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先祖調査をしており、自家・高橋家のルーツを辿っています。
家に伝わる話や郷土史の記述によれば、高橋家はもともと会津藩医だったとのことです。しかし、ネット上で公開されている分限帳(会津藩士の名簿)には「高橋家」の名前が見つかりませんでした。

そこで郷土史を調べたところ、以下のような記述がありました(一部仮名を用いています):

「髙橋一戸=今の貞和(明治3年生まれ)まで四代。先祖は恩北町木内から出たということだ。元来高橋家は会津藩医だったが、貞和の曽祖父の平吉が当赤穂に転籍したのである。」

この「恩北町木内から出たということだ」という部分について、以下の点が気になっております:

1.「木内」というのは、地名だと思っていたのですが、角川の地名辞典を調べても該当する地名が見つかりませんでした。
 ただし、明治初期の士族の系図目録には、かつての恩北町に(今は違った名称です)「木内姓」の家が確認できました。(画像にもその目録を添付しました。)

 このことから、木内というのは地名ではなく姓(または家系)だったのではないかと考えています。

2.もしそうであれば、「高橋家は木内家から出た」というのは、「木内家から改姓した」のか、「木内家から養子に入った」のか、あるいは別の意味なのか、判断がつきません。

3.また、郷土史には「高橋家は会津藩医だったが、曽祖父・平吉が赤穂に転籍した」とあることから、  「木内 → 高橋」という流れがあった可能性も考えています。

4.家には高橋家の系図が残っておらず(うちが本家だったようです)、どこまで遡れるかも不明です。
 「木内から出た」という記述をどのように理解し、系図をどう構成すべきか悩んでいます。


他にも以下のような記述がありました:

1.髙橋一戸=今の貞和(明治3年生まれ)まで四代。先祖は恩北町木内から出たということだ。元来高橋家は会津藩医だったが、貞和の曽祖父の平吉が当赤穂に転籍したのである。二代盛正は加藤玄信と言う医師の門人である

2.明治五年学制領布されてから各所の寺小屋なる者が漸次すたれて行ったが、それにも係わらず小人数を集めて専ら教養に尽されたのは高橋耕鉄氏である。
元来高橋氏は会津藩医であったそうだが、耕鉄の祖父たる平吉と言う方が当赤穂に転籍したのである。耕鉄の父は盛正と言った。耕鉄の幼時書をば大元謹信先生に学び、医は加藤通常翁の男玄信先生について学んだ。弘化元申辰年三月六日の出生で明治三十年旧八月十四日死亡した。



もしこのようなケースに詳しい方、「木内から出た」という表現の解釈に心当たりのある方。断片的なことでも結構ですので、ぜひご教示いただけましたら幸いです。

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