アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

こんにちは。
私はキリスト教系の学校を出てから改めてキリスト教に興味を持ち、
半年ほど、近くの教会に通っています。
まだ受洗を具体的に考えるような段階でもなく
礼拝に出ているだけというような状況ですが、
毎回、献金のときになるとどうしたものか考えあぐねてしまいます。

教会にはそれなりにお世話になっていますが、
まだまだよそ者扱いという感じでいまいち慣れませんので、
例えば教会の方への感謝などに対する私なりの
間接的な「気持ち」として考えても、まだ小銭程度の金額しか
出す気にはなれない・・・というのが正直なところです。

なんとなく、「サービスと対価」のように聞こえてしまったらごめんなさい。
そこまで割り切ろうという話ではないつもりです。
ただ私の家は今、経済的に芳しい状況にはないため
どうも自分の生活優先の考え方をしてしまうことは事実です。
また、私は現在は体調を崩して療養・求職中で、
私自身の収入というのはありません。

先日などは、財布にお札と10円玉しかなかったので
こっそりと10円を入れたのですが、誰がいくら入れたかは
わからないとはいえ、これはさすがに後味が悪かったです。
(ただ、お賽銭のことなどを考えると、どうして後味が悪かったのか?
というのは、なかなか奥が深い問題のような気もします)

話がそれました。
求道者の立場での献金って、どう考えたらよいのでしょうか?
ぜひご意見をお聞かせください。
金額のことや「こうあるべき」というまでのお話でなくても、
体験談・アドバイスなどでもうれしいです。
どうぞよろしくお願いいたします。

A 回答 (8件)

>献金は献金箱が毎回回ってくるので、「するのがあたりまえ」


と思わされがちで、やはりなかなか難しい面があるなと感じます。

献金は金額の多い、少ない野関係はありません
「どうかこのお金が無駄なく使われますように」という感じでいいのでは?
1円でも「どうぞお使いください」というなら神様のための捧げ物です。

人はうわべを見るが、主は心を見る 
サムエル第1 16の7
と旧約聖書に書いていますね。

そのやるべきことが自分のためだけなのか?
自己満足で終わるのか?それともそのやるべきことが
他の人を幸せにすることができるのか?

このあたりで判断してください。今やれることは
今しかありません。
教会に行く行かない別として、もし時間があるなら
聖書を読んでください
    • good
    • 0

それがあなたの信仰の表現としての行動なら後味が悪いというものでもなくなると思います。



僕自身は献金というものに重点をおいてません
それより牧師が語った言葉、それが正しいと思えるなら吟味する。アーメン(ハイそのとおりです。)と言えるなら本当に行っているのか?考えましょう。

神様は行いは評価しません。むしろあなたの心を見ます


お体が治るように、あなたにふさわしい仕事が見つかるように祈ってますね
またわからないところあれば聞いてください
    • good
    • 0
この回答へのお礼

「神様は行いは評価しません。むしろあなたの心を見ます」
との含みのあるお言葉に考え込んでしまっていたのと、
新年から風邪を引いてしまったことで御礼が遅くなりました。すみません(^-^;

私が今回微妙な気持ちを抱いているのは、
「自分には今、やるべきことがある」という気持ちが
すなわち信仰の表現にもなるのだろうか?というあたりで
まだ自信がないからでもありそうです。

が、たくさんのご回答をいただき、自分の信仰において
何に重点を置くかということも、人それぞれでいいのだと
いうことがわかってきました。
ただ献金は献金箱が毎回回ってくるので、「するのがあたりまえ」
と思わされがちで、やはりなかなか難しい面があるなと感じます。

再度のご回答、どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/01/20 13:21

献金は強制でありません。

あなたの気持ちです

(私もはっきり言って100円10円の時もあります
別に気にしていません。あくまでも信仰の気持ちとして出すものですから)

>この千円は今ここに入れるよりも大切な使い方があるはずだ、と私なりに判断したからなのです。

信仰というのは人によって(誰々が言ったから)その言葉に従うというのではありません。あなたの動機が正しければ神様はあなたを祝福してくれるはずです。

別の言い方をするなら献金の額が大きいか小さいのか
それによって決まるものでもありません。
どうかお使いくださいという気持ちが大切ですからね
早く治るようお祈りします
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>信仰というのは人によって(誰々が言ったから)その言葉に従うというのではありません。

そうですね。
人に見せるものでもなければ、人と比べるものでもないのですよね。

千円札ではなく10円を入れた行為は
「人に知られるとすれば、なんとなく恥ずかしいこと」ではありましたが、
そういった雑念をすべて取り払ったところで"正しい" のか?と問われれば
「私は正しいと信じている」と答えます。

ご回答、どうもありがとうございました。(^-^)

お礼日時:2005/12/31 13:40

二度目の書き込みになりますね。


お返事読ませていただきました。
そうですか。お母様もまた具合が悪いのですね。
そしてあなたはそんな家庭を顧みている。
ならばあなたは今はお母様や自分の健康に向けて励むべきでしょう。
それも1つの信仰の表現であり、少なくとも私は尊いお考えだと思っています。
もしもそのことで兄弟姉妹に何か言われたら、それが今与えられた使命なのだと言っておしまいなさい。
恐らくはご家族はクリスチャンではないのですよね?
クリスチャン同士励ましあうのも大切なことですが、クリスチャンではない人々のために尽くすのも大切な神の仕事です。
親兄弟を敬いなさいという聖句もあります。
まずはご家族の健康のために、あなた自身の健康のために励んでいく中で自分の方向性を決めていけば良いのではないでしょうか。

ついでなのでひょんなきっかけで洗礼を受けた話を最後にしましょう。
クリスマスの次の日だったでしょうか。よく覚えていません。ともかく、クリスマスの近くでした。
前の日に、毎日教会に通っていたある男性と深く神について話をしました。彼はクリスチャンでしたが、既に教会から離れていました。
その翌朝、起きたときにとても素晴らしいすがすがしい気分で目が覚め、周りにある風景がとても光輝いていたんです。
そのときに「あぁ。自分は洗礼を受けなくてはいけない」と何故か思ってしまったんです。自然に。
それまでは本当に一生求道者のままだと兄弟姉妹にも言いふらしていたので、直後私がいきなり姉妹に電話をかけて今すぐに受洗したいと言ったとき、すぐさまその話は教会中を駆け巡り、誰もが「神の奇跡」だと言ってはばかりませんでした。
結局さすがに日程的に無理があったので、年が明けて1/10に洗礼を受けたのです。
こんな変わった洗礼を受けるきっかけが与えられたものですから、いまだに異端者のままです。
それでも神は私を愛してくださいます。

どんな形であれ、あなたが本当に幸せだと思う道を進んでいかれることを神もまた否定しないでしょう。

良いお年をお迎えください。
また神のご縁がありましたらお話しましょう。
それでは・・・・。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

母はカトリックで、私の教育の根底にもそれはかなり色濃く流れていますが、
母自身は病気のこともあり、今は教会からは離れてしまっている状態です。
(私がいま通っているのはプロテスタントの教会です)

家族や自分の健康のために励むのも、一つの信仰の表現・・・
というのは、はっとさせられました。
私は「献金って何?」と考えるのと同じように
「信仰って何?」とも、いつも考えていますが、
視野が大きく広がった気がします。

そして、受洗を決意されたのはまさに1年の今の時期だったのですね。
私が10円を入れたのも、実はいみじくもクリスマス当日でした。
だからこそ後味悪さも倍増・・・という感じだったのですが、
あのとき丁度良い、そこそこの金額がお財布にあったなら
多分ここまで「私は今、このことについて考えなくちゃいけない!」
という気持ちにはさせられず、質問も立てなかったでしょう。
自分のやるべきことは何かということに思いをはせることもなかったはずです。

下のほうのお礼には、あの日の10円は全く意味がなかった・・・と書きましたが、
たぶん神さまは、1枚の10円玉に乗った、そんな私の思いや迷いまで
すべて受け取って、喜んでくださったのではないかなと思えました。
これからも私なりの学びを続けていければと思っています。

再度のご回答、本当にどうもありがとうございました。
はからずも、献金のこと以上に迷いが晴れた部分がありました。
回答者さまも、どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

お礼日時:2005/12/31 13:28

こんばんは。


あなたはとても誠実な人ですね。
まだ〆切にはしていないということは、まだまだ疑問が晴れないのに、あなたはそれでも全ての回答者に感謝の気持ちと率直なあなたの気持ちを書き綴っている。
とても誠実な人です。
さて、本題に入りましょうか。
私も長く求道者でした。一生受洗しないだろうと思っていたし、まぁそれがひょんなことで洗礼を受けたわけですが(軽々しかったわけではないのですが長くなるので省きますね)。
その間の私の献金についてお話しましょう。
これは回答にはなりえません。ご期待に沿えず申し訳ないのですが、結局献金の額というのはご本人が決めることですから。
私はその頃あまりお金がありませんでした。
実家が破産していまして。まだ破産したての頃だったので、上京していた私(長女です。男兄弟はいません)を頼ってお金の無心をしてくることがたびたびあったのです。それにその頃既に自分は精神の病で、失業していたんですね。それをやっとの日雇いで食っているような状況でした。
ある意味状況は今のあなたに似ていますよね。
それに教会の利益になるために献金しているような気がして嫌だった気持ちも確かにありました。
今も教会には実はあまり献金をしていません。
何故かは後ほど・・・。
真っ当なクリスチャンはやはり収入の10分の1を毎月きちんと納めていました。
だからそのとき私が献金した額は多分総額1万円にも満たないと思います。
クリスチャンの全てがそうだとは言い切れないのですが、やっぱり教会に献金することに命を賭けている人もいるのは事実です。
実生活では粉を舐めて生活していながら教会の献金ははずんでいる。それも1つのクリスチャンのあり方ですから否定はできませんね。
勉強されたあなたですからその人達の心情は良くお分かりになると思います。
求道者として。
求道者だからいくらいくらでなくてはいけない。例えば、クリスチャンのように目安として10分の1というある暗黙のルールがないだけに難しいところではあります。
しかし、聖書には書かれています。
私は丸ごと聖句の暗記は信条として嫌いなので簡単にその箇所を書いてみると。
要するにお金持ちがそれなりに沢山のお金を入れました。その後に乞食が金額としては少ないけれども、彼の持っている金額全てを献金しました。さぁどちらが尊いか。
という話です。
これは誰に言われるまでもなく明らかでしょう。
現実問題に話を移せば、私は「教会での」献金にそれほど力を注いでいません。これは今クリスチャンとなってからもそうです。
何故でしょう?何故だと思いますか?
私の神に対する感謝の気持ちは教会での献金以外のところに重きを置いているからです。
具体的にお話しましょう。
要するに募金活動をしている人達(当然ノンクリスチャンです)の募金に充てたりしていました。
何故なら教会には教会員が毎週きちんと献金してくれますが、募金をしてくれる人は日によってマチマチだからです。それに私はもっと経済的に困っている人達や例えば盲導犬を増やしたいといった切実な悩みを抱えている人達に貢献することで神への感謝を表すと決めたからです。
それも1つの神への感謝の表現方法だと私は思っていますし、この私の風変わりな神への愛について、私は教会の兄弟姉妹と話あったことがあります。
彼らはとがめませんでした。もちろん彼らの考え方と私の考え方があまりにも違っているので、多少の混乱をきたしましたが、最終的には納得してくれました。
何故兄弟姉妹が最終的に納得してくれたとあなたは思いますか?
私はこう言ったんです。
「教会への献金は大事だと思う。世界の人々に布教という形で福音を知らせるのも大切な使命だ。でもそれをするクリスチャンは私でなくても構わない。あなたがたはそうしなさい。私は外の世界での実質的な献金を行うことでクリスチャンではない人たちに哀れみを垂れましょう。それが私の使命だから。神が私にこのような考えを与えたのならそれが私の使命なのでしょう」
これは本当の気持ちです。
現在、私は職場が潰れてしまい、無職です。
それまでは収入がありましたので、今年から、インドのヒンドゥー教徒の女の子とその地域の人々への経済支援をしています。
月に4500円です。
あの頃に比べれば大きな額になりました。
私は喫煙者なので(真っ当なクリスチャンではありませんのであしからず)タバコを減らせば十分に出せる金額でした。
私は今は教会に通っていないのですが(洗礼を受けた当初の母教会が分裂したことと、今は実家に戻っているためです)、神への献金はこのような形で続けています。
これからしばらく無職なので、当座二ヶ月(つまり約1万円)のお金だけは貯めてあります。
彼女の支援のお金だけは家族に払わせるというわけにはいかないのです。
また、私は精神を病んでいて、障害者年金の申請をしているのですが、障害者年金で賄おうとも思いません。
どんなに病状が悪化しても彼女の支援のお金だけは自前で稼ぐ方向で話を進めています。そのために家でできる仕事を身につけようとがんばっているのです。
施しを受ける側が施すのは間違いだとお思いですか?
私は間違いだと思っていません。
人から受ける善意を他の人におすそ分けすることが悪いことだとは思えないからです。
皆様から受ける善意は、ありがたく、また無駄にせず、使わせていただこうと思っています。もちろん持病の回復に努める所存です。

直接的でない話ばかりでしたね。
私が短絡的に回答を与えるとするならば、まず献金すると決めて手にした小銭やらお札やらに、感謝の気持ちを込めてから、それから献金箱に入れることをお勧めします。
「この程度の金額で申し訳ない」と思ってしまうのは判りますが、それを「この程度の金額ですが受け取ってください」に変えるのです。
教会は献金を募るものと思われていますが、ユダがイエスを売った金は教会の資金にはされませんでした。
つまり、教会が断ることも実際にはあったわけです。
上記のような気持ちに切り替えるだけであなたの心は少し軽くなるのではないでしょうか。

ご体調が回復されるのを心より祈っています。アーメン。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ものがお金という、なんとも話しにくいテーマですが
率直なご回答をいただき、非常に興味深く拝見しました。

特に印象的だったのが、献金をどこにするかという部分でした。
実はうちは母も病気をしており、日々、なかなか苦労しています。
そんな中でその日、私が千円札と10円玉を天秤にかけ
(お財布に手をつっこみながら、3分位はぼーっと考えていたと思います)、
意を決して10円玉のほうを献金箱に入れることにした本当の理由は、
この千円は今ここに入れるよりも大切な使い方があるはずだ、
と私なりに判断したからなのです。

これは、平たく言ってしまえば
その千円を生活費に回そうと考え直した、ということでもあります。
が、私は、まだクリスチャンではない身なりに
「母を救うことが、今私に課せられた仕事だ」と感じています。

まだ信仰のない私です。
その仕事をすることがすなわち神への感謝になるはずだ、とまでは
自信を持って言い切れない部分がもちろんあります。
いかんせん回す先が自分たちの生活費ですので、
結局もったいないんでしょ?と言われてしまえば、何も返せません。

しかし、ご回答を何度も読み返すにつれ、回答者さまの
献金のお金を募金に充てることへの確固たるお心構えと、
私が「私にはやるべき仕事がある」と考える今の気持ちには
なにか同じものがあるように感じられました。

また、親のお金や年金で賄おうとは思わない、という部分にもとても共感しました。
私があの日、入れなければいけない気がして迷った千円も
あくまで親のお金であり、自分で稼いだお金ではありません。
入れていたとしても、それはそれできっと本質的ではなかったのでしょう。

献金箱にお金を入れるというのは、「使い道を神に委ねる」
ということでもあるんですよね。それに気づいたことと、

『神が私にこのような考えを与えたのならそれが私の使命なのでしょう』

というお言葉で、だいぶ心が軽くなりました。
お金よりもずっと大きな、そして大切なものを神さまに委ねていらっしゃるのですね。

うまく言えないのですが、少しずつ整理がついてきました。
ご回答、ほんとうにどうもありがとうございました。(^-^)

ちなみに私も、一生受洗しないかもしれないと思っていたりします。
自分にもいつか、ひょんなきっかけが訪れるのだろうかと思うと、ちょっと楽しみです。

お礼日時:2005/12/29 14:03

海外からですが献金はamy1567さんの思う金額でいいと思います。

一番大事なことはamy1567の心なのですから。中世ヨーロッパの人々は1つの目安として自分の収入の1/10を教会に収めていたみたいです。十円でもamy1567さんの気持ちが入っていれば十分です。最初はあまり気にせずに献金しなくてもいいと思うのが自分の考えです。自然に入れたいなと思ったときに献金すればいいのではないかと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

私のこの間の10円というのは、おもに
「ああ、みみっちいなあー自分」という思い"しか"入っていない、
本質的にも全く意味のない10円だったと思います。

私の自然な気持ちのままに行動するとすれば、やはり
「入れない」か「小銭程度」になると思うのですが、それはそれで
"私はけちなのかしら?もっと入れるべきなのかな?でも、どうして?"
という邪念が毎回毎回どうしても入ってしまうので、
入れる金額が多めであれ少なめであれ、結果的に
あまり気持ちがこもらないお金になってしまいそうで、
これは良くないことだな・・・といつも思っています。

さらに、献金箱に「お金を入れる」動作をしながら
その実はほんの小銭しか入れていない・・・というのも
気分の良いものではないんですよね。
自分がなにかを欺いている気がします。
難しいですね。

でも自発的な気持ちが訪れたときは、まずそれを大切にしてみたいです。
ご回答、どうもありがとうございました。(^-^)

お礼日時:2005/12/28 17:48

小学生の頃に教会に通っていたことがあります。


こどもながらに、順番に献金を集めにくるのは???と思ってました。
あれでは入れないわけにはいきません。
と同時に神の教えに背いていると思います。
献金は、あくまで自発的なものでないとダメだと考えます。
たとえ心理的でもプレッシャーを与えるのは賛成できません。
ちなみに今は信仰していません。
しかし無神論者でもありませんが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そうなんですよね。
まだ献金のほんとうの意味がわかっていない私でも、
献金箱が回ってくると、入れないわけにはいかない気持ちにさせられます。
いちばん身の丈に合った行動は「入れない」ということなのでしょうが
それはそれで居心地が悪そうなので困ってしまいます。

信仰はしていないけれど無神論者でもない・・・というのは
今の私もそんな感じだったりします。
ご回答、どうもありがとうございました。(^-^)

お礼日時:2005/12/28 17:43

こんにちわ。

私は、両親がクリスチャンであることもあって子供の頃から教会に通っています。あまり文章がうまくないのですが、少しでもあなたの悩みの助けになれれば・・幸いです。
献金について悩まれているとのことですが、献金とはそもそも「金額」が大切なのではありませんし、教会への「感謝の気持ち」としてするものでもありません。そうではなく、「神様への感謝の気持ち」として捧げるものです。その感謝の気持ちを「お金」という物に置き換えているだけです。自分の持っている物の中から、感謝を表せばそれでいいと思います。
聖書のコリント人への手紙には、こう書かれています。
「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」
教会の人にお世話になっているから・・と書かれてありますが、献金は教会への募金でも寄付でもありません。確かに集まった献金によって教会は運営されています。しかし、献金は神様へのあなたの心が一番大切だと思います。まだ献金の本当の意味が分からないのなら無理をしてする必要はないと思います。献金は強制であってはいけないからです。
私の場合ですが、高校生まではおこづかいがありませんでしたので、その日に財布の中に200円しか入っていない時はたったの100円しか捧げませんでした。でも、神様はきっと金額なんかを見ておられるお方ではないと思うんです。そんなケチ臭い神様なんて神様じゃありません!そうじゃなくて捧げる私の気持ちを喜んでくれてるんだと感じます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そうなんです、まさにおっしゃる通り、今の私は
「まだ献金の本当の意味がわからない」段階にいるんだと思います。

そのようにまだ信仰がきちんと芽生えていない私が
なぜ献金するのか?という動機を無理矢理説明しようとすると、
間接的・教会の人うんぬん・・・という、ちょっと変な説明になるわけです。
自分でも、「献金って、本当は違うはずだ・・・」ということ自体は
なんとなくですが、わかっているつもりです。

しかし求道者にも献金箱はしっかり回ってくるんですよね。
入れないわけには行かない気持ちになるのも確かです。
いちばん身の丈に合った行動は「入れない」ということなのでしょうが
それはそれで居心地が悪そうなので困ってしまいます。

なかなか難しい問題だなとは感じますが、回答者さまの
「捧げる私の気持ちを喜んでくれてるんだと感じます」
というお言葉は、今の私にも響くものがありました。
ご回答、どうもありがとうございました。(^-^)

お礼日時:2005/12/28 17:42

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!