国から人が大勢流入したからです。ポルトガルにはスペインと世界を二分できるほどの人口はない小国ですが金儲けビジネスシステムがあったから人が集まりました。衰退は人が流出したからです。オワコンです。人は金を目指して流動する社会。国境跨いだ人の流れは結構自由。日本の方が民族主義、国民統制主義です。日本の鎖国的考えは現在も色濃く残っています。企業活動でも国粋主義的です。海外労働者受け入れでも保守的です。欧米からみれば変だと思うでしょう。足りないものは外から入れればいい、だけど日本人じゃないから嫌だ。そんなこと言える状況ではない日本。日本が日本人だけの社会は異質、特別でいづれヨーロッパ的、アメリカ的社会に移行するかもしれません。
ロシア人優越国粋主義のロシアは戦争仕掛け、中国は中華思想による侵略排他主義のいじめっ子ですね。
と考えました。いい質問です。
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