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よく、「自分を客観的に判断して。」とか言いますよね?
でも自分を客観的に判断するのは難しいと思います。
客観的に自分を分析するにはどうすればよいのでしょうか?

私は自分の今現在置かれている状況をきちんと把握することが下手です。
そのことに気づくことができたのですが、今度はそれが分かったために、何をするにも、現状を見て私がする判断は全て間違っているのではないかと思うようになりました。

誰でも正しい判断なんかできるわけではない、と頭では分かっているのに、本当には分かっていないのだと思います。
つまり、客観的に判断できていないのだと思います。

このような考えがグルグルと周りちっとも前に進めている感じがしません。
多分考えすぎなのだと思います。
でも考えるのをやめるのって無理な事ではないですか?


何かアドバイスをいただけるとうれしいです。

A 回答 (8件)

客観性とはいかに判断基準が事実に即しているかという物差しです。


誤った判断をしないためには当然これは不可欠で、
これを持たなければ目をつぶって道を歩くようなもの。
いったいどこにたどりつくかもわかりませんし、
第一危なくていけません。

しかし、往々にして「客観性」という言葉は、
「他人の意見も聞け」といった意味に使われます。
そこが混乱の元なんです。

他人の意見に耳を傾けるのは、
単に判断基準の元となる事実認識の
参考にするために過ぎません。
あくまで判断していくのは自分なんです。

自分の判断に誤りが含まれないように
少しでも多くの資料を集めていく。
その「客観性を得る作業」のひとつが、
他者の言葉に耳を傾けるということなんです。
けっして他人の言いなりになれ、
という意味じゃありません。

むしろ「客観性」という言葉は、
事実を多面的に観察せよ、検証せよ、ついでに学べ、
ということに近い言葉です。

これなら、たいていの人が自己確立の一貫として
容易にその必要性を認めていくことでしょう。

事実を多面的に観察する。
そしてそれを検証する。
ついでにそれらを助けるために
事前によく学んで知識をしっかりつけておく。
これに尽きると思います。

何かを判断しようとする時に、
今の自分の持ち物だけで判断しようとしない。
他者の意見を含めた多数の資料を求めて多面的に検討し、
そこから導き出される答えを探す。
それが客観的思考の実践です。

それを「自分の中に持つ」ということです。
謙虚になれとか、へりくだれとか、
自己主張するなという意味なら、
それは客観性を持つということとは違います。
むしろ客観性を身に付けた者の意見は鋭く強く、
聞く人々の耳に響きます。
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この回答へのお礼

回答してくださってありがとうございます。
非常に分かりやすくて、私にとってためになりました。


>事実を多面的に観察する。
そしてそれを検証する。
ついでにそれらを助けるために
事前によく学んで知識をしっかりつけておく。
これに尽きると思います。

素晴らしいですね。
「なぜ我々は勉強をしなくてはならないのか?」という問いの答えにも繋がりそうです。


資料集めは得意ではありません。
分からないことが多すぎて、そのことにパニックになり、始めてもすぐ嫌になったり、気が散って投げ出してしまいます。
終わりを見てばかりなんでしょうね。
なるべく終わりを見ないで、目の前の視界を少しずつ広げてゆくようにして行こうと思いました。

お礼日時:2005/12/05 12:06

No.4です。


>>客観的判断は、自分自身に下さなくて良いではないですか?
>社会生活をする上で大切じゃないですか?
>自分の考えだけで生きてると誰にも信用されないような
>気がします。
勿論、大切です。但し、ここで私が言っていたのは、「客観的判断」のみに傾くと、「他人の判断基準」にのみ傾きすぎる=自分がなくなる、ということを言いたかったのです。

>状況把握能力を身につけたいのです、せめて人並みに・・
状況把握能力を身に付ける、という訓練は一生続くように思います。これだ!という一般的基準がないと思うのです。だから、「状況把握能力を付ける+人並み」というのが、少し私には引っかかりがあります。

だって、角度を変えて自分自身を見るのも、「自分」なのですから。「人並み」という一般的なことにはめられることではないですよね。

あくまでも、自分自身の置かれている状況を、角度を変えて事実のみを見つめ、自分自身の考えとの差分を考える。そして、自分の価値観を考慮して判断を下す。

簡単に出る結論ではないけれど、そういうことなのではないかと考えています。
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この回答へのお礼

再び書いてくださってありがとうございます。

>「客観的判断」のみに傾くと、「他人の判断基準」にのみ傾きすぎる=自分がなくなる、ということを言いたかったのです。

私はこれまで生きてた中で、他人の判断基準にこだわりすぎてきたのかもしれません。
それでも我は強いので、年々、社会とのバランスが砕けてわけが分からくなってきています。

自分は自分と思える所もあるのですが、やはり社会も気になります。

お礼日時:2005/12/05 12:13

哲学ジャンルのほうが面白い回答が集まったかもしれませんね。


自分なりにご説明します。

客観的考えを現実的考えと置き換えてください。
どちらも意味は大して変わりません。
無意識の発するサインの中でも理性とは現実に従順でとても現実的です。
この現実的考えがすんなりと頭の中に入ってくるようになります。

それから自己中心的な考えとは複数の無意識の集合体ともいえる脳の中ではあなた自身の考えではありません。
なぜなら自己中心的感情は、その感情自体があなたから分離して自分自身がかわいいからです。
これはすでに本心とは裏腹な自分自身で、悪意によるものです。
あなた自身の知性がこの悪意に侵食されるのは悪い傾向でこれを目に見える煩悩と呼びます。
健康な無意識が悪意を掃除しきれずにいて、感情のコンプレックス(複合体の意味)状態になっていることを意味します。

煩悩を追い出すのは仏教哲学関係が世界最高の教材です。
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この回答へのお礼

回答してくださってありがとうございます。

>哲学ジャンルのほうが面白い回答が集まったかもしれませんね。

哲学的に考えるとテクニカルタームを捏ね繰り回したり、どうも現実の生活とは溝があるような気がするので遠慮してます。

お礼日時:2005/12/05 11:56

考えた結論に気を取られる前にその考えの前提の方に関心を持つのはどうでしょう。

これは一見逆戻りのようですが、前提が信頼できて途中の論理が正しければ結論は前提を是認する限り正しいということにならないでしょうか。
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この回答へのお礼

>考えた結論に気を取られる前にその考えの前提の方に関心を持つのはどうでしょう。

私は結論ばかり気にしてるような気がします。

>前提が信頼できて途中の論理が正しければ結論は前提を是認する限り正しいということにならないでしょうか。

そうですよね、未来(結果)なんて誰にも分からないし、結果は結果ですものね。
過程を大事にしようと思いました。

回答してくださってありがとうございました。

お礼日時:2005/12/02 23:50

No.1の方同様、私も悩んで回答を保留していました・・・


実は私もそれで非常に悩んだことがあって、はっきりした回答が得られないと感じでいるからです。

でも、一つsobaudonさんと私も同じなのは、どの足を出そうかと迷って歩けなくなっているムカデと同じ状態に陥っていますよね。

まず、どうやって、自分が状況を把握するのが下手だと気付かれたのでしょうか?それは、自己卑下からではなく、ですか?I am not OK からでなければ、客観的に自己分析をした、ということになりますよね?

”客観視”というのは、私は、自分自身を、違う角度から見てみることだ、と単純に考えることにしました。できるだけ事実だけを見るということ。例えば、「紫のシャツや、濃紺のシャツを着て、首の辺りを開けた、ストライプのスーツを着た男性が2人いた」という話を、人に伝えるとしたら、どうでしょうか。「ホスト風の男」と言えば、既に私情(感情)が入っていますよね。実際にはホストではなく、たまたま、そういう格好をしていた、と言うだけかもしれない。

そんな風に自分も、自分の言動を、角度を変えて(ほんの1度でも違う角度から、事実だけ見てみるのです。そして、自分の感情を入れた考えと比べてみて、違いは何か、どうして違うのか、を考えれば、客観視になると思います。

但し、言いたいのは、客観的判断は、自分自身に下さなくて良いではないですか?自分自身というものには、自分の価値観もあるし、感情もある。それを大切にするために、”客観視”をたまにしてみる、ということだけで十分ではないですか?

それと考えるのを止めなくて良いですよ。それは哲学につながりますから。たまにはブレーンストーミングも良いことです。もしかしたら、あたななりの新しい考えが出てくるかもしれませんから。
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この回答へのお礼

>自分が状況を把握するのが下手だと気付かれたのでしょうか?

これは信頼できる人が言ってくれたのです。
その通りだとやっと気づきました。
だから自分自身で下せた判断ではないのです・・。

>できるだけ事実だけを見るということ。

このことに慣れていないのだと気づきました。
「嫌な物には蓋をする」思考の癖がついてます。
回答者さんが言ってくださったように、角度を変えて見る訓練をしてみようと思います。

>客観的判断は、自分自身に下さなくて良いではないですか?

社会生活をする上で大切じゃないですか?
自分の考えだけで生きてると誰にも信用されないような気がします。
状況把握能力を身につけたいのです、せめて人並みに・・。

たくさん書いていただいて、ありがとうございました。

お礼日時:2005/12/02 23:47

たしかに、難しいです。



完璧に客観視するのは、生身の人間には無理なんじゃないかなあと思います。
ときどきは出来るかもしれないけど。

厳しく見ると、それはそれで客観的じゃなくなりますしね。
もっと自分を評価してもいいところでも自分を責めたり。

考え方・見方の参考に、こんな本はいかがですか。
「自己カウンセリングとアサーションのすすめ」
平木 典子、金子書房
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4760825 …

私には役に立ちましたが、、

個人的には、

(1)落ち込みやすい時期には考えるのをやめる(自分の場合、絶対悲観的になるから)

(2)どうしても考えてしまうときは、いっそのこと真正面から考える。
 考えてはいけないとか、あるいは、自己流でぐるぐる考えるのでなくて、先達が書いた本を読んだりして、なるべく客観的になれるよう・・・客観的になれずとも、視野を広げるように努める。

狭い視野で「自分一人でしっかりとがんばらなければ」とか抱え込んでいると、かえって独りよがりになりそう。

主観的でいいときもあるんですけどね。
何か見たり食べたりして「わあーこれ好き!」とかいうとき、客観的すぎるとつまらないから。
好き嫌いと良い悪いは違うし。

客観的というより、なるべく視野を広く、多面的に、と考えるのはどうでしょうか。
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この回答へのお礼

>自己流でぐるぐる考えるのでなくて

私にはこの癖があると思いました。
頑固なんです。

>視野を広げるように努める。

大切ですよね。
視野が狭くて頑固だから疲れやすいのかと思いました。

>狭い視野で「自分一人でしっかりとがんばらなければ」とか抱え込んでいると、かえって独りよがりになりそう。

考えれば、この状態によく陥っているような気がしました。


書いてくださった事をちゃんと考えて見直したいと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2005/12/02 23:38

考えるのをやめる。


難しいけど、練習次第で結構楽に。
思考のループに嵌っちゃうことってありますよね。
辛いので、ループが何回目まで回ったら無理やりでもストップ!
って、自分で最初に約束しておく。
少しずつ何回目を減らしていけば、OK.
案外簡単なので、やってみてください。


客観的に。
実はコレ、ものすごく矛盾してると思うんですよね。
だって自分はどこまでいっても『自分』なわけで『他人』になりえるわけがないんですよ。
でもって『客観的』に考えるには『他人』にしか考えられないわけですよ。
ほーら、『自分』じゃ無理だ。できっこないです。

だから、『客観的っぽく考える』と思ってください。
それっぽい考えなら、それでいーのよ。って。
冷静に考えるときは、図を書いて考えるといいとか聞きますよ。
大きな目で考える、という姿勢を、最後に持ってきましょう。


>誰でも正しい判断なんかできるわけではない、
>と頭では分かっているのに、
>本当には分かっていないのだと思います。
>つまり、客観的に判断できていないのだと思います。
これがちょっと意味がわからなかったので、的外れな回答でしたらスミマセン;
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この回答へのお礼

>難しいけど、練習次第で結構楽に。

練習してみようと思いました。

>だから、『客観的っぽく考える』と思ってください。

論理的に考えると客観的はつじつまがあわないですよね。
客観的っぽく考えるなら出来そうに思えます。

すこし気が楽になりました。
回答してくださってありがとうございました。

>誰でも正しい判断なんかできるわけではない、
>と頭では分かっているのに、
>本当には分かっていないのだと思います。
>つまり、客観的に判断できていないのだと思います。

「これは世間では当たり前のことを当たり前に捉えられない=客観的に見れない」ということです。
常識=客観的な目と考えてます。

お礼日時:2005/12/02 23:32

僕もちょっと悩んでて、どうにかして答えを導き出そうとしてる最中なのですが、今までで考え出した事を書きます。



それは、自分の事を客観的に見つめる為には、実はまず『徹底的に主観で見つめる事が必要なのでは?』って事です。
自分がどう思ってるのか?この状況に関しての自分の考えは?っていうのは自分にしか解らないですよね。他人が違うと言うんだから違うんだって事にはなりえないと思うんです。他人がなんと言おうと『自分がこう思った』のは事実ですからね。(そんなはずはない!!って言われてもそうだったとしか言い様がないというか・・・。)
自分がこう思ってる、こう感じてるという事を事実として認めてからが客観的視点の始まりなのだと思います。

上手く言えなくてすみません。
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この回答へのお礼

>『徹底的に主観で見つめる事が必要なのでは?』

このことを考えたことはありませんでした。
いつもまず自分の置かれている状況はどうだろう、ということばかり考えて、
結局そのことはわからないまま、
そして自分が何をしたいのかもわからずに時だけが過ぎてしまう、というパターンばっかりです。

>自分がこう思ってる、こう感じてるという事を事実として認めてからが客観的視点の始まりなのだと思います。

自分に向き合う事を余りしていないのかもしれません。

大いに参考になりました。

回答してくださってありがとうございます。

お礼日時:2005/12/02 23:26

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