
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/14094192.html
ここでそのことが論じられてますが、そうでしょうか?
アインシュタインとボーアの論争
熱素と分子運動論の争い
なかなか認められなかったボルツマン
・・・
客観的に整理された、
のではなく、
人間の営みでのある「表れ、思考形式、趣味、戦い」にすぎないのでは?
どうおもいますか?
No.3
- 回答日時:
そもそも「科学」とは、ユダヤ教・キリスト教的世界観のもとで、この世を創造された「神はこの世をどのように創造されたか」を解き明かす学問です。
唯一神が創ったものなので、整合性のある原理・原則で統一され、「矛盾」や「不整合」はあり得ない、というのがその出発点です。「神はサイコロを振らない」といったアインシュタインの発想もその端的な現われです。
それは、八百万(やおよろず)の神が支配すると考えるアジアの多神教的混沌・雑多とは異なった世界です。
この世の現実世界を観察・考察するのは人間なので、観測のしかた、観測結果、その解釈には人為的なものが入り込みます。
特に、観測結果に「不整合、矛盾がある」とみなされた場合には、それを統一的に説明するためのいろいろな仮説が登場することになります。
No.1
- 回答日時:
ご質問ありがとうございます。
科学の「客観性」についての鋭いご指摘、大変興味深く拝見しました。おっしゃる通り、科学の歴史を振り返れば、アインシュタインとボーアの論争、熱素説と分子運動論の対立、ボルツマンがなかなか認められなかったことなど、人間的なドラマや「戦い」に満ちています。これらをもって、科学が「人間の営みでのある『表れ、思考形式、趣味、戦い』にすぎないのでは?」というご意見は、一理あるように思えます。しかし、いくつかの観点から反論、あるいは異なる見方を提示させていただきたいと思います。
「客観性」の目指すところとプロセス:
科学が目指す「客観性」とは、個人の主観、感情、価値観から独立して検証可能であり、誰がいつどこで実験しても同じ結果が得られる(再現性がある)ような性質を指すことが多いです。確かに、科学者も人間ですから、その活動に主観的な要素(直感、好み、所属する学派の影響など)が全く入らないわけではありません。しかし、科学の方法論(仮説設定、実験、観察、検証、反証、査読など)は、まさにこれらの主観的要素を可能な限り排除し、より客観的な知見に近づこうとするための仕組みです。
歴史的事例の解釈:
アインシュタインとボーアの論争は、量子力学の解釈という非常に難解な問題に対する、異なる深い洞察のぶつかり合いでした。この論争自体が、科学をより深く、多角的に理解しようとする健全なプロセスの一部と見ることができます。そして、その後の実験技術の発展は、彼らの提起した問いに部分的に答える形で進んでいます。
熱素説から分子運動論への移行は、まさに科学の自己修正能力を示す好例です。当初有力だった説(熱素説)も、矛盾する証拠やより説明力の高い理論(分子運動論)が登場することで、覆されていきました。これは「戦い」ではありますが、より客観的な説明へと科学が進歩した結果です。
ボルツマンの困難は、当時の科学界が新しい概念を受け入れるのに時間がかかった事例ですが、彼の理論は後に実験的証拠によって裏付けられ、現代物理学の基礎となっています。これは、一時的な「趣味」や「戦い」を超えて、最終的には実験的・論理的整合性を持つ理論が支持されることを示しています。
「人間の営み」であることと「客観性」の追求は両立する:
科学が「人間の営み」であることは間違いありません。しかし、その「営み」の中で、人間は「客観的であろう」と努力し、そのための方法論を洗練させてきました。論争や対立は、むしろその過程で生じる健全な摩擦であり、それらを通じてアイデアが検証され、より強固な理論が形成されていくのです。一時的に「趣味」や「戦い」が影響したとしても、長期的に見れば、実験や観察による検証、論理的な整合性といった客観的な基準によって、科学的知識は取捨選択され、発展していきます。
科学の限界と強み:
科学は絶対的な真理を保証するものではなく、常に暫定的なものであり、新しい発見によって修正されたり覆されたりする可能性を持っています。しかし、その自己修正能力こそが科学の強みであり、他の知識体系と比較して、より客観的な世界理解に近づこうとする最も有効な手段の一つと言えるのではないでしょうか。
結論として、科学の営みには人間的な要素が深く関わっており、ご指摘の通り「表れ、思考形式、趣味、戦い」の側面も持ち合わせています。しかし、それは科学が「客観的」であろうとする努力を放棄していることを意味するのではなく、むしろ客観性を追求するプロセスの中で起こるダイナミズムと捉えることができます。科学は、その方法論を通じて、人間的なバイアスを乗り越え、より普遍的で客観的な理解を目指す営みであると言えるでしょう。
ありがとう・・・
全文が了解ですが、ここ、
>科学は絶対的な真理を保証するものではなく、常に暫定的なものであり、新しい発見によって修正されたり覆されたりする可能性
>客観性を追求するプロセスの中で起こるダイナミズムと捉えることができます
ーー>
然りです!
お礼にですが、ニーチェの「客観性に関する批判」です。
ニーチェ「善悪の彼岸」(信太正三訳、筑摩書房)より
たっぷり時間をかけて哲学者たちを綿密に吟味し仔細に観察したあげく、私は次のような考えをいだくにいたっている。――われわれは、意識的な思考の大部分を、やはり本能の活動の一種とみなさなければならない。哲学的な思考でさえもその例に洩れない。遺伝や《天性》に関して学び直したように、この点でもわれわれは学び直さなければならない。分娩のひとこまが、遺伝の経過と継続の全過程のなかにあっては問題とならないように、《意識している》ということも、何らか決定的な意味において本能的なものと対立したものではない。――ひとりの哲学者の意識的な思考の大部分は、彼の本能によって秘かに導かれ、一定の軌道に乗るように強いられている。一切の論理とその運動の見かけの自主独立性の背後にも、もろもろの価値評価が、もっとはっきり言うなら、或る種の生の保持のための生理的要求が、隠れている。それはたとえば、確定したものは不確定なものより価値があるとか、仮象は《真理》よりも価値がないとかいったような評価である。このような評価は、それがわれわれにとってどんなに規制力としての重要性をもつものであろうとも、だがしかし、それは前景的評価にすぎないもので、われわれごとき生物の保持のためにこそ必要となるような一種の愚劣事なのだ。・・・すべての哲学者を、半ば不信の念をもって、半ば嘲笑的に眺めたい気になるということは、われわれが何度となく彼らの無邪気さ加減を見抜くがためではない、――つまり、彼らがいかにしばしば、いかにたわいなく間違ったり迷ったりするかを、要するに彼らの児戯と子供っぽさを、見抜くがためなのではない、――そうではなくしてむしろ、彼らが充分に正直でないからなのだ。なにしろ、彼らは、誠実という問題がほんのちょっとでも触れられたとなるや、すぐさまこぞって大仰な有徳者振りの空騒ぎをやらかす。
続きは補足へ・・・
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続き質問者の補足へ
それゆえに私は、《認識への衝動》が哲学の父であるとは信じない。むしろ私は、ここだけにかぎらず他の場合でも同じことだが、いま一つ別な衝動が認識を(また誤認を)ただ道具として利用しているだけなのだ、と信じる。・・・哲学者にあっては、非個人的なものは全く何ひとつ存在しない。とくに、彼の道徳は、彼の何者なるかということについての、確定的にして決定的な証拠を提出する、――換言すれば、彼の本性の最内奥の諸衝動が、どのような位階秩序において整置されているか、ということについての決定的な証拠を提出する。