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末期養子でかなり遠縁の旗本の倅が大名になったり、家臣(一門筋)の倅が大名になったケースもあるかと思います。
本来大名になれる立場・血筋ではないのに、ひょんな事から当主のお鉢が回ってきた、非常にラッキーな事例があったら教えて下さい。

A 回答 (8件)

「豊臣秀吉」だと思います。


足軽の子(農民の子という説あり)として生まれたが、どういう成り行きか織田信長に仕え、後に天下統一を成し遂げました。

http://www.tabiken.com/history/doc/N/N137R100.HTM
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3% …
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
豊臣秀吉ですか。まさに立志伝中の人物ですね。
彼は類稀まる才能の持ち主だとは思いますが、それも信長という為政者あっての事ですね。
一庶民から関白太政大臣、空前絶後な人物だと思います。

お礼日時:2005/11/10 02:05

究極は徳川吉宗ではないでしょうか?


http://www.ffortune.net/social/people/nihon-edo/ …
長兄が死に、そのとき2人の兄は養子に出ていたので家督を継ぎ、
7代将軍が8歳で死んだのでなんと将軍様になってしまった・・・。
棚ぼたの極みです。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
吉宗もかなり強運ですね。
綱吉より越前丹生三万石を賜っただけでも幸運なのに、紀州藩主、挙句に八代将軍ですよね。

お礼日時:2005/11/10 06:22

簡単ですが、斉藤道三。

有名ですねw

ひょんなことから、油売りから大名になりました。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
道三は「戦国」を絵に描いた様な人物だと思います。

そういえば三木道三はどうしているでしょうか。

お礼日時:2005/11/10 06:18

久留米藩六代の有馬則維はどうでしょうか。


旗本300石の石野則員(因みに父親は紀州藩士)の二男として生まれますが、有馬家初代豊氏の弟豊長の子則故(旗本3千石)の養子となり、その後宗家に跡継がなかったため養子となります。
300石の旗本の次男から21万石です。

三春藩四代秋田頼季は、秋田氏の一族で家臣の荒木高村の長男として生まれました。母親の祖父安倍英季は秋田実季の弟です。一族の秋田季豊の養子となっていましたが、輝季(三代藩主)の嫡男が死亡したため、宗家に入ります。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
三百石の小旗本の次男から二十一万石の国持ち大名ですか。すごい強運の持ち主ですね。

お礼日時:2005/11/10 06:15

真田昌幸


長篠の合戦で兄たちが戦死して
後継者になり主家が滅亡して独立、大名になった
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
幸村の父君ですね。
真田家は関ヶ原では東西分かれて、兄の系譜が十万石の大名で残ったんですよね。

お礼日時:2005/11/12 06:01

一般的には本当に無名ですが、加賀藩前田家11代藩主前田治脩(はるなが)はどうでしょうか。



幼少期から富山県高岡市の勝興寺にだされてしまい、立派な住職さんになっていました。
異母兄重教(しげみち)がいたためにそんな措置になったそうです。
治脩は六代前田吉徳の息子ですから、「本来大名になれる血筋」ではあるわけですが、寺に出された以上立場的に藩主になることもなく、お経をあげながら一生を過ごしたと思います。
ですが、文武に優れ英邁な藩主であった兄重教が30代の若さで突然、隠居を宣言。しかも、家督を血筋ではなく、幕府徳川家から養子をもらってつがせるという、トンデモ提案をして、藩内に激震を走らせます。

その解決策として擁立させられたのが治脩でした。わざわざ、還俗→重教の養子入りまでして、藩主となったわけです。しかし、40代になってやることがなくなったのか重教は突然、政権に復帰するといって、勝手に政治を切り回しはじめるなど、治脩は豪傑な異母兄に振り回されてばかりの人生でした。

治脩にとって、藩主になれてラッキーかどうかはわかりません。けど、彼の藩主としてのはじめての参勤交代の日記が残っているのですが、物見遊山で外の世界の大きさに打ち震え、感激している様がよくわかります。そういう点では寺で一生過ごすより良かったかもしれませんね。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0% …
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
還俗して百万石を継いだのですね。
>そういう点では寺で一生過ごすより良かったかもしれませんね。
一僧侶と加賀中将、これだけ立場が違えばもはや違う人生とも言えるのかもしれません。

お礼日時:2005/11/12 06:04

井伊直弼もこれにはいるのではないでしょうか。



彼の父井伊直中には15人の息子がいて直弼はその14番目。本来ならば大名になるなんてありえない立場の部屋住みの身分でありました。

ところがところが上の兄たちがどんどん死んでいっていったり残った兄も他家に養子に入ってしまったりして結局藩主をしていた長男の養子というカタチにして彦根藩主になっています。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
昔は子が死ぬことが多かったとはいえ、十四男が家督につける確率ってかなり低そうですね。
結果、日本一有名な大老になっちゃいましたね。

お礼日時:2005/11/12 06:05

徳川吉宗がでたので


松平頼致→徳川宗直
 伊予西条藩の4男。紀州藩吉宗が将軍になったのでところてん式に「紀州の殿様」に
 もともと西条藩も兄が継ぐはずだったのが、将にタナボタ。

加納久通と有馬氏倫
 吉宗の側近。本来なら紀州家の家臣で終わるはずが・・・。

大岡忠相
 本来は旗本で終わるはずが大名に。

徳川宗春
 尾張藩の20男。兄達が吉宗との抗争で心労で倒れ、お鉢が回ってきた。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
まさにところてん式・タナボタですね。

尾張宗春はどんな人物だったのか知りたいです。
吉宗VS宗春の図式で、アンチ吉宗・豪華絢爛路線の末に失脚したというイメージが強いのですが、ホントはどんな人物だったのでしょうか…

お礼日時:2005/11/12 06:08

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