今年はショウ、ザ、フラツグの解釈で国会で解釈問答がありましたが、現在ですらこんな簡単な事で解釈が変わるのに、昔ペリーが来たときとか、
現在NHKで放送している蒙古来襲など少ない通訳でまともな翻訳が出来たのでしょうか。
どこか大きな間違い誤訳が起きていたような気がしてなりません。
こんな話をご存知の方は教えていただけないでしょうか、本でも結構です。いつも気になってなっています。

A 回答 (2件)

いろいろあると思いますが、とりあえず以下の本などいかがでしょう。




歴史をかえた誤訳―原爆投下を招いた誤訳とは!
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/ws …

誤訳―ほんやく文化論
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/ws …

やっぱり、誤訳だったのか!―欠陥翻訳時評
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/ws …
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この回答へのお礼

いろいろな本のご紹介有難うございました。
早速取り寄せ読んでみます。

お礼日時:2001/12/27 08:06

通訳は何も外国との間での問題ではありませんよ。


徳川政権時代に、「忠臣蔵」の騒動がありましたよね。
一説(俗説ですが)には、言葉(方言)の違いによる意思の疎通が出来なかったせいというのも有りますし、
共通語(標準語)は、薩長の武士が吉原のおいらん言葉が、洗練していてカッコイイと感じたせいで生まれたようです。
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この回答へのお礼

おっしゃる通り沖縄の方言で(タックルス}、、、標準語{叩く}が問題になり裁判があったのを今思い出しました。
多分アメリカ人との喧嘩で沖縄の方が上記の言葉を言ったのを、アメリカ人が叩き殺すと解釈したそうで殺人予備罪で起訴され沖縄の言語学者が解釈して無罪になったことがありました。
叩くと叩き殺すでは天と地の差がありますものね。どうもありがとうございました

お礼日時:2001/12/26 22:31

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Q襲来と来襲の違いは?

襲来と来襲、辞書で見ると意味がまったく同じなのですが、使い方などがよくわからないのでお教えください。

Aベストアンサー

元寇の際の様子を描いた「蒙古襲来絵詞」なるものが
あります。
個人的には「襲来」に、より強いインパクトを感じます。

「来襲」も同じ意味でしょうが、外国人が日本に来たとき
に「来日」とかいいますよね。
なんか、ちょっとソフトな印象を受けます。

他には、そのまま読んで
襲来=襲いかかって来る
来襲=来て襲う
何か、襲来が強い意味のように感じます。

参考まで。

Q三酔人経綸問答。

前にも同じ質問をしたのですが、中江兆民の『三酔人経綸問答』について、詳しい方、なんでもいいので教えて下さい。

Aベストアンサー

↓のサイトはもうごらんになったでしょうか??

読書ノート  中江兆民『三酔人経綸問答』 というサイトです。

参考URL:http://home.att.ne.jp/sun/mush/enlight/matsunaga01.html

Q禅問答について・・・。

初めて質問させてもらいます。よろしくお願いします。

結構有名な禅問答で、こういうのがありますね。

僧「祖師西来の意は?」
師「庭の柏の樹」
僧「物で答えないで下さい」
師「物で答えてはいないよ」
僧「祖師西来の意とは何ですか?」
師「庭の柏の樹。」

一度は分かったつもりでいたのですが、最近やっぱり何だかわからなくなってきて、どうも気持ちが落ちつかなくなってきました。
今回一応、昔読んだ禅問答の本を読み直してみたり、趙州、無門関などの言葉でgoogle検索できるページは大体のぞいて見たりもしたのですが、どうも自分で納得ができません。
とてもモヤモヤとして鬱陶しく、是非皆さんに教えてもらいたいと思うのです。

質問:結局、師(趙州禅師)の答えはどう解釈すればいいのでしょうか!?

納得できるまで閉めずにおくつもりでいます。
どうか是非是非よろしくお願いします!

Aベストアンサー

まず言葉の意味ですが、「祖師西来意」とは文字通りには「達磨大師が西(インド)から(中国へ)やって来たその理由」ということになりますが、古来禅門ではこれを「第一義」すなわち「仏教の根本の教え」の謂いで使うのが通例です。従って、僧の質問は「仏教の根本とは何か」ということになります。

これに対する趙州禅師の答え「庭前栢樹子」は論理的には意味が通らないようですが、ひとつの解釈として、「仏性」と答えた、とみることができます。つまり「庭の柏の樹」という姿をとって現れているところの「仏性」を感得することが仏教の根本義である、という解釈です。

仏性は世界に遍満しているのであって、どのような存在も仏性の顕現である、その意味で仏法の視点からすれば問う人間も庭の樹も同じ価値を有しているということを知らねばならない、という意味のことを、インパクトをもって答えた結果が「庭前栢樹子」なのです。逆に言えば、桜の木でも柳の木でも何でも良かったということになります。

これには少し「仏性」のことを解説しないといけません。
仏性とは、古くは如来蔵と称し、「宝性論」や「如来蔵経」といった仏典に登場する考え方で、もともとは文字通り「仏となる素因」のようなものとして想定されたものでした。
これが後に仏性と名づけられ、「大般涅槃経」という大経典を経て一躍大乗仏教の重要な思想となりました。涅槃経の中の「一切衆生 悉有仏性」、つまり「全ての生き物にはことごとく仏性がある」という句は大変によく知られています。

この仏性は、時代を経るうちに、無我説、つまり一切空を説く教義との齟齬から、「存在」としての側面よりも「働き」の側面が強調されるようになります。つまり、“ある・ない”という議論を止揚して、人々を仏にならしめる可能性、働きそのものを仏性というようになるわけです。

この仏性をさらに掘り下げたのが中国における禅です。詳しく書くときりがないので詳述しませんが、最終的に仏性は法というものに極限まで近づき、「人や物ごとをこのようにあらしめるところの働き」という風に突き詰められていきました。
世界の全てがこのようであることは、仏性の働きであり、仏性がそれぞれの形をとってこのように現れているのだ、という理解がされるようになったのです。
中国禅六代目にあたる慧能禅師の言葉「無常者仏性也(無常は仏性である)」という言葉は、このような禅の仏性観をよく表しています。移ろっていく姿そのものが仏性の働きであり、仏性の表れなのだ、というわけです。

このような視点に立てば、庭の樹も流れる川も山々も、問う僧も答える師も、すべて仏性の表れなのであって、本来どれをとりあげてもそれぞれの姿そのままに仏性が充満していることになります。そのことを趙州禅師は「庭前の栢樹子」と答えたのでしょう。

脇にそれますが、これは決してことさらに奇異をてらったわけではありませんし、ましてや論理をはずれた答えをしたのでもありません。十分に僧の力量を見たうえでの答えだと言えます。
僧の「物で答えないで下さい」という言葉は、人境一如、つまり人も物もないはずだ、ということを頭で踏まえたうえでの言葉と見受けられるので、趙州禅師はさらに一歩を進めて、「だから、栢樹子はものじゃないという道理を知りなさい」と答えたのです。

道元禅師はこのような中国禅の仏性観を独自にさらに深めたことで知られていますが、師の正法眼蔵「栢樹子」の巻には問題のこの問答が引用されています。
そこではまさに、「全てのものは達磨がやって来た意味そのものであって、それ以外ではない」、「栢の樹がものでない道理を知らねばならない」と記されています。
また、この問者である僧も「問取」、すなわち問いの中に道理が踏まえられていて、言わばひとかどの問いであることは評価されています。

結局、仏教の根本義はこの「仏性」を体得することであって、この仏性という面を見ればあらゆるものがそのままで本当の姿を表していること、従って人境一如、つまり問う側も眼の前の樹も本来分け隔てようがない絶対の存在であることを知りなさい、というのが趙州禅師の答えだということになるでしょう。

まず言葉の意味ですが、「祖師西来意」とは文字通りには「達磨大師が西(インド)から(中国へ)やって来たその理由」ということになりますが、古来禅門ではこれを「第一義」すなわち「仏教の根本の教え」の謂いで使うのが通例です。従って、僧の質問は「仏教の根本とは何か」ということになります。

これに対する趙州禅師の答え「庭前栢樹子」は論理的には意味が通らないようですが、ひとつの解釈として、「仏性」と答えた、とみることができます。つまり「庭の柏の樹」という姿をとって現れているところの「...続きを読む

Qザ行の発音のしかたで迷っています。

私は日本で生まれ育って25年になりますが、
ザ行の発音のしかたで迷っています。

英語の話からはじめると、
私は「car」と「card」の複数形を区別して発音できません。
おそらく[z]と[dz]となっていて発音の区別があると思うのですが、
(複数形の発音って辞書に載っていますか?)
皆さんはこの二つの言葉を区別して発音できますか?

そこで日本語に話を戻すと、私のザ行(「ジ」以外)の発音は[dz]に近いと思います。
私の勝手な解釈だと、
・[z]は舌が上あごにつかない。
・[dz]は舌が上あごにつく。
という区別だと思っています。(正しいでしょうか?)
私は舌が上あごにくっついているので、ザ行(「ジ」以外)を後者で発音しています。
サ行(「シ」以外)の発音が[s]で舌が上あごにくっつかないなら、
ザ行(「ジ」以外)も舌が上あごにくっつかなくてしかるべきだと考えています。
私の発音は日本語としておかしいのではないかと思っています。

皆さんはどのようにザ行(「ジ」以外)を発音していますか?
私の発音は日本語として、普通でしょうか?
それとも方言などによってゆれがあるのでしょうか?(石川出身です)

「私はこのように発音している」という人から
専門家の方にいたるまで広くご意見を賜りたいです。
よろしくお願いします。

私は日本で生まれ育って25年になりますが、
ザ行の発音のしかたで迷っています。

英語の話からはじめると、
私は「car」と「card」の複数形を区別して発音できません。
おそらく[z]と[dz]となっていて発音の区別があると思うのですが、
(複数形の発音って辞書に載っていますか?)
皆さんはこの二つの言葉を区別して発音できますか?

そこで日本語に話を戻すと、私のザ行(「ジ」以外)の発音は[dz]に近いと思います。
私の勝手な解釈だと、
・[z]は舌が上あごにつかない。
・[dz]は舌が上あごにつく。...続きを読む

Aベストアンサー

[z] 有声歯茎摩擦音、無声なら[s]
[dz] 有声歯茎破擦音、無声なら[ts]
[3] 有声後歯茎摩擦音、無声なら[∫]
[d3] 有声後歯茎破擦音、無声なら[t∫]

破擦音とは破裂音+摩擦音です。[3][∫]の調音点については、「硬口蓋化」という人もいるかもしれませんが、いずれにせよ[z][s]より調音点が後ろなわけです。もちろん個人差、方言差、前後の音による影響などはありますけど、だいたい上のようなところかと思います。文献等で確認してくださいまし。

Q現在形と現在完了形の違いはなんですか?

現在形と現在完了形の違いはなんですか?

Aベストアンサー

現在形は、今現在の習慣や状態を表す時に使います。
現在完了は、過去のある出来事が、何らかの形で現在に関わっているときに使います。
時の流れを直線で表した時、現在形は点で、現在完了は線だと思って下さい。
現在完了には「完了」「結果」「経験」「継続」4つがあります。

完了(ちょうど~したところ)
過去から行っていた動作が完了した。
just, already, yet 等を伴うことが多い
例)I have just finished my homework. (私はちょうど宿題を終えたところです。)→だから今から暇、とか。
      
結果(~してしまった)
何かが起こり、その結果こうなった。意味が似ている事から「完了・結果」と一緒にすることもあります。
例)He has gone to America. (彼はアメリカに行ってしまった。)→だから今ここにいない、とか。

経験(~したことがある)
過去の経験を表します。
once,twice 等頻度を表す語を伴うことが多い。
例)I have been to Kyoto. (私は京都に行った事がある。) →だからそこを知っている、とか。

継続(ずっと~している)
過去から行った動作が今も続いている。
since, for 等起点や時の長さを表す語を伴うことが多い。
例)She has lived here since 1990. (彼女は1990年からここに住んでいる。)→今も住んでいる
動作の継続をよりはっきりさせるために、現在完了進行形 have been ~ing を使う事もあります。
例)My sister has been studying for three hours. (妹は三時間ずっと勉強している。)

現在形は、今現在の習慣や状態を表す時に使います。
現在完了は、過去のある出来事が、何らかの形で現在に関わっているときに使います。
時の流れを直線で表した時、現在形は点で、現在完了は線だと思って下さい。
現在完了には「完了」「結果」「経験」「継続」4つがあります。

完了(ちょうど~したところ)
過去から行っていた動作が完了した。
just, already, yet 等を伴うことが多い
例)I have just finished my homework. (私はちょうど宿題を終えたところです。)→だから今から暇、とか。
      
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