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なぜ大坂夏の陣図屏風を黒田家は残したのでしょうか?
恥でしかないのに。徳川公儀から詰問されなかったのかな。
今、大阪の人の心情はいかに。

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A 回答 (1件)

家康は関ヶ原の戦いで、諸大名を統一する武功を世に示し、大坂の陣は徳川家天下統一の総仕上げの戦。


徳川家にとって記念すべき大戦に黒田家も参陣していた事を語り継ぐ記録という意味合いじゃ無いでしょうか。

また、江戸時代前半に編纂された「武家事紀」という書籍の中に、ここ戦いの時に、豊臣方の猛将毛利勝永の猛攻を眺めた黒田長政と僚友の加藤嘉明の会話が残っています。
「金ノ輪抜の旗指物の城兵が力戦しているが、あの大将は誰であろうか」ととう長政に、嘉明は「毛利壱岐守が子なり」と答えた。
 それを聞いた長政は「ついこの間まで幼若の者と思っていたが、武略に練達した大将となったものよ」と感嘆したという。

こんな会話を観ると、黒田長政も加藤嘉明も、豊臣方に敵意ばかり抱いていたわけではなさそうですね。
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