
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
法家の思想である地位や状況に関わらない厳罰主義で動いていたのは秦ですね。
漢以降は、基本的に儒教優先です。たいていの国では儒教を国教にしています。
もちろん、法治主義自体は採用していました。そもそも論で言えば、厳格な法令の運用を求める法家思想が登場する前から、法令はあったわけで、ただ法の運用や解釈が、儒教の「徳」だの「孝」や「仁」などを大いに勘案されて大物は罰を免除されたり、罪を大幅に軽減されたり、人や状況によって手心を加えられていたわけです。
戦国7国の中で、秦はウイグル人など漢族ではない民族も数多く混じった多民族国家でした。つまり、もともと儒教に関係ない民族も人口のかなりの割合を占めていたわけです。
だからこそ、厳格な法律運用を旨とする法家が受け入れられ、法律の下では万民が平等であるという社会になったことが、多民族を共通の価値観で結びつけることに繋がり、戦国一の強国へと発展していったわけです。
そして秦は他の6国を平定統一して「秦帝国」を造り上げ、すべてを厳格な同じ法令を運用させることにしました。
それに大反発したのが儒者を筆頭とする漢人たちです。「徳」や「孝」より「法」が上に来るのはヒトとして許されない行為だ!という非難です。
それに激怒した始皇帝が焚書坑儒を行って儒教を大弾圧したのはご存じでしょう。
結局、始皇帝死後の秦帝国の混乱に乗じて、漢族たちの反乱が起き、最終的に漢帝国が誕生し、以後、儒教を国教とした王朝が近世の清王朝まで続くことになりました。
これらの中華帝国は、法令は勿論ありますが、儒教の「徳」を最上位概念とし、その徳を構成する五常(仁・義・礼・智・信)を主な徳目としました。
つまり、法令の上に儒教を据えたわけです。
どういう事かと云えば、法令そのものも儒教に照らし合わせて正しいかどうかが問われ、法令の運用・適用に関しても、儒教に照らし合わせて適切かどうかが問われる。そういうことになっていたわけです。ある意味、秦帝国誕生前の状態に戻ったという話でもあります。
以上は、例えば科挙の試験問題でも、(過去の)法令や政治が儒教に照らし合わせて正しかったのか、適切だったのかを論じるような問題が出たりしたことからもわかります。
No.2
- 回答日時:
AIから。
中国の歴代王朝は、表面的には儒教の倫理を、
実際の統治においては法家で
という具合でやって
きました。
儒家が道徳的な理念を提供し、
法家が統治の実務的な方法を提供するという形で、
両者が相互補完的に機能してきたと言えます。
したがって、儒家が建前で法家が実質というよりは、
両者が役割分担をして機能してきたと見る方が適切です。
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