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ウソ自体が常に悪であるとは思いません。
しかし、この世の中には、わかりきったウソを吐くという、ばかげたことが往々にしてあります。
私自身はそのような、わかりきったウソをつくことに非常な嫌悪を覚え、なるべく本音を語ろうと思うのですが、そうすると、社会で生きにくくなる。
わかりきったウソは、結局、誰もが暗黙の了解として承知の上であり、それでもなお吐くものだというのなら、それは「ウソだとわかっているようなウソはウソではない」というパラドックスを包含していることになり、つまり“ウソを吐く”という行為自体が形骸化してしまうのではないでしょうか。
そこで、私のように、わかりきったウソに反吐が出た経験がある方、そういった人間がよりよく生きるための書生術に関する、知恵をお貸しください。
「それが真理です。諦めなさい」的な発言は建設的ではないので、ご遠慮いたします。

A 回答 (36件中21~30件)

よく読んだら面白いことが書いてあったので横レスしたくなりました。



>この世の中は、平等なんかじゃありません。
>それなのに、誰にでも同等のものが与えられているような顔をしている。

これは、まさに正鵠を射ています。至言です。
平等なものが与えられているような、ではなく、「平等に不足しているような」が
より的確な表現です。
こういう言葉があります
「皆、自分の所得を正しくはいいたがらないが、所得の結果は見せびらかしたがる」

>皆が皆、わかったような顔をしてるんです。
そうではないです。言葉では言わずに、示威行為に出ます。
ですから、持つものと持たざるもの
どちらがイヤラシイかというと、いうまでもなく、持たざるものです。
だって、持ってないのに持ってるフリするほうが卑屈でみじめでしょう。

>別に不平等が悪いとは思いません。不平等自体に罪があるとは思いません。
はい。おっしゃるとおりです。

>ただ、さも罪がないような顔をして、堂々とウソをついている、

って、それ「持てる者」が嘘ついている・・って話ですか。
それじゃ言いふるされたことの繰り返しですよ。面白くないですねぇ
新味に欠けます。

私は、持てるものは、無言であって、隠しているのだと思います。
心のそこでは持たざるものを蔑んだりしません。そもそも比較の対象に
していませんから。
これは、金銭に限らず、才能、学歴、資産、センス、女性経験
なんでもそうです。

>それどころか、自分がウソを吐いていることに気付いてなかったり、

持たざる者がつく嘘は見栄と呼ばれます。
見栄を嘘と気がつかないでいるとしたら哀れですね。

>それですごく一部の人間を傷つけているということになっているということが
>わかっていないという人間が多すぎるように思います。

そうですか。持たざる人が平等を装う嘘がそんな風に誰かを傷つけると
したら、それは誰でしょうね。

持たざる者が持てるものの嘘に傷つくとしたら、それは巧妙に仕組まれた
罠というか、資本主義経済の摂理そのものでしょう。
頭の悪い子が必死で勉強して儲かるのは、受験産業と一部の私学。
でも年収700万のサラリーマンが年に300万もかけて息子を東京の
私学に通わせても、就職できる保証すらない。
1200万もの金が無駄に消えるくらいなら、鮨職人にでもさせたほうが
よほど本人のためになったはず。

努力すれば必ず報われる。これは持てるものが流布した嘘というより
持てる者を真似して、持たざる者が勝手に思い込んだ誤解ではないで
しょうか。

そうですね。できもしないのに、やればなんとかなる。そういう嘘を
つくのは、持たざる者ですね。なるほど。

質問者さまは、お父さんや無能な上司が嫌いなんですね。

>麻痺してしまっている。ウソに罪があるかないかさえ、わからなくなっている。
>弁別さえしてないんです。

嘘というから言葉に棘が生まれます。嘘と意識せずに発言しているものは
もはや誤謬というべきです。
ようするに、無意識の誤謬は、錯誤であって持たざるものの特色というか
持たざる者の特性に近いものです。
だって経験してないから知らないんだもん。
オヤジが東大医学部出ていたら、東大の試験がどれだけの頭脳を要求
するかわかるけど、田舎の土地成金のオヤジにはわかりません。
わからないけど言ってみたくなるのは、妄想であって嘘とは少し赴きが
ことなる。

>手放しで、無益で邪悪なウソを撒き散らしています。
というか、この世は持たざる者が作り出した間違った妄想に満ち溢れて
いるということでしょう。

>この世の中は、反吐の出るようなアホらしいわかりきったウソで満ちています。
ウソをウソと見抜けない人がいる限り、それはなくなりません。
というか、そういう嘘にすがって生きている人もいるのです。・・・ってこれも嘘かな?


>ウソをなくしたいのではありません。
要するに人をおだてる嘘はいいけど、不可能なことを可能みたいに言うな
人は、みな条件が違う
質問者さまのおっしゃりたいのはそういうことですか?

それってあたりまえといえばあたりまえ。
自分の器というのが最初からわかっていたらこんなに楽なことはない
です。ある人には真実である人には不可能なことの区別は
本人が自覚するまでトライしてみてわかること
意識と意思が決めることでしょう。
腐れた社会のちっぽけな個人にも、それくらいの自由度は
保証されているのです・・・ってこれも邪悪な嘘?

>無益で邪悪なウソはなくしたい。
論理矛盾です。
何が真実で何が嘘かとは、個人のバックグラウンドによって差がある。
それは、世の中不平等という最初の前提です
持っているもの(能力や才能や所得など)と、可能性の差異をもって
嘘か夢か理想か妄想かを決めるとするなら、その判断は個人個人によって
違います。
ですからあたかも万民共通のものみたいに言うな
それはお気持ちはわかります。

これを読めば誰でも株で1億円稼げる

確かに稼げる人もいる。だから稼げるという可能性が1%でもあったら嘘では
ないけど、「誰でも」というコピーに嘘がある。

確かに。



>真実を覆い隠したり、平気な顔をしてのさばるようなウソは人を傷つけます。
正確に言うと、一部の人が傷つきます。
純粋無垢で夢を描く持たざる者が・・・ですね。

>「人はウソを吐かないと生きていけない」そんな真理は誰にでもわかっているし、
はいはい。

>訳知り顔で言うようなことではありません。
でも、ここで質問者さまがおっしゃっていることの大筋は大昔、マルクスが看破した
ことに酷似しています。

>排除すべき、それに、もっと排除できるようなウソはあるはず
それがなくなると、人間の成長が止まるのは、北朝鮮を見ていただいたらわかります。
要するに資本主義の根幹にある恣意的思い込みが実は庶民にせこいマンション買わせ
私のようなジジイに高いジャケットやゴルフクラブを買わせ、馬鹿な小娘のためにガキに
ヴィトンのバックを買わせ、せっかく貯めた年金を◎◎ファンドの投資に使わせ
とにかく資本主義社会はそうやってなんとか食いつないできているのですから
どうしようもないと小生は考えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

結局、どうしようもないというところに落ち着いてしまいました。建設的ではないので、技術論としては無価値です。

お礼日時:2005/10/06 21:45

社会で生き難いのが、それほど嫌ですか。


硬い刀身は直ぐ折れる。適度に柔らかい刀で、世を捌く。一本槍は一本槍でも、あなたはどんな槍か。
俺の刀はでこぼこで、刀らしい形もありません。こんな刀で何処斬るの?っていうか斬って使うの?ていうか、刀、使わなきゃだめですか?
という感じです。
 
賢くならんことには、嘘を捌けないでしょう。
リテラシー高く、世相を読み切ることです。解読し、手を打つ。投機家か、投資家か、それとも何かの大物か。世を読み切らないまでも、この波ならば、俺に相応しい、そう思えるような「波が立つところ」へ、行きましょう。隙のない、自然な構え。
それが、処世術です。
でも、俺は成す術を持たない。
答えを得ていても、答えは掴まない。
より善くなんて、下らない事だ。
新たな生き方を建設するより、既にある最善の在り方(NOTHING)を選びなさい。
 
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 kneisslさんがもたらすテーマ、ならびに回答者さん方のお返事が興味深いので、と言うか、私にとってしょうもない、気分を腐らせる内容があまりに多いのがこのネット世界であるのに比べ、少なくともこの主題は「自己」というものを真摯に考えるために、とても稀れな会話だと思うので、また立ち寄りますご無礼をお許しください(儀礼的な言葉)。



 CUE009さんが紹介なさった近松門左衛門の「虚実皮膜論」・・『虚(うそ)にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰(なぐさみ)が有るもの也』。この発想は多分、親鸞あたりも何かの中で語っていたような憶えがあるのですが、虚と実の関係についての面白い考察です。
 この世はありとあらゆるものが虚と言えば虚であり、と同時に実と言えばすべてが実である、と。ことによると、大切なものはその虚と実との相克から搾り出される一滴、ニ適・・そんなあえかな滴(しずく)ではないか、と。
 
 二極対立の考えは(作家、ミラン・クンデラ氏によれば)ギリシャのパルメンデースによって思考され出したそうですが、そのパルメンデースの極端と極端の対立が西洋的であるのに対し、アジアの思考法というのは、もっと茫洋としていて、例えば荘氏などは「混沌を楽しめ」と言いますし、道鏡の思想なども混沌を否定していません。

 kneisslさんの思考の規範は、「この世は馬鹿と衆愚」だという辺りだと見受けられますが、ある意味、そういってくくってしまうことも、マス的であるという弱点を見せてしまうというのも、また事実かもしれません。何故なら、その情報そのものも、メディアという道具によって、何らかの作為性とともに不特定多数に一方的に送られてくるものに過ぎないからです。そして私自身、汚れた水を手で漉くって飲む子どもを、本当にこの目で見た経験もないわけです。

 弓道の弓。真っ直ぐな竹があそこまで弧を描くかのようにたわむあの形状。職人は鞍のような道具を使い、竹の本質を「いじめ」て、弓を作ります。竹にしたらいい迷惑ですが、そこで弓になるもうひとつの生き方を与えられ、良い弓はその万力でたわんだ反動によって、発しと射られた矢を遠くに確実に飛ばすことができます。
 真っ直ぐであることは大事なことです。ただ、たわむことにより、地面に生え天に向かって命ながらえる竹群の中の一本の竹として生きる以外の形や役割が与えられる、ということです。

 hakoburuさんやtokytimeさんのおっしゃることも、とても示唆に富み、私も救われる思いです。まだまだ私も未熟者で、先述したようにこういったサイトでは負の要素を人様から頂戴し、それに対して完全に口を閉ざすことが出来切れず、結局そこからまた負の要素を心に発生させてしまう愚を多々繰り返しております。まだまだ・・です。

 失礼しました。
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再度、No.8です。


回答へのお礼を有難うございました。
幾つかの質問に対しお答え致します。

#心の持ちようで・・・・
と有りますが、私の言っている事は心の持ちよう等ではなく、「決意」と「それに基づく行動と忍耐」です。
精神論等ではなく、知恵に基づく実践的な処世術です。

世界の不平等と戦争と貧困には必ず原因があります。
「貧困」が存在するのはその存在を黙認してきた人々の責任です。貴方ははこの貧困をなくす為に何か少しでも行動していますか。
「戦争」をなくすために何か行動していますか。
世界中の行動していない全ての人に原因があると思います。

世界の戦争の多くの原因は富の偏在と貧困に有ると思いますので、貧困を黙認してきた人には戦争の責任もあるかもしれません。

仏陀は常に「因果応報」と「輪廻転生」を説き、キリストも「蒔いた種は刈り取らねばならない」と言って来ました。

世界の人々の間にある不平等と見えるものは、因果応報の結果によるもので原因は前世にあるかもしれません。

努力せずして、過去の行為の違いを全く無視して、結果の平等だけを要求するのは不当なことではないでしょうか。
勿論だからといって不幸な境遇の人を分かっていながら黙認することは、また新たな負の未来の原因を作るので要注意です。

又、質問者様から見て、不当にも、過剰に何らかの恩恵を受けていると思われる人が居るとしても、ある見方では因果応報の結果ともいえるし、違った見方からすると全く別の苦しみを経験しているかもしれません。

不幸な大金持ちはこの世にゴマンといます。
西武のオーナーだった堤義明氏を真に幸福だと思いますか?

貧乏でも幸せで充実した人生を送っている人も沢山います。
質問者様はマザー・テレサを不幸だったと思いますか?彼女は心の中に真の富を築きました。

不幸な戦争においても、経験することは人により種々様々です。人は不幸な経験からでも学ぶことが出来る尊い存在だと思います。

全て原因があって結果があります。不平等は存在しません。因果応報の法則が働くのみです。

質問者様の「現在の状況の原因」は「前世と現世における今までの行動」にありますし、質問者様の「現世の動機と行為」によって「来世の結果」が導かれます。

「因果応報」という法則は万人に平等に働きますが、その結果はある時点において横並びに比較すると一見、不平等にみえます。
因果応報の法則の中で営まれる人生の一断面を比較し合っても無意味です。
人と自分を比較しても何ら解決にはなりません。

自分の人生の創造主は自分自身です。
自ら招いた結果を粛々と受け、そこに含まれる意味を理解し、そこから学び、向上の為に行動あるのみです。

此処までを前提として、私の回答、No.4、No.8をご再読下さい。
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#5です。

ご返事ありがとうございます。
>正直者ほどバカを見る”という不条理の解消
:これはご懸念のように確かに難しいでしょう。
しかし「損して得とれ」ということわざ?もあります。

損してもいいんじゃないですか?
重要なのは「損をしている」と思わないことでしょう。
状況によるのでしょうが、大局的には実際損だとは思えません。
誤魔化しだと怒られそうですが「人間万事塞翁馬」ということわざもあります。
信念を貫く以外に無いのでは?
ただ「力なき正義は弾劾される」という箴言もあります。
抹香くさくて申し訳ないが、自信を持って大手を振り、ひたすら信じる道を「静かな熱意」を以って歩む。

しかし、傍らに佇む人の手を引きずって道中に加えようとはせず、むしろ歩みの速度を緩め、彼(や彼女)が共に歩き出しやすい歩調に切り替える優しさは必要でしょう。
この歩調を合わせるということが、先に回答させていただいた「安心させる」ということにもつながるかもしれません。
決して向きを変えるわけではありません。
相手がついていけそうだと感じれるか否かです。
自信があればそれは可能になるでしょうし、やがてわかる人には自然と受け入れられるでしょうし、それで十分だと思います。

kneisslさんの投稿は以前から興味深く拝見していまして、確かテニスがお好きなようにお見受けいたします。
もっともらしい譬えでお恥ずかしいが、ラケットのグリップを力一杯握りすぎると恐らく良い球は打てないような気がします。
やはり少し遊びを持たせて柔らかくスナップを利かせて・・・、ということになるように思うのですが、それと似ているようにも感じます。

中にはそんな持ち方をしていたら、いつラケットが外れるか危なくて真似できない、などと考える人がいても不思議ではないでしょう。
でも、自信を持ってスイング(と言うんですよね)している内に、その良さが次第に理解され、やがて広まっていくのではないでしょうか。
無理矢理指を開かせようとしても百害あって一利無し、という結果に終りそうです。
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この回答へのお礼

再度、回答ありがとうございました。

ある種の反復を重ねていると、実際の人格を反映しながら、ネット上にもうひとつの自分が出来上がる、皆さんに既知感を教えられつつ、よく見ているんだなということが、面白くもあり、恐怖感にも似たものがありました。

閑話休題。

「自分の信念を貫く」……私が中学生の時に立てた、学期目標を思い出します。自分一本槍なんでしょうが、アホで腐って骨のない奴たちが多いって、結局嘆くだけしか出来ないのかもしれませんよね。結局はそこに収斂していく。

お礼日時:2005/10/05 21:35

 Kneisslさん、お久し振りです。

質問を読んで「もしや?」と思いましたが、当たりでした(先日、中3女子の質問へのご回答も拝読)。今回の主題も面白いです。

 例えば・・

 A子。彼女は自分が他所の家から今の家に貰われた子であることを、肌感覚で、そして3歳ごろの記憶で、さらに父母の矛盾に満ちた言葉で気がついています。 
 A子をとりまくA子に関わる過去の事実ならびに親子関係はすべてウソです。でもA子はそれらのウソをウソと知りつつ、周りの誰にもそれを言えません。それは怯え? そうかもしれません、でも最大の理由は、もし正直に
「ねえ!ウソは止めてよ。ウソにウソを重ねるのは止めてよ」
と言ったら、その瞬間からA子の家にどんな恐慌の嵐が吹き荒れるか、目の前の父母がどんなに愕然とするか、どうやってその後(とりあえずの)平和な環境が戻ってくるか・・、A子には分からない。だから、A子は何も言えず、何も気がつかない振りを演じます。

 ウソは反吐。ましてや、自分に関する出自のことでウソを言われるのはつらい。

 でもA子は成長するに連れて学びました。
 
 自分次第なんだと・・

 「虚空、よくものを容る」 
 あなたの心を磨くことに努めれば、それでよい・・と。
 
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私もどちらかといえば嘘を辛く感じるタイプなのですが


何の因果か、広告代理店という最も嘘くさい業界に身を置き
はや20年が経とうとしています。

ただ、広告の勉強をしていて
ひとつだけ、物凄く触発されたものがあって
それが、近松門左衛門の「虚実皮膜論」なんです。
『虚(うそ)にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰(なぐさみ)が有るもの也』
というヤツですね。

広告とはコミュニケーションの仕事であって
コミュニケーションというからには他者が存在しないと成り立ちません。
自分に嘘に反感を覚えてしまう気持ちはよく分かるのですが
その感情って「他者が不在」じゃないかなぁ、と思うようになったのです。

言い方を変えれば「自分を傷つけないようにするか?
それとも、相手を傷つけないようにするか?」で
真実は変わってくることがあると思うのです。
これは恋愛なんかを考えれば、いくらでもケーススタディが思いつくでしょう?

わかりきったウソ、と仰いますが
じゃあ、何が真実なの?と考えると、実は非常に難しい筈です。
蛇足ながら、私個人は気付いたら「空思想」に辿り着いてしまった。
色即是空、空即是色です。
私は「パラドクス」こそが最も真実に近いものだと思うのです。
真実/嘘といった単純な二分法こそが、むしろ偏見ではないかと
疑うべきではないででょうか?
ウソだとわかっているようなウソをついてしまう自分という事実こそ
冷静に見つめる価値があるのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございました。

難しい話でなかなか理解できなかったのですが、観念論を具体的な人生の方策とするのは難しいように感じました。確かになにが真実かはわからないが、ウソは山ほどあると思っています。真実がなにかわからないからこそ、ウソが山ほどあるんだということも。でも、そこをしょうがないとうやむやにしたくはないんですね。もし、それで満足なら、もう生きてる意味も見失ってしまうっていうか、なにが真実か知りたくて生きてるって、そういう部分あると思うんですよ。だから、ウソをふるいにかける作業を、俺は怠りたくないですね。無感覚にしてたらそれでいいのかも知れない。ましてや、恵まれた環境にある人間は、何も考えなくたっていいのかもしれない。でも、俺は嫌です。正義感とか道徳とか、良心とかそんなカッコいいもんやなくて、人間として人間の本質を探ることは最大の関心事だと思っています。

お礼日時:2005/10/05 18:44

見え透いた嘘はいけない



これをテーマにした小説を筒井康隆が書いていたような気がします。

逆に正直に言うと人を傷つけることがあります。
かといって何も言わなくても、無言であることが多くを語ってしまうこともあります。
なぜなら人は、自分が傷つくことをあえて相手に尋ねてくることが多いのです。

「部長。これでどうでしょうか」
「うーん。いまいちだなぁ。もう少し、インパクトのある表現にはならんのか」
「いろいろ考えてみましたが、私には才能がないのかもしれません」
「そうだよ。山田。お前には、才能はない。マーケティングなどという感性も頭脳も必要と
 する職場は向かないなぁ。どちらかといえば、リスト片手に電話かけまくるような営業が
 向いているんじゃないか?」
「なぜ、そういうことはもっと早くいってくれないんですか?」
「それは、お前、ストレートにそう言ったら、せっかくやる気をもってチャレンジしているお前
ががっかりするだろうと思ったからだ」
「ちっともがっかりしません。だってオレ自分が馬鹿だってわかっているもの。でも会社は
 オレに、難しいことをやらせたがるのは、どういう魂胆なのかって理解できずにいました。」
「べつに魂胆なんてないさ。山田がマーケに配属されたのは、元の上司がお前を毛嫌いして
 いただけのことだ。社長が思いつきで、『マーケティング本部』をつくるとかいったときに
 スタッフを集めたんだが、誰も自分の部下をとられたくなくて、はみ出しモンばかりが
 集められたとういうことだ。」
「それは、知っていました。ですから、それなりに仕事をやればいいって思っていたら
 部長が、ひとりで燃えてしまって、高い理想を掲げて突っ走るものだから」
「そうだなぁ。おまえらが、オレに期待して何かでっかいことやろうなんていうから
 オレもつい、その気になってしまって」
「そんなこといっても、部長どうせ2年後にうちの会社ってK社に吸収合併で、俺ら
 中途採用は、おそらく子会社出向ですよ。今頑張っても何になるんですか」
「オレは、ここで一花咲かせて、K社の重役のポストを狙っているんだ。」
「部長はそれでいいけど、俺らはどうなるんですか」
「骨は拾ってやるといえば嘘になるな。オレはわが身のことで精一杯だからなぁ」
「そうでしょう。ですから、部長、この企画はこの内容でOK出してくださいよ。
 オレ、まだまだ片付けなくちゃいけない仕事が山積みなんです。」
「妥協はしたくないんだ。」
「K社の役員はこんな仕事見てないですよ。大丈夫だから」

なんか、本音一本槍の世界も結構寒いですね。
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No.4です。


質問者様のNo.3の方へのお礼を読み、質問の意図を読み違えていたと気づいたので再び参加させて下さい。

質問者様の回答者様へのお礼のかもし出す雰囲気に非常に、この世(社会)に対する「嫌悪」と「反発」を感じます。

質問者様から見た社会は、人々のエゴと身勝手と冷たい仕打ちで満ちている様に見えます。
これで合っているでしょうか?

でも、おそらく、他の人から見た社会は別のもっと温かいものが感じらているのでは無いでしょうか。

同じ世の中に住んでいながら皆それぞれ別の社会に住んでいます。これは一体何故なのか・・・・

人は自分の世界を自分で作っている様だ・・・・という事に気付いていますか?
自分で一番意識しているものを人は引き付けています。

例えば、花の好きな人は町を歩くとアリトアラユル花に意識が向き、花を通して町を判断するでしょう。
ファッションに興味のある人にとって町を歩く事は流行を意識する趣味の時間かもしれません。
仕事で頭が一杯の人にとって町を歩く事は、仕事上の良いアイデアを練る時間かもしれません。

同じ空間に存在する人でも、全く同じ共通体験をしたとしても、人それぞれ全く違うものを見ていますし、経験しています。
なぜなら、彼らの意識が違うからです。
人は自分が最も強く認識しているものを常に意識の中に優先的に取り込んでいます。

つまり、自分の周りの世界は自分の内面の反映なのです。自分で自分の思うとおりの世界を実は作っているんです。
質問者様はどう思いますか?
この意見には賛成ですか?それとも反対ですか?

質問者様が社会に嫌気がさしているとしたら、それは自分で「世の中の人とはこういうもんだ」と認識している自分の観念に嫌気がさしているのです。
なぜなら、質問者様は随分ネガティブなイメージで世の中を見て、その通りの情報ばかり集めているからです。

質問者様と全く似たような体験をしても、ある人にとっては「この世は優しい気遣いで満ちている」とおもうかもしれません。
なぜなら、その人にとっての社会のイメージは「思いやりに溢れた社会」だからです。

極端な例で申し訳ないですが、私が言いたいのは質問者様の悩み、苦しみを無くせるのは質問者様ご自身以外には無いということです。

違った目で世の中を見るように努力してみて下さい。
その為にはまず自分自身の、社会における人に対する態度をこれまでと違ったものにする必要があると思います。
鏡に映った自分の顔を微笑ませるには、まず自分が微笑まなければいけません。
人に対する自分の感情をポジティブに変えてみてください。きっと何らかの変化が表れると思います。

苦しさの中から何とか光を見い出してください。
人生に対する観念を変えてください。
現在の体験から素晴らしい将来を導きだして下さい。
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この回答へのお礼

もし、個人のココロの持ち様で世界が変容するのなら、世界に不平等がありますか?戦争がありますか?貧困がありますか?
あなたが言っていることは、アフリカの飢餓で苦しむ人々に「おなかが満腹だと思いなさい」と言ってるようなものです。イギリスの最下層の人々に、「自分を金持ちだと思いなさい」と言ってるようなものです。
精神論で人が救われるというのは、ウソです。
真実を覆い尽くす、ウソです。我々は豊かな国、日本に生まれたから、そんなことを言ってるんです。そんなウソは、苦しむ人々を適当にあしらうだけだとは思いませんか?

こういうことを言うと怒られるかもしれませんが、あなたが平気な顔で、しかも正しいかのように、それを言っているのが俺は悲しいです。もしかすると、言っている本人がそんなことさえ気付いていない、俺が憂えているのはまさにそのことですよ。もう少し考えて、発言していただきたい。

お礼日時:2005/10/05 18:34

うそをつくなと人に強要するのはあなたの勝手なわがままですよ。

現実世界でうそなしでなんの益があるんですか。失敗やよこしまを持っているのが人間なんですよ。それらをより多く持っている(犯罪者でもない普通の)人の立場になってみなさい。すぐれない時の人の立場になってみなさい。いたずらに苦しめたいんですか。
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