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生きることが苦しみであるならば妊娠出産はつみなこと??私は仏教についてあまり理解はしてません。。難しくてよくわからない。ですが苦についてのことを本で読んでふと思ったのですが生まれ変わりが解脱できてないということなら妊娠出産はつみなのでしょうか。今月子供を出産しふと考えてしまいました。
お暇なときにご回答ください。

A 回答 (5件)

こんにちは。


ご出産おめでとうがざいます。

No.1、No.2の方の回答でもう充分説明尽くされていてこれ以上言う事はないのですが、質問者さまのお気持ちがよく分かるので少しお邪魔させて下さい。

仏教では確かに人生を「苦」といっていますが、その「苦」を如何にして「苦」で無くするのか・・・と言うのが人生の目的だと思います。

仏教で言うところの「因縁解脱」とは「苦」の元となるカルマ(自分の過去生が原因となって今生に現れた苦)を断つことです。

ですからその「苦」の原因(前世から引き起こされたもの)が有る限り、「苦」を避けようと人生の計画を変更しても、別の形で必ず「苦」が現れます。

大元(前世からのカルマ)を断たない限り、その「苦」は消滅しません。

お子さんが生まれる事によって「苦」を経験することになっても、それはお母さんの責任ではなく、お子さん本人の事情によります。

もし、お母さんがお子さんを生む事を選択しないならば、お子さんは「苦」を経験するチャンスを失った事になります。

「苦」を経験しなければ、前世の自分のネガティブな行いを客観的に判断し自己の向上のために自己改革を断行するチャンスが無くなってしまいます。

つまり、「苦」とは自分を知るための判断材料、自己の歪んだ人生観や対人関係を改めるための大切な刺激です。

質問者様はその貴重なチャンスをお子さんに提供したのです。
又お母さん自体も子育てのあらゆる苦労からご自分の人間的向上と人生の実りを体験できるのです。

カルマ(因縁)を断つことは大変なのですが、人生の苦難を他人や社会のせいにせず、前向きに正面から取り組んでその苦難から何かを学び、プラスに転換出来た時、
きっとカルマは消滅していくでしょう。

つまり、もうそのような「苦難」は、その人の自己判断をするためには必要ではなくなり、そんな「苦」の経験を体験することはなくなるでしょう。

人によっては、「子どもに恵まれない苦」を経験し、苦労している人もいます。

「苦」にはアリトアラユル種類があり、全てを無くして行くのは大変ですが、努力とともに少しずつ減って行き、最後には殆ど「苦」を感じない状態(ありとあらゆる苦難に対する対処の仕方を知っているので何事が起こっても動じず、苦を感じない状態)になるそうです。

そして、終には生まれる事による経験を必要としない状態に達しもう生まれてくる事はなくなります。
これを仏教では「因縁解脱」と言うようです。

子育ては大変ですがお子さんは自分の全てをお母さんに託することを決意して覚悟して生まれてきていると思います。

又お母さんもお子さんを受け入れ、共に人生の向上を目指す事を約束してこの世に生まれてきて居られるのだと思います。

ですから、お子さんとの平凡な日常の繰り返しの中にこ
そ大切な経験がある事を意識してどうぞ頑張って下さい。

子育てをどうぞ楽しんで下さい。
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この回答へのお礼

こちらでまとめてお礼申し上げます。ありがとうございました。仏教は奥深くいろいろ解釈もあるのだなあと感じました。わたしのほうが産後ときどきブルーになるというか考えちゃうことが多くて。。。丁寧なお返事ありがたいと思ってます。

お礼日時:2005/09/13 15:05

『父母恩重経』に「人の此の世に生るるは、宿業を因として、父母を縁とせり。

父にあらざれば生ぜず、母にあらざれば育せず。ここを以って気を父の胤にうけて、形を母の胎に托す。」とあります。

これを読むと、生まれてくる宿業があったから生まれてきたのであって、父母はその縁となったのです。父母の意志で生まれてきたのではない、私に生まれてくる宿業があって、父母の子供として生まれてきたということだと思います。

この世は苦しみではありますが、それは私が持っている宿業。私が受けるべき苦しみです。両親が私に与えた苦しみではありません。

それどころかこのお経には父母に十種の恩徳があると説きます。

一には懐胎守護の恩 お腹の中で守ってくれ、
二には臨生受苦の恩 苦しみながらも生んでくれ、
三には生子忘憂の恩 それでも生まれてきて喜んでくれた。
四には乳哺養育の恩 おっぱいを飲ませてくれ、
五には廻乾就湿の恩 おねしょしたときにも、私を乾いたほうに寝かせ、自分は濡れた所に寝て、
六には洗灌不浄の恩 私の排泄物でも汚いと思わずに世話してくれた。
七には嚥苦吐甘の恩 おいしいものは私に与え、まずいものは自分が食べ、
八には為造悪業の恩 どんな悪いことをしてでも私を育ててくれようとした。
九には遠行憶念の恩 遠い所に行ってもずっと私のことを思ってくれ、
十には究竟憐愍の恩 いつまでもいつまでもかわいがってくれる。

縁あって親子として生まれてきて、私の苦しみを代わって受けてくれ、一緒に苦しんでくれ、いつまでも慈しんでくれるのが父母です。親とはありがたい存在であって、罪な存在ではありません。
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こんにちは、。


人間はすぐに是非善悪で、これはいいことか?悪いことか?と判断したがりますね。妊娠は悪か?とか(質問者様の問いを否定しているのではないです^^)、生んであげてすばらしいとか・・・。すばらしいということを主張するためには、いろんな理屈を惜しまないし、反対のことを主張するにもそうかもしれません。仏教にはこういう行動論はありません。仏教的には、冷たい言い方で申し訳ないのですが、くだらない空想なんです(仏教は冷めてますので、こういうきつい言い方になりますけど・・・私が切ってるわけではありませんので・・。申し訳ないです)。

○罪というからには、仏教で言う罪について考える必要があります。誰に対して犯した罪でしょうか? 仏教では、生むことそれ自体を、罪とする教えはたぶんどこにもないはずです。罪というものを簡単に定義づけると、自分あるいは他を傷つけることというのが罪です。生きたいと願うものの命を取るのは、罪です。生まれ出た子供は、生まれ出ることを拒絶していたのでしょうか? それを強制的に親が生んだのであれば、なるほど罪となりますね。でも、そんなことは、できません。生きたいという子の生への思いが、現れているのですから。かりにあなた方夫婦が親でなくても、どこかへ生まれ出ます。


○生まれ出てくるものは、その因果に従って生まれ出てきます。のぞんでもできないときはできませんし、できてしまうときはできてしまいます。子の命は、親のもののように見えても、親のものではありません。自分自身さえ、思い通りにならない、自分自身さえ自分のものではない、と説くのが仏教です。まして子供は親のものではないです。
親にできることとできないこととあります。親にできることをして、生まれ出てくる命を迎えるのが親の責任です。それを果たしていれば、あるいは果たすように努めれば、それは善業です。できちゃったのでおろすとか、子供を迎える義務を放棄しているのは、親のエゴだけです。これが悪業、ようするに罪となります。自分にとっては、悪い心を重ね、子供には迷惑をかけるので、罪です。

○出家した人と、在家では違ってきます。出家した人には罪になります。戒律で結婚はもとより性的行為を禁じられているからです。
しかし、それは、子供を生むこと自体を罪としているからではないです。性行は、煩悩や執着を増長する行為だからです。出家者にとっては、それ以上でもそれ以下でもありません。変にさげすむことも、さげすみというとらわれです。でも、愛の行為だ!とか命の誕生だ!などとたてまつるほどの行為でもありません。どういう快楽かは人によって違うでしょうけど、快楽や執着(子供がほしいというのでも同じです)でやってることです。それだけのことです。在家とは、目指すところが違っているので、罪になるだけです。在家にとっては、不倫など誰かを傷つける行為は罪になりますが、煩悩を増す行為だからと言って、すべて禁じられてしまうことはありません。在家の人は、完全に解脱することは不可能だからです。出家では罪になりますが、在家にとっては罪ではないです。こういう風に、出家や在家といった目的の違いによっても、罪かどうかは変わります。固定されてはおりません。


○もう一つ、罪と行為の関係について。
仏教では、何らかの行為をするとき、「意志」が重要となります。たとえば、人にプレゼントをするとして、次にお返しをされることを計算していたら、それは賄賂と言いますね。プレゼントするという行為は同じでも、意志のないようによって、受け取る果も全然違ってきます。お返しを計算すると、「むさぼり」が中心の意志になります。だから悪果を結ぶのです。子供を妊娠し、育てる親の心によって、善業か悪業かも変わってきます。また妊娠・出産と、人間は、わかりやすく節目節目に名前を付けて、善か悪か判断したがりますが、実際には、瞬間瞬間に様々な行為と意志が混じり合って、妊娠や出産という一つの結果が生まれています。
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こんにちは・・簡単にわかりやすくで回答してみます。



さて、質問の回答をひとことで言うと・・
>妊娠出産はつみなこと??
一般的な信仰心を持った、つまり信徒のレベルでは罪にはなりません。
簡単に理由をいうと、持戒の中で質問に該当するのは"邪淫"と思います。そして、少し紹介すると・・・
1.在家の邪淫の意味
夫、あるいは妻、恋人以外のひととSEXをしない。
独身の場合は夫、妻のあるものとSEXをしない=不倫はしない・・なおかつ、可能なら風俗にはいんかない??
2.出家修行者(チベットのお坊さん)
精をもらさない。身体、イメージ、心において性欲を持たない。生起させない=遮断する・・という意味合いです。

よって、妊娠出産そのものは、もちろん結婚した夫婦の子供=当たり前、ならば罪にはならないと考えます。
ちなみに1.は衆生を欲界の天界へと導く戒律で、2.はそれより高い世界へと転生する戒律と考えれば、わかりやすいと思います。

>生きることが苦しみであるならば
これにも、助言したかったのですが、今回は省略。

なお、今回の回答には賛否両論が、あるということを申し上げておきます。これは私の意見とお考えくださいね。
以上
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こんにちは。



 お坊さんではありませんが、少々仏教かぶれした者です。

 確かに、仏教は逃れられない根源的な苦しみに「生・老・病・死」を挙げ、生まれること、生きることを絶対的な「苦」と捉えます。(←生まれることによって他の老・病・死が必然的についてくるためです。)

 しかしながら、他方では、この世に人として生を受けることは、その苦から抜け出す絶好のチャンスでもあると説きます。

 勤行の次第(プログラム)に以下のような文言のある宗派があります。
 「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生において度せずんば、更にいずれの生においてか、この身を度せん。・・・」

 「度す」というのは「渡す」という意味で、真理に到達することを指します。

 仏教は「仏の教え」であると同時に「仏になるための教え」でもあります。真理に到達した者(=仏)となることは誰にでも可能であり、万物はもとから仏となる要件をすべて備えている、というのが仏教(とくに大乗仏教)の基本的立場です。たいていの者は、自らに仏となる要件が備わっていることに気づかず、それ故に輪廻する世界から逃れられない、というわけです。
 仏教は単なる救済宗教ではなく、自覚し実践することを重視します。そのためには自らが苦界に生きていることに気づき、そこから逃れたいと希求することが必要になります。ですから仏になるための学習と実践をするためには、人間に生まれることが大前提となります。
(相当端折って記してますので、ものすごく強引ですが、大筋こんなところだと思います。)

 貴女は、お子さんをお産みになった。それは確かに苦界に新たな命を出生させたと言えるかもしれません。しかしそれは罪ではありません。受け難い人の身もって生まれるというチャンスをお子さんに与えたことになるのです。これは苦界に出生することを補ってなお余りある偉業であり、賞賛されるべきことです。

 別に、人の身を受けたからには、今度は仏教に親しませろとかいうつもりはありませんよ。ともかく自信をもってお子さんを育ててあげてください。なにかといろいろ不安定な世の中、新たな命に幸いがありますよう。

 ご参考になればよいのですが。では。
 
 
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