これ何て呼びますか

哲学で神様とはナンですか?
ずっと神の存在を信じてきましたが神様(いろいろな神がいますが、)神さまを超えた真理や法則が有るような気がします。そんなものが本当にあるのでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

> 神さまを超えた真理や法則が有るような気がします。


そのようなものを研究対象とする哲学を「形而上学(metaphysics)」といいます。
形而上学は古代ギリシャに生まれ、以来、西洋哲学の主流を担ってきたとともに
キリスト教文化と融合し、西洋文化のベースとなっています。

> ずっと神の存在を信じてきましたが
> 神さまを超えた真理や法則が有るような気がします。
そのように考えてしまうのは
西洋化した日本で生まれ育ってきたからでしょう。
あるいは、人間とは元々そのような性質を持った生物なのかも知れません。

やや話が脱線しましたが
ずっと形而上学は「神さまを超えた真理や法則があるような気がして」
それを追求してきました。
例えば、科学はそのような文脈から派生し発展してきたと言っても
過言ではないと思います。

特に16世紀から19世紀、いわゆる近代に於いて
科学が飛躍的な成果を収めていくとともに
形而上学は高度に洗練されていきます。
それらは一般的に近代哲学と呼ばれますが
例えば「我思う。故に我在り。」で有名な
哲学者・数学者・科学者のデカルトなんかが代表的な人です。

なんて話に興味を持たれたら
こちらのサイトが参考になると思います。
> なんか哲学の概要を書いたほんをお知りになりませんでしょうか?
よかったらご覧下さい。
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/philinde …

さて、19世紀の後半に入り
>そんなものが本当にあるのでしょうか?
といった問いに「そんなものないだろう」と考える人たちが出てきました。
(その背景には近代の行き着いた先が世界大戦であったという嫌悪があります。)

より正確を期せば「そんなものないだろう」というよりも
超越的な真理や法則があったとしても、私たちにそれを捉えるのは無理だろう
と、いったところでしょうか。
中でも現代思想に大きな影響を与えたのが
ニーチェ、ヴィトゲンシュタイン、フロイトといった人たちです。

分かりやすい例えとしては
デカルトの「我思う。故に我在り。」という意識の絶対化に対する
フロイトの「無意識」という領域の提出による否定です。

20世紀に入ると「思想(思考)」の道具である「言語」にメスが入ります。
ソシュールやロラン・バルトなんかが有名です。
このように思考の道具に次々とメスが入ったのが20世紀であり
先日お亡くなりになったジャック・デリダなんて方が先導して
形而上学の屋台骨がガタガタになっているのが、まさに今の時代です。

何だか概論ばかりで具体的な中身に触れておらず
分かりにくくて申し訳ありませんが
神さまを超えた真理や法則などない、と考えるのが
今の思想の主流だと思います。
昨今の欧米における仏教ブームなどは、このような思想が
ポピュラーになってきたことの証かも知れません。
(仏教は「空思想」に代表されるように、神や真理を想定しません。)

細かい説明は省きますが、近代科学も20世紀に入って随分と覆されました。
例えば物質を構成している最小の要素である素粒子ですが
これが「粒」であり「波」でもある、相矛盾する二面性を持った性質が発見され
古典的なニュートン力学では説明できなくなってしまいます。

これを現代の物理学(量子力学)では、以下のように考えます。
●素粒子のレベルでは物体の存在している場所は厳密にはわからず
「存在する可能性」がわかるだけだ。また、原子の世界で起こる事象は
厳密な時間も様子もわからず、「起こる可能性」しかわからない。
原子の世界では、事象の正確な予言はできない。どういう確率で起こりうる
としか言えないのである。

無理矢理、量子力学に話を持っていきましたが
超越的真理や法則に対する最新の仮説をベースに
超絶的なハードSFなんかを書く人に
グレッグ・イーガンなんて人がいます。
よかったら是非読んでみて下さい。
http://sazanami13.client.jp/rec/rd3055.html
http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2005/02/dis …
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この回答へのお礼

有り難うございます。
全然知りませんでした。

お礼日時:2005/09/28 18:41

神は存在ではなく概念だと思っております。


神を越える真理や法則・・・
かなり乱暴な例えで云うと「リングドーナッツの穴の味を更に美味しく。」と云っているようなものだと思います。
つまり意味がない。
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 哲学の中には神様はいないはずです。

哲学は論理学に近いので、西洋的な神(万物創造主の神)をニーチェなどは「神が死んだ」なんて言って否定していますよね。
 神といっても、日本人の多くは八百万の神を無意識のうちに信用しています。
 西洋(キリスト・ユダヤ・イスラム)で言う神は万物創造主の神です。その3つの宗教では神様を超えた真理や法則はありません。
 私はhide_mさんと同じで、神さまを超えた真理や法則があると信じています。まあ仏教のことですが、仏教は人間の幸せになる真理・法則を解明した哲学といえなくはないと思います。
 仏教でいう神はたくさんいます。その場合は諸天善神といって、仏教を守るための神という位置づけです。
 ただし、仏教は非常に奥が深く、教えが広大で、経典の数も多く、なかなかその中で、真理や法則を見つけるのは難しいと思います。
 いずれにせよ、神様を超えた心理や法則が私は本当にあると思って、生涯その勉強と実践をしていきたいと思っています。
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「神が存在するか存在しないかのどちらかである」というのが神を超えた真理だと思います。

神が存在していても真ですし、神が存在しなくても真だからです。一般に「pまたはpでない」というのは必然的に真です。これは神の存在の有無にかかわらず真です。神が存在して、もし何かすることがあるとしたら、pにするかpでないにするかを選択することだけだと思います。ただし、これはそんなに簡単ではありません。何がpであるかを知らなくてはいけないからです。そこに神の偉大さがあるのです。

しかし、「神が存在するか存在しないかのどちらかである」や「pまたはpでない」という論理法則もつくった神が考えられないでしょうか?あるいは、論理法則こそ神であるといえないでしょうか?論理法則をつくった神がいたとしたら、その神はその論理法則の外側にいなければなりません。しかし、私たちにはそれが何を意味するかわかりません。私たちの論理法則とは違うところにいるからです。論理法則が神だというのはひょっとしたらいえるかもしれませんが、私には意味がわかりません。論理法則が神でないことがわからないからです。

哲学で神とは「何でもできるもの」と考えられていますが、その神でさえできないことがあるというのが哲学における神の登場のシーンではないでしょうか?例えば、未来を記憶することができないとか、私という原点をつくることができなかったとか。
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 難しい事は解りません。

人はそれぞれ目に見えず、手で触れて確かめる事も出来ない、尚且つ外部からの刺激に弱い『心』と云う臓器を持っている(と私は)考えざるを得ないのです。
 その『臓器』の中でのみ実際にあり得ない事象が産み出されると考えれば、神様、仏様、奇跡、があって不思議はありませんし、否定する、或いはそれを超えようとする理論が生まれても不思議ではないと考えます。
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ヘーゲルという哲学者では、弁証法という論理があります。


あなたが暮らしていました。ところが、貴方に反対する人と出会いました。ことごとく、貴方とは対立してしまうその人との出会いは、恋愛でした。あなたは、その人を庇いながらも、嫌悪に思い、憧れながらも、虐げようという気持ちを抱いてしまいます。その葛藤の構図を、ヘーゲルはこういいます。あなた(A)に対して、彼女(アンチA)。つまり、貴方(正)に対しての、反対存在、「反(アンチ)あなた」が居る事を言います。そして、その葛藤の中で、あなたは、成長します。それを、「合」と言います。いまでは、彼女のことで、葛藤に悩むことはありません。結婚に至ったのか、別れに至ったのかはどちらでもいいです。とにかく、あなたが、葛藤に打ち克ったことが、ここでは重要です。その克服のプロセスを総じて弁証法と言い、正、反、合、という三つの要素で成り立った、論理展開なのです。ヘーゲルの神は、この論理の中で、何処にいるのか?と言いますと、その、正と反の葛藤が、「合」にひらけてゆく、そのひらけてゆく方向に、神を置いています。そして、合が生まれた時点で、合は第二の正となり、また新たな、第二の正に対する「アンチ存在」と「葛藤」を生み出します。そして、また、合にひらけてゆくのです。合にひらけるときに、神の方向へ行く、そのことを、止揚(アウヘーベン)と言います。神という、∞に向かって止揚し続ける。それが、ヘーゲルの弁証法です。そうやって神に近づき続ければ良いのだというのが、ヘーゲルの論理です。このヘーゲルの弁証法は、共産主義革命のスローガンに利用されました。アンチ(反)を建てるところが、既存の体制に対する革命運動に、肯定性を持たせたのです。
 
 次に、サルトルという哲学者が居ます。彼は、その神が、∞に止揚を導く根拠を拒絶し、別に、止揚する必要は無い。アンチの相手をする必要も無い。つまり、葛藤しなくてもかまわないぞ。正はずっと正のまま。いや、正は正ですらない。独立した存在だから、アンチも存在しない。そう言って、虚無主義を唱えました。彼の推したキーワードは、「自由」です。ヘーゲルの神を、認めはするけれども、そっちはそっちでやってれば?という、個人主義の印象が、私にはあります。これは、自由主義経済にぴったりマッチしています。競争したいやつはすればいい。でも、俺、他に用事あるから。という具合です。社会的には、文化、芸術の多様性を生み出します。
 
次に、ウィトゲンという哲学者が居ます。彼は、「自由」だ「神」だと言うけれど、それは、それをそうと言ってるだけじゃないか。と。終わりです。言葉に沈黙を与えた哲学者です。彼の論理の前では、「神」は何も語りません。「自由」も何も語りません。無意味です。意味を有する前の言葉を、意味を示す言葉に会わせたのです。言葉の背後をとったと言えるでしょうか。
 
こんな風に、哲学では、「神」といえば、「最高善」から、「只の神」、そして「無意味」、という風に、色々です。

一番解りやすいのは、ヘーゲルだったではないでしょうか?
ここからは、その、神のアンチを立てた、弁証法をやってみます。
神が居ました。あなたの目の前に。そして神は言いました。「私に何でも仰せ付けください。」神は、無限でした。あなたは有限でした。神はあなたの羨望を集めました。そしてあなたは神に畏怖しました。しかし、あなたは神に言いました。「私を神にしてください。」神は答えました。「あなたでなくなるけれどかまわないのですか?」あなたは言います。「私を、神にして欲しいのです。私があなたで無ければ意味が無いのです。」すると神はそのとおりに、「では、あなたが私であるように。」と、しました。
そして、あなたは、空っぽの神になりました。あなたは無限です。
神になったが故に、あなたはもう知っています。「神は何処にもいない。」
そうして、神(∞)と、神のアンチ(〇)の葛藤は、存在することなく決着するのです。
 
こうしてみると、ヘーゲルの神(∞成長)と、サルトルの虚無主義(成長〇)が、弁証法にかけられたように見えますね。無限というベクトルを持たないことで、自由な虚無主義。∞そのものであるヘーゲルの神。まさに、サルトルはヘーゲルの、弁証法の根拠(神)に、アンチを提出したのです。それが、虚無なのです。哲学の系譜にも、枝葉がありますが、ヘーゲルの枝は、ここで無限へと終わっています。
別の哲学の系譜が、ヘーゲル以前から、伸びているはずです。これからの社会も、ヘーゲル的な神の方向での成長は、〇へ拡散する、成長といえるかどうかの疑問を伴って続くでしょうが、そればかりではないでしょう。おいしいりんごも、まずいりんごも、お腹一杯の時にはいりません。お腹が減ったときにだけ、ニーズが出る。ならば、ニーズの無いとき(お腹一杯)の動向は、どういうものか?というのがある。
ライオンなら寝てますね。人間ならどうしてるでしょう?生きる以外の方向へ必ず行くと思うんですね。
つまり、無意味の方向へ。(正に対する死ではないです。なぜなら、ヘーゲル的成長による、ニーズの拡充は、虚無主義との、存在しない葛藤で終わっているから。)
それが、夢だと思うわけです。
今とはかなり異質な世界が、想像もできない世界が、いくらか先には、あるでしょう。欲が意味を成さない世界です。つまり、生そのものの世界です。その中で、存在とは?という問いも、現象するだろうと思います。しかも、無意味の前提で。
下町の路地裏とかには、転がってそうな世界です。
機関銃の銃身内側に掘られた溝のヘリとか。反射するかしないかの際どい光とか。揺らぐ生を、地下の排水溝に漂わせながら、澄み渡る空の、青の、白の、柔らかい光を食む。
存在とは、かくも鮮やかにて、幾つもかさなった透き通る次元と次元の交錯を、切り刻まれながら漂うのです。神など、一つも気にしていない。神も、憐れみをかけない。神の愛の対象にならない、神の愛そのものも、そこにある。存在しているのやら、していないのやら。存在も、疑いも、その崩れたままの潮流、カオスに、時々、浮かび上がってくる背の綺麗な小魚の閃きのようで。
そうして、徐々に徐々に崩壊してゆく潮流は時を巻き込みつつ、定まったところへ行く。
そうして世界が成って来たころに、法を迎える。

この回答への補足

哲学には非常に興味がありますが、哲学科ではないので一般教養では取ろうと思います。なんか哲学の概要を書いたほんをお知りになりませんでしょうか?

補足日時:2005/09/23 21:50
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 真理や法則、それそのものが神であると説いたのはスピノザですね。


リンゴが一定の速度で落ちる。秋になると葉が色づく。地球が太陽の周りを回る。そういったものそれ自体が神で、人の営みを直接見守る物ではないというものです。
 アインシュタインが支持した事で有名になった「スピノザの神」ですが、私の結論もこれに近いです。何より否定のしようがない。

 さて、一つだけ確実に言えるのは神に実体は必要ないという事です。
大事なのは設定と効果でしょう。何を神として、それがどのような意味を持つのか。
 つまり神を超える法則がある、という状況で定義したのなら神を超える法則は当然あります。まあ人によって違ってしまうのですが。

 西洋哲学において、神と言った場合はその時代の宗教観が左右します。特に中世においてはキリスト教的価値観からの脱却は困難だったようです。
一般的に神の役割は「主に価値観(例えば善悪基準)において個人と社会をつなぐ」「絶対というものの体現」という所ですから当然と言えば当然なのですが。

 興味深いのは科学において「理解不能」「未解明」といったモノを神の分野とする考えですね。科学的に考えるなら解明されようがされまいがその本質は変わらないのですが。
ここに神の一つの役割を見る事が出来ます。
 「神」の名を出すとき私達が何を期待しているのか、それが神を探る近道だと思いますよ。
神を否定する人は「存在しない何か」を神と設定したという事で、そこにも意味はあります。
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こんばんわ。



ヨーロッパのルネサンス以降、科学者たちは世の中の構成を研究してきましたが、このことが神を否定することになったわけです。

つまり、世の中のことは科学で証明できる、って感じで。

しかし、そうは言うものの未だに解明できない現象はたくさんありますから、それらが「神の領域」ですね。

ですから、
>神さまを超えた真理や法則

その「神の領域」を越えるって言うのは・・・無理があるかと思います。
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哲学なのかどうかはよくわかりませんが。



「神は人を救う」

もちろん、破壊神も居ますけど。基本的に救う神ですよね、という話。
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哲学で神とは想像上の産物でしないと思います。


多くの哲学者?怪奇小説家は想像上の怪物に作者本人が夢の中で襲われるなんて事を表現した作家もいました。
ある意味、幽霊は存在するかと同一の事と思います。
でも、哲学とハードボイルド(私設小説家)と違いはあるのでしょうかと私は思います。
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