カントは「美」をどのようにとらえているのですか?レポートで書かないといけないんですけど、全然わかりません。
カント以外でも「美」について言っている人ならソクラテスとプラトンを除けば誰でもいいのですが、カントしかわからなかったからカントで聞いてみます。お願いします。

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A 回答 (1件)

 


  カントの美学というものについて、何か語れるほどにも、何も知らないのですが、非常に簡単なアウトラインと基礎的な構図を考えれば、バウムガルテンが、感覚における美の考察から、美の学を構想したのを継承したとも言えるでしょう。
 
  カントは形而上学を否定して、主観の認識論を立てたのですが、純粋理性と実践理性だけでは、生命としての人間の総合的な生のありようを説明するには不十分であると考えました。例えば、あるものが好きであるとか嫌いであるというのは、二つの理性の原理からは出て来ないのです。
 
  それは言ってみれば、真理や格率の世界ではなく、「趣味」の世界の現象であると言えます。感覚的な快さや楽しさ、愉快さ、端正さなどに加え、精神的・芸術的な感動や、優雅、畏怖、驚異、崇高さ、そして美的な何かを確かに人間主観は、感受でき、これを「判断」しているとしか言えないのです。この判断の能力は、純粋理性の真理でもなければ、実践理性の規範・格率でもない訳で、趣味判断の直観能力が人間にはあるということになります。
  
  「美」の直観とは、美的なものの認識、判断能力による判断であるということになります。主観は、真理と正しい認識をめぐる純粋理性と、規範をめぐる実践理性の規定を前提として、しかし生命存在としての人間存在の総合性から、感覚的美的なものから精神的な美的なものまで、美なるものを判断し、それによって人間の生は、総合的な生きている意味を見いだすことができるとも言えるのです。
 
  こうしてカントの美の分析は、感覚的快から始まり、趣味の洗練や、美的なものの純粋性のありように展開し、このような趣味の「良さ」を判断することのできる主観の能力そして直観として、第三の「判断力」を構想したと言えます。
 
  判断力はしかし、真理をめぐる主観の限界を超える訳ではなく、規範をめぐる主観の限界と「指導原理」を超えるものでもなく、美的直観による美の了解と、判断力による具体的なる美的なものの認識は、生命の経験であるということになります。カントは、形而上学を否定したものの、美的なもの、趣味の判断において、「美」の形而上学をまた築いているとも言えるのです。
 
  カントの美は、感覚的なものから、趣味的な生活の美、精神的な純化されたもの、芸術的美まで、序列をなすように構想されますが、それは美的なものの分析で、生命の統一体の人間の経験に依拠しているとも言るのですし、それを直観する能力として判断力を立てたとも言えます。従って、美の経験論の形を取りながらも、判断力における美的直観という点で、形而上学的な面を持ち、観念論的体系になっているとも言えるのです(そこには、純化された美として、真理や格率や、宗教的崇高・荘厳なども、美の要素として分析されて来るのですし、このような美の直観が、判断力の広い意味だとなります)。
 
  (以上、昔の記憶や、こういうものではなかったかという断片的な知識を元に述べているので、もっともらしいですが、自分で吟味してください。そんなおかしなことを書いた訳ではありませんが、違っている可能性があります。責任は持てません)。
 
    • good
    • 4
この回答へのお礼

ものすごく細かく書いていただいてほんとうにありがとうございます!これを元にレポートにとりかかろうと思いますほんとうにありがとうございました!!

お礼日時:2001/12/18 00:44

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Q「美」と「崇高」という芸術の概念にをご教示下さい

10年ほど前なのですが、坂本龍一氏がつくった「LIFE」という
オペラに関し、これは「崇高」ではなく「美」なんだという論評を
見ました。私は坂本氏の音楽はそれなりに聴き続けてきたもの
の、哲学用語には疎いので、いわばスルーしたのですが、なんだ
か最近またとても気になっています。(その後も何度か「日曜美術館」
などでこの言葉を聞きました)。

ここからが質問なのですが、芸術論、および哲学の中で(おそらくカントで
しょうか)「崇高」と「美」という言葉はどういう文脈で使われるのでしょうか。

専門の方にとっては初歩的なことかと思いますので、申し訳ございませんが、
ご教示いただけると幸いです。坂本氏のオペラとは関係ない一般論のご回答
でかまいませんので、ご教示いただきたく、よろしくお願い申し上げます。

Aベストアンサー

「美と崇高」について書かれた初めは1759年のエドマンド・バークの「崇高と美の観念の起源」で、それに次いだのが1764年のカントの論文「美と崇高との感情に関する考察」です。
バークは美と崇高を区別して、崇高は人間に恐怖と畏怖の念と不安をもたらすが、美は人間に安らぎと陶酔をもたらすといっています。
ともに人間の感性を超えている点では共通しますが、方向がまったく逆です。
カントが論文を書く際にバークの本を参照していたかどうかは定かではありません。
カントは崇高の感情を、恐怖と高貴と豪華に区分しました。
そしてその堕落した形態として怪奇と茶番があり、豪華は崇高と美の中間の感情であるといいました。
それに対してカントのいう美は芸術作品の美が挙げられますが、それよりもかれは道徳的な人間の在り方、人間の尊厳を美の模範と考えました。
そのような考え方に当てはめてみると、坂本龍一がオペラを「崇高」ではなく、「美」といったのも当然だと思われます。
なぜなら、オペラを観て「恐怖感」に駆られたり、「畏怖の念」を抱くことは稀だと思うからです。

Qプラトンとアリストテレス

プラトンは「理想国家から芸術家を追い出すべきである」としたのに対しアリストテレスは美の独自の価値を認めたとある本にかいてあったのですが、二人の思想の違いは何なのでしょうか??よろしくお願いします

Aベストアンサー

こんにちは。

>プラトンは「理想国家から芸術家を追い出すべきである」とした~

>アリストテレスは美の独自の価値を認めた~

このふたつの文章がどのような文脈で語られたのか
わからないので、類推になってしまいますが……。

プラトンとアリストテレスの最大のちがいは「イデア論」についてです。

プラトンの提唱したイデア論は、美しさなら美しさの原型、理想型はイデア界にある、
としました。
つまり、私たちがたとえば銅像を見て「素晴らしい
銅像だ」と思えるのは、
理想的に素晴らしい銅像がイデア界にあり、それを
想起して素晴らしい、と思えるといいます。

一方、アリストテレスはイデアは別世界にあるのではなく、銅像なら銅像に内在する、
としました。その形が形相であり、材料を質料と呼びました。

そういうことですから、プラトンにとっての究極の芸術はこの世にないのであり、
追い求めても意味がありません。

一方、アリストテレスは「創られたものに内在する」
のだから、意味があります。

この両者の根本的な思想のちがいが、
発言のちがいにあらわれたものと思います。

こんにちは。

>プラトンは「理想国家から芸術家を追い出すべきである」とした~

>アリストテレスは美の独自の価値を認めた~

このふたつの文章がどのような文脈で語られたのか
わからないので、類推になってしまいますが……。

プラトンとアリストテレスの最大のちがいは「イデア論」についてです。

プラトンの提唱したイデア論は、美しさなら美しさの原型、理想型はイデア界にある、
としました。
つまり、私たちがたとえば銅像を見て「素晴らしい
銅像だ」と思えるのは、
理想的に素晴らし...続きを読む

Qカント哲学について教えてください

こんにちは。
大学で、カント哲学についての課題が出ました。
とにかくちんぷんかんぷんで、質問すら的確にできない
状況なのですが、ひとまずキーポイントである
「自由と自然の二元論」の意味が分かりません。
どなたか教えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。
「あなたの意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行動しなさい」
この格律というのは、簡単に言ってしまえばポリシーです。
あなたの決めたポリシーが、いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるように行動しなさい、と言っているわけです。
いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるようなポリシーとはなにか。
それに関しては、後述します。

・理論理性と実践理性のちがい
理論理性いうのは、対象を理解したり概念化したりする理性の理論的知識のことで、実践理性というのは理性の実践的知識ということだ、とカントは『純粋理性批判』の前書きで言ってるんですが、前半はともかく、後半はこのままではなんのことやら、ですね。

理性の実践的知識とは何か、別の角度から見てみましょう。

カントはすべての人に、いつ、いかなる場合でも当てはまるような道徳の規則はないものか、と考えたんです。
たとえば、お年寄りには親切にすべし、という道徳律を立てたとする。
で、この道徳律にそって、電車の中で席を譲ったとする。
ところが譲られた人は、なんとなく不機嫌な顔になってしまった。
年寄り扱いされたことに腹をたてたわけです。
なんでそういうことになってしまうか。
それは、経験によって導き出されたものだから、普遍妥当性を持ち得ないのだ、とカントは考えます。

真の道徳は、個々人の経験から導き出されるものであってはならない。
別の言い方をすると、対象によって引き起こされる快・不快の感情に基礎をおくものであってはならない。
こうすればあの人も喜んでくれるだろう、と思って行動するのは、結局は自愛ないし自己の幸福を目指したものにすぎないからです。
「もし幸福になりたいと思うなら~しなさい」という道徳律を、カントは仮言命令として退けます。
真の道徳律とは、幸福などのほかの目的を達成するための手段としてあるのではなく、それ自身が目的となるようなものでなければならない。従って、そこで与えられるのは、ただ「~しなさい」と命ずる定言命令でなければならない、と考えたのです。
こういう定言命令を経験に拠ることなく見出す理性が実践理性なのです。

>「道徳補完的連続性の宗教」
ごめんなさい。これ、わかりません。
どういう文脈で出てきた言葉なのかがわかれば、もしかしたらわかるかもしれませんが、カントが宗教をどう位置づけていたのか、ちょっとわからないんです。カントの宗教に関する著作までちょっと手が回ってない(^^;)んで、ここらへん、ご存じの方にお願いしたいと思います。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。...続きを読む

Qカントの芸術作品についての考え方について

ゲーテ/親和力
http://www.amazon.co.jp/%E8%A6%AA%E5%92%8C%E5%8A%9B-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%86/dp/4061975935/ref=pd_sbs_b_shvl_title_5/249-9470917-0511534?ie=UTF8&qid=1193333916&sr=1-1
のレビューを見ていたら

「芸術作品はそれが自然のように見える限りにおいて美しい」というカントの言葉さながらに、語りの技巧の極致が平易さの外見を取って現れている。

と言う言葉が出てきました。
すごく良い言葉だと思ったので、原著を読みたいと思ったのですが、検索したところ、この文言でのヒットは、このレビューのみでした。

質問です。
・カントの大筋の主張としては、相違はないでしょうか?
・このような内容が書かれているカントの本を教えてください。

よろしくお願いします。

ゲーテ/親和力
http://www.amazon.co.jp/%E8%A6%AA%E5%92%8C%E5%8A%9B-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%86/dp/4061975935/ref=pd_sbs_b_shvl_title_5/249-9470917-0511534?ie=UTF8&qid=1193333916&sr=1-1
のレビューを見ていたら

「芸術作品はそれが自然のように見える限りにおいて美しい」というカントの言葉さながらに、語りの技巧の極致が平易さの外見を取って現れている。

と言う言葉が出てきました。
すごく良い言葉だと思ったので、原...続きを読む

Aベストアンサー

カントの、美学、目的論、自然哲学について中心的著作は第3批判書といわれる「判断力批判」です。その前には、「美と崇高の感情に関する考察」というのもありますが。
「純粋理性」「実践理性」では語り得なかった「快・不快の感情」を網羅したのが「判断力」であり、その原理として「自然の主観的合目的性」を考えたので、自然的であるものを肯定すること、あるいは、時代性も考えると、自然に対して肯定的であるとは想像できます。ただ、ご存知かもしれませんが、日本語で「自然」と訳されるドイツ語の「Natur」は、実際は自然や本性等々、日本語とはニュアンスが異なるので、日本語で読むときは注意が必要かと思います。

Qカントにおける図式、構想力と悟性との関係について

カントの哲学、特に感性的認識においての、現象を知覚する時点から悟性による認識までのメカニズムがいまひとつ分かりません。下記の点が特に気になっているので、教えていただけないでしょうか。

(1)図式と構想力との関係。
(2)『判断力批判』では「構想力と悟性の遊動」と書かれています。これは構想力がデータを送り、悟性がデータを受けようとするときにうまく一致せず、それゆえ美を感じるということなのだと理解していますが、では通常美的判断でない状態では、構想力はどんなデータを送り、悟性はどんなデータを受けているのでしょうか?

Aベストアンサー

お礼欄、拝見しました。

うーん。ここらへんめちゃくちゃややこしいとこなんですよ。
検索してもいいサイトが見つからなかったんで、がんばって書いてみよう。
ただあんまり信用しないでください(参考の一助というぐらいで)。

◎直観が赤くて丸いものを認識する
 ↓
◎悟性の中で、カテゴリーがスタンバイ:カテゴリーっていうのは、判断の機能です。

・分量を判断(すべてのものか、特殊なものか、それともこのひとつか)
・性質を判断(これは~である、といえるものか、これは~でない、といえるものか、これは非~である、といえるものか)
・ほかのものとの関係を判断(いついかなる場合であってもこれは~である、といえるのか、もし…なら、~である、という条件付きのものか、これは~か…のどちらかである、といえるのか)
・様相(ものごとのありよう)を判断(~であるだろう、といえるのか、~である、といえるのか、かならず~でなければならないといえるのか)
 ↓
◎カテゴリーがデータに適用できるように、図式というアプリケーションが起動する:図式はカテゴリーを感性化するよう、変換する機能です(直観は空間と時間しか認識できませんから、カテゴリーを空間と時間に変換していくんです)。

・分量のカテゴリーの図式は数である(数という概念は時間に結びついていくから)。
・質のカテゴリーの図式は度である(時間を充実する感覚の有無によって判断できるから←これは相当苦しい)。
・関係のカテゴリーの図式は時間順序である(時間との関係で因果関係は把握できるから)。
・様相のカテゴリーは時間総括である(~であるだろう、といえるのは、いずれかの時間においてそうなる、ということであり、~である、といえるのは、一定の時間においてそうなる、ということであり、かならず~でなければならない、というのは、あらゆる時間においてそうなるということだから)。
 ↓
◎アプリケーションが情報を取り込んで、カテゴリーに分類。判断成立。

え?図式って空間がないじゃん、って思うでしょ?
空間は外的現象の形式であって、心理的な内的現象は、空間的なものではない、とカントは考えた。
それに対して時間は、外的、内的を問わない、あらゆる現象にあてはまる。
したがって、カテゴリーが感性化されるという場合、カテゴリーは時間という形式と結びつくと考えたんです。
だから、先験的図式は悟性のカテゴリーに従った「先験的時間限定」ということになります。

質問者さんのあげられた例に即すると、数量は理解できるのですが、「赤い」「丸い」という性質が、カントの図式のカテゴリー表に照らし合わせてどのように判断されるのか、私にはちょっとよくわかりません。

ただ、#1の回答ではっきり書かなかった部分の判断の流れを詳しく書くと、こうなると思います。
おおよその流れを汲み取っていただければ良いのではないかと思います。


『純粋理性批判』というのは、いわばカント哲学の“ルールブック”みたいなもので、ひとつひとつ言葉を措定し、意味範囲を規定しているので、これを押さえておかないと、『実践』『判断力』もよくわからないことになってしまいます。
ただ、実際、読んでいくのは大変です(^^;)。
私の場合、カント自身による『純粋…』の要約である『プロレゴメナ』と岩崎の『カント』を先に読んで、岩崎の本はいつも手元に置いてアンチョコとして活用しつつ『純粋…』を読みました。ナビゲーターがないと、やっぱりちょっと辛かったです。

お礼欄、拝見しました。

うーん。ここらへんめちゃくちゃややこしいとこなんですよ。
検索してもいいサイトが見つからなかったんで、がんばって書いてみよう。
ただあんまり信用しないでください(参考の一助というぐらいで)。

◎直観が赤くて丸いものを認識する
 ↓
◎悟性の中で、カテゴリーがスタンバイ:カテゴリーっていうのは、判断の機能です。

・分量を判断(すべてのものか、特殊なものか、それともこのひとつか)
・性質を判断(これは~である、といえるものか、これは~でない、といえる...続きを読む

QD.ヒュームとカントの美学論について

D.ヒュームとカントの美学論について、質問です。
どっちもいまいちよくわかってないうえ、ヒュームは本が手元にないので、日本語がおかしかったらごめんなさい。

まず二人の議論に対する自分の理解を書きます。
ヒュームの美学論においては(@「趣味の標準について」)、美は感情に属するものだとされています。
そして、美とは事物に属するのではなく、観察者の頭の中で形作られる主観的なものということになります。(美の懐疑論?って感じがします)
しかしこのままだと美は相対的なものになってしまうと(私は)思います。

ヒュームの懐疑論を土台にして、カントは議論を展開しました。
美学においては、ヒュームの議論における美の相対性を克服するために、主観的普遍妥当性という考えを持ち出します。
そしてカントは趣味判断は悟性には基づかないが普遍性を持つ、と言いました。(@「判断力批判」)

質問は
(1)このヒュームとカントの美学論の理解は妥当ですか?
(2)ヒュームの美学論が持つ、相対主義の可能性を克服するような議論はありますか?あるとしたらどのような考え方でしょうか?
(3)ヒュームは道徳論の方で、感情は他者と共感することによって普遍的妥当性を持つと言っていたと思うのですが、これを美学の方に適用して、共感によって美は普遍性を持つという捉え方をヒュームはしていたのでしょうか?
(4)もし(3)がYESならば、共感されない美のセンス(感情)を持つ人は、はみ出し者ということになってしまいますよね?ということはやっぱりヒュームの美学論は相対主義の枠から抜け出すことはできないのでしょうか?

D.ヒュームとカントの美学論について、質問です。
どっちもいまいちよくわかってないうえ、ヒュームは本が手元にないので、日本語がおかしかったらごめんなさい。

まず二人の議論に対する自分の理解を書きます。
ヒュームの美学論においては(@「趣味の標準について」)、美は感情に属するものだとされています。
そして、美とは事物に属するのではなく、観察者の頭の中で形作られる主観的なものということになります。(美の懐疑論?って感じがします)
しかしこのままだと美は相対的なものになってしまうと(...続きを読む

Aベストアンサー

(承前)

「私」という〈形式〉が同じだから、趣味やものに対する判断も同じだろう、全員が「私」と同じ判断力を有しているにちがいない、と(これが共通感覚)。

> 2. カントの議論は、趣味判断は快不快に依るものであるから主観的なものである、しかし美に関する趣味判断においては(主観的個人的なものである快不快に対する)判断を、誰もが共通してアプリオリに与えられている共通感覚に照らし合わせることで、それが他の人にとっても当て嵌まる(美である)ことを確認できる

と考えてしまうんです。

でも、>よって美の判断は主観的であるが普遍的な妥当性をもつ

わけではない、とも。これはつぎのこととも関連してきます。

> 3. 第22節の最後の方でカントは、趣味はa.「根源的な自然的能力」なのか、そ
> れとも趣味はb.「人為的能力の単なる理念」にすぎず、趣味判断は普遍的な同意
> を要求するが実は理性の要求に過ぎないのか、という疑問を立てています。そし
> て第41・42節を読むと、なんとなくですがカントはbだと考えているように思わ
> れます。

そういうことです。ここらへんはもうかなり話があっちやこっちや行って頭が痛いのですが、美に「一定の概念」が伴うかどうか、ということの結論は、つぎの第二篇、57に至ってようやく出てきます。美に関して、趣味判断は「一定の概念」に基づくのか。
そうではない、「一定」ではないけれど、「不定の概念」に基づくのだ、客観的に認識もされないし、証明もできないけれど、「自然の主観的合目性」に基づく、と。
結局、美の普遍性というのは、主観的なものなのだ、ということです(まとめすぎか)。

> 共通感覚と、悟性、理性との関係性がいまいちつかめません。第5節を読むと、
> 美に関する趣味判断は、理性とは別の枠組み(?)に属しているように思われる
> のですが…。

人間の感性、悟性、理性というのは、上述した「私」という〈形式〉のことです。
そうして、共通感覚というのは、美的判断を表明する側が参照するものであって、認知に関する普遍的な価値はありません。

認識一般において、わたしたちがあるものを認識しようとするとき、その外見は感性をとおしてもたらされ、悟性によって分類していき、理性(カントにおける理性というのは、推論の能力です)のはたらきによって外見の背後にあるものを見つけ出そうとします。

けれどもたとえば音楽を聴くとき、拍数を数えたりコードの進行を見極めたりすることなく、外見の背後にあるものを、直接とらえてしまいます。ほぼ感性のみのときもあるし、悟性のはたらきが必要な場合もあるけれど、わたしたちは音楽の側から働きかけられ、直接、美を知覚すると同時に理解することができます。

だから「自由に働く構想力が悟性を喚びさまし、こうして悟性が概念を用いずに構想力と規則に適った遊びを始める」(第40節)ということになる。

> 美に関する趣味判断は、理性とは別の枠組み(?)に属しているように思われる
> のですが…。

というのは、そういうことです。

何かもう長くて、自分で読み返すのもいやになってきたんですが、まあだいたいそんなところで。

文学とか美学とかからカントに入る人は、わたしもそうだったんですが、たいてい『判断力批判』から入るしかなくて、出てくるおびただしい用語に涙を流すことになります。私の場合は結局どうにもわからなくて、『純粋理性批判』の講読ゼミに入ったりしてずっぽりはまったんですが、どこまでやるかはその人の判断です(環境にもよるしね)。でも、カントをしっかり勉強しておくと、たいていの本を読んでいく基礎体力はつくので、筋トレでもするつもりで、しっかり食いついていってください。
あと、ヒュームはおもしろいよね。わたしは最初やったころ、助けを求めると、余計、泥沼にはまるという議論の進め方にうんざりしていたのですが、最近になってやっとおもしろさがわかるようになってきた。
時間はかかるし、不良債権への道を進むことになるかもしれませんが(笑)、かならず新しい世界が開けていきます。だからがんばって。

(承前)

「私」という〈形式〉が同じだから、趣味やものに対する判断も同じだろう、全員が「私」と同じ判断力を有しているにちがいない、と(これが共通感覚)。

> 2. カントの議論は、趣味判断は快不快に依るものであるから主観的なものである、しかし美に関する趣味判断においては(主観的個人的なものである快不快に対する)判断を、誰もが共通してアプリオリに与えられている共通感覚に照らし合わせることで、それが他の人にとっても当て嵌まる(美である)ことを確認できる

と考えてしまうんです。

で...続きを読む

Q形而上学とは

現在、国語の授業で
「広告の形而上学」という形而上学をテーマにした論文を扱っています。
文章の雰囲気は分かるのですが形而上学
というテーマそのものがよく分からないので
どうも、しっくりこないでいます。

「形而上学」というものをくだいて説明して
頂きたいのですが。。。

中学3年の私にも分かるくらいのレベルで説明して頂けたら嬉しいです。(教科書は高校1年生のものですが)

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。



あと、ソシュールの言語論も把握すると、理解が深まると思います。

人間の頭の中で考えることって、区切りがつけられず【無限】に広がっていきますよね。世界や宇宙だって、区切りがつけられず【無限】に広がっていく存在です。人間は他人に対して、そういうものを表現して、考えをわかってもらい、指し示しているものを共有しようとします。

その「表現」の際に使われるのが「ことば」ですよね。ことばで考えを説明し、ことばで指し示しているものが何かをわかってもらおうとします。

けれども、ことばは【有限】の音の組み合わせですよね。「椅子」ということばがあれば、「い」という発音と「す」という発音の組み合わせです(厳密には違いますが)。発音できるものは【有限】というのは、五十音表を見てもわかると思います。

ここで矛盾にお気づきでしょう。我々は、無限の世界を有限の言葉でしか説明できないのです。

そうすると、ことばはある一つの意味を指すのでは使い切れません。ことばに複数の意味や広がりのある意味をもたせないと、無限の世界を表現できなくなってしまうのです。ことばに対してモノが一対一の対応関係をもつことはないのです。

たとえば「犬」ということばを聞いて、あなたと僕とが思い浮かべる「イヌ」は別のものでしょう。それは、「犬」という言葉が意味するものが広い範囲のものをカバーしているからです。

じゃあその範囲ってどこまでって考えると、それはあいまいなイメージでしかないのです。範囲を確定しようとすると、「狼」でもなく「豚」でもなく「猫」でもなく「馬」でもなく…と、延々と「犬ではないもの」を消去していくことしかできません。

ことば一つ一つの意味にはこういう広がりがあるわけです。すると、ことば一つ一つには意味はなく、他のことばとの違い、つまり、【差異】によってしか意味をなさないということがわかると思います。これを裏返せば、「差異が意味をつくる」ということになります。



ソシュールの話が長くなりましたが、重要なのは最後の段落です。「差異が意味をつくる」という結論が出ていますが、「広告の形而上学」でも同じようなことが言われてないでしょうか。

広告は「形がない」ものです。「形のない」商品、つまり形而上的な商品です。それが商品として成り立つのはなぜなんだろうと考えると、他の広告があって、その広告と違いがあるから商品として成り立つわけですね。広告同士の差異が広告の価値を決めて、商品として売れるわけです。たくさんのあふれる広告の中では「差異が意味(価値)をつくっている」わけですね。



おわかりいただけたでしょうか。長くなりすみません。。。

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。
...続きを読む

Qレポートの書き方

こんばんは。
冬休みの課題で、「美術館に行ってレポートを書く」というものが出ました。
ですが、あまりレポートを書いたことが無いので書き方がわかりません。
アイヌ文様の美というのに行こうと思っているんですが・・・
やはり写真もレポートには入れた方がいいでしょうか?
レポートの書き方に次いでわからなくて困っています。
美術が好きなので、良いレポートを書きたいと思っています。
どうか、書き方を教えてください。お願いいたします。

Aベストアンサー

美術大学に在籍しています。ご参考程度に、私の経験からアドバイスをさせて頂きます。


全体の構成としては
(1)表紙(主題タイトル)
(2)本文

主題について、どういうところが自分にとって魅力的なのか、
それにはどういう由来や歴史があるのか、何を意味するのか など
いくつかの項目に分けて考えると書きやすいと思います。

例えば…「印象派について モネの魅力」が主題だとすると
1.印象派とは
2.モネの生きた時代とその功績
3.代表作『睡蓮』の連作とその変化
(以下必要なだけ項目を設ける。最終的に、
ある程度自分の主観を入れた論述があったほうが「美術館に行って」という部分が活かされるので、良い と
私は思います。)

…など
主題の背景(アイヌの文化でしたら、アイヌ民族のことなど)から
徐々に幅を狭めていって、主題を浮彫りにしていくと読み手がすんなり入り易く、
印象に残るレポートができるのではないでしょうか。
又、写真は効果的に入れていったほうが良いと思います。
レポートの読み手はその内容について知らないわけですから
いわば教科書や新聞のようによりわかりやすく情報を伝えることを考えると…
あったほうが、親切なように感じます。

(3) まとめ
上にも記述しましたが、「美術館に行って」ということなので
美術館に対する感想、今回レポートを作ったことによって気付いたことや良かったことを書き、あとがきとします。
ある程度の長さがあったほうが説得力があると思います。
又、最後に
参考にした文献(本やWEBページ)について「参考文献」として記述しておきます。(箇条書きで大丈夫です)
本はタイトルとISBN、WEBはタイトルとURLを記述します。
版権的な問題のためもありますが、これだけ色々調べました というアピールにも繋がると思います。


私は以上のような手順で、レポートを書いています。
わりと高評価を頂くこともあるので…ある程度参考にして頂けると思います。

余談ですが
「美術館の入場券の半券を
表紙かはじめのほうに展示タイトル・日時・場所 の明記と共に貼って提出しなさい」という指定で
レポートを作ったことがありまして…
指定が無くてもそうすると、なんだかそれらしくなる気がしますので、
ちょっと使える手かもしれません。


レポート制作 頑張ってくださいませ!
微力ながらお力添えできていましたら幸いです。

美術大学に在籍しています。ご参考程度に、私の経験からアドバイスをさせて頂きます。


全体の構成としては
(1)表紙(主題タイトル)
(2)本文

主題について、どういうところが自分にとって魅力的なのか、
それにはどういう由来や歴史があるのか、何を意味するのか など
いくつかの項目に分けて考えると書きやすいと思います。

例えば…「印象派について モネの魅力」が主題だとすると
1.印象派とは
2.モネの生きた時代とその功績
3.代表作『睡蓮』の連作とその変化
(以下必要なだけ項目...続きを読む

Qカントのカテゴリについて質問です。

カントのカテゴリについて質問です。
量、質、関係、様相に4大別され、それぞれが3つに細分されて全体で12個あると説明があるのですが、具体的なイメージがよく分かりません。
簡単でいいのでどなたか教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

簡単に説明します。
そもそも「カテゴリー」という語は、主語と述語の「述語」から来ています。主語と述語というと文法みたいですが、アリストテレスはこの「主語と述語」の構造が、存在の構造を探る手がかりになると考えたのです。

カントのカテゴリーはアリストテレスのカテゴリーがふまえられています。ですから、ここでもカテゴリーは「主語と述語」の関係です。

「量のカテゴリー」
全称的:「すべての」SはPである。
(例)すべてのクジラは水棲動物である。
特称的:「ある」SはPである。
(例)あるカメは水棲である。
単称的:「この」SはPである。
(例)このネコは水の中に入るのを好む。

「質のカテゴリー」
肯定的:SはPで「ある」
(例)信号は青である。
否定的:SはPで「ない」
(例)信号は赤ではない。
無限的:Sは「非Pである」
(例):青信号は赤ではないほうの信号である。

「関係のカテゴリー」
定言的:SはP「である」
(例)本日は晴天である。
仮言的:「Xならば」、SはPである
(例)日が照っていれば、本日は晴天である。
選言的:Sは「PかQかのいずれかである」
(例)降水量ゼロというのは晴れているか曇っているかのどちらかだ。

「様相のカテゴリー」
蓋然的:SはP「であろう」
(例)明日の天気は晴れでしょう。
実然的:SはP「である」
(例)現在の気象状態は晴れである。
確然的:Sは「必ずPでなければならない」
(例)晴天は降水量が1ミリ未満でなければならない。

人間はまず外部からの刺激をまず感覚器官で受けとります。それは「空間と時間の形式」(ものの大きさや形状、前かあとか、など)にあてはめて受けとられるのですが、それだけでは認識にはいたりません。そこから直観として得られた対象を、悟性が上記の形式において判断する、それによって認識が成立する、とカントは考えたわけです。

簡単に説明します。
そもそも「カテゴリー」という語は、主語と述語の「述語」から来ています。主語と述語というと文法みたいですが、アリストテレスはこの「主語と述語」の構造が、存在の構造を探る手がかりになると考えたのです。

カントのカテゴリーはアリストテレスのカテゴリーがふまえられています。ですから、ここでもカテゴリーは「主語と述語」の関係です。

「量のカテゴリー」
全称的:「すべての」SはPである。
(例)すべてのクジラは水棲動物である。
特称的:「ある」SはPである。
(例)ある...続きを読む

Q自然美と芸術美

僕は現在は短大に通っており、4年制大学の哲学科に編入しようと考えています。

そこで、哲学系の小論文の勉強をしているのですが、

「芸術美は自然美の模倣」と一般的には考えられているそうです。

どうして、そういった考えが定着していったのか疑問に思います。

しかし、ネットで検索をかけても答えがわかりませんでした。

哲学や美学関係に詳しい方、どうかご教授ください。

また、哲学の小論文の書き方も教えてもらえると幸いです。

Aベストアンサー

>芸術美は自然美の模倣

「模倣」というところの解釈をしてみます。
NO.5のお答えにもあるように、自然を手本として創作された芸術があります。
写実的芸術といわれるものです。

庭園を例に上げれば
自然の姿を縮小し、省略化して、自然を表した日本庭園がそうです。
それらは、縮景とか、山水の美とか呼ばれています。

また、そこから出発して、一つの平面や空間内における自由な美的構成そのものに至った芸術があります。
抽象芸術といわれるものです。
日本庭園の中でも、枯山水といわれるものです。

芸術が、写実から抽象へと変わっていったのは自然な変化だと思います。
それは、芸術が模倣から自由な創作へと変わっていったものと見てよいと思います。
絵画などにもそうした流れがあります。

自然というものの真似をして、一つの枠の中に閉じ込めて見ようとしたのが「模倣」だったのでしょう。
ですが、「模倣」には定型化という飽きが必ずきます。
より自由な構成を求めて創作が行われ、その結果、抽象芸術が生まれたと見てよいと思います。

あと、もう一つの見方として
自然の芸術と、反自然の芸術という見方ができると思います。
写実と抽象をそのように解釈する事も可能です。
この二つを同時に取り入れたものもあります。
庭園では、龍安寺の石庭の背景や、円通寺の借景などがそうです。
解説は、岡本太郎の「日本の伝統」に載っています。

>芸術美は自然美の模倣

芸術は自然の真似をすることから始まった・・
と解釈していいのではないでしょうか。
ご参考にしてください。

>芸術美は自然美の模倣

「模倣」というところの解釈をしてみます。
NO.5のお答えにもあるように、自然を手本として創作された芸術があります。
写実的芸術といわれるものです。

庭園を例に上げれば
自然の姿を縮小し、省略化して、自然を表した日本庭園がそうです。
それらは、縮景とか、山水の美とか呼ばれています。

また、そこから出発して、一つの平面や空間内における自由な美的構成そのものに至った芸術があります。
抽象芸術といわれるものです。
日本庭園の中でも、枯山水といわれるものです。

芸術...続きを読む


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