サルトルについて、いま勉強してるのですが、独学な分、分かりづらい所が多々あります。優しくサルトルについて、教えていただけたら幸いです。
また、書籍やHPなども教えて、もらえると、なお嬉しいです。

A 回答 (2件)

 


  ジャン・ポール・サルトルの何について勉強されているのかで話が違って来ます。まず、哲学者としては、「サルトルの実存主義」を唱えた人です。実存主義というのは、唱えた人ごとで随分内容が違うのです。「ハイデッガーの実存主義」「ヤスペルスの実存主義」では、互いに違いがあり過ぎます。
 
  基本的に実存主義は、「かけがえのないこの私の実存」というものを重視します。この場合の「実存」は、他の人と交換できない、「この私の現なる存在」で、例えば、私は女である、私は学生である、私は27歳である、わたしは北海道生まれである……などは、「私の実存の要素」ではあるが、それは私にとって「非本来的」である。(注:この「私」は、話の例で、わたしのことではありません。わたしは性別・年齢・職業など、公開していません)。
 
  非本来的というのは、そういう「女である」「学生である」「27歳である」「北海道生まれである」というような特性・性質は、そういう性質を他にも持っている人がいて、そういう部分は、他者と交換可能で、独自な唯一の「私の実存」の本来的要素ではないということです。西欧哲学で、こういう属性を「本質」とも云います。「私の実存が、私が何であるか=本質に先立つ」とは、こういう意味です。
 
  サルトルの場合、存在(etre)、無(neant)、即自(etre en-soi)、対自(etre pour-soi)、対他(etre pour-autrui)、また意識(conscience)、アンガージュマン(engagement)などの言葉が、その思想を理解するキーになります。わたしは、サルトルはよく知らないので、一般論になりますが。
 
  サルトルは、意識は対自、対他存在であって、常に対象を必要とするが故に、「無」であるとします。この場合、実質の存在としての実体がなく、機能として、対象を追求し求め、投企してゆく作用のなかに意識の存在はあり、それ故、意識は実体がなく、機能として「自由」であるが、「無」であるとなるのです。対象を求める作用は果てしなく、意識の自己実現というか、実存は充足されることがなく、意識であること、対自・対他存在であることは、完結のない無であり、「自由」は「呪い」であるとなります。
 
  即自存在(エートル・アンスワ)は、物質の存在などがそうで、何か対象に対して存在があるのではなく、意識ではないが故に、それ自身で充足しており、完成しているともされます。即自には、「自由の呪い」はないのです。
 
  即自こそ、存在であり、対自・対他は意識であって、意識は対象を求める過程・作用であって、存在として不完全で、無であるということになります。
 
  サルトルの小説に『嘔吐』というものがありますが、この「嘔吐」とは、意識は、常に対自(自己を意識し、自己を対象とする)であり対他(他者を意識し、他者を対象とする)であって、対象との関係にある「無」なのですが、「ものそれ自体」を考えていると、それは「即自」であり、そのような「存在のありよう」は、意識を超越しており、意識である「私」にとって、到底受容しがたく、生理的に反発を抱くことしかできないものであり、即自存在の「体験」は、まさに「嘔吐」を催させるものに他ならない、ということから、こういうタイトルが付いています。
 
  無である意識である「私」は、いかに自己の実存を充足できるか。サルトルは、対自・対他である意識は、社会的重要事項に「関与・参加(アンガージュマン)」することで、実存を実現できると考えました。社会参加を通じて、人は、ただの人一般から、独自な「その人の実存」へと到達できるというのです。サルトルは、このアンガージュマンの考えから、現代社会(サルトル当時の)では、参加するにたる価値ある社会運動は、マルクス主義しかないと主張し、マルクス主義に接近して行きます。
 
  思想家としては、一体何を主張しているのか、一貫性がないとも言えるのですが、それがサルトルの「実存主義」だということにもなります。
 
  サルトルの思想は、いまは人気がなく、それでも次のような本があるようです。(サルトルは、文学的実存主義のアルベール・カミュなどと対比されます。メルロー=ポンティとも当然親交がありますが、メルロー=ポンティの方が思想家として豊かであるような気がします)。
 
  >「サルトル―実存主義の根本思想」中公新書 124
  >矢内原 伊作 (著) 単行本 (1967/02/01) 中央公論新社
  >価格: ¥420
 
  >「ハイデガーとサルトルと詩人たち」NHKブックス
  >市倉 宏祐 (著) 単行本 (1997/10/01) 日本放送出版協会
  >価格: ¥1,120
 
  >「実存主義とは何か」
  >J‐P・サルトル (著), 伊吹 武彦 (翻訳) 単行本 (1996/02/01) 人文書院
  >価格: ¥1,900
 
  >「同時代人サルトル」講談社学術文庫
  >長谷川 宏 (著) 文庫 (2001/08/01) 講談社
  >価格: ¥1,100
 
  新書などで読んでみて、大体の輪郭を把握されることです。
  以下の『存在と無』はサルトルの主著ですが、わたしは読んだことはありませんし、随分本が高いです。この本で「存在」とか「無」と呼んでいるのが、先に述べた、即自や対自・対他です。
 
  >「存在と無〈上〉-現象学的存在論の試み」
  >J‐P サルトル (著), その他 単行本 (1999/05/01) 人文書院
  >価格: ¥7,600
 
  >「存在と無〈下〉-現象学的存在論の試み」
  >J‐P サルトル (著), その他 単行本 (1999/07/01) 人文書院
  >価格: ¥7,600
 
    • good
    • 3

サルトル(1905-1980)フランスの哲学者ですね。



「実存主義」を唱えた人です。
「実存主義」を説明するのは、かなり難しいですが。
簡単にいうとこうです。
物は「現実に存在することが先か、それとも、本質が決まることが先か」という問題があります。たとえば、「あなたは、あなたとして存在していることが先か、それとも、あなたが何物かということが先に決まっているのか。」という問題です。
それに対して、実存主義は、「存在していることが先だ」というのです。「私は何物?」という前に「私は現実存在している。」のです。
何物か決まる前に、私は存在しているのですから、それからの経験なりの積み上げで「私」は出来ていくのです。そう言う意味で、人は何もしなくてもはじめから「自由」なわけです。その変わり、その「自由」ということで、逆に自分で何でも決めなければならないのです。そうして不安を感じたりするのです。
これを「自由の刑に処せられている」と表現します。

こんなところが、簡単な説明でしょうか。
サルトルは、ボーヴォアールと同棲していました。
ボーヴォアールの「女は女として生まれるのではなく、女になるのだ。」というような思想との共通点もありますね。
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qサルトルの『存在と無』について

はじめまして。
現在大学3年で、サルトル哲学を勉強しております。

『存在と無』について勉強しているのですが、「対自存在」と「即自存在」の意味がよく分かりません。この2つはどういう意味なのでしょうか?

ご存知の方いらっしゃいましたらご指導の方よろしくお願い申し上げます。

Aベストアンサー

 まず、「即自存在」とは、それが何ものであるかを規定されて存在しているものを言います。例えば、ペンやナイフなどの道具は「即自存在」です。なぜなら、それらはあらかじめ、その用途や形、デザイン、材質などを制作者が決め、その上でつくられたものだからです。ですから、存在以前にその本質が決められているという意味で、「本質は実存(=現に存在していること)に先立つ(=先行する)」と言います。

 ところが、これに対して「対自存在」は、何ものであるかを規定されず、自己に向かい合うものを指します。つまり、人間がその「対自存在」にあたるとサルトルは言うのです。つまり人間は、道具のようにその本質を与えられているものではなく、気付いた時にこの世に生きているものであり、そのあとで、自らをつくっていくものだからです。例えば人間には、赤ん坊として生まれた最初から、卑怯者や英雄はいません。しかしその後の人生の中で、自らの意志で人生を選択し決断して、ある者は卑怯者になり、ある者は英雄となっていくのです。ですから、サルトルの人間観は、人間という存在はあらかじめ何者になるか決まっておらず、何者にもなる可能性があるという意味で自由であり、「人間は自らをつくるところ以外の何ものでもない」と言ったのでした。そういった意味でサルトルにとって人間とは、常に、ある自分を乗り越えて、無である未来に対し自己の可能性を「投企」していく(=投げ出して創造していく)存在であるとしたのでした。そのためサルトルは、「実存は本質に先立つ」と言ったのです。要するにサルトルにとって、人間の本性(=本質)は存在せず、その後にその人が自ら選択した行為によって、その人が何者であるかが定義されるとしたのです。

 なお、サルトルは、惰性や多忙に流れて組織の部品になり下がり、マスコミの論調に判断をゆだねて自己を合理化し、自己を主体的に選択する決断を回避する「即自的」(「即自」ではない)な生き方を、「自己欺瞞」として批判しています。

 まず、「即自存在」とは、それが何ものであるかを規定されて存在しているものを言います。例えば、ペンやナイフなどの道具は「即自存在」です。なぜなら、それらはあらかじめ、その用途や形、デザイン、材質などを制作者が決め、その上でつくられたものだからです。ですから、存在以前にその本質が決められているという意味で、「本質は実存(=現に存在していること)に先立つ(=先行する)」と言います。

 ところが、これに対して「対自存在」は、何ものであるかを規定されず、自己に向かい合うものを指...続きを読む

Qキルケゴールの思想について教えてください。

キルケゴールの思想について、何でもいいのでおしえてください。

Aベストアンサー

本当は今までの回答のように、ほどよくまとめて分かり
やすく書こうと思っていたのですが、ちょっと忙しくな
ってしまって、ゆっくり書く時間が無くなってしまいま
した。すみません。

レポートって多分もう締め切り間近ですよね?
もしかしたら既に書いちゃったかもしれませんね。
多分、僕がまた時間に余裕ができてから書くとなると、
だいぶ先になってしまいそうなので、少しでも今書いて
おきます。

宗教的なことに言及するのであれば、前に説明した実存の
三段階の最後、宗教的実存について書くときに少し詳しく
書くのがよいかもしれません。
この段階では、とにかく自分の存在を神にゆだねてしまう
訳です。人間は罪から、絶望から、自分の力では逃れられない。
なぜなら、人は本当は神によってこの世界に置かれているから
です。その自己の根拠を自己に求めてしまっているところが
「罪」なのであって、自己が、神を尺度とする自己へと変わら
ない限り,どれほど内省的に自己意識を深めてみても,それは神に
対する罪、絶望という「死に至る病」を悪化させるだけに終わると
いうのです。
ここにおいては主体的な「決断」というのも重要です。そもそも
神と言うのは論理では計り知れない存在ですから、人間が
「神はいるかいないか」と考えてもそんなこと分かりません。
だから、信仰は論理によるのではなく、「信じるか信じないか」を
自分自身が「決断」することによって決まるのです。
キルケゴールの著書に「あれかこれか」というタイトルのものが
ありますが、これはその決断を表すものです。

こんなものでどうでしょうか。
なんか適当になってしまい申し訳ないです。

それでは。健闘を祈ります。

本当は今までの回答のように、ほどよくまとめて分かり
やすく書こうと思っていたのですが、ちょっと忙しくな
ってしまって、ゆっくり書く時間が無くなってしまいま
した。すみません。

レポートって多分もう締め切り間近ですよね?
もしかしたら既に書いちゃったかもしれませんね。
多分、僕がまた時間に余裕ができてから書くとなると、
だいぶ先になってしまいそうなので、少しでも今書いて
おきます。

宗教的なことに言及するのであれば、前に説明した実存の
三段階の最後、宗教的実存について書...続きを読む

Q実存主義の理解を深めたい サルトル

こんばんは。
サルトルを読みたいのですが、哲学頭ではないので敷居が高く入り込めない状態です。今までサルトルで読んだのは「嘔吐」「水入らず」「実存主義とは何か」です。実存主義の理解を深めたいのですが、他に何から読むとよいでしょうか?なるべく、哲学用語だらけだったり、長すぎないものがよいのですが、わがままを言わず読みたいと思っています。初心者がおさえるべきサルトルの著作を勧めて頂けると幸いです。よろしくお願い致します

Aベストアンサー

サルトルの著作という事になると、
「嘔吐」「水入らず」「実存主義とは何か」は読んだのであれば、
次は戯曲を読んでみるのがよいと思います。
「蝿」「出口なし」「汚れた手」「悪魔と神」がさしあたりお勧めできます。
「悪魔と神」以外は新潮世界文学47「サルトル」の中に収録されています。
評論では岩波新書に収録されている「ユダヤ人」も読みやすいでしょう。

サルトルの実存主義は、彼自身の哲学理論から来ています。
実存主義とは何かは存在と無のある種の通俗化と取ることができます。
ですから、実存主義を深く理解しようとすると、サルトルの哲学的著作に
どこかでぶつからなければならないでしょう。
存在と無は哲学書の中ではかなり読みやすいほうだと私は思いますが、
それでも予備知識がない状態で読みこなすのはかなり困難です。
初期の哲学論文である自我の超越などは量的にも少なく、
論旨もわかりやすいのですが、やはり一定の哲学的予備知識
(以前の哲学理論をどうサルトルは受け止め、そしてどういう立場から
それを批判し、どう乗り越えようとしたのか)を知らないと辛いと思います。
ですので、哲学的分野に関しては、今回はサルトルの著作ではなく、
サルトル哲学の解説書としてよいと思うものを挙げます。

手に入れやすいものの中でまず挙げるとすれば、
「サルトル―失われた直接性をもとめて 」梅木 達郎著です。
NHK出版のシリーズ・哲学のエッセンスの一冊ですが、
存在と無の内容をコンパクトながら丁寧にまとめてあり、
まずお勧めできると思います。

清水書院人と思想シリーズの中の
「サルトル」村上 嘉隆著も、紙数の都合か若干駆け足ですが、
サルトルの著作を解説しながら生涯を伝記的に追っており、
読む価値はあると思います。

「同時代人サルトル」長谷川 宏著は、サルトルの解説もさることながら、
著者がサルトルをどう読み、どう時代と向き合ったかについても多く書かれています。
純粋な解説書とは言えませんが、全体を通して著者のサルトルに対する
共感があふれており、好著だと思います。講談社学芸文庫に収録されています。

「図解雑学 サルトル」永野 潤著はわかりやすいのですが、
簡潔にしすぎていて、内容的に物足りなさが残ります。
「90分でわかるサルトル」ポール ストラザーン著、
「サルトル」ドナルド・D. パルマー著も単純化しすぎに思います。

岩波新書の「サルトル―「人間」の思想の可能性」海老坂 武著と、
クセジュ文庫の「サルトル」アニー コーエン=ソラル著は、
サルトルが生きた時代状況と絡めての解説という趣が強く、
読む価値はじゅうぶんにあるのですが、
著作の詳細な解説という側面は薄くなっています。

古本屋へ行くこともいとわないのであれば、
「サルトル哲学序説」竹内 芳郎著がだんぜんお勧めです。
存在と無の解説として内容が充実しているのはもちろん、
叙述が生き生きとしかつ明快であり、
私が読んだ中ではこれを超える本はないと思います。
ぜひ入手してみてください。

以上、参考になれば幸いです。

サルトルの著作という事になると、
「嘔吐」「水入らず」「実存主義とは何か」は読んだのであれば、
次は戯曲を読んでみるのがよいと思います。
「蝿」「出口なし」「汚れた手」「悪魔と神」がさしあたりお勧めできます。
「悪魔と神」以外は新潮世界文学47「サルトル」の中に収録されています。
評論では岩波新書に収録されている「ユダヤ人」も読みやすいでしょう。

サルトルの実存主義は、彼自身の哲学理論から来ています。
実存主義とは何かは存在と無のある種の通俗化と取ることができます。
です...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報