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長篠の合戦についての通説の誤りが指摘され、新しい定説が普及しつつあります。


代表的なところでは

1、信長・家康連合軍の鉄砲「3千挺」という数字は誤り。せいぜい1千。

2、織田軍の鉄砲の三段撃ちはなかった。それぞれ勝手に撃っていただけ。

3、武田軍には、いわゆる騎馬隊(モンゴル軍のような騎兵隊)は存在しない。

4、兵力も、連合軍3万8千、武田1万5千はおおげさ。せいぜい連合軍1万5千~2万5千、対、武田7千から1万。

5、合戦の性質も、野戦ではなく、織田軍が築いた土嚢の陣地を武田軍が攻めるという「城砦攻防戦」だったのではないか。


長篠の合戦に関する賛成意見・補足・反論などをお願いします。

A 回答 (10件)

追加でいくつかコメントします。



長篠の合戦は、戦略目的を達成できたかどうかの観点で見ると、武田は長篠城
を攻略できず、織田・徳川は武田を撃退して長篠城を救援できたのですから、
間違いなく織田・徳川連合軍の勝利です。

織田・徳川両家とも、長篠の合戦の時点で武田領平定という狙いはなかった
のですから、この時点で甲斐・信濃に侵攻しなかったのは予定通りの行動でした。

この後、武田家は七年ほど存続しますが、その間に織田・徳川の諜略により、
武田家家臣はずたずたに分断され、最後の仕上げとして織田・徳川の両軍に
よって武田領が攻略されるわけです。
諜略が十分でない長篠の合戦の時点で、武田領が攻略できないのは、むしろ
当たり前のことだと思います。


次に騎馬の運用について。
伊達家の騎馬鉄砲隊といった一部の例外を除き、戦国時代で集団としての騎兵
は運用されていませんでした。
なぜかと言えば、戦国時代でも馬は高価であり、兵卒にまでまとまった数の
馬を用意することが困難だったからです。
(伊達家にそれができたのは、東北が馬の産地であり、他の大名に比べて
 馬の調達が容易であったからだと思われます)

せいぜい、小部隊での運用となりますが、小部隊では側面や背後からの奇襲は
効果がありません。あまりにも戦力として小さいからです。

戦国時代の合戦でも、姉川の戦いでの徳川軍や織田家の稲葉隊のように、
側面からの攻撃で相手を突き崩す戦いはありましたが、いずれも歩兵を中心
とした大部隊による攻撃でした。

戦国時代は総じて信頼できる文献が少なく、数多くの資料を読みこなして多角的
に物事を捉えないと、実像がなかなか見えてきません。
通説も全てが信用できるわけではありませんが、持論を展開するときは、
特に注意が必要だと思います。

この回答への補足

入力ミスです。

「私もNO.9の方の意見には疑問を感じていました。」
⇒「私もNO.7・8の方の意見には疑問を感じていました。」
に変更です。
申し訳ありません。

補足日時:2005/10/28 16:50
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この回答へのお礼

もっともな意見をありがとうございます。

『甲陽軍鑑』の記事によれば、騎乗するかどうかはその者の地位や身分によって決まっていたことが確認されます。
従って、黒沢映画に出てくるような「騎馬隊」は存在しなかった。
騎馬武者がいて、それが各隊の根幹をなしていれば、「騎馬隊」だと定義できるかもしれません。
しかし、それは当時の編成(身分のある者だけが馬に乗り、のこりは徒歩)からして、徳川軍で織田軍でも北条軍でも同じです。
そういう仮定をすると、「織田騎馬隊」、「徳川騎馬軍団」も存在することになります。
また、長篠の合戦では、連合軍が堀、柵、土塁の三点セットの陣で待ち構えていたので、普通に考えてもそこへみんなで騎乗して突撃、なんてことは考えられません。
また、『甲陽軍鑑』には長篠での騎馬軍団突撃説は織田方が宣伝したもので、現地の地形からしてもそれはなかったと主張しています。
合戦当日は、雨で田がぬかるんでいてとても馬が走れるような状況でなかったとも書いてあります。

武田騎馬隊の存在を主張する論拠としてよく登場するのが、『龍城文書』というものがあって、「敵は馬一筋に攻撃しくるぞ」と書いてある。
これは書式・内容からいって後世つくられた偽文書の可能性が高く、騎馬隊の存在を立証する史料とはならないのです。
また、これは当時の慣行から追撃戦での騎馬突撃を意識したものだと思われます。(追撃戦で馬が使われたので。)

お礼日時:2005/10/28 03:40

少々疑問点がありますので、僭越ながら横槍を入れます。


No.6,7の方の回答ですが、

>遠距離攻撃は弓、鉄砲、投石で槍は投槍。

戦国時代に、こんなことをする騎兵部隊が実在したでしょうか?
私の知識が不足しているかもしれませんが、そういう資料を目にしたことは
ありません。

武田家には投石部隊は実在しましたが、これは足軽のはずです。
弓騎兵が実在したのは鎌倉時代の話で、騎馬鉄砲隊は伊達家の話です。

戦うときは馬から下りたとのころですが、そもそも戦国時代で馬に乗っていた
のは指揮官クラス、もしくは伝令だけであり、兵卒はすべて歩兵でした。

よろしければ、リソースの紹介を願います。

この回答への補足

入力ミスです。

「私もNO.9の方の意見には疑問を感じていました。」
⇒「私もNO.8・9の方の意見には疑問を感じていました。」
に変更です。
申し訳ありません。

補足日時:2005/10/28 06:01
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
私もNO.9の方の意見には疑問を感じていました。

次は、『甲陽軍鑑』の以下の記事です。
「武田家の大将や役人は、一備え(千名ほど)の中に、7人か8人が馬に乗り、 残りはみな、馬を後に曳かせ、槍をとって攻撃した。(巻6品14)」 とあります。

イエズズ会のルイス=フロイスがヨーロッパに書いた『日本覚書』によると、

「われらにおいては、馬(上)で戦う。日本人は戦わねばならぬときには馬から下りる。 われらの馬は非常に美しい。日本のはそれよりずっと劣っている。」 とあります。

ただフロイスの記事は宗教関連や庇護者に関する記事には、信頼度が落ちるという。
そしてフロイスの言う事は感情的になっているものが多いのですが
1、 この20年も前にイエズズ会の先輩のフランシスコ・ザビエルも同じように言っている。
2、 馬に関する記事と宗教、庇護者の関連が強くない。
以上の点からいってフロイスの言う事はどうやら信頼できそうです。
やはり日本人は騎乗したまま戦わない習慣があったのでしょう。

お礼日時:2005/10/28 03:37

7です。


遠距離攻撃は弓、鉄砲、投石で槍は投槍。
馬を下りても白兵戦はしません。
何故騎馬から降りる必要があるか。
いくら馬に乗ってても槍で終わります。
それでは味方に被害が出ます。
馬からの遠距離攻撃は「正確さ」がありません。
馬に乗ってると追撃してくれません。
ワザと追撃させて敵を分断して違う部隊で各個撃破です。

騎馬は側背からの奇襲による敵の混乱による分断、各個撃破が任務です。
風林火山のモットーは蝶のように舞い蜂のように刺す。
「突撃」の文字はありません。
それに戦争のとき、家臣の心理は
「生存の可能性が高い戦い」が出来る君主を選びます。
心理的に相手に負荷を与え戦力を削り、こちらの被害を最小限に抑える。
これを考えれば説明がつきます。
ただ通じなかったのが、戦国一の統率力を持つ上杉謙信。簡単に誘いに応じず正攻法で挑んでくる。

武田信玄も初陣当時は味方に多大な犠牲を出したときに家臣の心が離れたことを身にしみてます。

馬上からの白兵戦は実は日本では不利なんです。
西洋中国の騎馬隊は、突撃して後退を繰り返しです。
大部隊による間断無い連続攻撃による突撃が出来るから強いのです。
日本は平原が無く、道幅も狭い。馬の行動範囲が限られるのです。連続突撃が出来るほど部隊は多くないし活かせる地形が無い。

昔の街道は今ほど幅はありません。もっと狭いです。
だから槍など中距離遠距離武器が流行ったのです。

大平原だと歩兵の槍は重たく邪魔です。
横を抜けられて包囲されるか、後方部隊を殲滅させられるかだけです。

この回答への補足

NO.9・10の方が書かれているように、あなたの意見には疑問を感じます。
よろしければ、リソースの紹介を願います。

あなたの意見をまとめると
「武田の騎馬隊の攻撃方法は、側背からの奇襲による遠距離攻撃で敵に混乱をおこさせる。その時の攻撃は馬から降りて、弓、鉄砲、投石、投槍を行う。ワザと敵に追撃させて、敵を分断し、違う部隊で、再び敵を攻撃する。これを繰り返し各個撃破する。小部隊による連続攻撃で敵を精神的に追い詰める。
しかし、上杉謙信だけは簡単に誘いに応じず正攻法で挑んできたので通じなかった。
長篠の戦いで、織田軍は鉄砲と槍で武田軍の馬を集中攻撃を行い、武田軍は各個撃破の格好の餌食となった。」
ということですね。

浅学の私はそのような資料はみたことがありません。
よろしければ、リソースの紹介を願います。

補足日時:2005/10/28 02:29
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…武田騎馬軍団の戦い方は、


日本の騎馬の機動力は主に移動手段です。
騎馬隊は小隊で行動していて、敵の側背に回りこんで、「馬を下りて遠距離武器で攻撃」です。
そして敵が来たら、すぐさま馬に乗って逃げる。
逃げた部隊を追いかけたら、別の部隊から側背から襲わせる。
蝶のように舞い、ハチのように刺す。攻撃方法です。
訓練された正規軍における統率されたゲリラ戦です。その混乱に乗じて本体で攻める。

これは味方の損害を極力抑え、相手に体力的にも、精神的にも少しずつ負担を与える戦法です。
これを打ち破る為に織田信長のとった戦法が、近代戦争の常識である「物量作戦」です。

長篠の合戦は武田を徴発して戦場を織田・徳川連合に有利な地形を選び、「消耗戦」をしかけたのです。
そして武田の軍編成は小隊ですので、馬さえ無くせば各個撃破の格好の餌食です。
鉄砲でも槍でもいいから彼らの帰る馬を無くせばいいのです。
後は大兵力を背景にひたすら相手を消耗させ、こちらは兵力を二分して交代で戦力投入するだけです。
織田軍も半分以上陣を破られましたが、そこで武田の軍事行動限界が来て、追撃戦となり武田の敗走となった…と思います。

双方の損害は数では引き分け。武将は織田に高級指揮官の戦死者がいないのに対し、武田は古参がちらほら。

長篠の合戦は実質的には「引き分け」です。
武田が速く軍を引いたのと、織田は本国まで追撃する余力が全く無かった。この時の織田も兵力をかなり消耗してます。
この後、武田を滅ぼすまでにたしか8年かかってます。


中国や、モンゴル、西洋の騎馬とは全く戦い方が異なるそうです。
映画などで見る大掛かりな戦闘ではありません。
「騎馬戦」のイメージが一斉に全軍突撃!!になってますが、あんな平原は日本にありませんし、そこまで人口が多かったわけでもありません。


何故勝頼は織田信長の誘いに乗ったのか?
信玄の嫡男で無い勝頼にとって、家臣の信を得るために引くわけにはいかなかったからではないかと思います。
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この回答へのお礼

斬新な意見をありがとうございます。

武田の騎馬隊の攻撃方法は
敵の側背に回りこんで、馬を下りて、槍などの遠距離武器で攻撃なのですね。
なぜ武田騎馬隊は「馬を降りる」のでしょうか?
馬上からの攻撃の方が有利だと思いますが?

長篠の合戦は実質的には「引き分け」とは、確かにその後、武田を滅ぼすまでにたしか8年かかってますよね。

お礼日時:2005/10/26 02:53

1から5まで、だいたい正鵠を射ているのではないかと愚考します。


実際問題として、この戦いは「長篠城の争奪戦」だったと思います。織徳連合軍にとって、長篠城落城前に援軍が到達した(おまけに、酒井忠次軍によって長篠城の包囲は解かれた)時点で、当初の目的は達成したと思われます。そのため、野戦築城して、攻撃に備えることになりました。織徳連合軍としては、このまま武田軍が戻ればそれでよしと考えたのではないでしょうか。
種々の理由で戻るわけに行かなくなってしまった武田軍が(半ば)無謀な攻撃をするはめになってしまったため、あのような大敗になってしまったものと思われます。
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この回答へのお礼

新しい意見をありがとうございます。

織田軍の当初の目的は「長篠城の包囲を解く」ことだったのですね。
目的を達成した織田軍は、武田軍は撤退してくれればそれでよしと考えた。
従って、織田軍から攻撃する必要はなくなった。
だから、野戦築城して武田軍の攻撃に備えることができたのですね。
信長は、このタイミングで武田軍と決着を付けるつもりはなかったのですね。

お礼日時:2005/10/26 02:47

当時の鉄砲の有効射程は100m程とされますがこれは狙った的に当てられる距離で実際にはもっと遠くまで飛びました。


従って密集して前進してくる敵の誰かに命中する事は十分あり得ます。
致命傷でなくとも戦闘能力を失わせるには十分です。

織田徳川軍陣地は前に連子川を置き、木柵で厳重な馬防柵を構築し、築城というほどではないにしても急速な接近を妨げる工夫はしており、それも安土出発時に材料を兵に担がせてきた程事前の準備がされていました。

従って遭遇戦といえぬ準備をしていたので、鉄砲の使用は予定の行動でありその弾薬や準備は十分してあった筈です。
当時でも十分な人員を備えればかなり早い速度で連続発射出来ることは判っていましたから、世にいう3段
射撃のような統制された連射でなくとも時間の余裕があれば、連続射撃は可能だったとおもいます。

しかもこの防備を見て武田軍が突撃を断念しないように徳川軍の一部を柵前に配置し武田軍を誘う程の配慮までしたのです。

長篠の合戦は信長の一方的な作戦勝ちでした。
武田軍は常にその先鋒を勤める山県昌影がすぐに戦死し陣形が乱れ次々に突撃を繰り返す部隊が混乱の内に戦力を消耗して戦意が衰えた時に、織田連合軍の一斉突撃にあいこれを支える力はなかったのです。
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この回答へのお礼

なるほど。

織田軍は準備万端ですね。
連子川を挟み・馬防柵・簡単な築城・1千丁の鉄砲。
これは信長の一方的な作戦勝ちですね。

ありがとうございます。

お礼日時:2005/10/26 02:41

長篠の戦いで,鉄砲は馬を驚かせ,武田軍を混乱させるためと,何かの本で読みました。


確かに,馬は臆病な動物なので,近くで鉄砲のような大音響がすれば,棒立ちになり,騎乗者を振り落としたりしたでしょうね。
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この回答へのお礼

納得です!!!

確かに馬は臆病な動物ですよね。
競馬場でもラッパや太鼓などの音の出るものを持ち込むのは禁止されていますものね。
競馬場で火縄銃も撃ったら、馬に当たらなくても、その爆発音だけでレースになりませんよ。
馬が暴れるのは確実です。

重要な指摘をありがとうございます。
今までなんでそんな簡単なことに気付かなかったのだろう・・・。

お礼日時:2005/10/26 02:37

弾幕射撃というのは確かに効果的で世界史的にみても長城の戦いの15年後にオランダで使用されそれなりに効果があったらしいですが、但し実用化するにはまず大量の鉄砲、そして統一的な訓練が必要なわけで、オランダの例はそれらを行えるだけの資金的・時間的な余裕があったからです。



一方信長の場合は、鉄砲それ自体は早くから注目していたようで(但しこれはどの戦国大名も同じ)資金も豊富ですから数も多く所有していたようですが、当時の信長にはそちらにまわせるだけの余裕はなかったと言われており最近の定説では1000-1500挺ぐらいとされています。
実際の使われ方については、鉄砲の上手い兵士に従者を何人かつけて、撃つ人、弾込める人、火薬詰める人と役割を分けることで少しでも効率を良くしようとしていたようではありますが、これは従来から行われていた方法です。

長篠城からの援軍援軍要請が家康に、家康からの要請が信長に届いたのですが、当時畿内で忙殺されていた信長は乗り気ではなかったようです。が家康が武田と講和するとまで言い出したためにようやく重い腰をあげたと家康側の文献には載っています。であわてて駆けつけたものですから織田軍も筒井軍などの連合体であり、鉄砲もあちこちから何とかかき集めてきただけ(織田領内はこの時期軍事的に一種の空白地帯になっています)。それでさらに徳川との連合ですから、俗説的に言われていたような統制のとれた三段撃ちを行えるような準備がまずできなかったでしょう。上手い人をそれぞれの部隊から抽出して、それらに従者をまとめて付けるというような工夫ぐらいはしたかもしれませんが。
また弾・火薬も当時の価値では非常に貴重なものですから、弾幕を張るというのではなく、一撃必殺で出来るだけひきつけて使われいたようですので、そういう意味ではそれぞれ勝手に撃っていても、結果的には統制がとれていたことになるかもしれません。

でなぜそんな定説が事実として教科書にまで載るようになったかについては、元ネタは歴史書というか日記風の軍事詳報的な大田牛一の「信長公記」を元にした小瀬甫庵の歴史書というよりも小説「信長記」(江戸初期のベストセラー)に出てくる逸話で、このエピソードを明治の日本陸軍が採用したためらしいです。
※ちなみに「信長公記」では鉄砲は1000挺ですが、版によっては小さく3の字が追加されていたりして、「信長記」では完全に3000挺になっています。

なぜ陸軍が採用したかについては単に戦訓を載せる際に、具体例があった方が分かりやすいからというぐらいの単純な理由で、大事なのは史実ではなく戦訓(ex.鉄砲の前に騎馬が突撃すべきでない)ですから脚色が入っていてもかまわなかったのでしょう。
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この回答へのお礼

専門的な意見をありがとうございます。

小瀬甫庵の書いた小説「信長記」が原因で、間違った通説が信じられていたのですね。
しかも、小説のネタを陸軍が採用したのが滑稽ですね。

お礼日時:2005/10/26 02:32

長篠の戦い(本来の場所は設楽原らしい)の騎馬隊や鉄砲の三段撃ちは良質の資料には記載がなく、後世の講談まがいの軍記にあるだけです。


この時代、騎馬専門の部隊などどの戦国大名にも存在せず、武士が騎兵(騎馬弓兵)であったのは、せいぜい鎌倉時代までで、それも馬で突撃すねようなことはなく、弓を射あうだけで、兵力もせいぜい数十から数百人程度でした。
その後、戦闘の規模が大きくなると徒歩兵が増え、馬に乗るのは士官クラスだけとなり、それは武田軍も同様でした。
鉄砲については織田方の鉄砲も千丁ていどでしかも信長直属の鉄砲隊ではなく統一した訓練がされているわけではなく三段撃ちなど危険でできませんでした。
武田軍の敗因は本来の兵力差からいえば武田軍はこのさい撤退するべきであるのにどういうわけか戦いに出てしまったということが最大で、兵力は多くしかも野戦築城までして準備している織田・徳川連合軍が勝つのは当然でした。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

やはり武田の騎馬隊は存在しませんでしたか!!
「武田騎馬隊」も「鉄砲の三段撃ち」も講談まがいの軍記にあるだけとは、今までの通説にだまされていました。

兵力差で勝り、野戦築城までして準備万端の織田・徳川連合軍が勝つのは当然ですよね。

納得がいきました。
ありがとうございます。

お礼日時:2005/10/26 02:26

質問する前に、過去のQAを一度は読みましょう。

(歴史のカテゴリは、質が高いです)
『鉄砲はどう武田軍の騎馬隊を勝つのか』
 http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1645850

ちなみに勝敗を決したのは、戦術面では鉄砲より馬防柵のお陰ですね。
5にあるように、織田・徳川軍が野戦築城したため、防御力が上がったのです。

ちなみに、このことを学習したのは、豊臣秀吉と徳川家康です。
後の小牧・長久手の戦いでは、双方とも野戦築城したため、正面決戦ができなく
なりました。(しびれを切らした秀吉が陣地を出て迂回攻撃に出ますが、それを
見破った徳川家康に、あっけなく撃破されています)

あと作戦面では、鳶ノ巣砦の攻略が大きかったと思われます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
仕事が忙しく過去のQ&Aを読む時間がないので、質問させて頂きました。すみません。
参考にさせてもらいます。

織田軍の勝利の要因は、やはり鉄砲よりも「野戦築城」ですか!
武田側の文献で「さながら城攻めのようであった。」と記述してあるのを読んだことがあります。
馬防柵というよりも「築城」をした織田陣地に武田軍が攻めたのが、武田側の敗因ですね。
織田軍の方が鉄砲に野戦築城と新しい技術を取り入れていますね。


質の高い回答をありがとうございます。

お礼日時:2005/10/26 02:18

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