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コトバ記号を使ってコミュニケーションが取り交わされていることは理屈の上では次のようなエラーが生じてしまう危険性を避けられないということでもあります。
(1)伝えての意図がその場の状況に応じた適切なコトバ記号に変換されていない可能性

(2)提示されたコトバ記号を受け手が聞き、読み、感じ取る際にエラーが生じてしまう危険性。

(3)受けての解釈した意味が伝えての意図していた意味からはずれたものになってしまっている危険性

というように、伝えての意図が必ずしも常に受けての解釈した意味と一致するとは限らないのがコミュニケーションであるが、これらは場合によっては大きく異なったものになってしまうことすらあります。そのような、大なり小なりのズレが生じているはずなのに、なぜ私たちのコミュニケーションは一見するとうまくいっているように見えるのでしょうか。

A 回答 (4件)

コミュニケーションには、「言葉」のほかに「共通理解」や「非言語的要素」が関わっています。

語調や表情、行動、場面、間柄、行間理解、文化的背景、話題の固有性、ただ列記するだけでも様々なものが関わってきますから、それらがコミュニケーション上で生じる曲解を是正し補填する機能をしていると考えられます。ですから、我々は相手の意図したこととかけ離れた理解をしなくて済むわけですし、一見しただけではうまくいっているように見えるのです。

それよりも、私の中でのもっとも有力な説は「人間のコミュニケーションは、個人個人の自由な思考や感情などに左右されるのでなく、もっと多くの制約を受けて成り立っている」というものです。これは、誰かが提唱しているわけではなく、私があなたの質問を読んだときに思い浮かんだ回答です。
つまり、我々人間は、自由にコミュニケーションをとっているのではなく、すべて様式や規範にのっとって、おこなっているのではないか、ということです。例えば、今、私が「パーチェ」という概念を創出したとしましょう。それを「嫌悪感を抱いている対象の人間に降りかかった不幸に対して生ずる、喜悦と罪悪感の入り混じった気持ち」と定義します。明日から、私は自分が作り上げた概念を言葉を伴って表現しうるわけですが、しかし、一般化されていないために「あ、今パーチェを感じた」と言っても、誰も理解できません。それはなにを意味するかと言うと、我々は言葉ひとつひとつが持っている限定性に縛られ、しかも、思考もその言葉を用いてのみできるものですから、言葉のない思考さえも我々は生み出しえないのです。我々は今ある言葉の分だけしか、感情表現も思考体系も持っていません。それはつまり、我々がコミュニケーションで用いることができる道具というのは、高が知れているということです。我々はこれからも当分の間、「パーチェ」を感じることはできません。そんな言葉は、ないからです。また、我々は「共通理解」でも「非言語的要素」でも同じような制約を受けています。我々は悲しければ悲しそうな顔をしなければならないし、必要とあらば涙を流さなければならない。我々は悲しくって涙が出ていると思っていますが、実は涙を流すことが「悲しい」という記号に過ぎないということで、涙を流す以外に「悲しい」を表現する以外にないのです。悲しい顔をする、などもありますが、バリエーションは限られています。哄笑をして、相手に「悲しい」を伝える自由を持っていません。ですから、我々はさまざまな制約の中でコミュニケーションを強いられていますので、実は案外理解をする上でエラーというのは起きにくくもなっているのです。色が「赤」と「黄色」しかないと、言い当てられます。我々のコミュニケーションの制約はそんなものです。それが、「深紅」や「紅色」「橙色」「甘夏色」「山吹色」等々、「赤」と「黄色」の間を100に細分化されると、我々は見た色をどれとすぐには言えなくなる。自由なコミュニケーション、思考法、感情表現には、そういった不便さが伴ってしまうのです。我々のコミュニケーションがうまくいっているように見えるのは、我々が細分化されたそれぞれの思考や感情を持たず、大きな枠組の中で走り回るラットのように、コミュニケーションに多大な制約を受けているからだと考えられます。いかが思われますか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。そのコミュニケーション行動を取り巻くその場の状況やその場を取り巻く社会的、政治的、歴史的背景、非言語があるからだと考えます。
とても勉強になりました。

お礼日時:2005/07/08 20:02

私たちは、お互いに内面的な意図を交換しているわけではない。

形式的な言葉記号のやり取りをしているだけで、表面的にはうまくいっているようなcommもけいしきてきなものにすぎない?  
→経験的実情とは異なるような気がする。
私たちは言葉記号の意味を、ただそれ自体でうけとるのではなく、それにかかわる周囲の状況も合わせて受け取ることによって誤解を防いでいる。実際のCOMMは言葉記号のみによる単線的ではなく複線的に行われている。 コミュニケーション論B
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。参考になりました。

お礼日時:2005/07/17 14:09

 実際の会話を、録音して聞き直せば理解できます。


 言葉の意図違いを修正するための「聞き返し」だらけで、ドラマの台本のようにスラスラと会話している人は誰もいないんです。
 こうすることで、認識間違いを少しでも減らしているわけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。参考になりました。

お礼日時:2005/07/05 23:18

コミュニケーションの際、「補正」「許容」が、同時に行なわれているからではないでしょうか。



・補正(誤り検知&補正)
経緯、背景などから、想定しえないコトバは 聞き返して確認をとっている。
・許容範囲のコントロール
多少意味が違っても問題ない場合はそのまま受け取る。


# 情報理論、通信理論から捕らえたコミュニケーション像ですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。参考になりました。

お礼日時:2005/07/05 23:19

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