「龍安」という名にはどのような意味が込められていて誰によって、どのような過程で命名されたのでしょうか?どなたか知っている方がいれば教えてください。

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A 回答 (1件)

命名については解かりませんが、ご参考下さい。



 『徳大寺家の別荘だったのを、宝徳2年(1450)
管領細川勝元が 譲承受けて寺地とし、妙心寺の義天玄承
を開山として創建されたものである。応仁の乱に焼失して、
長享2年(1488)、勝元の子、政元が再興したが、
寛政9年(1797)火災で方丈・仏殿・開山堂などを失った。
現在の方丈は、そのとき西源院の方丈を移築したものである。
方丈の前庭は枯山水式石庭として著名で、臨済宗妙心寺派に属し、
大雲山と号し禅苑の名刹である。(竜安寺発行資料より)』

所 在 : 京都市右京区龍安寺御陵下町 
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Q龍安寺に

17日(日)に急に京都の龍安寺→仁和寺→妙心寺→広隆寺にいくことになりました。
そこで悩んでいます。
(1)17日に桜が見れるのか?
(2)もし見れたとしたらすごい人&すごい渋滞だと予想しています。で、京都駅→地下鉄 今出川駅→バスで龍安寺 がベストコース(安くて分かりやすい)なのは分かりますが今出川駅から龍安寺まで渋滞しているのでしょうか?もし渋滞で龍安寺まで行くのに時間がかかると一日しかいないので時間がもったいないのです。
で、私が考えた策が京都駅→地下鉄四条駅→阪急大宮駅→京福電鉄龍安寺道OR妙心寺駅。
これはどうでしょうか?
(3)京福竜安寺駅OR妙心寺駅から徒歩で龍安寺までどれくらい時間がかかりますか?
(4)妙心寺から広隆寺までの移動は何がベストでしょうか?

少々高くても移動に時間がかからないコースがあれば教えてください。

Aベストアンサー

はい。そのとおりです。

       京福       京福
四条大宮-----太秦(広隆寺)----帷子の辻駅乗り換え
                かたびらのつじ

 以後全て京福電車
-------帷子ノ辻----御室仁和寺-----竜安寺-----妙心寺---北野白梅町

時間があれば白梅町から徒歩で30分足らずで金閣寺もしくは徒歩10分で北野天満宮にいけます。

Q九龍城砦・取り壊し前当時の、九龍地区の本・サイトありますか?

中国・香港の、イギリス領時代の情報、特に、九龍城砦の周辺に何があったのか?
施設や地図などの情報の書いてある本やサイトを探しております。
九龍城砦自体の情報はそこそこありますが、周辺の情報は殆どみかけません…

詳しい方おられましたらお教えいただけますと幸いです。

Aベストアンサー

古書店街で、1980年代の香港旅行ガイドを探すのも、一つの手軽な方法でしょう。安く買えますから。

この方面に詳しい文筆家で思い出したのは、「山口文憲」さんです。
この名前と九龍城で検索したら、このような資料紹介ページが出てきました。
かなり、資料性の高い写真集もありますが、5000円から9000円もします。しかも、既に絶版のものが多いようです。
一応、ご参照ください。
http://kyoto.cool.ne.jp/nekonosuke//books.htm

Q京都の仁和寺~龍安寺の和食ランチ

教えて頂けませんか。
仁和寺~龍安寺(きぬかけの路)で2,000円前後の和食ランチで人気のいいいおいしい飲食店を紹介して頂けませんか。食べログやぐるなびでもヒットしますが体験者のアドバイスを聞きたいです。
よく分かりませんが、一応、候補として、和食処 梵(仁和寺の直営店)竹林の里 西源院(龍安寺)萬長、などを選んではいます。

Aベストアンサー

龍安寺境内の湯豆腐と精進料理のお店西源院 ,隠れ家的なヒレステーキのお店すてーきハウス しま田 ,井上靖が通っていた竜安寺商店街に昔からあるお店手打ちうどん 笑福亭
仁和寺・龍安寺の近くにあるカフェ御室さのわ,京都の仁和寺近くの自然食のお店おからはうす

Q「万龍と栄龍」は何?

「彼は日本留学生と云ふ。日本語は余り達者ならざるも、日本の
下情には、頗る通暁し、常陸山、太刀山、万龍、栄龍、てんぷら抔、
口を衝いて出で、転々予等を驚嘆せしめたり。」

万龍と栄龍は何ですか。これは大正6年書いた文章ですが、戦後有名な
芸者じゃないみたいです。

お願いします。

Aベストアンサー

1。萬龍(本名 日向 静)1894-1973
    http://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%87%E9%BE%8D&hl=ja&tbo=u&tbm=isch&source=univ&sa=X&ei=PNj8UMSALOjKigLixIHwAQ&ved=0CFEQsAQ&biw=1687&bih=785

2。榮龍(本名 伊藤りの)1896-?  
    http://xmugix01.exblog.jp/17697385/

   いずれも当時の美人芸者です。大正6年は1917年、萬龍、榮龍ともに20代前半です。

Q龍安寺から銀閣寺までの行き方

龍安寺から銀閣寺までの行き方(バス乗り場など)を教えてください

Aベストアンサー

龍安寺前から59系統、河原町今出川下車、203系統に乗り継ぎ、
銀閣寺道で下車、あとは徒歩
http://www.city.kyoto.lg.jp/kotsu/cmsfiles/contents/0000019/19770/rosenzu2011.pdf

Q日本人で初めてキムチを食べた人は、誰でしょうか。いつ頃食べ、どのような

日本人で初めてキムチを食べた人は、誰でしょうか。いつ頃食べ、どのような感想を残したのでしょうか。
当時(いつ頃かわかりませんが)の日本人がどのような感想をもらしたのか、大変興味があり、質問するものです。

Aベストアンサー

 ここで質問者様がおっしゃるキムチは、多くの日本人が「キムチ」と聞いた時に頭に浮かべるあの、白菜をとうがらし・塩などで漬けた赤いものを指していることでしょう。

 キムチが誕生した日本で言う江戸時代に、日本から朝鮮に海難のため流れ着いた漂着民たちがいました。今までの研究では1618年からの約250年間で、約1,200人いたようです。(同じ時期に日本に流れ着いた朝鮮人漂着民は約9,700人いたことがわかっています。)これら漂着民は日朝間の取り決めにより、それぞれ自分の国に送り返されました。
 
 こういう朝鮮に漂着した人たちが食べた可能性があるので、4番の回答者様がおっしゃるように無名の人であったか、3番の回答者様がおっしゃるように釜山で倭館という役所を運営していた対馬藩の人であったことでしょう。
 対馬藩は倭館での業務を、書類としてかなり残しているようです。そういう記録の中に何らかの記述があるのかもしれません。

 また、朝鮮に漂着する日本人は漁師、船乗り、商人らでしたが、稀なケースとして1819年(文政2年)に薩摩藩の武士3人ら一行が漂着し、うち一人の安田喜藤太(当時30歳)が「朝鮮漂流日記」という日記を付けていました。この日記は『安田義方 朝鮮漂流日記』として、神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ住田文庫というところで公開されているらしいです。この中にも何かの記述があるかもしれません。
 武士が書いた日記なのでたぶん漢字がいっぱいで難しそうですが。
 この日記のことを中心に書いた本、
池内 敏著 『薩摩藩士朝鮮漂流記
         「鎖国」の向こうの日朝交渉』 講談社 2009年刊
に朝鮮貴族からふるまわれたご馳走のメニューがいくつか載っています。この武士が画いたご馳走の絵も1枚載っていますがここにはキムチは無いようです。もしふるまわれたとして、武士が「キムチ」とは記さないですよね。「塩辛漬け」「朝鮮漬け物」などと書いたでしょうか?それとも他の難しい漢字で書いたか?
 キムチ(とうがらし入りキムチ)は庶民の食べ物として出発したので、朝鮮貴族が日本の武士階層を客人としてもてなす食膳にはそもそも無かったかもしれません。  

 

 ここで質問者様がおっしゃるキムチは、多くの日本人が「キムチ」と聞いた時に頭に浮かべるあの、白菜をとうがらし・塩などで漬けた赤いものを指していることでしょう。

 キムチが誕生した日本で言う江戸時代に、日本から朝鮮に海難のため流れ着いた漂着民たちがいました。今までの研究では1618年からの約250年間で、約1,200人いたようです。(同じ時期に日本に流れ着いた朝鮮人漂着民は約9,700人いたことがわかっています。)これら漂着民は日朝間の取り決めにより、それぞれ自分の国に送り返されました。
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Q金閣寺・龍安寺

金閣寺・龍安寺は、
洛北・洛東・洛西・洛南の4つの中の
どれにあたるのでしょうか。

教えてください。

Aベストアンサー

金閣寺の比較的近くに住む者です。

いつの時代で定義するかによっても違うのでしょうが(応仁の乱以降に築かれた御土居堀の西端になる紙屋川の僅か西ですので、この頃なら当然洛外でしょうが…)、現代なら洛中の範囲でもあると思います。地元民としては洛北としての意識はありますが、洛西という感じはしませんし全くピンときません。これは金閣寺から西の龍安寺、仁和寺、妙心寺等が洛西の嵐山と並んで観光ルートの一つとなっているためだとも思います。平安京の範囲であれば一条通が北限ですので、西でもあり北でもあります。
http://www.kyotokanko.com/kyotomap.html

以上、地元民としての一つの考え方として参考程度までに…

Q仲恭天皇の「廃帝」は誰のどのような権限によって正当化されたのですか?

いくら実際の権力を幕府・北条氏が握っていたといっても、
当時の武家政権の権力は天皇家による正統化を必要としていたし、
だからこそ天皇制を存続しての二重支配が行われていたのだと思うのですが
承久の乱の戦後処理において、仲恭天皇の廃帝はどのような理由づけで可能だったのでしょうか。

wikipediaではありますが
>泰時は途中で鎌倉へ引き返し、天皇が自ら兵を率いた場合の対処を義時に尋ねた。義時は「天皇には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。そうでないなら力の限り戦え」と命じたと言われる。
という事も書かれていていますし、
弓は引けぬが退位はさせられるというのは非常に不思議に思えたので、質問しました。

Aベストアンサー

6月14日 鎌倉幕府軍が宇治勢多合戦で後鳥羽院軍に勝利する。
6月15日 幕府軍が入京(六波羅)する。
6月16日 幕府軍総大将北条泰時・時房が六波羅館に入る。(六波羅探題の初代)
6月20日 後鳥羽院が高陽院(合戦時の総司令部・仲恭天皇皇居)から四辻殿に移る。
6月23日 北条泰時飛脚が鎌倉に着き、合戦勝利を告げる。次いで、京都の処分を決定(大江広元が事記を起案)。
6月24日 京都処分事書を帯び、執権北条義時の直の明を受け、安東光成(義時家人)が京都へと出発する。
6月29日 安東光成が入京する。
7月1日 合戦の張本人の公卿以下を断罪にすべき宣旨が出される。
7月6日 後鳥羽院が四辻殿から鳥羽殿に移る。(出京―形式的にも治天の君の停止)
7月8日 持明院入道守貞親王(後高倉院)が治天の君となる。また、摂政九条道家(仲恭天皇叔父)を更迭し、近衛家実を摂政とし、同時に、後鳥羽院が落飾する。
7月9日 持明院二宮(茂仁)が践祚し、後堀河天皇となる。先帝(仲恭天皇)は高陽院から九条院に移り、新帝は持明院殿から閑院皇居に移る。
7月13日 後鳥羽院が隠岐島へと配流になる。

以上が、幕府軍勝利から後鳥羽院配流までの流れです。
この時代、天皇の廃立権は天皇家の家長である治天の君にありました。しかし、治天の君は国家官制として法定化されたものではなく、慣例として置かれたものです。平清盛は、1179(治承3)年、治天の君後白河院を幽閉し権限を剥奪し、高倉天皇(後白河院皇子)の親政とし、翌年に、孫言仁親王を践祚させ、安徳天皇とし、譲位した父高倉院を治天の君としました。もちろんこれらの一連の清盛の行為は平家の軍事力による強制的なものです。
すなわち、幕府はこの先例をさらに強硬に拡大解釈して実行したものです。まず治天の君を更迭し、そして新治天の君の権限で新天皇を立てたのです。合戦の勝利者が鎌倉幕府で、敗者が京都朝廷である以上、敗者はこれを受けいらざるをえないのです。

なお、仲恭天皇は践祚していますが、正式の天皇になるには大嘗会(11月)・即位式(践祚翌年)を経る必要がありますが、仲恭天皇は7月退位で、これらを行っていないので、半帝なのです。

6月14日 鎌倉幕府軍が宇治勢多合戦で後鳥羽院軍に勝利する。
6月15日 幕府軍が入京(六波羅)する。
6月16日 幕府軍総大将北条泰時・時房が六波羅館に入る。(六波羅探題の初代)
6月20日 後鳥羽院が高陽院(合戦時の総司令部・仲恭天皇皇居)から四辻殿に移る。
6月23日 北条泰時飛脚が鎌倉に着き、合戦勝利を告げる。次いで、京都の処分を決定(大江広元が事記を起案)。
6月24日 京都処分事書を帯び、執権北条義時の直の明を受け、安東光成(義時家人)が京都へと出発する。
6月29日 安東...続きを読む

Q嵐山から金閣寺・龍安寺

来週2泊3日で京都に行きます。
土曜日のお昼頃に嵐山で2時間ほどフリーになるのですが
金閣寺と龍安寺へ行って戻ってくる事は可能でしょうか?

交通手段は、電車かタクシーを考えています
もちろんゆっくり散策って訳にいかないとは思うのですが・・
よろしくお願いします

Aベストアンサー

京福電車の嵐山駅から帷子ノ辻で乗り換えて龍安寺駅まで、行きは16分帰りは23分掛かります。電車は10分間隔なので最大20分の待ち時間、駅から龍安寺までは歩いて往復14分(片道500m強)です。移動で合計最大73分掛かる計算で、拝観時間は47分になり見られないことはないです。ただし、出発と到着が京福の嵐山駅で、途中道に迷わなければですが。
金閣寺は駅から遠いので無理だと思います。仁和寺(御室仁和寺駅から徒歩3分)や妙心寺(妙心寺駅から徒歩3分)なら駅から更に近く、駅も龍安寺より少し手前ですから余裕は出来ます。また、広隆寺(太秦広隆寺駅前)なら乗り換えもなく、場所も駅前なので更に余裕があります。

参考URL:http://www.keifuku.co.jp/randen/information.html

Q「火牛の計」を使ったのは中国の戦いですか?誰と誰の何時代でしょうか?

平家物語で、昔中国で戦法として行われたのを真似て、
木曽軍が「火牛の計」を使ったシーンがありましたが、
それは中国のいつの時代の戦いですか?
誰が牛の角にたいまつをつけて走らせる攻撃法を
思いついたんですか?
そして、結果成功したのですか?
教えてください。

Aベストアンサー

平家物語で「火牛の計」が使われたとされる「倶利伽羅峠の戦い」ですが、実際に牛の角に松明を括り付けて実験をしてみると牛は頭の上の炎におびえて動こうとせず、また当時の周辺地域で数百頭の牛を集めるのも困難で、実行不可能と結論されています。
後世の創作と見てほど間違いありません。


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