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~聖書を読む方への質問です~
人間の子孫って、聖書ではアダムとイブですよね?二人だけですか?

もし、この二人だけなら、人類はどうやって増えていったのだと思われますか?

現実的に考えると、ちょっと・・・タブーの世界になるのかな・・と思ってしまいました。

こんな質問を受けました。
アダムとエバ(イブ)から考えても、あるいはノアから考えていただいてもかまいません。あるいは、当時ユダヤ人に救いを説いたイエス・キリストの教え(新約の部分)が、どうして他民族であるわれわれにとっても福音になるのか。という切り口でも良いかもしれません。

★イエス・キリストがあの時、あの場所で説いた教えについて、「現代において聖書を読み解き、福音を受けておられる皆さんはどのように自分の中で哲学的に解釈されているのか?」という事を知りたいのです。

●自分の見出した答えを聞きたいので、自説をどんどん語ってください(^^
●もちろん、科学的見地で進化論やミトコンドリア・イブ等を融合した解答でもかまいません。

●つたない言葉でもいいです。現代におけるあなたの模索を語ってください。

お願いします。

A 回答 (42件中21~30件)

>戦いを聖戦のように、死を美学として描いた作品ですよね。



*このコメントはなんぼなんでもあんまりです。(^^;

え? そうですか?
つんつん
 ↓
>戦争が終わった後でも、優れた種族、賢きもの、美しい種族がこの世界から去ってゆき、
>人間にこの世界をまかされる物悲しさは、『方丈記』にも通じるものがあるように思います。
>とはいえ、神話の終焉へのやるせない悲しみが存在し、それでも去りゆく者達は人間に引き継いでゆく。
>この独特の骨子は、比較するものでないように感じます。

まさにこれが死の美学的観点からの考察ですよ。
芥川龍之介の地獄変や奉教人の死でその事件を後で町の人たちが話すくだりがあります。
その人々と上のあなたの言葉が私には同じに見えるのです。
ちなみに奉教人の死は実際長崎で起こった事件をベースに、芥川龍之介が着色したらしいです。

私もぷちファンタジーファンで、あるネットゲームではピンクのドレスを身にまとい、神聖文字の呪文を唱えムーンゲートを開き、ナイトメアにまたがり、ホワイトドラゴンを連れてゴーゴーってゲートに飛び込み、灰色の世界~ なぜーー?(←いきなり死亡)したりしています。^o^;
(ちなみにそのゲームは指輪物語に影響を受けた人が作ったらしい)
別のゲームでは耳のとがったエルフ種族で、分厚い鎧を着た戦士5人が「だめだ 突破できない」ってところを、一人で布一枚で敵の中に突っ込み連続魔法を唱えて、召還しといた騎士様を操り敵を全滅させ、「掃除しといたお~ にっ!」って言ってスタスタ去っていったりしています。笑

清水 真砂子さんのファンタジー講座を受講したりするほどのちょっとしたマニアです。
ファンタジーの世界を語ればうるさいですよ~。笑
で、ゲド戦記シリーズでは『帰還』が一番スキです。
ところが帰還が発表されたとき、世界中のファンから大ブーイングが起こったそうです。
「魔法使いでなくなった年老いたゲドなどいらない。我々は男達によって輪姦されたあげくに、火にくべられ死に掛けたケロイドの醜い少女の物語など待ち望んでなどいなかった」って。
それに対して原作者のグウィンは懸命に説明に説明を重ねましたが、熱狂的なファンたちはそれが理解できませんでした。
清水真砂子さんは グウィンに「わたしはあなたが作品で何を言いたかったのかちゃんとわかっている。だからもう説明するのはやめにして」って言ったそうです。
ファンたちは、ハリーポッターのように勧善懲悪のわかりやすい絶対的に強いヒーローの世界しか望まなかったし認めなかったのです。
処女から生まれ、水の上を歩き、水を酒に変え、死者を蘇らせ、自らも蘇るヒーローしか受け入れなかったのです。
その世界しか認めなかったのです。

わたしはファンタジーの世界への逃避は、人間が成長する上でとても大事な過程だと思います。
必要不可欠だと思います。
だけど、ゲド戦記でも述べられていますが、ずっとその世界にいると、元の姿に戻れなくなるんです。
だから、時が来たら元の世界に戻るべきなんです。
人間に生まれ、魔法使いになり、元の姿に戻り消滅する。
このどこがいけないのでしょうか。 
あたり前の自然なことなのに、何故認めないのでしょうか。
再生には消失が必要です。
その再生のためにファンタジーは必要でしょう。
だけど、そのまま留まっていたら、喪失のままです。
って思うんですよ。

『100万回生きたねこ』って本があります。
100万回も主人から殺されたねこの一生です。
主人はねこが大好きで、死んだとき号泣します。
でも ねこはちっとも悲しくなんかないんです。死が。
ねこは100万回殺された後、再生しますが、その後生き返りません。
満足したから生き返る必要などないのです。
精一杯他者を愛することが100万回殺された後にできたことから、生き返る必要がなくなったのです。
彼は最後はマスターはいなかった。 徹底的な野良ねことして生まれた。
そうなったとき、彼は他者を愛することができた。
静かな消滅に うんうん ってうなずける説得力のある絵本です。

って、、、熱く語ってしまった きゃ! (* ̄▽ ̄*)


>現代キリスト教世界の一般的な解釈なんですってば。
>ここの所や三位一体については論理的に理解するのは無理です。

これはイエスの思想にはなく、キリスト教が作り出した概念です。
だからイエスが生きていたとし、それを聞いても「さぁ? 異教の思想なのでその教祖に聞いてください」だと思います。


>「イエス教だと・・・」と仰っていますけれど、キリスト教世界の解釈にとても近いものを感じます。

ちっちっちっち。
まず、、、、
キリスト教は、イエスをどういう人物だとしているか知ってます?
神の子。具体的には天使がやってきて処女にはらませてこの世に誕生し、水の上を歩き、水を葡萄酒に変え、一つのパンと2匹の魚だったかな? で5000人の空腹を満たし、死者を蘇らせ、自らも死んだ後蘇って弟子と一緒に魚を食べたあと じゃねー 上で待っているよーーん と去っていった人 としています。
人間が死んだ後、彼がジャッジをして天国行きか地獄行きかに振り分けるとしています。
いわば裁判官です。

ねぇ、例えば神父は預言者で、神の言ったことを、信者に伝える任務をしているとカソリックではなっています。
ということは、人間の叡智では計り知れない神の言うことを理解できる何か。
イエスと同等なはずですよね。
彼らは水の上を歩いていると思いますか?
歴代の法王はどうでしたか?
アメリカでは有線で宗教のみの番組があり、熱く説法をしています。
その番組で何時間も説教するより、まずは水の上を歩けばいいと思うのですよ。
布教活動には絶好の宣伝になると思うのです。
みんな頑張れば真理がわかり、私のようになれますって。
全世界がキリスト教徒になること間違いなし!
何故 こんな簡単な事をまずやらないのでしょうか?
イエスがやったと彼らが言う奇蹟を彼らがやっていけばいいだけのことじゃないでしょうか。
彼らがそれが真実のイエスであり、思想だとし、これがイエスの宗教だとするのだったら。

パッションって映画がありました。
興行成績がよかったようです。
この放映の結果を言いますと、自首した人1名、映画を見てショック死した人1名。
せっかくユダヤ教に謝罪して和解したのに、またユダヤ教徒を怒らせちゃいました。
神の奇蹟にしては、、、、ねぇ・・・・。

この回答への補足

はいはい、補足から行きますよ。(^^

●「指輪物語」の解釈は、そこまで知っていて仰るのでしたら、ひとそれぞれの解釈って事で依存はないです。
ファンタジーゲームうんぬんに関しては、マーケットに対応するためのファンタジーの概念からトールキンを解釈するのは無理でしょう。
確かに、指輪物語からD&Dが生まれ、ウイザードリィが生まれ・・・その系譜として、とんがった耳のエルフが召還魔法を使いまくっているようですねぇ。(私は次世代機持ってません。)
 開発期間などの制約が大きいゲーム界では、物語のエッセンスを散りばめることは出来ても、読み捨てられるベーパーバックレベルが限界のように思います。(私見です。)

●清水真沙子さんの講義、私も受けたいですねぇ。
『帰還』は、良い作品だと思いますよ。(なんたって訳が良い)
けれど、ル・グィンは『アースシーの風』を書く必要が、読者の為だけでなく、彼女自身の為にも必要だったのではないかと思います。
ゲド戦記は、その時に彼女が書きたいものを書いている姿勢が伝わってくるのでとても好きなシリーズです。
そういう意味で、ポケットの多い彼女にとってもあの作品はライフワークになる気がします。

●100万回生きた猫
絵本の凄さですね。これも持ってます。 同意。

補足日時:2005/07/18 03:49
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この回答へのお礼

>例えば神父は預言者で・・・中略
>イエスと同等なはずですよね。
●教義に反論は出来ません。
が、神が言ったことを伝える=イエスと同等というのは、極端な解釈だと思います。(kigurumさんは気付いているでしょ。)
 その解釈は、黙示録で予言された『偽キリスト』になりますので、新約を肯定すれば無理です。*私が対話しているカルト信者はkigurumiさんの解釈です。
●『奇跡』で読み解くのでしたら教義にこだわらず、理性と知性で奇跡を具現した人を辿って読み解いてはいかがでしょうか
神父でも良いが、神父である必要もないのです。
●マザーテレサから読み解けば、死を待つ一人一人がキリストであり、ヒンズー教徒の寺院で死を待つイスラム教徒に
『あなたの宗教で祈りなさい。わたしも、自分が知っている言葉で祈ります。』と祈り続けました。この行為の前ではつまらない奇跡など見る影もありません。

ヘレン・ケラーは、キリスト教神秘主義者スェーデンボルィの信仰者として知られていますが、奇跡を具現した若き日の記述をご存知でしょうか。彼女の語る福音は極めてシンプルです。
ヘレンは語ります。主教(師)は、宗教上の教義によらず、重要な考えを吹き込んでくれた。
「神は父である、人間は兄弟である。」
同時期に書かれたOPTIMISM(楽天主義)では、こう語ります。
「イエスが説き、パウロが伝えたものは、平和の福音であり道理の福音である。理想と愛の信仰である。」
ヘレンの楽天主義の信条
●私は神を信じ、人を信じる。また、精神の力を信じる
●私は、自己および他人を鼓舞奨励すること、そして神の世界に対し、不幸という言葉を発しないことを神聖な義務であると信じている。
●なぜならば、神が善くつくり、多くの人が善くしようと望んで努力してきたこの宇宙について、いかなる人間であれ、嘆息する権利を持たないからである。
●私は、いかなる人間にも、他人の疾苦艱難を座視して、自分ひとりが安楽な生を貪ることのない、幸福な時代に近づけようと活動すべき責務があることを信じている。
*これは、処女作とされる自伝と同時期に書かれたものです。
わずか22~23才の小娘の見解って事です。私には、このような奇跡で十分に思います。

お礼日時:2005/07/20 01:25

>イエスは(自分を信じなかったユダヤ人に)辛らつかつ残酷に言い放ちます。


『私はあなたたちを知らない。』
『あなたがたの父はサタンだ』と。

実に矛盾してますね。

「汝の敵を愛せよ」などとのたまった方の言葉とは思えません。
もっとも聖書が正確無比であればの話ですが。

三位一体についても一言。
神と御子と聖霊が一体である?
聖霊の性質は、日本における神に似ています。
逆らうと怖い。
御子の性質は、日本における仏に似ています。
逆らっても許してくれる、慈悲の心。
つまり、日本語?に訳すと

天津神と仏と国津神は一体である。

と、なります。
まるで江戸時代の解釈ですね。
もろ、多神教です。

そこで、隠れ切支丹のnicodemoさんの意見が聞きたいですね。

>★ちゃんと洗礼済みのクリスチャンの回答に期待しましょう。
ていうか、誰か答えて・・・頼みます。(--;

などの逃げはダメです。

転ぶか、磔か、どちらですか?

この回答への補足

★ちゃんと洗礼済みのクリスチャンの回答に期待しましょう。
ていうか、誰か答えて・・・頼みます。(--;

>などの逃げはダメです。

>転ぶか、磔か、どちらですか?

って、・・・もしもし、ここは無邪気に『教えてー』ていうサイトだった気がするんですが(^^;

まぁ、使い方を間違った気がしますので、撒いた種は刈り取るべく努力してみましょう。

ですが、答える前にワンクッション欲しい、信仰に硬いクリスチャンの回答を読みたいのも 事実です。
少し待ちますね。クリスチャンから回答がいただけないのであれば、私の解釈を書きましょう。

補足日時:2005/07/18 04:08
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この回答へのお礼

>天津神と仏と国津神は一体である。

これは、すごい比喩ですね。(仰る事はわかります。)
聖書においても基本的には、その通りだと思いますよ。
一神教(人格神)というのは、多神教を内包しているに過ぎない。
等と書くと聖書を冒涜しているようにとられるかもしれませんが、私はそうは思いません。

昔、なんとかこのイメージを表そうと、「神の人格は在って無きが如し」
と表現した事があります。
 イエスの教えと多神教や仏教の宇宙観と共通する『普遍的な真理』があるとして、
新約によって聖書を読み解けばイエス・キリストを通すことにより、
「人格神たる主」に至る事ができるということです。
江戸時代の解釈も、あながち馬鹿にしたもんじゃないかもしれませんよ。

●転んだように見えるかもしれませんが、
キリスト教世界を肯定しているつもりなんですが、どうでしょう。

お礼日時:2005/07/19 01:04

言葉が足りなくてすみませんでした。


私はクリスチャンではありません。ただのひねくれものです。

前回言いたかったのは、イエスが神ならば、旧約は破棄すべきであると言う事です。
旧約の神の戒めを守る気がないのに、聖典とする矛盾。
もっとも、旧約の預言書にイエスが救世主だとの証明を担ぎ出してる以上、旧約も否定できない。
つまり、イエスが神だと辻褄があわない。
イエスが人であり、救世主であり、神の御子であるならば、矛盾は生じません。今のままで良いのです。

しかし、現状ではイエスが救世主かどうかも、はなはだ疑問であります。
イエスが何を、どの様に、救ったのでしょうか。
ユダヤ人は今だに救われていません。
イエスを裏切ったからと言うのでしょうか。
『裏切りものには、復讐を』
これでは、マフィアの掟です。
『隣人を愛せよ』
これがイエスの戒めのはずです。
『右の頬を打たれたら左の頬を』
が教義でしょう。
本当にイエスがキリストならば、いつ、ユダヤ人が救われるのでしょうか?
現状のイエス・キリスト教信者を見る限り、無理なのでは?
また、イエスが神ならば、そろそろ預言者を世に送り出して、新たな数千年の教義を拡めても良いころなのでは?

イエスをキリストにしたいなら、隣人を愛しましょう。世界中の人が隣人を愛したならば。世界平和が実現でき、ユダヤ人も救われましょう。
その時はじめて、イエスはキリストになるのです。

今のままでは、イエス・マフィア教ですね。
せめて、イエス・ヒューマン(人間)教くらいにしないとね。
もしかして、ジーザス・クラッシュ教だったかな?
(英語は赤点だったもので、発音に自信がありません。)

上記、かなり不穏当な表記があり、各関係者様方に、多大なる不快な思いをさせてしまった事を、お詫びいたします。
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この回答へのお礼

tengooさん。重ねての回答ありがとうございます。

さて
>前回言いたかったのは、イエスが神ならば、旧約は破棄すべきであると言う事です。
>旧約の神の戒めを守る気がないのに、聖典とする矛盾。
>もっとも、旧約の預言書にイエスが救世主だとの証明を担ぎ出してる以上、旧約も否定できない。
>つまり、イエスが神だと辻褄があわない。
>イエスが人であり、救世主であり、神の御子であるならば、矛盾は生じません。今のままで良いのです。

●イエスが神ならば、旧約は破棄すべきだ。もっともな言い分だと私も思います。しかし残念ながら、新約は契約の更新です。期限が切れる頃にメシャが誕生されると予言されており、イエスが「私がそうである。」と宣言しているのはご存知の通りです。
 そして、現代においては旧約聖書を正典の一部とするイスラムが存在する以上、逆説的にイエスは神でなければ正当性を主張出来ないのです。

>しかし、現状ではイエスが救世主かどうかも、はなはだ疑問であります。
中略スミマセン
>『裏切りものには、復讐を』

●ヨハネ8章を読んだ事があるでしょうか。
32節で、とても有名な聖句でイエスが(自分を信じたユダヤ人に)祝福します。
『あなた方は真理を知り、真理はあなたを自由にするでしょう』

 ここまでは、とても有名なところです。が、以後、イエスは(自分を信じなかったユダヤ人に)辛らつかつ残酷に言い放ちます。
『私はあなたたちを知らない。』
『あなたがたの父はサタンだ』と。

この対比と排他性こそ、キリスト教世界の問題点であり、仰るとおり、
第二の律法(隣人を愛する)でしかこの対比からは解放されないように思います。

お礼日時:2005/07/17 21:29

トールキンの件は5年ほどまえ、指輪は原爆を意味していると本人が言ったという記事を目にしたので、その情報をそのまま鵜呑みにしてしまいました。


ケストナーと同じような時代で、ケストナーの飛ぶ教室がヒットラーの政権下の時 発禁処分になってしまい、トールキンはそれを恐れたいたんだろうし、「悪のボスをヒットラーとしたんだろう」と因縁つけられたら困るし。
でも、違うとすれば、ファンタジーの世界に逃避したのかなぁ・・・とか。
戦いを聖戦のように、死を美学として描いた作品ですよね。

ニーチェのあの本買ったんですか! 行動早い。
わたしはレビュー読んで大まかに内容が想像できたので、買わないことにしました 笑。


じゃあ もう一つ紹介しましょう。
これ 今日観たんですけど、結構ガツンとやられました。
http://store.yahoo.co.jp/esdigital/4988102107239 …
レンタルショップに並んでいます。


>キリスト教世界のここの解釈で重要なのは、『イエス・キリストは完全なる人であり、
>完全なる神である』ということだと思います。

その解釈はかなり無理があるように思えました。
ゾウでありワニであるゾニって生き物 想像できますか?
上のビデオの中で、
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4754220 …
の著者がイエスがマリアにチューの部分を読んだとき「ディスカスティング(吐き気がした)」って言ってました。
著者の略歴を見るとバリバリのカソリック信者で、人にも教える立場の人です。
かなりむかついて否定したらしいです。
ところがある日、講義の材料として聖書の中のフレーズを探していて、あれ? あれれ? あれあれ? って思ったのだそうです。
他人から聞くと嫌ですが、自分で興味を持って紐解いて言った結果、「イエスは人間で、結婚をし、家庭を持ち、子どもも持っていたんだ」と到達したのだそうです。
聖書の中を読んでいて、わかった(発見した)のだそうです。 にっ。

>矛盾ある記述も含めて『人間賛歌』であると思うからです。

人間賛歌の部分は同意します。
矛盾がある記述は、解釈を押し付けられたか、聖書が操作された可能性があるから、矛盾やかなり無理のある力技でねじ込んだ解釈になり、みんな頭をひねっているんじゃないか っても思って今まで思っていました。
上のビデオは「今の聖書は勝った勢力によるものです」という風な出だしから始まります。
それを、いろんな宗派がやりあって、他を異端としていって、自分達とは違う解釈をする宗派を消していった結果  そう思っていました。
ビデオを見ると、コンチ・・・なんでしたっけ? その当時のローマ皇帝。
コイツだーーーーっ思いました。
つまり皇帝はディアスポラで各地に散らばっている大勢のユダヤ人も戦力として加えたかった。
彼らに「神」とか盾にマークつけてやると、勇ましく闘ってくれたんです。
ローマ人のために。
法王(ってその当時も呼んでたのかな?)を見方につければ、どんどんユダヤ人の兵士の数が増えていく。
「ユダヤ人は救世主を待ち望んでいる。じゃあ わたしが救世主になって彼らの満足度をあげてやろう。そうすればわたしは彼らを救ったことになる」
こう思った節がある。
彼らの新しい宗派を認めて、保護していけば、彼らは反逆しないし、彼らの宗教を認めれば、彼らは国家は持たないが、それなりの安定した暮らしができるようになるし、ローマの傘下に入れば擁護して、他から攻撃されないようになる。
これが彼らの望んだ自分達の国家だ って。
あれほどまでローマ人に反逆していたユダヤ人が、コロっとなったから、壷押さえたって感じでしょうか。


他には、、、ラザロでしたっけ。イエスが死んだ人を生き返らせたエピソード。
イエスは黒魔術師? マジシャンだったのか?
法王だか権力者だかが送った秘密文書発見。
「ラザロが棺の中から叫んだ」という下りを聖書から削除しろ って書いてあったそうです。
つまり、ラザロは死んでいなかったんですよ。
死者を復活させたんじゃなくて、棺に閉じ込められたラザロを救出したんですよ。
ね? 聖書は書き直されてはいないかもしれないが、あっちこっち消されて、破線のマリス状態かもしれない。
並べ替えたら別のストーリーになってしまう。

確かにイエスは失敗しましたよ。
せっかくの思想をローマの皇帝に利用され、ユダヤ人を利用されてしまったんですから。
でも、人間とはかけ離れた神の子どもだったイエスだと、ハシゴかけても届かないが、「彼は女を愛し家庭を持ち子どもも持ったが、ちゃんと悟りを開いた」となったら、ぐんと自分にも可能性があるって思えるじゃないですか。
神にならなくてもいいんですよ。
人間のままでもいいってことですよ。
肉を持ったままでもいいってことですよ。
肉体を持ったままでもあそこまで到達できるってことですよ。
ね? キリスト教の教義では人間は神に似なければいけないけど、イエス教だと人間のままでいいってことですよね?
にっ。

この回答への補足

kigurumiさん、毎度どうもです。横レスからいきます。(^^

ケストナーの『飛ぶ教室』は詳しい内容は忘れましたけど良い作品だったのは覚えています。

>でも、違うとすれば、ファンタジーの世界に逃避したのかなぁ・・・とか。

トールキンは、オックスフォードで教鞭と執る言語学者で、彼の知的好奇心はイギリスにかつて伝承された言語を創造する事でした。
ヒットしたのは『指輪物語』でしたが、彼が本当に書きたいと思って力を込めたのは延々と『指輪物語』までの歴史が綴られる『シルマリルリオン』だったようです。
漫画の場合、まずキャラを立てて、それから設定など考えますよね。
 彼の場合はまず言語があり、詩があり、それに併せて種族や文化を考察していったふしがあります。つまり、物語はおまけです。

>戦いを聖戦のように、死を美学として描いた作品ですよね。

*このコメントはなんぼなんでもあんまりです。(^^;

 作品中で戦争の描写は数多く登場しますが、その前後には避けられないやるせない思いや悲しみが台詞や詩・歴史で語られます。
 『平家物語』で語られる争いの無常さと同じようなものは感じますけど、それを「死の美学」と評するのはちょっと。
 戦争が終わった後でも、優れた種族、賢きもの、美しい種族がこの世界から去ってゆき、人間にこの世界をまかされる物悲しさは、『方丈記』にも通じるものがあるように思います。
 とはいえ、神話の終焉へのやるせない悲しみが存在し、それでも去りゆく者達は人間に引き継いでゆく。この独特の骨子は、比較するものでないように感じます。
 
彼の親友であったC・S・ルイスはトールキンによってカトリック信者になっています。
ルイスが児童文学に聖書を映しとった「ナルニア国物語」を書いて信仰を表したのに対して、トールキンは熱心な信者であったにもかかわらず、直接的には信仰を表していません。
 このような事実に留意するなら、彼の作品や発言に寓意的・逃避的要素をもとめるのは相応しくないように思います。

はぁ、疲れました。(--;
「イエスは●●だ。」って言われてもわりと冷静に対処できるのに、
好きな作家・作品に対しては熱くなってしまうようです。スミマセン

補足日時:2005/07/17 02:47
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この回答へのお礼

★キリスト教世界のここの解釈で重要なのは、
『イエス・キリストは完全なる人であり、完全なる神である』ということだと思います。

>その解釈はかなり無理があるように思えました。
>ゾウでありワニであるゾニって生き物 想像できますか?

●うーん、仰るとおりにおかしな事なんですけどね、現代キリスト教世界の一般的な解釈なんですってば。
ここの所や三位一体については論理的に理解するのは無理です。
★ちゃんと洗礼済みのクリスチャンの回答に期待しましょう。
ていうか、誰か答えて・・・頼みます。(--;

>確かにイエスは失敗しましたよ。
>せっかくの思想をローマの皇帝に利用され、ユダヤ人を利用されてしまっ>たんですから。

●政治と宗教が持ちつもたれつでやっている間は、真理や平和などとは無縁ですね。

でも、人間とはかけ離れた神の子どもだったイエスだと、ハシゴかけても届かないが、「彼は女を愛し家庭を持ち子どもも持ったが、ちゃんと悟りを開いた」となったら、ぐんと自分にも可能性があるって思えるじゃないですか。
神にならなくてもいいんですよ。
人間のままでもいいってことですよ。
肉を持ったままでもいいってことですよ。
肉体を持ったままでもあそこまで到達できるってことですよ。
ね? キリスト教の教義では人間は神に似なければいけないけど、イエス教だと人間のままでいいってことですよね?

●まさにその通りだと思います。
そして、「イエス教だと・・・」と仰っていますけれど、キリスト教世界の解釈にとても近いものを感じます。(過激な事を仰っているのも承知しています。)

お礼日時:2005/07/17 20:28

>『イエス・キリストは完全なる人であり、完全なる神である』ということだと思います。



この世において、イエスはキリスト(救世主)であって、神ではないですね。人です。
完全なる人ではあり得るが、完全なる神ではないのです。
人である以上、制限があり過ぎです。神の如きなら有り得ますが。
そもそも、旧約の神は十戒において、自分以外は神としてはいけないと戒めてあります。
旧約に忠実ならば、イエスを神とは認めないでしょう。せいぜい預言者止まり(イスラムの見解)ですね。

まあ、日本は宗教の自由がありますので、イエスが神でも、鰯の頭が神でも、良いのですが。
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この回答へのお礼

>『イエス・キリストは完全なる人であり、完全なる神である』ということだと思います。

ううーん。ここのところは、キリスト教の一般教義の大前提だと思ってたんですが。
tengooさんが、そもそも聖書やキリスト教世界の教えをあるていど
肯定されて仰っているのか、まったくそうでないのかがわかりません(想像は出来ます)ので、再反論も難しいです。

まぁ、人である以上神でありえないというのは、当然の思考だと私も思います。そこで、完全なる神だと受け入れるところが
キリスト教のはじめの一歩だと思ってたんですが・・・。

イエスを預言者とした時、仰るとおりイスラム世界の肯定をすることになってしまいます。(それが悪いとは思いませんが)
正典の一部を同じとしながら対立しあうこの問題を論じるのはなかなか難しいものです。

鰯が神は、一神教では無理でしょうね。(少なくとも私は遠慮します。)
魚や、わたつみの神様を祀るほこらは日本に多数ありますけど。

お礼日時:2005/07/16 23:17

ニーチェですか~。

 知りません(きっぱり!笑)
しかし、昨日、別のスレッドの回答者の内容を見ていて、どんな人って調べていってたら、こんなの見つけました。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062723 …
私よりも過激な本っぽいなぁ ニーチェ ニーチェ 哲学者にニーチェいたけど、、、、「げげ 本人だぁ~」と知り、彼が反キリスト教だったって知りました。
(ダビンチさんもそうだったらしい。)

それにしても、ここの回答者たちの内容、私も知らなかったこと多くて、読んで参考になってます。

宗教学者の人が言っていましたが、「聖書は人間の叡智がつまったすばらしい書物ですが、その内容をまるごと信じる必要はあいりません。 おかしいと思ったら疑って考えていいのです」みたいなことを言ってましたが、「聖書は正しいかもしれないが、解釈の内容をそっくりそのまま鵜呑みにする必要はありません。どうしてそう解釈されたのか それで徳するのは誰か、結果徳したのかって調べてもかまわないのです その徳した人の業績で世の中はどうなったのか 歴史はどうなったのか 調べても構わないのです」って意味なんじゃないかと・・・
例えばイエスは処女から生まれたって、あたり前のように解釈されていますが、翻訳の段階で、若い女→処女って書き換えられてしまったわけで。
それを知らなければ、生殖行為無しでイエスは生まれたんだ 超人だぁ ってもう完全なる宇宙人状態になっちゃいますから。
(イエスが試験管ベビーだったら ありえるでしょうけど)

イエスの教えがどうして他民族の我々に福音になるのかは、うーーん。
世の中に一般的に言われている聖書の解釈では、かなり無理があるように思いました。
見当ハズレなところをいくら掘っても、ガラス玉しか出てこないと思えました。
ガラス玉を賢者の石だと思い込んで、真理を得たつもりで、それでも結局は真理を得ていないので、ゆらぐ ゆらぐ ゆらぎまくり、頑固な要塞を築くまでになったりして。
その王座にはガラス玉が鎮座して、みんながひれふして拝んでいたりして。


イエスのちゅーは想像したくないですか あはは。
グノーシス派の人の一部の人の考えは、チューは精神的ななんだったっけ? 何かを表しており、ちゅーが必ずしも性的なものという意味にはならないらしい。
比喩なのかどうかわかりませんが、マリアはイエスの真理を理解できたが、ペトロらはそこまで到達していなくて、マリアに嫉妬して、イエスにマリアに教えたように(愛したように) 私にもそれを教えて(愛してくれ)って意味だったのかも かも かも~しれません。
第一の弟子は12信徒の中にはおらず、マリアだったとかなんだとか。


ロードオブザリング。
確かトールキンだったと思いますが、彼が意味したリングとは原爆だったそうです。
魅力的な愛しい人=原爆、悪いものだとわかっていても手放すことができない魔力を秘めた指輪。
さて、人類はリングを手放していないようです。
今 誰が持っているんでしょうね。

ちゅどーーん 今回もチュどーんだったでしょうか? えへ。

この回答への補足

*本文への感想は、少し時間を下さい。

とりあえず、ロードオブザリング(ズ)に関しての横レスします。(^^
>確かトールキンだったと思いますが、彼が意味したリングとは原爆だったそうです。

日本語版(指輪物語)の訳者、瀬田貞二氏によれば
トールキンは、現代を映した『寓意的要素』を否定し、指輪に対してあらゆる比喩的要素を許していないそうです。
彼の書きたかったのは、他民族からの借り物でないイギリスの為の神話(ファンタジー)であり、あくまで独立した読み物だったようです。
(もちろん、他民族の伝承の影響は数多くあります。)

実際にこの物語は第二次大戦下に書き綴られ、トールキン自身が従軍した経験が生々しい描写に反映されていますが、
寓話として反戦を訴えたものではないと何度も述べているようです。
この物語が時代を超え、読みつがれる(もう50年経ちました。)ことに留意すれば、それもまた相応しい読み方かと思います。

しかしながら、私たちの世代は、力の指輪=核のイメージはやっぱりありますね。(^^

補足日時:2005/07/15 17:49
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この回答へのお礼

*ニーチェの本の紹介ありがとうございました。ただいま取り寄せ中です。

>「聖書は人間の叡智がつまったすばらしい書物ですが、その内容を
>まるごと信じる必要はありません。 おかしいと思ったら疑って考えていいのです」…
中略
>例えばイエスは処女から生まれたって、あたり前のように解釈されて
>いますが、翻訳の段階で、若い女→処女って書き換えられてしまったわけで。
>それを知らなければ、生殖行為無しでイエスは生まれたんだ 超人だぁ ってもう完全なる宇宙人状態になっちゃいますから。
(イエスが試験管ベビーだったら ありえるでしょうけど)

●正直言って、処女から生まれたかどうかについては、あまり関心のない事だったのですが、対話して考えてゆくうちに、(処女から生まれたなら)『超人・宇宙人』になる。つまり、『人間以外』になっちゃうというのはご指摘の通りだと思います。
 処女かそうでないかはさておき、キリスト教世界のここの解釈で重要なのは、『イエス・キリストは完全なる人であり、完全なる神である』ということだと思います。
 聖書には人間の素晴らしいところも、そうでないところも見つける事が出来ます。にも関わらず私が聖書を肯定したいのは、矛盾ある記述も含めて
『人間賛歌』であると思うからです。
 イエスが人でないのなら、このテーマは存在しません。いささか逆説的ですが、むしろ処女でないマリアのほうが安心できるような気もします。

お礼日時:2005/07/16 19:36

再びhw4183です。

つぎなる論点を続けます。
あまり重要視したく無いのですがある意味、興味深いのでふれておきます。
マグダラのマリアについてです。ヨハネ福音書の復活の場面で「私に触ってはいけない」と訳されてますが
「すがりつくのをやめなさい」が正確な訳である、そうです。
要は抱きついていたのを振りほどいた、つまりマリアとイエスの関係は親密なスキンシップが許される関係だった。、、、グノーシス文書研究の第一人者である、東大名誉教授荒井献氏の説です。
後世、イエスが神の子として信仰されるようになり、特定の女性と親密な関係にあったという人間的な記述は削除せざるを得なかった、正典からも削除仕切れなかった部分がいたるところに残っています。
カナでの婚礼の場面でも誰のものとも一切書いておらず、イエス自身の婚礼ではないのかという説ですが、母マリアからブドウ酒を追加するよう言われているが、これは招待客ではなく祝宴を主催する側だったようです。
またこのとき奇跡として水をブドウ酒に変えたが聖書によれば、驚いた世話人たちは「花婿」に対して「あなたは良いブドウ酒を取って置かれました」
と言った。つまりイエスと花婿は同一人物としか受け取れないのですね。
またそもそもこの時代のユダヤ人男性は結婚が義務に近いようなもので
「ラビ」と呼ばれたところがありますがラビ(師)は結婚してる者であるという条件がついていたそうです。
有名になりましたがピリポ福音の弟子との会話ですが「どうして私より彼女を愛するのですか、」弟子がたずね、救い主は「どうして私はあなた方を彼女のように愛せないのだろうか」と言った、ここでマリアを表す、コイノーノスというギリシャ語ですが、伴侶という意味もあったのだそうです。
文脈を見れば明らかですね。
教義からすれば冒涜でしょうけれど、結婚していたから神の子でないとする事のほうが不自然ですね。

イエスが信じた神について
ヤハウェイは「私は妬む神である。私以外神はない」、、、一体だれに
たいして妬むといっているのでしょうか。
イスラエルの非寛容な民族信仰の神が裁きの神ヤハウェイであり、
日本でいえば須佐男命のような存在であったと思われます。
天照大御神や天御中主神に嫉妬したような感じでしょうか。
本来の神は至高神エロヒムであり、トウトの神です。エジプトではヘルメストリスメギストス神、と呼ばれていました。愛の神であり、イエスに愛を説かせ、許しを説かせ普遍的な世界宗教へと導いた神です。
辺境な民族信仰を(旧約はまさしくこれがあちこちに入れ混じっている)
生まれ変わらせたのです。イエス自身がこの区別がなかなか
つかなかったためにいまでもエロヒムとヤハウェイを一つの存在として認識しています。一神教のなかに実は多数の神が混在しているのです。
旧約のなかでも、神が「我は」というところと「我々は」といっている
記述がありますがまさしく天上界には複数の神が存在しているのです。
この二面性が、隣人愛を説き、許しを説きながら、異端や異教徒に対しては
凄惨な攻撃性を持つ理由なのです。ヘーゲルやユングもキリスト教の神の
矛盾する二面性を指摘しています。カトリックはさまざまな宗派を異端として迫害しましたが、この排他性は旧約の裁きの神、イスラエルの民族神が
大きく影響しているわけです。

復活について、は次回時間を見つけて書きます、長くなりそうですので。
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この回答へのお礼

hw4183 さん
どんどん過激というか、冒涜というか、すごくなるんですけど(^^;

>マグダラのマリアについてです。ヨハネ福音書の復活の場面で「私に触ってはいけない」と訳されてますが
>「すがりつくのをやめなさい」が正確な訳である、そうです。
・・・イエスとマリアの関係は親密なスキンシップが許される関係だった。

●ヨハネの福音書は、ギリシア対訳持ってないんですが、取り寄せてみようかな。非常に興味深いです。
人間的なイエスに親近感は持てるのですが、『ちゅー』でもコメントしたように、抱きつかれるイエスというのも想像できません。(^^;

>カナでの婚礼の場面でも誰のものとも一切書いておらず、イエス自身の
>婚礼ではないのかという説ですが、母マリアからブドウ酒を追加するよう
>言われているが、これは招待客ではなく祝宴を主催する側だったようです。・・・
>と言った。つまりイエスと花婿は同一人物としか受け取れないのですね。

●なるほど。
うーん、福音肯定派としては抵抗ありますね。
自分自身の結婚式で水をブドウ酒に変えるメシャというのは、クリスチャンでなくても抵抗があります。

>ヤハウェイは「私は妬む神である。私以外神はない」、、、一体だれに
たいして妬むといっているのでしょうか。
>イスラエルの非寛容な民族信仰の神が裁きの神ヤハウェイであり、
>日本でいえば須佐男命のような存在であったと思われます。
>天照大御神や天御中主神に嫉妬したような感じでしょうか。
以後省略スミマセン

●旧約の人格神ヤハウェイは、妬む神であり、それにより虐殺を行ったりしますよね。これを、神道のスサノオと重ね合わせるのは面白いですね。
確かに、神道の神は荒ぶる神であり、嫉妬する(祟る)神であり、祀れば民を守ってくれる神でありました。
●本来の神(エロヒム)を、イエスはヤハウェイと認識した。・・・これはこれでいいんじゃないでしょうか。
一神教が、その中に多神教の神々を内包し、普遍的には同じ神である。と私などは思います。現代以後は、アッラーをも内包して争いを避けたいところです。
●排他性について、イスラエルの民族神の影響が大きいというのは、完全に同意します。イエスによって新しく契約が結ばれても、キリスト教世界はお互いを迫害して現在に至ります。悲しい事ですね。

*今回は私も過激な事を書きました(^^;

お礼日時:2005/07/15 03:24

たびたび書かせて頂いています。


ここの回答は、とても面白く、質問者の『回答に対するお礼』も興味深く読んでいます。

聖書の読み方

『文字』を読むのではなく『精神』を読みましょう。

神を理解したければ、自分が神になったとして『考え』ながら読むと良いかも。
人間は生まれながらに『善』と『悪』を見分ける『知恵』を授かっています。そのフィルターを使って読みましょう。足りない所は『補って』不自然な所は『削除』しながらよみましょう。
自分の心に、『正直』に読みましょう。
聖書は人間が書いた書物ですから『完全』ではありません。鵜呑みは禁物。添削しながら読むと面白いかも。

『文字』を追うから、『知識』を増すから『不安』になるのです。
肝心な『核』さえつかめばオールOKでしょう。
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この回答へのお礼

noname#11691 さん、いつもありがとうございます。

さて
>ここの回答は、とても面白く、質問者の『回答に対するお礼』も興味深く読んでいます。

●もったいなく、ありがたいお言葉です。
正直、皆さまから教わる事ばかりですが、広く(でも浅い)雑学はありますので、せめてものお礼に換えさせていただいてます。


>『文字』を読むのではなく『精神』を読みましょう。
>神を理解したければ、自分が神になったとして『考え』ながら読むと良いかも。

●これまた、すごい発言ですね。
けれども、絶対なる神を理解するには、絶対なる認識証明が必要である。
キリスト教世界の神の証明に使われる『アンセルムスの三段論法』を思い出しました。
(1)絶対なるものは存在する。
(2)神は絶対である。
(3)ゆえに神は存在する。
と、まぁ、こんな考え方があるのですが、このロジックの最大の問題点は、神が絶対であると仮定するのは良いとして、人間ごときに「神が絶対であることを認識証明出来ない」という事だそうです。

>人間は生まれながらに『善』と『悪』を見分ける『知恵』を授かって
>います。そのフィルターを使って読みましょう。足りない所は『補って』
>不自然な所は『削除』しながらよみましょう。
>自分の心に、『正直』に読みましょう。
>聖書は人間が書いた書物ですから『完全』ではありません。鵜呑みは禁物。添削しながら読むと面白いかも。

●この意見も、面白いですねぇ。
創世記3章で、知恵の実を食べてしまった罪ゆえに、そのフィルターを得て、それによって聖書添削して読み解く訳ですね。
なるほど、真理探す道は皮肉な所にあるのかもしれませんね。

>『文字』を追うから、『知識』を増すから『不安』になるのです。
肝心な『核』さえつかめばオールOKでしょう。

●まさにその通りです。
私などは、『核』をつかむために模索をしておりますけど、それゆえの『知識』がオールOKにつながるようにささやかな努力をしたいと思います。
ってそれじゃだめなのか。精神で読まないとね(^^;

お礼日時:2005/07/15 02:53

なんかですね・・・


この回答をすべく調べていくうち、迷路に迷い込んだかも。
まず、イエスの復活のエピソードが、ギリシャの神話と酷似しているってわかったんですけど。。。

じゃあ、アダムとイヴのエピソードはどこから来たの?って調べたら、エジプトから北欧 ヒッタイトあたりに広く伝わる神話で、男が子どもを産むってもので、そこからアダムがイヴを産んだようなエピソードになっているらしい。
何故そんな話になったかというと、絶対的な父権制度が必要であったから。

とまあ思いもよらないことで、これら神話は、ある程度あの地域一体で共通だったストーリーが元になっていたってわかりました。
その根本のストーリーの源流は、、、、まだ誰も見つけられないみたいです。


あとアダムとイヴの間には69人の子どもがいたということも書いてありました。
69ってなんかえっちっぽいですが、象徴文字?で二つで 陰と陽を表しており、また合体することで子どもができるわけで。 ねぇ・・・
つまり聖書作家は作る際、現実的ではないが、陰陽かぁって考えられる数字にすることで神聖化しようとしたのかも。
実際に69人も産んだら体ボロボロになっちゃっうし、それほどを養う食料を調達できたのか?ってなります。


で、外典読むと、アダムとイヴ以外、エチオピア人もいたことが記されていました。
http://66.102.7.104/search?q=cache:ISe0AUHPW6QJ: …
このページで『アイティオピア人』で検索してみてください。

ノア。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%A2_ …
下の方に『ノアが肌が雪のように白く、バラより赤く髪は白羊毛より白く・・・天使の子に違いないと相談したとの記述がある。』とあります。
これはどこかで白人の血が混ざったからだと思います。
(黒人の家庭にまれに白人が生まれることがあります。)
やはり親族だけで交配を続けてきたわけじゃないようです。
未知の民族を天使とかだと思っており、同じ人間だと思わなかったのではないかとやはり思います。


>決定的に違うのは、浄土宗は性や愛欲をも肯定しているところでしょうか。

残念でした。外典を読むと、イエスはたびたびマグダラのマリアの口にちゅーしていたようです。
それに怒ってパウロはどうしてマリアばかり愛するのかとイエスを問いただし、逆にどうしてマリアと同じように貴方達を愛せないのだろうと返したようですよ。

この回答への補足

~お礼の前に~
答えるA.10ニーチェについて、私のお礼(ニーチェに対する感想)に事実に誤りがありました。
 彼の哲学については私自身勉強不足であり、普段出没するYH●●掲示板で聞いてみたところわかりやすく解説をして頂きました。
 この回答とお礼を読んでいただいている皆様の中には、ひょっとして私によって間違った認識をしてしまった方がいるかもしれません。

★A.10の補足にニーチェの哲学について書き込んでおきますので一見ください。
**このような事のないように以後、注意します。
みなさまも気付いた点があればどんどんご指摘ください。

補足日時:2005/07/15 01:51
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この回答へのお礼

★kigurumiさん、いつも“ちゅどーん”とありがとうございます。
最近は身構えてから読むようにしてるんですが、
やっぱりやられてしまいます。(^^

さてさて
>じゃあ、アダムとイヴのエピソードはどこから来たの?って調べたら、
>エジプトから北欧 ヒッタイトあたりに広く伝わる神話で、男が子どもを>産むってもので、そこからアダムがイヴを産んだようなエピソードになっているらしい。
>何故そんな話になったかというと、絶対的な父権制度が必要であったから。

●父権制度ですか。考えてみれば、現在の宗教において母性信仰・女神信仰が影をひそめているのは不自然な事のように思います。
父権制度が悪い・・・というわけではありませんが、無理矢理押さえ込んだ結果の代償を払っているような気もします。
 もちろんキリスト教世界においては(マリア信仰はありますが)大きな宗派において母性信仰の復権をのぞむのは難しいと思います。
根拠を現在の正典に求めるならなおさらです。

>外典を読むと、イエスはたびたびマグダラのマリアの口にちゅーしていたようです。
>それに怒ってパウロはどうしてマリアばかり愛するのかとイエスを問いただし、逆にどうしてマリアと同じように貴方達を愛せないのだろうと返したようですよ。

●このエピソード、有名なんですね。(私は知りませんでした。)
イエスの『ちゅー』は、ちょっと想像したくないですねぇ。
話がずれますが、『ロード・オブ・リング(ズ)』という映画がありました。私は原作のファンだったんですが、作者は熱心なカトリック信者で、この物語ではイエスも聖句も出てこないものの、研究者によればキリスト教世界の思想を強く反映していると評されています。さて、映画の終盤でこの世界を引き継いでゆく人間の王と、世界から去ってゆく種族との婚姻の映像化があるんですが、ここでの『ちゅー』も私には生々しく、ひいた思い出があります。
話が斜め横でした(--;

**このへんのテーマが一段落したら、『正典の中の問題』について対話してみたいと思うのですがいかがでしょうか。
具体的に言えば、旧約の神が戦争や虐殺を肯定する部分などです。
もちろん、新約から切り口を入れていただいても結構です。

お礼日時:2005/07/15 02:33

確かにミトコンドリア=イブの話もありますが、それを聖書の話と結びつけるのは少々乱暴だと思います。


もしそれが事実だとしても聖書とたまたま一致しただけの話です。
私は一応クリスチャンですが、聖書は一種の教訓的伝説を集めた教典だと思っています。
聖書に書いてあることが全て事実だとは思わないし、一字一句逐語的に信じるのも間違っていると思います。
聖書には前後の記述で矛盾する個所も幾つもあるし、字ずらをそのままなぞるだけではクリスチャンの信仰として求めるべき方向性を見誤ると思います。
一度カトリックが聖書からあまりにもかけ離れた方向に行ってしまったため、その反省に立ってキリスト教が大きく分裂し、その中からゆる「原理主義」的な勢力が生まれたのだと思いますが、聖書を一字一句逐語的に信じ込むのはあまりにも行過ぎていると思います。
聖書だって結局は人間が書き記したものだということを忘れるべきではありません。
結局は一人一人が自分自身の信仰/生き方のあるべき方向性を見定めていくしかないのだと思います。
人間は神にはなれません。
神が実体として存在するのかしないのかとか、土から作ったとかそうでないとか、処女とか処女ではないとか、そんなのは本来どうでも良い話なのです(カトリック信者としてはちょっと暴言か・・・^^;)。
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この回答へのお礼

bigskull さんへ

カトリック的に、なんだかとっても過激な発言をしておられますよ。(^^
とにかく、いわんとされることはよくわかります。
bigskull さんは過激なことはいってますけど、本質的には聖書や教義を肯定しつつ、上記の発言をなさっているのだと思います。
>★結局は一人一人が自分自身の信仰/生き方のあるべき方向性を見定めていくしかないのだと思います。
そうですね。これは、まさに本質であり、重要なところだと思います。
カトリックなのに過激って事で、宇宙体験をしたジーンサーナンの発言を思い出しました。ちょっと引用しますね。

●『(宇宙体験で変わったのは)・・・神の認識の存在だ。神の名は宗教によって違う。キリスト教・イスラム教・仏教・神道、みな違う名を神にあてている。しかし、その名前がどうあれ、それが指し示している、
「ある同一の至高の存在」がある。「それ」が存在するということだ。
宗教はすべて人間が作った。だから神に違う名がつけられた。名前は違うが、対象は同じなのだ。
 宇宙から地球を見るとき、そのあまりの美しさに・・・こんな美しいものが、偶然の産物として生まれる筈がない。
ある日ある時、偶然ぶつかった素粒子と素粒子が結合して、偶然こういうものができたなどということは、絶対に信じられない。・・・』
「宇宙からの帰還」(中公文庫)立花隆著PP265抜粋

★みなさんカトリックだといいつつ、過激な発言をして、なおかつカトリックでありつづけ、神を信じるという。
神父は頭が痛いでしょうね。まったく困ったもんです。(^^;

お礼日時:2005/07/08 23:25

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