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~聖書を読む方への質問です~
人間の子孫って、聖書ではアダムとイブですよね?二人だけですか?

もし、この二人だけなら、人類はどうやって増えていったのだと思われますか?

現実的に考えると、ちょっと・・・タブーの世界になるのかな・・と思ってしまいました。

こんな質問を受けました。
アダムとエバ(イブ)から考えても、あるいはノアから考えていただいてもかまいません。あるいは、当時ユダヤ人に救いを説いたイエス・キリストの教え(新約の部分)が、どうして他民族であるわれわれにとっても福音になるのか。という切り口でも良いかもしれません。

★イエス・キリストがあの時、あの場所で説いた教えについて、「現代において聖書を読み解き、福音を受けておられる皆さんはどのように自分の中で哲学的に解釈されているのか?」という事を知りたいのです。

●自分の見出した答えを聞きたいので、自説をどんどん語ってください(^^
●もちろん、科学的見地で進化論やミトコンドリア・イブ等を融合した解答でもかまいません。

●つたない言葉でもいいです。現代におけるあなたの模索を語ってください。

お願いします。

A 回答 (42件中31~40件)

聖書の新解釈のご紹介です。

旧約に関しては大切だと言われますが、歴史的に古いものが多く、神話の世界に入ってしまってますので割愛させていただくとして。

聖書のイエス以外ありえないとするキリスト教社会の解釈は明らかな
情報操作されてのうえでの見解である、と考えます。
30歳から3年間だけ、の記録でありそれ以外ほとんど無いという事は人為的に確実に削除されていた、という事でしょう。
その一、処女マリアから生まれた。これは信者は皆無理やり信じていますが、ユダヤ教エッセネ派の結婚制度は、仮の結婚式のあと、初めて性的関係が許され、妊娠3ヶ月になった時点で正式な結婚式を挙げる習慣だった
そうです。つまり花嫁は妊婦であるという事ですね。
さらに仮の結婚式の前に数年間の婚約期間が設けられており、
その間は性交渉は禁じられていたが、禁を破り妊娠に至るカップルもあり、このとき体面上、「処女が身ごもったという言い方をしたらしいです。
[死海文書により当時の生活ぶりがかなり明らかとなった]
やはり正常な夫婦の営みの結果、生まれたと考えるべきです。
処女から生まれる必要性はありません、と思います。
仏教はお釈迦様がマーヤー夫人の右脇から生まれて、何歩かあるいて、悟りの言葉を話した、と言う伝説を仏教徒が信じていなくても、お釈迦様の偉大さと、信仰は揺るがないように、無理やり信じなくてもイエスの偉大さも全く、変わらないはずです。
その2
青少年期の17年間は全くの空白ですがチベット僧院の古文書「イエッサ伝」
によると、14歳でインドに赴き、カピラバストで仏教を学び、ペルシャで
ゾロアスター教を学んだとされいる。
その後、ヒンドゥ教学者ヤ考古学者、文化人類学者らが、インド、チベットでさまざまなイエスを伝承した古文書が多数発見されています。
正しくはイエスは7歳にしてすでに天使がおり、霊言、霊視、霊聴、が出来るようになり、外見上は幼い子供であるのに旧約聖書の内容を滔々と述べた。そのため教会関係者は大変不思議がり、10歳の頃には神童だといううわさで持ちきりだった。エッセネ派の長老たちはこの子こそ、
旧約の予言されていたメシアに違いないと気づき他宗派の妨害からイエスを守り、慎重に教育する事に決めた。
16歳の時長老らと共に西インドに旅行、伝統的ヨーガの精神統一法、精神力による物理的奇跡の力、祈りの力の神秘力、マニトーラという師について物質化現象、空中からパンを出したり魚をだしたり。
仏典などは愛他行、布施の精神に魅了された。更に21歳ごろペルシャでゾロアスター教の善悪二元論、22歳の頃エジプトで2~3年、ヘルメス思想、25歳から主に旧約の研究、27歳から、3年間死海のほとりのクムランの洞窟で禁欲的瞑想修行に入る、ここで将来説くべく教えの骨格を練った [仏教からはカルマの教え、エジプトで神秘思想、行者の霊力、ゾロアスター教の悪を駆逐する、などなど]
インドやエジプトなど、当時の宗教先進国に行き各宗教のエッセンスを吸収しながら、独自の思想を結晶させていったのだ。という事です。
つまり、他の教祖と同じく修行していた、という事です。
長いのでまた次回お願いします。

この回答への補足

興味深く、面白すぎです。レスは、時間を下さい。(^^

補足日時:2005/07/08 23:12
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この回答へのお礼

お時間を頂きました。
さて
>30歳から3年間だけ、の記録でありそれ以外ほとんど無いという事は人為的>に確実に削除されていた、という事でしょう。

●確かに、そういう主張が出てくるのはもっともな事です。
*この辺については、私は現在勉強中ですが、興味深いです。

>その一、処女マリアから生まれた。これは信者は皆無理やり信じています>が、ユダヤ教エッセネ派の結婚制度は、仮の結婚式のあと、初めて性的関>係が許され、妊娠3ヶ月になった時点で正式な結婚式を挙げる習慣だった
>そうです。つまり花嫁は妊婦であるという事ですね。
中略スミマセン
>やはり正常な夫婦の営みの結果、生まれたと考えるべきです。
>処女から生まれる必要性はありません、と思います。

●正直言って、クリスチャンでない私にとっては、マリアの処女性にこだわる意味がさっぱりわかりません。まさにhw4183さんの言う、処女懐妊でなくても『イエスとイエスの説いた教えの偉大さ』は変わらないし、重要な事でもないと思います。
 そして、日本においても神や、鬼によって身ごもった女性の伝承が珍しくないように、聖書主義者達がこだわるこの点こそ、聖書が様々な伝承の影響を受けている可能性を表すように思います。

>その後、ヒンドゥ教学者ヤ考古学者、文化人類学者らが、インド、チベッ>トでさまざまなイエスを伝承した古文書が多数発見されています。
>正しくはイエスは7歳にしてすでに天使がおり、霊言、霊視、霊聴、が出来>るようになり、外見上は幼い子供であるのに旧約聖書の内容を滔々と述べ>た。そのため教会関係者は大変不思議がり、10歳の頃には神童だというう>わさで持ちきりだった。エッセネ派の長老たちはこの子こそ、
>旧約の予言されていたメシアに違いないと気づき他宗派の妨害からイエス>を守り、慎重に教育する事に決めた。

これも、過激ですねぇ。
このような古文書に対して、聖書主義者達は眉をひそめるのでしょうが、
私などには、かえって聖書の福音が増すような気もします。
どうせ一神教であるなら、狭量な主よりは、普遍的な主を信仰したいと考えますし、結果としてイエスはあのような教えをといたのですから、イエスの修行に感謝しつつ聖書を読み解きたいと、私は考えます。

お礼日時:2005/07/13 23:05

紀元4世紀ごろ新約聖書が編纂された際、四人の福音書だけを採用し、それ以外異端として、禁書となりました。

他の宗教との差別化として、人間ジーザスを極力排除したものと思われます。霊的側面もかなり削られたようです。最近、ナグハマデイ文書ガ発見されて、(トマス福音書など多数)聖書にないイエスが明るみにでてきましたね。
聖書に採用されなかった聖書の内容はかなり面白いものがありますので
次回ご紹介致します。

この回答への補足

非常に興味深いのですが、一方で私は外典に対しては論ずるほどの知識を持っていません。
 是非、紹介していただけると嬉しいです。

補足日時:2005/07/07 13:04
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この回答へのお礼

外典【ニコデモ福音書(ピラト行伝)について】

最近、ニコデモ福音書を読みました。【HNニコデモですので(^^;】
これは、外典には違いないのでしょうが、近年発見されたものでもなく、大衆に愛されてきた滑稽な物語のようです。(私も読んでそう思いました。)

非常に、都合よく人物が登場して聖句を語ったり、有名人が証言(盲目を直してもらった病人とか)したりと、外典を読んでいるというよりは外典を元にした脚本や戯曲を読んでいるような印象を受けました。楽しい物語でした。

お礼日時:2005/07/08 23:09

ニーチェそのままで。


悪しきルールブック。
人を家畜にする道具。

この回答への補足

某掲示板において解説して頂きました。
(規約により貼り付けNGみたいです。普段エホバトピにお世話になってます。)

(1)ニーチェが44才で精神錯乱に陥ったという事実に対して
>ニーチェが発狂(精神錯乱)になったのは、脳梅毒という、病に罹患したからです。

★なるほどー、少ない資料を元に考察してみたんですが、そういう事でしたか。
某サイトでは再反論がなかったので、
『あれで良かったの??』といった感じでこちらが消化不良になりました。
宗教について対話するには客観的に物事を見ることが大切ですが、
風呂敷を広げるとこちらの知識も乏しくなりムヅカシクなります。 
本当にありがとうございます。

(2)ニーチェの哲学に対して

>ニーチェ哲学がニヒリズムということではなく、ニーチェ哲学は「神の死」宣言から訪れるニヒリズムを起点として思考発展しているってことだと思います。
>また皮肉なことにニーチェ哲学は、ニーチェの誤解から「受動的ニヒリズム」とか「弱さの徴候」とラベリングしている仏教(特定教義)とあまりにも類似点が多いのです。
>そのせいかキリスト教よりも仏教に親近感をもっているかのようなアフォリズムも結構あります。

●これまたなるほどー、ニヒリズムは起点に過ぎないのですね(^^;
確かに、誤解していた様です。

>またニーチェは最高にして唯一無二であるところの絶対的真理の探究者などではなく、
>相対的真理(真理は多様にして複数であるという意)の創造者(創出者)だと思います。

●これは私には新鮮でとても勉強になります。相対的真理は、現代の宗教に課せられた普遍的なテーマだと私は考えています。(私見です。)
 ニーチェの主張がこのようなものであったとは驚きです。少し、勉強しますね。

提示していただいた過去ログにも、これから目を通してみますね。
本当にありがとうございます。


●ニーチェを取り巻いた当時の身辺について

>ニーチェはほとんど、世間ずれしなかったのでしょうか?
>ザロメとの破局的な失恋により、そののち、狂気の道へと邁進した彼ですが、
>結局、彼の著書が、ナチ利用されたというのも、有名な話ですし、ハイデガーの著書もそうですね。

>ハイデガーの場合、息子のイエールに洗礼を施さず、彼は、キリスト教に対して、最終的には、排他的な思想に陥ったのでしょうか?
>彼が、晩年、ギリシャに渡り、ギリシャ神話に強い関心を示したのは有名な話だと記憶しておりますが。

★いまさら、私の意見のように述べるのもなんなので、やりとりごと記しておきます。 では、さらなる対話を楽しみましょう。♪

補足日時:2005/07/15 02:03
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この回答へのお礼

ニーチェに関しても、私は勉強不足ですので反論も共感も難しいですが・・・。

プロテスタントの牧師を父に持っていたニーチェが、やがてキリスト教世界に対して『すべての神は死んだ。いまやわれわれは超人が栄えんとする事を欲する。』(ツァラトゥストラはかく語りき)と語ったのは非常に興味をそそります。

そして、彼の哲学が基本的に宗教や真理を否定する「ニヒリズム」であることは承知していますが、彼もまた44歳という若さで精神錯乱になったという事実は、彼も彼の哲学に真理を見出していなかったのではないか。などとも思います。

書き込み、ありがとうございました。

お礼日時:2005/07/07 13:19

No.1です。


聖書の弊害ですかね?
他の人の意見とは画して、No.1の続編と言う事で了承を。
他人を助けるのは、神様の為ではなく、神様の代わりに他人を助けるのです。その時、神の使い『天使』に成っているんです。羽根の生えたキューピーさんだけが『天使』ではないんですね。みんなが『天使』に成れるんです。これは福音(良い知らせ)でしょう。
聖書は神様の戒めが強調され過ぎです。安息日でさえ『戒め』化してます。ずっと働いたら疲れるだろうから、休みも必要でっせって『安息』出来る日をくれたんでしょうが、『働いたら罪』となってしまいました。『目には目を』も勘違いの産物ですよね。
つまり、神様の言葉を文字にして残すと、曲解して正反対の結果に生ってしまうんです。神様も『残念!』と思っていますよ。
それと、神様の言葉を預かる『預言者』(予言者とは異なる)によって、神様の人格(神格)も変わります。これは、『預言者』の能力差ですね。
神様は永遠に良き言葉を発しているんですが、受け取り側が変えて訳してしまうのです。
さらに、曲解して、選って、集めたのが今の聖書です。
それを、『金科玉条』の如く、まるで『水戸黄門の印籠』のような使い方をしています。
サタンにとって非常に便利な『アイテム』でしょう。

この回答への補足

非常に参考になります。 もうしばらく返信の時間を下さい。

補足日時:2005/07/07 13:21
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この回答へのお礼

お時間を頂きました。
さて
>その時、神の使い『天使』に成っているんです。羽根の生えたキューピー>さんだけが『天使』ではないんですね。みんなが『天使』に成れるんです
>これは福音(良い知らせ)でしょう。
中略します。(スミマセン)
>…曲解して、選って、集めたのが今の聖書です。
>それを、『金科玉条』の如く、まるで『水戸黄門の印籠』のような使い方をしています。
>サタンにとって非常に便利な『アイテム』でしょう。

誰でも天使になれる。そうですね。これは福音ですね。
しかしながら、聖書を熱心に読み説き、おきてを忠実に守ろうとするとき、かえって真理から遠ざかる。・・・仰るとおりだと思います。
私は、『エホバの証人』と対話しています。彼らは、本当に熱心に聖書を読み解いていますよ。畏敬の念を感じることもしばしばです。
 でも、肝心なところで、とんでもない教えを信じてしまう。
サタンにとって非常に便利なアイテムというのも、おもわず頷いてしまいます。
 文字に残すのも難しいことですが、それを実行しようとするとさらに難しいのですね。

終末思想というものがありますが、過激な宗派(キリスト教・仏教共に)は現在を世紀末と解釈して極端な教義【狭義(^^;】を押し付けます。
そして、そこには本来の福音は感じられないのです。

とりとめのない事を書きましたが、お礼に代えさせていただきます。
書き込み、ありがとうございました。

お礼日時:2005/07/08 22:59

No.2です。



>あいかわらず過激ですねぇ

えへ! マンネリ化した状態ってともすれば、だるぅぅ~ってなるじゃないですか。
そのけだるい状態に、チュどーんって異質な思考が投下されると、けだるかった世界が活性化するというか なんというか。
今回、私の論を覆そうと調べたり思考したりしたでしょ? 笑

このwebサイトは質問者 VS 回答者でしか問答はできないので、ここのスレッドは、質問を投げかけたあなたが頑張るしかない。
頑張ってください。 ><;
他の人との問答で、画期的な意見が出たら、わたしかっぱらって自分の思考の中に組み込ませてもらうので 笑。

>ユダヤ教成立までの原始宗教の骨格としてエジプトの影響を受けていることは十分に考えられますね。

はい。 何人かの聖書研究家は、旧約の中にエジプトの宗教や他の異教の宗教が取り込まれていると認めていますね。
さらにイエスの思想には仏教の思想が入っている。  これも認識されています。
9歳頃から突如消え、30代になって突如現れたわけですが、その空白の時間はどこにいたのかってなって、仏教の思想が入っていることから、そっち方面に行って修行したのではないか とも言われています。
長男のイエスが家族から離れられるのか。 そんなことがあの時代許されるのか。
逆にいうと離れるしかなくて離れて、その結果 彼は普通の生き方をしたら到底得られなかった思考を得るに至る経験を積むことができたんじゃないか、、、とか思ったりします。


>新約によって、私なども福音を感じることが出来るのでイエス・キリストによる
>新しい契約の成就(更新)というのが、キリスト教世界の契約の恩寵のひとつではないか。などと感じます。

福音とはgood news(良い知らせ)のことですよね。
つまりイエスが人類の身代わりになって原罪を消した ってことを全世界に知らせることですよね。
従ってそれ以降生まれた人間には原罪は無い。 ってことでいいのかしら?

こう考えると、新しい契約を神と交わしたとすれば、今日生まれた子どもには罪は無いことになります。
で、罪とはなんだ?です。
盗みをすることが罪? 人を殺すことが罪?
確かキリスト教では、第一に神の事を思うことがよいことで、人間 例えば家族のことを優先させ、その後神の事を思うことは罪である となるんだったと私は解釈しました。
赤の他人を助けるのは、その人がかわいそうで見ていられないという気持ちからではなく、神のためにその人を助けるんですよね。
その人自身のためじゃなくて 神のため。
マザー テレサは神のためじゃなく、見ていられないから他人を助けたのではないでしょうか。
神がどうのこうのではなく、 テレサ自身が辛いから他人を助けた。
そうじゃないでしょうか。
そうだとすれば、彼女は罪を犯し続けたことになりますよね。 この派閥の価値観でいけば。
しかし、神の慈悲の心が彼女の魂をゆさぶったから とすれば、神の意志が彼女を動かしたことになり、彼女は罪を犯していないことになる。

教会は彼女が教会を出て貧しい人を救うと言ったとき、一切彼女に手を貸さない と言い切ったそうです。
それでもいいのなら出て行け って言ったそうです。
彼女は教会から出ていきました。
天国から出ていきました。
天国だと思ったところは天国じゃあなかった。

さて、今の正典ができたいきさつはどうだと認識していますか?
どういう歴史の結果 こうなったと認識していますか?
それは神ですか 人間ですか。

それを考えていくと、アダムとイヴのわかりにくかった内容がスルスルスルーと理解できるのではないかと思うのです。
近親相姦とかそういう次元ではない ってわかると思うのです。

この回答への補足

お礼は、もう少し時間を下さいね。

補足日時:2005/07/07 13:23
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この回答へのお礼

お時間を頂きました。対話しましょう(^^

>何人かの聖書研究家は、旧約の中にエジプトの宗教や他の異教の宗教が取り込まれていると認めていますね。
>さらにイエスの思想には仏教の思想が入っている。

『イエスの説いた教えには仏教思想が入っている』というのは、非常に興味深いですね。ただ、仏典は沢山ありますし、影響を受けたのはどのような仏教思想だったのでしょうね。
私は、日本における親鸞の教えがキリストの説いた教えにもっとも近い仏教だと考えています。(私見です。)
身分を超え、職業を超え、罪びとであっても、あるいは仏典を読めない文盲の農民でも『南無阿弥陀佛』と唱えることによって普遍的な救いがあると説いた教えは、イエスの説いた教えと重なるところが多いと考えます。
決定的に違うのは、浄土宗は性や愛欲をも肯定しているところでしょうか。

今回はこれくらいにしておきます。
次回は、マザーテレサのお話でもしましょうね。
↑過激にできないでしょ(^^

お礼日時:2005/07/08 22:30

聖書には頭で理解できないことがいくつもでてきます。


だからと言って間違いと断定するのはどうかと思います。
時代の進歩によって、様々な現象が究明されたり、発見があります。
聖書は盲信的であってはいけませんが、あるところは分からないから、受け入れないのでなく、聖書はこういっているのかと思って読んでみてください。
アダムとエバの子孫ですが、2人からすべての人類が増えた以外の記事が見当たりませんし、矛盾してしまうと思います。ある数学者はノアの洪水のとき8人になりましたが、現在の人口はふさわしい数字だと聞いた事があります。

今だったら、最初の子孫は近親相姦とかになるのですが神はそれをその時代ゆるされたのです。
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この回答へのお礼

お礼が遅れました。ごめんなさい。

>聖書には頭で理解できないことがいくつもでてきます。
>聖書は盲信的であってはいけませんが、あるところは分からないから、受け入れないのでなく、聖書はこういっているのかと思って読んでみてください。

mcckuroさんの上記のコメントに、思わず頷いてしまいました。
まさに、その通りですね。
私もそう思います。
頭で考えていたのでは、哲学に躓いて真理から遠ざかるだけなのかもしれません。しかしながら、多宗派・他宗教が混在する現在では、対立し合うだけでなく、相手を尊重し(隣人と認める)、模索してゆくことが新しき律法に沿っているようにも思えるのです。そのような意味で、みなさまはどのように解釈されているのかと考えたわけです。

書き込み、ありがとうございました。
また教えて下さい。

お礼日時:2005/07/04 02:41

No.2です。



あら? 過激でした?
私が興味を持つものは、過激な「ええええ!」って書物なのでそうなっちゃうのかも。
人間って耐性ができてくると、脳に刺激が無くなり、思考が発達しないと思う。
考えなることができなくなるって、私にとって怖いことなので、今のうちバシバシ脳を鍛えて脳を活性化しておかなければ。 


>知恵の実のりんごが、原罪が・・・何を意味するのか。

人間は因果律を考えてしまう。 これは本来そういう動物なので仕方ないと思う。
それで昔の人も不幸があると、その発生の因果を考えたのだと思います。
幸せな人は因果律など考えないで 平和ボケしていられるってことかしら。

知恵の実のりんごは知恵の実のリンゴ 人間の智だとずっと思ってきました。
血でもレースでもなく 智だと思ってきました。
りんごの木 以外に生命の木がエデンにはあったと古代の人は想像し、、知恵の木食べて人間に知恵がついたので、今度は人間は永遠の命を得るため 永遠の命の木まで手をつけるかもしれない。 人間がそれを得てしまうと神にとって非常に恐怖の存在となると考え、エデンから追放して 命の木から人間を遠ざけた。
これが聖書の中に書かれているんですよね。
ふーーん  そもそも人間は有限だったので、アダムが1000年近く生きたとしても、有限であったことに変わりはないわけで。
アダムとイヴが最初から 永遠の命の木からりんごを食べていれば、神にとって怖い存在になっていたでしょうね。
よかった 知恵の木から手をつけてくれて って感じでしょうか。

そんなところに 「いや あの木は知恵の木じゃなくて 男女のセックスを表している 知らなかったの?」って言われて脳天直撃でした。


>キリストを受け入れるその人自身に何を意味するのか。

満足な一生だったって事を得られるってことじゃないかと。
ただ イエスは自分を受け入れろって言ってなどいないようです。
後の人たちがそういったってことにしちゃたみたい。



>というのはキリストの救いが語られるかぎり、尽きることのないテーマでしょう。

今の聖書はイエスの言葉 ほんのちょっとしか書いてないですよね。
ほとんどはイエスが磔刑にあった100年後くらいに書かれだしたもの。
筆者が不明。
そのあといろいろあーでもない こーでもないって 口伝えに伝承されたもの(の中には他の民族の宗教観も入っている)を、ギリシャ語になおして、さらに いろいろやって、バラバラだった イエスの解釈をキリスト教統一思想に無理やりしちゃった。
その結果が今なお ちょっとづつ改変されている聖書 ですよね。
まあ 知恵のリレーみたいなものかな~って思います。
だから イエスの思想じゃないって思うのです。
(さらに過激な発言 ^o^;)


>りんごが、スラングで女性の陰部を指すというのも、宗教的な影響があるのでしょうか。

いや イチジクとか百合の花らしいです。(リリスってそこからきているらしい どすけべですよね~ 笑)


>聖書の中で女性はいつでも一歩引いており、聖書主義色の強い宗派では
>女性が前に出ないように強い配慮があるのも事実です。

聖書に登場する女性はほんのわずかで、エステル以外悪女として登場しますよね。
聖書主義は禁欲主義ですよね。
性欲を抑えるために教義だと思えます。
男性だけ集団で集まって性欲をかきたてる女性から逃げまどった。
結果 男色 レイプ 売春 殺人 が大量発生しちゃった。
昔は船に女性を乗せなかったそうです。
50人の男の中に女性を乗せちゃうと 今まで仲良かった男動詞が、キバを向き、女性ゲット合戦を開始して、殺しあっちゃうようになるからじゃないかと。
きわめつけは魔女狩り。。。。。
ここまでくると 禁欲のしすぎで頭おかしくなっちゃったと思えます。

キリスト教はユダヤ教が母体ですよね。
ユダヤ教の考えでは、人間は男のみで、自分の子孫を増やすには、女に自分の種を植え付け はらませ 出産させるって思っていたみたいです。
だから生まれてくる子どもは男のコピーだと思っていた。
ところが哲学者は???ってなった。
だって 男100%のコピーなのにどうして女の子が生まれてくるのだ! 
かなり悩んだらしいです。 
今ではその考えは誤りであるとわかりますが。
科学を持ってこられると、宗教はたちまち間違いであるとなってしまう。
それで科学を一切禁止したって経緯があるらしいです。
ところがダビンチなど科学にも才があったので、あれ? あれれれ? ってなっていたとか。
昔 地球は丸いって言った人、 キリスト教によって裁判にかけられたか殺されたかしましたよね。
神を冒涜する過激で危険な人ってラベル貼って。

私が不可思議に思うのは、キリスト教は愛の宗教だって思っていたのです。
ところが、これほどまで女性蔑視の思想を絶えず持ち続けていたってのが不思議なのです。
そりゃあ ユダヤ教が母体ですから、女性は人間じゃなく家畜だって思想を受け継いでいるのかもしれない。
新約聖書にすら、女性は数のうちに入れていなかった。
憐れな家畜のメス扱いです。
そんなことは知らない女性がキリスト教は愛の宗教だからおしゃれって入っていく。。。(ああ、さらに過激発言 笑)

オウム真理教も女性信者獲得作戦を展開しました。
どうしてあれほど女性信者を欲しがったのか。
脱走した女性信者の証言では、男の慰み者とされていたそうです。。。。。
つまり、セックスの相手をさせられていたそうです。
選ぶ権利などなかったそうです。
男性信者の性の部分を満足させる道具として女性信者は利用されていたってことですよね。
ああ、愛の宗教。 

バチカンでは新しい法王に対し、この女性蔑視の長い歴史をどうするのかって問題がつきつけられているそうです。
さあ さあ さあ 女は人間ではなく 男のなぐさみものでありつづける方針をこのまま貫くのか。 それとも宗教改革をするのか。
さあさあさあ。
遠い異国を東洋から眺めていると、観測者としておもしろいって思います。

宗教も一種の哲学で、人間の叡智の結晶だと思います。
ただ、偏った世界で本当に真理が得られるのか って疑問が沸いちゃうのです。

宗教によっては女神を信仰しているところありますよね。
プロテスタントの国アメリカはイラクに戦争をしかけた。
マリア信仰のフランスは「それは駄目です」って反対した。
Y染色体のアメリカ、ミトコンドリアイヴのフランス。
こんな風に観察すると 面白いっておもいますし、日本も昔卑弥呼っていましたよね。
女が上にたつと争いが収まる。
男が上にたつと侵略が起こる。
ふむふむ。
イギリスって女性が王になった時代は結構 均衡が保たれているみたい。
ふむふむ。

イエスはエジプトのイシス宗の影響を受けたので、愛を説いたんだとも思います。
女神信仰。
(ちなみにマリアはエジプト人だったんじゃないかっていう説もあります。だからイシス宗の影響を受けたんじゃないかって)

だけど、その後が駄目・・・・。
マグダラのマリアを売春婦として聖書に登場させちゃった。
違うんじゃない 高貴な生まれでお金持ちで知恵のある女性だったってのが真実なんじゃない。 異教徒だけど。

ペテロだったっけ? 彼がマリアを憎みマリアを売春婦と嘘を事実としてしまった?
Y染色体がミトコンドリアイヴに攻撃をしかけて、殺そうとした?
駄目駄目 二つが無いと人間になれないんだから。
マリアはフランスに逃れ、そこでマリア信仰が広まった。
だからフランスはアメリカの殺戮に「ノー」と言ったんじゃないかと。

こういう風に考えると、結構世の中の どうして?ってのには理由があるって思えるのです。
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この回答へのお礼

kigurumi さんはあいかわらず過激ですねぇ(--;

 私は福音肯定派ですので、認められない所もありますが、こういう切り口は嫌いではありません。タブーに思われ、躊躇してしまう切り口も発表できる時代ですから、誰かがすることはとても助かります。

マリアがエジプト人だったかどうかはさておき、
アフリカ大陸からの人類の拡散を留意するとき、ユダヤ教成立までの原始宗教の骨格としてエジプトの影響を受けていることは十分に考えられますね。
母性信仰(女神信仰)が、どのように変化を遂げて、ユダヤ教になったのか?など、考古学者の宿題はまだまだ多いのですね。

ともあれ、新約によって、私なども福音を感じることが出来るのでイエス・キリストによる新しい契約の成就(更新)というのが、キリスト教世界の契約の恩寵のひとつではないか。などと感じます。

お礼日時:2005/07/04 02:32

>もし、この二人だけなら、人類はどうやって増えていったのだと思われますか?




 聖書は複数の人が勝手に考えたサイドストーリーの
ツギハギだと言われています。ですから話に一貫性も
なくはっきり盗作と分かる部分もかなりあります。

 アダムとエヴァの子供カインはアベルを殺して
逃げてしまい、後から授かった子供一人の
子孫がノアですが、ノアの箱舟作りを
笑う人たちが沢山いたことになっています。
その人たちどこから来たの?

 ノアの大洪水で悪い人間は絶滅したはず
でしたが、その後も悪い人間の住むソドムと
ゴムラという街が栄えているという事で
神様が地上にやってきてしまったり
するわけです。

 もはや支離滅裂です。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました(--;

聖書の旧約部分が支離滅裂というのは、おっしゃる通りです。
(つじつまが合わない箇所がある)という事で。

apple-man さんは、結論として福音を感じないという事でよろしいでしょうか。

それも、ひとつの回答であると思います。

私は、旧約も、新約も、外典も、そして別の発展(日本に来た景教とか)
すべて、実際に手に入れて読める。
そんな時代に生まれたことに感謝するとともに、福音を感じることも
あるので、みなさんはどのようにそれを受け入れているのか思ったのです。

ともあれ、apple-manさんの解答はあなたの真理であると思います。

お礼日時:2005/07/04 02:21

アダムから もしくはアブラハムからキリスト・イエスまでの歴史が どうして地球上のすべての人びとに関係するのかという切り口で つぎのように捉えています。



それは《エレミヤ書》の次の箇所が端的に表わしていると思います。

《しかし 来たるべき日に わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである と主は言われる。
すなわち わたしの律法をかれらの胸の中に授け かれらの心にそれを記す。わたしはかれらの神となり かれらはわたしの民となる。そのとき 人々は隣人どうし 兄弟どうし 《主を知れ》と言って教えることはない。かれらはすべて 小さい者も大きい者もわたしを知るからである と主は言われる。わたしはかれらの悪を赦し再びかれらの罪に心を留めることはない。》(Jeremiah 31:31-34)

《来たるべき日》が イエスの出現を表わし キリストは《あなたがたは行って すべての民をわたしの弟子にしなさい》(Matth.28:19)と言うのですから エレミヤの《イスラエルの家》も全世界に広がったものと思われます。

面白いところは キリスト・イエスが《弟子にしなさい》と言うその反面で このキリストの後では もう《〈主を知れ〉と教えることはない》ようになっているということです。

やや論理に過ぎて 詭弁のように感じられるかと危惧しますが 骨組みは以上のようだと思います。

参考URL:http://ebible.echurch-jp.com/
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この回答へのお礼

エレミア 31:31-34)は、素敵な聖句ですね。
マタイの聖句(28-19)も同様です。

>やや論理に過ぎて詭弁のように感じられるかと危惧しますが・・・

●大丈夫ですよ。
私はよく、聖書主義者の方とも対話します。
明快で小気味良いですね。

すべてに論理や骨子が必要なわけではありませんが、
それにより福音を感じることが出来るのならば幸いですね。

お礼日時:2005/07/01 01:07

日本には八百万(やおよろず)の神といってたくさんの神々があるといわれていますが、日本人が神ということばを使ったときには、あまりにも神という概念がばらばらです。



もし、神が本当に存在するならそれは人間が造った神ではなく、もともと存在し(だれかが造ったものならそれは神ではありません。)天地万物を創造し、無から有を作り出せるからこそ神なのです。神は唯一(ただひとり)であり何でも出来る方ですからたくさん存在する必要はなく、すべてのことを知っておられ、どこにでも存在され、正しいお方で、完全な聖さをもっておられ、義なるお方で永遠から永遠に存在される愛なるお方です。

このことをまず知っておいてください。

神様は最初にアダムという男性を創造し、次にエバという女性を造りました。その時は人間に罪は全くありませんでした。

神様は、最初アダムとエバをエデンの園という庭に住まわせていました。どんなことをしてもよかったのですが、たった一つだけ「この園の中央にある善悪を知る木の実だけは食べてはならない」という命令をだしました。それは、人間をロボットに造らなかったという証拠でもありました。つまり、人間に自由意志を与え、人間との間に愛を存在させたかったのです。

しかし、悪魔に化けたへびに誘惑されたアダムとエバはその命令を破り、その木の実を取って食べてしまいました。そのために人間は罪人となりエデンの園を追放され、人間は必ず死ななければならなくなってしまいました。

これがキリスト教でいう人間が原罪をもって生まれてくる理由です。

人類はアダムとエバからはじまったのです。

この原罪というのは、人を殺すとかお金を盗むなどの警察に捕まってしまうような罪だけをいうのではなく、心の中で「あいつなんていなければいい」とか、「あいつなんて死んでしまえばいい」などど思うこともその罪に含まれます。うそをつくことも罪です。つまり、人間として生まれたならばすべての人間が罪人であると宣告されているのです。

しかし神様は、きよい正しいお方であり義なるお方ですから、その人間の罪を罪として罰しなければならないのです。

その結果、すべての人間は地獄に投げ入れられてしまうはずでした。

しかし、人間を愛している神はその地獄に投げ入れてしまう人間を救う道を開いたのです。

その方法は人間に「いい人間になりなさい」「修行をして罪のない人間になりなさい」
「いいことをたくさんしなさい」という命令を出すことではありませんでした。そんな命令を出したところで人間は修行やいい行いをたくさんすることによっては罪のない人間になることは不可能だということを知っていたからです。

そこで、神は自分のひとり子であるイエスキリストをこの地上に誕生させ、全人類のすべての人間の罪の刑罰を負わせて十字架にかけて死なせ3日後に復活させることにより人間のすべての罪を完全に赦し天国へ連れて行く道を開いたのです。

イエスキリストは何の罪も犯さず一回もウソを言ったこともありませんでした。

十字架にかかって殺されようとしたときにイエスキリストは自分が無実であることを叫びませんでした。

ほふり場に引かれていく子羊のように何も言わず、自分がかかる十字架をかついで処刑されるべき場所へと歩いていき、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」と祈りました。

私たち人間は無実で十字架にかけられているときに、自分を殺そうとしている人に対してこのように言うことはできません。

しかしイエスキリストはそのように言って十字架の上で息を引き取りました。しかし3日目に復活しました。

それは、イエスキリストが神のひとり子であったという証拠です。3日後に復活したのも彼が神のひとり子であったからできたことなのです。

イエスキリストは私たちを命をかけて愛し私たち人間の罪の刑罰を身に受けて十字架にかかって死に天国への道を開いてくださったのです。

そのことを自分のこととして信じる者はすべての罪を赦され天国へ行けます。しかし信じないものはその罪が裁かれ地獄へ行かなければなりません。クリスチャンはイエスキリストの道徳的な教えを信じているのではなく、十字架と復活を信じているのです。

イエスキリストの十字架と復活がなければキリスト教は存在しませんでした。

このことはすべて聖書に書かれています。

聖書は毎年毎年世界中の多くの国の人々に読まれ何年たっても世界のベストセラーです。しかしクリスチャンと同様、聖書ほど迫害を受けてきた書物はありません。ローマ時代の初期には王がクリスチャンを迫害して殺してしまうと同時に聖書も全部焼き払えという命令が出され聖書は全部焼かれてしまいました。

しかしどんなに人間がクリスチャンを迫害し殺しても聖書を焼き払ってもクリスチャンはこの世界からいなくなることはなかったし、聖書もこの世界からなくなることは決してなかったどころか世界中のほとんどの言語に翻訳され読まれ本当の救いと喜びと希望を与え続けているのです。

参考URL:http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8610/
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この回答へのお礼

はじめて、正統派クリスチャンの模範解答をいただきました。
参考URLも拝見しました。 ありがとうございます。(^^

まず、日本人の神の認識について
●八百万の神々の存在は、私は肯定したいと思っていました。しかしながら、古い文献である古事記や日本書記は当時の権力者であった藤原氏の阿呆(失礼)が都合の良いように改竄・編集してくれたおかげで、神道は神を失ってしまいました。しかしながらこの歴史的事実は、日本人がもともと神に執着していなかった事を示しているのかもしれません。
●絶対なる主に関してはオーケーです。
(私も聖書を中心に読んでいます。)
●イエスキリストに関してもオーケーです。
イエス・キリストを神のひとり子として受け入れ、罪について、赦しについて、救いについても受け入れるとき、ややこしい哲学は必要ないのかもしれませんね。
●聖書とクリスチャンに関して
聖書は、全体的に補完しあっているというか、調和が取れていると良く言われますが、私もそう思います。
 一方で、現在外典を読みはじめましたので新しい発見があればと思います。
*クリスチャンの歴史は迫害との戦いの歴史ですね。
しかしながらそれは、キリスト教世界が強い排他性を持っている事に由来する事も少なくありません。
~隣人とは誰の事か~これは、すべてのクリスチャンの永遠のテーマなのでしょう。

お礼日時:2005/07/01 00:57

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