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ウソ自体が常に悪であるとは思いません。
しかし、この世の中には、わかりきったウソを吐くという、ばかげたことが往々にしてあります。
私自身はそのような、わかりきったウソをつくことに非常な嫌悪を覚え、なるべく本音を語ろうと思うのですが、そうすると、社会で生きにくくなる。
わかりきったウソは、結局、誰もが暗黙の了解として承知の上であり、それでもなお吐くものだというのなら、それは「ウソだとわかっているようなウソはウソではない」というパラドックスを包含していることになり、つまり“ウソを吐く”という行為自体が形骸化してしまうのではないでしょうか。
そこで、私のように、わかりきったウソに反吐が出た経験がある方、そういった人間がよりよく生きるための書生術に関する、知恵をお貸しください。
「それが真理です。諦めなさい」的な発言は建設的ではないので、ご遠慮いたします。

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A 回答 (36件中1~10件)

許せない、気になると言っているのに、気にするなとかいう発言をするのは、相手の意図を汲んでいないと同じですよ、皆さん。


たいてい質問者さんの言うようなうそをつくのはこういう人です。
この人たちはボクの考えるに外向的感覚型です。日本にはこのタイプの人間が多いんですよ。だからこういう一般人が多く関係する場所でこういう質問をすると、非建設的な意見しか出ないんです。
超がつくほどの現実主義者で、こういうときはこうすればいい、こうすれば簡単だと言う方法だけで動くつまらん人間ですよ。
だから不満のある人間には自分の中身を改善しろというんです。これはまず使い古された台詞ですから言いやすい。次にこういえばたいていの人間は反論できません。人間が自分の中にも過ちを持っているのは当然ですから。だから一般的な日本人は、不満のある人間にはこう言えば黙るのを知ってるから言うんです。わかって使ってるずるがしこい人もいますし、わかって使ってない馬鹿もいます。せめて馬鹿を説得できればましになるんでしょうが。
こういう人間は当たり前の台詞しか吐きません。戦いません。常に逃げます。安全な場所から一歩も出ようとはしません。
でもあなたは違いますよね。
あなたは本当にあるべき姿をはっきりとわかっています。こういう人間は傷つくことも多いですが、代わりに自分なりの、自分だけの特別な処世術や信念、考え方、感情の持ち方をし、色彩豊かな生き方ができるはずです。
僕なんかは逆に利用してやりますけどね。相手が絶対ここで嘘をつくよなって言うところで相手をわざとその台詞に誘導してから、その台詞に基づいて自分のやりたいように行動を起こしますよ。で言ってやるんです。「だってそう言ったよね?」って。たいてい苦虫噛み潰した眼で見ますよ。
この人たちの弱点は行動がワンパターンで、予測が可能な点です。だから逆に裏をかいて利用してやってください。また、周囲の人間とその場の雰囲気に流されやすいので、逆に言えば場を作り上げる側に回るという手もあります。わざとその場の間違った雰囲気をほうっておいて、自分だけこっそり正しい行動を取り、利益を上げるという手も一手です。
一ついい揶揄を教えて差し上げます。こういう人間は、私は有機体でできている機械だと思ってます。たいていやること言うことが決まってるからです。今度からそういう風に見てみましょう。
あと、一般人のやっているズルを一般人に聞いても無駄ですから、こういうことを相談するときは気の合う仲間内のほうがいいですよ。相談に取り合わないようならそれは機械人間の仲間ですので、すぐに縁を遠ざけたほうがいいでしょう。
お互い新しい可能性を見出すものとして頑張りましょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
この世の中は、8割(9割)アホだと思ってます。でも、時々あなたのような、わかってくれる人が出てくるので、だから質問をする価値あるんです。
精神論と人格論は、とにかく意味がない。本当に意味がない。生産性のない解決策は、ないも同然です。それに、とにかく人格に還元すれば、なんだって片付くと思っている。「あなたが変われば、世界が変わる」的な妄想は、アホの極みです。良心とか道徳とかね、そんな次元で話してるわけではないのに、わからない人はとにかくその次元で話し続けようとするんです。結果的に暴言吐いて、排除されるのはこっち側なんですが、とにかくあなたみたいに、理解できる人間がいてるんだと思って、良かったです。嬉しかった。もうお礼の書き込みも面倒くさくなって、最後にまた暴言吐こうかなとか、それも面倒くさいなって思って、置き去りにしてました。でも、置いといても価値あるもんだと思いました。良かった。
生産的な処世術、ありがとうございました。でも、器用じゃないんで、上手くできそうにないなと思ったですね。今までの俺のやり方でいくと、暴力・暴言・排除なんで、やっぱりもう少し賢くやるべきだとは思いました。まあ、見下してるのは見下してるんですが、一人でずっとやっていくっていうのもあんまり建設的ではないなと思ったんで、味方は必要だと思うんですけどね、人に相談とかはしないですが、まあ、とにかくbo-suke君とは仲良くやっていけそうです。また、質問に答えるので、そん時はよろしく。あと、新聞配達の男みたいな奴とは、毅然とした態度で戦いましょう。(勝手に質問読んでごめんね)間違ったことしてないんやから。ありがとうございました。世の中捨てたもんやないなって、久しぶりに思いました。

お礼日時:2005/10/13 03:55

「als ~ob あたかも~かのように」の建前論を哲学していたのが森鴎外さんらしいです。

(私はまだ読んでいなく詳しくはないですが、鴎外さんも文豪としての光と医師としての影があります。)

上司や先輩をあたかも敬服しているかのように、葬儀は故人の為利他的な行為とするかのように、政治家が国を憂いでいるかのように、神の怒りにふれ反省したかのように…

誰もそれが真実ではないと思ってもそうすることが礼儀となっていて、欺瞞でしか支えられない関係も所詮は偽物。

この傾向は特に日本人に顕著で、事なかれ主義の表われで、敬語や礼儀の存在も同源に思います。

御上が全然偉いと思っていないのに頭を下げ、年貢を差し出すのを「百姓根性」といいます。この同盟は対等でないばかりか、自分は何も利益をこうむってないことに気付かなければ幸せはこないと思います。そんな趣味が相手への優しさなのか、美しき行為なのでしょうか?

処世術として、せめて未来の純粋な子供達に本当のことを教えていき、優しい大人を育てていくしかないのかもしれませぬ。

参考「森鴎外の智恵袋 講談社学術文庫 523」
  「灰燼 かのように―森鴎外全集〈3〉 ちくま文庫」
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>人間がよりよく生きるための書生術に関する、知恵をお貸しください。



この”書生術”というところが御質問者の本意なので哲学カテで御質問をされておられると考えます。
ちなみに私は哲学的には何の達観も無いただの”スケベ”なので興味をもちました。 それで参加させていただきます。 悪しからず・・・・

あなたの言われる嘘とは、一般的にいって「自身の存在理由の無さ」に起因するものではないでしょうか。 個人は上記の幻想空間内の無意味さの中に個々人が勝手に己にとっての優先度を形成するために発生します。 他者の優先度理由は別の者にとって理解できません。 なぜなら個別の者はあくまでも己が一過性の唯我独尊である事を確認しようとするからです。 幻想的共同空間内に在っては、他者と自己との違いを見出さなければ自分の存在を確認する事が出来ないのです。 しかしながら空くまでも人的に作り出された幻想の積み重ねにしかなりません。 全ては空なり虚構の作る幻想と己の存在意味とが同一化してしまっているわけです。

私の様な俗人は、権力者にとっていわば動物園のサルと同じです。 サルはサルでも群れを為し徒党を組むと権力者にとっても非常に厄介です。 尤も重要な事は悪党に陥る者達は食わせておきさえすれば簡単に豚さん集団になって現実という名の人為的作為的幻想空間を作り出し、その中に安息を得る事ができます。 現実の多勢はこの幻想空間内に善悪を見出して悪魔に加勢することで権力に近づき己の善悪証明を行い優位性を得るために”しのぎ”をおこないます。 権力はこれと結託し、利用します。 幻想空間を膨張させることで「秩序の安寧」を獲得できるからです。 ここに個人は電池”活力”としての意義がもたらされる訳です。 それ以外は自由です。 つまりあくまでも幻想空間内部の出来事であるため、特別な存在理由はありません。 この意味で俗人は平等だと思います。 色即是空

世界史的に見れば、上の幻想空間はいとも簡単・容易に崩壊する物です。 その時になれば「鬼が出る」事になり、悪鬼集団が幻想空間を打ち破ります。 いずれ又、人間は権力を作り出し悪魔に加勢して新たな幻想空間を作りだします。

まあ、簡単にいうとSFみたいだけれど、つまり「人間は嘘つき」なんですよ。 あなたが好もうと好まざると、そこに差別をする基準と理由は、個人が権力によって刷り込まれた先入観と偏見に起因する場合が普通だと思いますよ。

この投稿内容の間違いは他の回答者さんが改めて下さるでしょうからここまでにしておきます。 好くお悩み下さい。
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あるとき、お釈迦様が弟子の一人をじっと見つめておしゃいました。


「・・よ、お前はたいそう苦しいだろう。」
「はい。私はたいそう苦しゅうございます。師よ!私はなぜこんなにも苦しいのでしょうか!」
「それはお前が苦を集めているからである。・・・・」

釈迦にとっては弟子がわざわざ苦しみを集めているのがリアルに、手に取るように見えているのである。
そのわざわざ集める苦しみを「因縁」といい、苦しみを集める事をやめることを「因縁解脱」というそうです。

仏教の修行の究極の目的は、この「因縁解脱」だそうです。
修行とはひたすら「瞑想」によって自分の観念を変え、視野を広くすることであり、実生活において善行を為すことだそうです。
実生活においてなるべく心の闇を払い、邪心を除き、善意でもって他者に善行を為す事により、瞑想における視野の拡大も進むそうです。車の両輪です。

その修行がある程度進むと、もう苦を集めなくなり、心を煩わすこと(煩悩、因縁)が殆ど消滅し、いつも穏やかに泰然としていられるそうです。

この仏陀釈尊のアドバイスが参考になれば、幸いでございます。
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ANO.26で回答した者です。


私が展開したのは精神論や人格論ではなく、
コミュニケーション能力、コミュニケーション技術の基本についてなのですが。
基本なのであまり細かいテクニック論、戦術論ではありません。

キャッチボールを例に挙げましたが、少年野球で最初に教わるのは、
体の正面でボールをとる、とか、
ミットを見て(顔をそらさないで)投げる、とか、
ボールをよく見て打つ、とか
ですよね。
それは基本であり、非常に具体的な注意ですが、
一方で永遠のテーマでもあります。
あなたのコミュニケーション技術の上達のために、
そういう基本は無視できないと思うのです。

投げるのが上手になれば、際どいところにも届かせられる。
捕るのが上手になれば、少々暴投だったとしてもカバーできるようになる。
でも下手なままでは無駄な労力や多くの苦痛を伴うでしょう。
そこで才能を云々するのは非生産的ですが、
技術をあげるための練習方法や着眼点について語るのは、意味のあることだと思います。


ですが今回はもう少し別の角度から、
もっと具体的に書いてみたいと思います。


分かりきった嘘というのは私も嫌いです。
人が分かりきった嘘をつくとき、
「別にばれてもいいや」と思っているからです。
恋愛でも、相手が「忙しい」とか「疲れてる」とかで誘いを断るようになったら、
やばいなと感じます。
本当に大切な人、一目置いている人に対しては、仮に嘘の理由を言うにしても、
ちゃんとばれないようによく考えて嘘を言うと思うのです。
分かりきった嘘は、意識的であるにせよ無意識的であるにせよ、相手をなめている、
あるいは嫌われようがどうなろうがどうでもいいと思っている現れだと思います。
「もうあなたにはちゃんとした嘘を考えるのもめんどくさい(価値がない)」
というわけです。
それは失礼で、傲慢で、心無い態度だと思います。

でも、あなたはそういう嘘にたくさん直面している状態にいる。
そして精神論ではなく、技術論として、改善の方策を求めている。

必ず成功するわけではありませんが、嘘に付き合うことで嘘をなくすという方法があります。
忙しい、と断られたら、
「そうか。大変なときなんだね・・・仕事?」
と、いったん受け止めた上で内容に踏み込んでいく。
仕事だと答えたら、
「いいね、仕事が充実してて、、」とか。
いやいや余計な仕事が多いだけだよとか答えたら、
「そうか、それは鬱陶しいね。無理しすぎないようにね」
と、まあその辺で引いておく。
で、次にあったとき、
「解決した?」
とか
「少しは楽になった?」
とか聞いてあげる。
もし相手が適当な嘘をいっていたのだとしたら、
決まりの悪い思いをしてまごまごします。
でも心あるひとなら、自分の発した嘘を相手が真に受けて自分のために考えたり
心を痛めてくれていたんだと知ると、少し反省したり、感謝して、次にはその相手に対しては、
もう少し真剣に対応するようになります。
こういう人は大切にしないといけないと感じるからです。

「疲れてる」と断られたら、
「そうか、じゃあ今日はゆっくり休んでね。元気になったらどっかいこう。」
と、受け止めた上であなたの好意は示し続ける。
で、
次にあったときに、
「ゆっくり休めた?」
「元気になった?」
「ちゃんと病院行った?」
などと聞く。
それに対する答えも嘘だっていいのです。
でもあなたが相手の言葉をちゃんと受け止めて、
忘れないでいてくれるんだと分かると、
今度は逆に嘘をつき続けることがしんどくなって、
ほんとうのことを答えてくれるようになってきます。

少なくとも、こうしたやり取りを繰り返す中で、
友達になれる人(だんだん対応が変わってくる)と、
関わらない方がいいひと(相変わらず分かりきった嘘をつく)
とが浮き彫りになってきます。

あなたはこういうのを茶番だと思うでしょうか?
善人ぶれと言ってるわけではないのです。
嘘に付き合う。
嘘をそのとおりそのまんまに聞いて、
「もしそれが本当だったら」というところで誠実に接していく。
それは
「私はあなたを信じています」「私はあなたにとことんつきあいます。」
ということを態度で示しているように、
人には見えるのです。
そして相手はあなたを裏切ったり、
適当に扱うことができなくなる場合が出てきます。

ほんとうは疑ったまま、そういう言動をとるのはペテンだとあなたは思うかもしれない。
でも人の本音を確実に確かめるのはテレパシーでもなければ不可能な訳ですから、
人間関係は常にどこかで疑いや不安も抱きながら進行していくわけです。
だから嘘だと思っても、嘘に付き合うつもりで相手を信頼していくというかかわり方は非常に現実的です。
なぜならそれによって、実際に関係が本当のことを語り合える関係へと徐々に変化していく場合が多いからです。
それに「分かりきった嘘」と思っても、自分の解釈が間違っている場合だってあるのです。

私は昔ある女性と知り合って、彼女から上記のようなことを学びました。
私は最初、彼女は何でも真に受けるから、誠実でいなくてはという気になりました。
そしてあるとき、彼女は本当は全部分かっていて、俺は手のひらの上だったのかなと気づきました。
足先から一瞬すごい恐怖感がこみあげてきて恥ずかしくなりました。
なんだか敗北感を感じましたが、それは悪い気分ではありませんでした。
そして、彼女を尊敬とともにもっと大切に思うようになりました。

その後、エリクソンという世界的に有名な心理学者で、
天才といわれたカウンセラーだった人の逸話を聞いて、
また新たにそのことの重要性を知りました。

彼は、自分の患者(精神病の)が例えば部屋で釣りをしていると、一緒に絨毯の上で釣りをしたそうです。
悪霊と対決しているというと、一緒になって悪霊と戦ったそうです。
そのことの深い意味や効果は私には分かりませんが、
彼がそういうやり方で極端な非現実の世界にいる人をも癒したということに、とても可能性を感じます。

嘘につきあうのはなく、直接本心を引き出したいときは、
YES,NOで答えられるように質問するのがいいと思います。
人はストーリーを語らせると結構うまくごまかせますが、
相手の目を見てシンプルに答えるのはかなり難しいからです。
なぜなら、言葉がシンプルな分、声のトーンや呼吸、表情など、
すべてに注意を向けられてしまうからです。
あなたがいろいろ指摘しなくても、自ずと嘘が露呈され、相手はそのままではいられなくなります。

ですが、これは、あくまで本当にただ本心を知りたいだけのときの方法です。

私はあなたが人を馬鹿だと言おうが、世の中を邪悪な嘘に満ちていると考えようが、
それについて批判も否定もしていません。
自分にはそういう時期が長かったし、そのときの心境を今でも覚えているからです。

私は小学校の時から、親に「あんたはアメリカに生まれればよかった」と言われていました。
先生だろうが誰だろうが思ったことなんでもはっきり言ってしまうし、
潔癖症で相手を追い詰めるところまで言い募ってしまうので持て余されていました。
いじめもあった(先生からも)し、話が合う人が一人もいないのも辛かったです。
「やっぱり自分がおかしいんじゃないか、神経過敏なんじゃないか」と思ったり
「いやあいつらがアホやねん」と思い直したりして日々葛藤していました。
ヒリヒリした、針一本落ちただけですべて崩れてしまいそうな不安定な心を守るために理論武装して、
自分を正当化する理屈にしがみついて、世の中みんな敵みたいにして悪態をついて喧嘩腰で生きていたころ、
まっとうな正論みたいなことはまったく心に響きませんでした。
だから、あなたが精神論や人格論に耳を貸さないのは理解できます(と言っていいと思います)。
ですが、あなたがこのQAのなかで、乱暴な表現を使っていても、
決して人を傷つけたり復讐したり、人から離れたりといった提案には賛同していないことに、よい方向性の感触を感じています。

あなたは否定するかもしれませんが、あなたは本当は人間が好きなのだと感じるからです。

私は「あなたが変われば世界が変わる」とは言いませんが、
私にとっての世界は20代前半のころと今とでは全く変わってしまいました。
人が変われるのは本当です。
ほんとうは、精神論というのは念仏や念力みたいなものではありません。
自分の言動を観察して、
「あのとき自分はほんとうはどう感じていたのか」
「ほんとうはどうして(何て言って)あげたかったのか」
といった本心と、実際の言動との乖離を観察して、
少しずつ、自分の実際の言動を改めていくものです。
観察、フィードバック、フィードフォワード。
要は自分と向き合うということ。
それは技術を磨く場合でも同じだと思います。
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質問の目的が「よりよく生きるための処世術を求めること」であるのなら、「ウソを吐いた」とkneisslさんが見なしている実例を一つ一つ具体的に吟味することが必要だと思います。

kneisslさんは例えば、どのような具他的な事柄を見て、それは、「ウソを吐いている」と考えているのでしょうか? それによって対処方法は全く異なって来ると思います。

例えば、「リンゴは酸っぱい、ブドウは酸っぱい、柿も酸っぱい、夏みかんも酸っぱい、要するに、果物は全て酸っぱい。」と考えている人がいたとすると、いや、そうではないだろう、「確かに、夏みかんは酸っぱいが、リンゴは酸っぱいこともあれば、甘いこともあるし、柿は渋いことはあっても、酸っぱいことはないだろう」と考える人もいると思います。何事も具体的事例に基づいて話せば、より現実的な議論ができると思います。

「ウソを吐く」について言えば、「ウソ」にも様々な種類の「ウソ」があると思います。例えば、「事実に関するウソ」、「評価に関するウソ」、「自分の気持ちに関するウソ」などがあると思います。どの種類の「ウソ」に対処するかによって「処世術」も異なると思います。

「事実に関するウソ」の場合は、ほーっておいても淘汰されることが多いと思います。仕事でウソを言ったら、組織の中で評価されなくなります。お客さんにウソを言ったら、2度と買ってもらえなくなります。卒業校を詐称すれば、議員をやめなければならなくなります。粉飾決算をすれば、逮捕されます。

「評価に対するウソ」の場合は、それを「ウソ」と見なすかどうかで、世の中の議論が割れる場合が多いと思います。例えば、「小泉政権の構造改革は多くの実績を生んだ」ということを、「ウソだ」と考える人もいれば、「本当だ」と考える人もいれば、「どちらかよくわからない」という人もいると思います。この場合、自分が「ウソ」だと思っている人にとっての「よりよく生きるための処世術」は何でしょう? それは、反対意見にもよく耳を傾け、その妥当性を吟味し、それでも、なお、「ウソだ」と思うのであれば、その根拠をきちんと示した上で、自分は「ウソだ」と思っていることを主張すれば良いと思います。大切なことは、よく吟味せず「相手は間違っていて、自分は正しいのだ」という先入観に捕らわれないことだと思います。

「自分の気持ちに関するウソ」というのは、例えば、会社の上司の子供を自分は「不細工で醜いガキだな」と感じていても、「まー、かわいらしいお嬢さんですね」というような「ウソ」です。これは、処世術的には「ウソを言っても”実害がないのなら”、相手の気持ちになって、相手が喜ぶことを言う」のが正しいと思います。また、そんな妥協をしたくないというのであれば、「美醜や好悪」は相対的なものであり、絶対的基準はないことを考えれば、「不細工で醜いガキだな」というのも、一つの側面でしかなく、別な側面として「かわいらしいお嬢さんである」という側面もあるのだということもできます。従って、「かわいらしいお嬢さんである」と言ったとしても、それは、客観的にはウソではないと思います。

以上のように、たとえばの例として3つのタイプの「ウソ」を挙げましたが、kneisslさんのおっしゃっている「ウソ」は具体的にはどのような「ウソ」ですか、ここで挙げたようなレベルの低い「ウソ」ではないとお考えかも知れません。それならそれで、やはり、具体的に吟味してみることが、現実的な処世術を考える契機になると思います。
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前回、前々回の回答を全否定するようなことになるかもしれませんが、回答させていただきます。


 こと、表現と言うことになると、自己満足に囚われ、上手く流れることができなくなる。表現することで、上手く流れれていないことに気付くとも言えます。
 耳の痛い話ですが、私はそうです。自己満足に囚われ、創作の流れが滞る、もしくは起源となるアイデアまでもが台無しになることはよくあって、そういう場合、善い作品は生まれません。
 コミュニケーションにおいても、自己を満たすことに囚われてしまうと、乗りのよくない行為をしてしまったりすることで、交流が滞り、がっかりします。スベリです。
  
社会共通の仮面を強要されることで、素顔の半分以上も隠れてしまって悲しい。
 着けてなくても、社会に許容される場合があります。あなたの素顔の振る舞いが、とても自然なときです。本物の仮面をつけているように、社会からは見えるのです。素顔だけが本物ではないと思います。
本物の仮面と、社会に着けさせられた仮面があります。
過去には、仮面がありがたいとされた、無秩序の時代もあったでしょう。
本物の仮面は、アイデンティティであると思います。
結局、仮面も千差万別。同じような仮面は、似て非なるもの、ではないでしょうか。
あなたの仮面が本物で、それゆえ特異と見られたとしても、それが仮面である限りは、社会で生きるに損をすることはないと私は思います。素顔で生きていける人間は、本物の仮面を持っていると言うことです。それは、仮面の視線に耐えうる素顔と言ってもいいかもしれません。仮面は素顔に欺かれる。
この本物の仮面(アイデンティティ)が、自己満足を超える機会を、与えているのは明白です。
アイデンティティが何処に依拠するかと言えば、素顔だと思います。まずいものを喰えばまずい顔になる素顔です。
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 すみません、Kneisslさんのお気持ちとは別のことですが、個人的に今夜読ませていただいたtokytimeさんからの言葉に、心から感謝いたします。

言葉がすべてではない、ということですね。また、とりわけ、

「もし他者からネガティブな感情を受けても、受け取らないことです。
仏陀に対し、或る者が悪口を言ったときに、仏陀は
『私はその言葉を受け取らない。受け取られなかったその言葉は其のまま発した者に返るであろう。』
と言ったそうです。
私もいつもこう在りたいと思っています。」

 これは、本当に何事も自分次第であるということを教えてくれます。ありがとうございました。
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No.4,8,13です。


またまたお邪魔いたします。
質問者様に謹んで別の観点からの意見を申し上げます。

質問者様は言葉の「嘘」,「真」を問題にされていますが、人が他者から受け取っているのは本当に「言葉」そのものでしょうか?
人は全てのものに感情を込めます。
芸術家が作品に込める思い、感情のみならず、ありとあらゆる人が自分が発する言葉に感情を込めていると思います。
そして、人が他者から受け取るものは、実はこの目に見えない感情だと思います。

ですから、「賞賛の言葉」に「ネガティブな感情」を込めると、その言葉は「皮肉」となったり、
例えけなす言葉であっても「ポジティブな感情」を込めると、その言葉は「励まし」になったりするのです。

人は無意識の内にこの込められた感情を色んなレベルで受け取り、言葉を解釈しているのだと思います。

ですから、「嘘」か「真」かだけを問題にするのは言葉の真の意味を理解していない事になると思います。

一番の問題は真に込めた感情は何かということです。
そしてそれが自分と相手に対してどういう影響を与えるかです。
黙っていても、感じのいい人も居れば、何もしゃべらないのに非常に感じの悪い人もいます。「雰囲気」という言葉もあります。
すさんだ感じの町もあれば、活気溢れる明るい町も有ります。

この誰でも感じることの出来る説明出来ない「感じ」「雰囲気」はどこから来ると思いますか。

「言葉」だけでなくあらゆるものに込める事のできる「雰囲気」・・・・私はこれを「波動」と呼んでいるのですが、この「波動」が人に大変大きな影響を与えていると思います。

「波動」にはあらゆるレベルのポジティブなものからネガティブなものまであるようです。

ポジティブな「波動」はそれを発する本人を活気付け、明るい前向きの気持ちにさせ、さらに周りに人にも同じような影響を与えます。

ネガティブな「波動」はそれを発する本人に「暗い負の感情」、自己否定、他者否定、嫉妬、ねたみ、憎悪などの感情を巻き起こし、増幅させるだけでなく、周囲の人にも悪い感情を引き起こさせ、気分を害します。
そういう状態が続くと気分を害された人はやがて離れて近寄らなくなり、同じようにネガティブな波動を心地よいとする人だけが残ります。
そしてお互いにその負の感情を増幅し合っていきます。

ですから、いつも自分の感情に気を付けなければならないと思います。
自分がどんな感情を出しているのかいつも見張り、コントロールする必要があると思います。
もし他者からネガティブな感情を受けても、受け取らないことです。

仏陀に対し、或る者が悪口を言ったときに、仏陀は
「私はその言葉を受け取らない。受け取られなかったその言葉は其のまま発した者に返るであろう。」
と言ったそうです。
私もいつもこう在りたいと思っています。

自分の為にも周囲の人の為にも、いつも高い「波動」で居たいものだと思います。

質問者様はこの感情の影響についてはどう考えていられるのでしょうか?
もし、相手のみえすいた嘘に対し、ネガティブな感情を巻き起こすなら、自分だけでなく相手をも害することになると思います。
そして他者に与えた影響は良いものも悪いものも必ず自分に返って来ます。(因果応報の法則)

質問者様から見た世間と思いこんでいるものは、質問者様自身の目(概念や感情)つまり偏見によって定義され、作り出された主観的世界に過ぎないと思います。

質問者様の閉鎖的主観のみで捉えられる程世界は狭くありません。

もっと明るい他の世界観を見出してみては如何ですか?
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謙虚な気持ちで勉強を続けましょう。

それが処世術です。
世の中がアホらしいのが問題ではありません。世の中をアホらしいとしか思えないあなたに問題があります。
全くの痴呆者でないご様子ですが、あなたの理解できた事を積み重ねると、世の中アホらしくみえるというのは、あたなの理解できたことが巨象の一毛であるからです。象の剛毛1本を見て、確かに普通の毛より太いが、だからといってこんな毛で木を運ぶなんてできはしないと思うようなものです。象の毛1本で木を運ぶことはできませんから、その点ではあなたの主張は正しく共感する人もいます。
でも、象が木を運べるのは本当のことです。象といってもその毛1本しか理解できない人に、本当のことを理解させることは不可能です。
象を正確に把握できなくても、生き物で、人間が飼育できて、体格は人間よりかなり大きいことだけ知ると象は木を運べることがわかります。
もっと勉強して知識を増やしましょう。そうすればこんなバカなことは疑問に思わなくなります。勉強なまけてませんか?
といっても理解しようとか勉強しようとか思わないからこそバカなんでしょうが。
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後からバレる嘘は自分に帰ってくると思っています。


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