戦国、江戸時代の農民にとって、領主(その国の大名)はどの様な存在だったんでしょう?農民が領主に年貢を納めていた事は知っていますが、領主が農民に何かしてあげていたのでしょうか。現代に例えるとミカジメ料を取る代わりに、店を守ってやるなどと言う893屋さんみたいなものだったんでしょうか。
ご存知の方、教えてください。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (6件)

戦国時代、織田軍とその他の武将は違っていて、例えば武田や上杉軍というのは、百姓を雑兵としてかき集めて戦場に向かいました。

したがって、農繁期には戦闘ができない(やっちゃったら、米ができなくなるので国中が食糧難)。川中島の戦い、というのは、いくら戦っても、タイムリミットがあるから、最後まで決着は付かない。
対して織田軍は、兵農分離方式で、百姓はとにかく米を供出すればいい。供出された米によって、戦闘集団を組織する。したがって、長期にわたる戦闘が可能になります。長篠の戦いで武田軍が負けたのは、単に鉄砲3000丁(これはウソだったらしい)の成果でなく、生産・補給・戦闘という役割分担のシステムだといえます。この発展が、「検地」であり「刀狩り」であるわけです。

領民というのは、領主の「所有物」です。893屋さんの場合はいちおう「契約」ですが、何かしてやるかわりに何かしろ、という関係ではありません。封建制というのはそういうものです。
たとえば「加賀100万石」などというのは、100万石の米の生産力を持つ土地と領民を持っている、ということを意味します。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
なるほど、当時は封建制だった訳で、GIVE and TAKEといった現代的な考え方がなかった、という事ですね。

お礼日時:2002/01/07 23:10

別に搾取や報酬というの言葉は歴史的概念ではなく


用語として用いたのであって言葉の定義を問われると
正直、困ってしまいますね。
誤解かもしれませんが、一応、補足いたします。
搾取、報酬にしろ、私は現代人が持っている言葉の感性として用いています。
あくまで現代人に例えるならば報酬といった感覚であり、当時の領民が
労働の対価として農作物を報酬と考えていたということを説明している
わけではありません。搾取に関しても経済学とは関係なく一般的な現代人が
封建社会を連想する言葉の感覚です。文中でも「搾取という印象」
「報酬という感覚」「報酬といった考え方」など、現代に例えて説明している
だけです。イルカの曲芸と報酬は労働と報酬の単純な説明として
多くの方が理解できると思います。そのときに「イルカは水族館の所有物であり
雇用関係ではない、したがって報酬という言葉は妥当ではない」と言う方は
あまり多くないと思いますが。

私も研究者のはしくれですから、言葉の定義の重要性は理解しています。
もしこの質問が経済学、社会学の学術議論であれば御指摘はもっともだと
思いますが、ここでは大目に見ていただきたいですね。

このサイトで議論めいたことを書くと削除の対象となっていますが
この手のことは対論があったほうが意味が深まるし、なにより回答した本人が
面白いので対論を展開します(densetuさんゴメンナサイ)

領主というといかにも殿様のような感覚ですが、実際に領地を拝領していたのは
その家臣団であります。私の御先祖の惣村も正式には尾張藩であり徳川家の領地に
なります。しかし、領主としてはその家老職である千村家となります。
もっとも、千村家とて間接的な存在であり多くの村人にとっては名主が直接の
指導者ということになります。つまり、当時の領民にとって領主とは漠然とした
存在にしかすぎないということです。戸籍とて領主が必要としなかったのではなく
キリシタンの廃絶のために幕府の命令で寺院に管理させていただけです。

領主にとって必要だったのは生産量にしかすぎません。頭数を必要としていたのは
地請をしていた名主です。領主から見れば何戸で耕しているかなど、
どうでもいいのです。ようは検地の規準通りの石高さえ納められればいいのです。
雇用関係云々は別として感覚としてみればメーカーの社長と現地工場の従業員の
ようなものです。所有物というより「そこで働いている人」としか思って
なかったと思いますよ。

公式には移住することは禁じられていましたが、実際には厳しい取締があるという
わけでもありません。理由としては、そもそも農民が移住するなんて滅多には
ないことですね。飢饉などで緊急な場合を除いては出ていく必要がなかったん
でしょうね。でも、たまには移住もあります。
私の御先祖の惣村は飛地でしたので隣村は他国、苗木藩になります。
近親交配は良くないことを経験で知っているため嫁入りに限らずなんらかの交流を
行っていました。町人でなくても伊勢参りだってしていましたしね。
もっとも弥次喜多のように個人的ではなくて村の代表としてですけど。
酒や茶にしても同様です。公的には禁じられていてもなんだかんだのイベントで
飲んでいましたしね。今の道路交通法のようなもので、目立ち過ぎる違反でも
しない限り取り締まるほどでもないという感じなのでしょう。

もちろん、領地と領民はセットであり、形式的には領民は領主の所有物かも
しれません。しかしながら、双方とも粛々と己の仕事をこなしていただけの
ことであり、特に仲良くされることもなければ理不尽な要求も気にするほどではなく
所有物いう表現はちょっと大袈裟かもしれませんね。武家が持つ賤民と
惣村に属する村人は別物であり、惣村にはかなりの自治権を与えていますしね。

まあ、前回の文頭で述べてあるとうり、人によってさまざまなんでしょうが
この手の問題は具体例で説明した方が面白いということで、あくまでも
一地方の話しです。もっとも、いまだに一族衆には家督を持った
ものしか参加できない説法会に古書が存在し、なにかしらの伝承があるので
裏話があるかもしれません。こればっかりは長男といえど秘密にされるので
当代になってみなけりゃわかりませんがね。
    • good
    • 1

補足。


領民を大事にするかどうかは、領主の気分次第であって、現代でも、クルマを大事にする人・・・、などそれぞれです。

だいたい、「搾取」というのは、資本主義社会で初めて出てくる概念じゃなかったですか?
農産物は決して「報酬」ではないでしょう。(イルカの曲芸でイルカがもらっている魚は報酬とは言わない)

百姓が気分良く生産に精を出して、結果的に生産が増えれば、領主としては得だから、そのために仲良くする、というのはあるでしょうが、そうであっても「所有物」であることに変わりありません。

領民は「頭数」さえハッキリしていれば、領主にとってそれで十分だから、個人を特定するための「戸籍」なんてものは必要でない。ただし、所有物である限り、勝手に領地から出て行くことは許されない、ということになります。
(「ヤジキタ」は領民でなく、「町人」だから、道中膝栗毛が可能だった。)
    • good
    • 1

この問題はいろいろと意見もあるでしょうが、


せっかくなんで、具体的な例をあげて解説しましょう。
舞台は東濃地方(岐阜県の南部が美濃地方でその東側)のある村。
川向こうの村に館を構えていた斉藤道三の猶子斉藤正義が
新たに鳥峰城(後の金山城)を築城したところからのお話。
天文17年に家臣であった久々利頼興によって正義は近隣の久々利城に
招かれ謀殺されてしまいました。もっとも、正義の横暴さが原因で
あったり、久々利家は土岐氏の傍系であるためそのままその地方を
久々利家が統治することで一件落着。

永禄8年になって織田信長に帰順し、その家臣、森可成を金山城主に
封じました。天正10年、本能寺の変が起きると、それまで金山城主
森長可に従っていた東美濃の諸将が反旗を翻しましたが、天正11年、
久々利頼興は金山城で謀殺され再び森家の領地に。
慶長5年、森忠政が信濃川中島に移封され、替わって城主となった
石川光吉も近くの犬山城を拠点としたため金山城は廃城に。
このとき城下町はそのまま犬山城主の領地へ。問題の村はというと
関ヶ原の合戦時に木曽路平定に功をあげた木曽衆・千村家の領地と
なりました。千村家は当初幕臣でしたが元和5年に尾張藩に転籍したため
その後は尾張藩家老の千村家領地として明治維新まで続くことになります。

多くの華族が東京に移り住むとき、最後の領主千村仲展は
「山之狩人を浜之猟師仕と同じく」とか、「山林自在生長する木を抜取来りて、
都下移し鉢植仕事如し」のように地元に留まり続けましが、相次ぐ改革に
ついていけず、隠居し、その子仲重の代となって明治8年に東京に移りました。
(このときマイナーな千村より元々の木曽の姓に改名)これで終わりかというと、
そうでもありません。昭和19年には仲重の孫の木曽義明氏が大阪より疎開。
いまでも地元自治体と古文書の解読等で協力関係にあります。

ちなみにお隣の犬山城主である成瀬家も昭和20年に当代の成瀬正俊氏が
疎開してきています。おどろくのが、この犬山城、いまだに成瀬家の
所有物なんですね。だから現在でも「城主」です。

長くなりましたが、これが領主の変遷です。途中までが直轄で
その後は飛地での間接統治となります。
でもって本題の領民の方ですが、領民というといかにも搾取されるという
印象をもちますが、一概にそうとも言えません。昔は国と民が一体化して
いたため、国が豊かであれば自分達の地位も向上します。
(ここで言う国とは日本という単位ではなく藩単位)
海外で日本人か中国人かでサービスや警察の対応が違うことがあるような
ものですね。したがって自分が生産した米を搾取されるという感覚よりも、
自分達は米を作るという仕事を担い、報酬は生産物の半分という感覚でしょう。
売り上げの半分を己の収入と考えるならば今のサラリーマンよりも
よっぽど高給取りと言えますね。

また、当時の村は高度な自治組織でありました。
いわゆる議会にあたる部分が寄合となるわけです。
細かい政策などは村単位で決定していきます。さらに、今の行政が担う
住民台帳の管理は寺院によって行われていましたから領主と領民は
今の行政と住民より直接的な関係ではないかもしれません。

問題の村に関してですが、ここには三十六人衆というものが村の代表でした。
基本的に各領主は依託という形で年貢の徴集を行っていました。
したがって領主が替わったからといって領民そのものに変化はありません。
常に村の代表が村単位の年貢をまとめて納めていただけですね。
県知事が誰になっても現場の担当者が変わらないのと同じです。

ちなにに明治以降は村制となったため、この三十六人衆の筆頭格
(家の規模ではなく学問に優れていた家)が歴代村長となりました。
昭和の大合併で近隣の町と合併しましたが、いまだに地元の話し合いで
町会議員を輩出しています。そして三十六人衆も存在しています。
もちろん、寄合は儀式的なものになりつつありますが。

まとめると、領主と領民の関係は現在の行政と住民の形よりも
会社と従業員の関係が近いといえます。武士団は経理、営業などの事務系で
農民は技術系ということです。米を生産するという職人集団であって
報酬は生産物の何割という考え方ですね。一揆というと武装蜂起を
思い浮かべますが、実際のとことろみんなで山に隠れて農作業を放棄
している間に村の代表者が担当者と交渉するところもストライキと
同じですね。一方的搾取というのは一般的ではないと思われます。
じゃないと、80年そこらで元の領主の疎開をあたたかく迎えるわけ
ありませんよね。少なくとも自分の親の世代は領主、領民の関係なんだから。

以上「お前は世が世なら」と教育を受けた元領民の意見でした。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
史実に基ずいた具体的なお話で、大変勉強になりました。当時の農民も一方的に搾取されていた訳ではなく、各身分において分業制が取られていたと考えればよいという事ですね。

お礼日時:2002/01/07 23:27

きっといろいろなケースがあると思いますよ。


領主といっても、その地方出身の豪族が出世して大名になってしまった場合と、縁もゆかりもない地方の大名がお国替えでやってきた場合とでは領民の忠誠度が全然ちがうでしょう。

また天領の領民は一般的に年貢の税率が低く、幕府直属の領民としての誇りを持っていたということです。

時代劇に登場するような悪代官は実際にはあまりいなかったらしいですが、年貢以外のさまざまな課税を押し付けてくる領主もいました。独自の紙幣を発行して領民には金銀のかわりにそれで支払うという制度もよくみられます。

名君とたたえられるような領主の政策としては治水・交通網整備・産業の育成・教育の普及・治安維持・文化の育成などがあげられるでしょう。

忠臣蔵の悪役、吉良の領地は三河の幡豆というところです。上野介は製塩業を奨励した名君でした。幡豆では先日、彼の三百回忌が営まれたそうで、領民の領主に対する思いがうかがわれます。

戦国時代には当然各地に地方ルールがあり、歴史学の用語では「分国法」と呼ばれています。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
吉良上野介が領民に慕われていた話は聞いた事があります。実際は忠臣蔵で描かれているような悪人でなく、好人物だったんでしょうね。
 ところで封地変えでやって来た新領主に対して、領民たちはどんな心境だったんでしょうねぇ。

お礼日時:2002/01/07 23:18

町の治安を守ったり、政策を考えたりと、今で言う政府と同じでしょう。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速の回答、ありがとうございます。
戦国時代の政策についてですが、織田信長の楽市楽座、豊臣秀吉の刀狩、その他それぞれの国で法のようなものがあったんでしょうか。

お礼日時:2002/01/06 21:21

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q領主の初夜権

ヨーロッパの領主の初夜権というのは、いつ頃から何の為にあった権限ですか?

また、このカテのずっと前のご回答で、領主の初夜権は新婦だけでなく新郎との初夜の権利も持っていた、
とありましたが、これは本当でしょうか?
初夜権というのは、キリスト教国の慣習だと思っているのですが、キリスト教では同性愛はタブーですよね。
キリスト教以前からあった慣習なのですか?

Aベストアンサー

処女の破瓜の出血を魔物によるものとして、その穢れを祓うため、初夜を族長が代行する風習は、キリスト教以前からのものです。
新郎の初夜権というのはわかりませんが、本来の行為から全く逸脱しておりますので、同性愛狂いの領主が広めたのでしょうかね。タブーだから破りたがる馬鹿が多いのも、キリスト教国の常ですし。

Q江戸時代の米本位経済とは具体的にどういう事なんですか?農民から年貢を取

江戸時代の米本位経済とは具体的にどういう事なんですか?農民から年貢を取り立てるのが今の徴税システムにあたることは分かるのですが、実際、幕府は米を収納してどうやって財政をやりくりしていたのですか?また、農民以外(武士、町人等)はどんな形で納税していたのですか?本当に初歩的な質問ですいません…。

Aベストアンサー

大雑把な説明です、できればご自身で調べた方が良いと思います。

江戸幕府は重農政策をとっていましたので、基本米が収入です、ただ、米で物々交換はできないので、現金化をしました。
そのために米の価格の安定を第一に考えましたが、不作豊作によって相場が乱れたので、商人たち(札差)などが権力を握るようになりました。
農民の年貢に関しては、検見法(けみほう、田を視察してその年の収穫量を見込んで毎年ごとに年貢率を決定する)を採用していましたが、年によって収入が大きく変動するリスクがありました。
なので、江戸中期ごろになると、定免法(じょうめんほう、豊作・不作にかかわらず一定の年貢率による徴収方法)がとられるようになりました。
ちなみにこれは藩ごとになり、幕府が各藩に上米させたのは一回きりだった記憶があります、またこれも税金としてではなく、幕府の財政再建のための献納という意味合いが強いものだった記憶があります(うろ覚え)。
元々国税というのがなく、国税は田沼意次が導入しようとして失敗したと記憶しています。

町民は所得税、贈与税や相続税は一切なく、農民に比べ税負担はかなり低かったそうです。
ただ、公役(くえき)があったのが、人ではなく銀で支払うようになり、長屋住まいの場合は大家さんがひとまとめに支払っていました(家賃に含まれている)。
戸建住まいの人は年3回、町名主が厚めに来ていたそうです。
二十坪を一小間という課税単位、地方によって違います。

現在の地方税に当たる、町入用費というのがあり、これは町名主におさめます。

商人は、法人税のようなものはなく、
御用金制度があり、
宝暦十年(1761年)から始まり約20回ほど徴収されたそうです。
富裕商人を対象に徴収をして、年利3%の利息を加えて返還する決まりだったので、本当は国債に相当するものだったのですが、強制力が強く、最初は返還されていたのですが、財政難になると支払いが滞ったそうです。
上納金もあり、上納額によって褒美があったそうです。
3千両の上納で返還を求め無かった場合、永代苗字が与えられたそうです。

後は冥加金や運上金等がありました。


かなり大雑把です、江戸時代の初期、中期、後期、幕末などで変わっているものもあります。

大雑把な説明です、できればご自身で調べた方が良いと思います。

江戸幕府は重農政策をとっていましたので、基本米が収入です、ただ、米で物々交換はできないので、現金化をしました。
そのために米の価格の安定を第一に考えましたが、不作豊作によって相場が乱れたので、商人たち(札差)などが権力を握るようになりました。
農民の年貢に関しては、検見法(けみほう、田を視察してその年の収穫量を見込んで毎年ごとに年貢率を決定する)を採用していましたが、年によって収入が大きく変動するリスクがありまし...続きを読む

Q中世ヨーロッパ世界における領主制の変遷について

今、学校で中世ヨーロッパの領主制について学んでいます。
領主制では、領主は農民をどのように支配していたのか。
何を源として民衆を支配していたのか。
ということが知りたいです。
また、古い領主制と新しい領主制とがあると聞いたのですが
ここのところもよく理解出来ないので、説明のほどよろしくお願いします。

Aベストアンサー

西洋史をやる上で、領主制という言い方はかなり大雑把ですね。
ヨーロッパと言っても、地域も広いですし、時代によっても変ってきます。
ただ、大きな流れとしては以下の通りでしょうか。

>何を源として民衆を支配していたのか。

これには大きく二つの根拠があります。
一つは「法」、もう一つは「王またはローマ教皇から与えられたこと」です。
「法」は、そのまま法律です。ローマ帝国崩壊以後、混乱した時期もありますが、ルネサンス運動や教会を中心とした研究などで徐々に復活(発展)していきました。
「王または教皇から与えられる」というのは、全ての土地は「王」もしくは「教皇」のモノであり、「王」や「教皇」がその土地を分け与えるという論理です。また、王や教皇の地位は神から与えられたモノとう論理が裏にあります。

>また、古い領主制と新しい領主制とがあると聞いたのですが

余り、古い、新しいと分けるのは聞いたことがないのですが、、、。
こちらも大きな流れを言いますと、以下のようになるでしょうか。

カトリック=ヨーロッパでの支配権は、「法(貴族層)」と「王権」と「教皇権」の争いといった面があります。
支配権の根拠を何処に置くかで争い、それが戦争や反乱へと繋がる事が多々あります。
中世から近世において、上記の力関係のせめぎ合いの中で「法の支配」という考えが成熟していきました。
それが爆発した象徴ともいえるのが、フランス革命でしょうか。
これにより、近代以降は「法」を支配権の根拠とする勢力が勝っていったといえるでしょう。(もちろん、一面ですので一概には言えませんが)


カトリック=ヨーロッパの歴史は(というより人間の歴史でしょうか)、支配権の争いです。
支配権を他人に納得させるためには、根拠が必要です。
その根拠の争いが、カトリック=ヨーロッパの歴史の中心でしょうか。
もっと、詳しい支配制度が知りたい場合は、以下のキーワードで検索してみてください。

「荘園」「封建制」「王権神授説」「叙任権闘争」「教皇権」「王権」etc..

※私の説明は、カトリック=キリスト教の文化圏を主に念頭に置いて回答しています。なので、カトリック=ヨーロッパと表記してます。

西洋史をやる上で、領主制という言い方はかなり大雑把ですね。
ヨーロッパと言っても、地域も広いですし、時代によっても変ってきます。
ただ、大きな流れとしては以下の通りでしょうか。

>何を源として民衆を支配していたのか。

これには大きく二つの根拠があります。
一つは「法」、もう一つは「王またはローマ教皇から与えられたこと」です。
「法」は、そのまま法律です。ローマ帝国崩壊以後、混乱した時期もありますが、ルネサンス運動や教会を中心とした研究などで徐々に復活(発展)していきまし...続きを読む

Q守護大名・戦国大名の領国支配~一円知行~

鎌倉とかでも見たことありますが、「一円知行」とは、正確にどういう意味なのか知りたいのです。「誰も入れずに、すべて自らの手で管理する」みたいな意味かと解釈しているのですが、いかがでしょう。詳しい方、教えてください。

Aベストアンサー

一円知行ということはまとまった領域のすべての権限を一元的に掌握して支配することです。
中世の支配は、たとえば荘園でもひとつの地域をまとまって支配するのではなく、あちらの田、こちらの畠と分散的に支配権を持っているのが普通でした。これだけなら江戸時代にもありましたが、それだけではなく土地の支配とそこにいる人民の支配が違ったり、収穫物の一部についての支配権を持っていたりと、ひとつの土地でも重層的な支配があるのが普通でした。
そういう重層的、分散的な支配権のすべてを掌握したのが一円知行です。

Q戦国、江戸期の農民にとって領主(大名)とは

戦国、江戸時代の農民にとって、領主(その国の大名)はどの様な存在だったんでしょう?農民が領主に年貢を納めていた事は知っていますが、領主が農民に何かしてあげていたのでしょうか。現代に例えるとミカジメ料を取る代わりに、店を守ってやるなどと言う893屋さんみたいなものだったんでしょうか。
ご存知の方、教えてください。

Aベストアンサー

戦国時代、織田軍とその他の武将は違っていて、例えば武田や上杉軍というのは、百姓を雑兵としてかき集めて戦場に向かいました。したがって、農繁期には戦闘ができない(やっちゃったら、米ができなくなるので国中が食糧難)。川中島の戦い、というのは、いくら戦っても、タイムリミットがあるから、最後まで決着は付かない。
対して織田軍は、兵農分離方式で、百姓はとにかく米を供出すればいい。供出された米によって、戦闘集団を組織する。したがって、長期にわたる戦闘が可能になります。長篠の戦いで武田軍が負けたのは、単に鉄砲3000丁(これはウソだったらしい)の成果でなく、生産・補給・戦闘という役割分担のシステムだといえます。この発展が、「検地」であり「刀狩り」であるわけです。

領民というのは、領主の「所有物」です。893屋さんの場合はいちおう「契約」ですが、何かしてやるかわりに何かしろ、という関係ではありません。封建制というのはそういうものです。
たとえば「加賀100万石」などというのは、100万石の米の生産力を持つ土地と領民を持っている、ということを意味します。

Q戦国大名と守護大名って何が違うのでしょうか?

戦国大名と守護大名って何が違うのでしょうか?
どちらも武将ではないのですか?

Aベストアンサー

「守護」とは室町幕府の役職で「守護職」と言います
幕府からその土地の守護を任された大名が名乗ります
「守護」の下には「守護代」があります

たとえば 武田信玄は「甲斐守護」の役職でした
一方 長尾景虎(上杉謙信)は「越後守護代」です
「守護代」は守護大名の変わりに国を治める事を任されています

守護の上には「探題」という役職もあります
これは広域の支配者という意味です
例えば伊達家は「奥州探題」を名乗っていました

これらはみな「守護大名」です。


一方戦国大名とは
幕府から守護や守護代には任じられていない大名で
主君を倒してのし上がってきたりした大名です

徳川家康は守護ではありませんね
守護大名だった今川義元の家来でした

織田信長も守護代の家来の一族です

幕府の力が弱まると
守護大名という肩書きは何の意味も無くなります

Q初夜への期待

もともと結婚願望が強いほうでした。
だから 大好きな彼と結婚できるのが それはもう嬉しくて…
彼とのお泊まりなど許してもらえない家で育ったので 結婚すれば誰に遠慮することもなく 一緒の夜を過ごせるんだとそれも楽しみで…
(お泊まりはできませんでしたが、身体の関係はそれなりにありました)

だから私にとって結婚式の夜=新婚初夜は
本当に特別で たった一度しかない夫婦になって初めての夜を それは楽しみにしていたのです。

ところが彼は式の時から 注がれるお酒を断ることなく全部飲みほし、式のあとの二次会でも更に飲み…
ホテルの部屋に入るなり ほとんどバタンキューの状態。
私がいくら話しかけても 返事もできないくらい泥酔状態で あっという間に大イビキで寝てしまいました。

あんなに楽しみにしていた新婚初夜が…

一人でシャワーを浴び、泣きながら眠ったのを思い出します。

今思えば 二人の気持ちのすれ違いは
すでにあの時からはじまっていたのではないかという気がします。

こんな旦那をどう思いますか?
私はひどくショックだったのですが、
新婚初夜に期待をし過ぎた私が間違っていたのでしょうか…
ご意見お聞かせ下さい。

もともと結婚願望が強いほうでした。
だから 大好きな彼と結婚できるのが それはもう嬉しくて…
彼とのお泊まりなど許してもらえない家で育ったので 結婚すれば誰に遠慮することもなく 一緒の夜を過ごせるんだとそれも楽しみで…
(お泊まりはできませんでしたが、身体の関係はそれなりにありました)

だから私にとって結婚式の夜=新婚初夜は
本当に特別で たった一度しかない夫婦になって初めての夜を それは楽しみにしていたのです。

ところが彼は式の時から 注がれるお酒を断ることなく全部飲みほし、...続きを読む

Aベストアンサー

既婚、二児の母です。

お気持ち、すごくよく分かります。
私も、結婚式の日の夜は、そんな感じでした^^;

親族だけのこじんまりとした式と食事会をして、その後、友人たちと二次会のような形で食事をしました。
友人たちとの食事の席で、楽しく過ごし、みんなでお酒も結構飲みました。
そのときは、まだ主人もしっかりしていたのですが、ホテルに戻るなり、一気に酔いが回ってきたのか、そのままベッドに倒れこむようにして眠ってしまいました。

主人とは、8年付き合っていましたから、主人にしてみたら「いまさら、新婚初夜って言われても・・」という感じで新鮮味も何もなかったみたいですが、私にとっては、やっぱり、初夜は初夜です。
大切な日でした。
あなたと同じように、一緒にいる時間を有意義に、大切に楽しみたいと思っていました。

でも、どんなに怒っても、起こそうとしても、いびきをかいて寝るだけ・・・。
そのうち、怒りを通り越して寂しくなり、泣きながら一人でシャワーを浴びて、寝ました。

次の日の朝、夫はすっきり顔で起きてきて、何も分かっていない様子でした。
私が怒って、不満をぶつけると、謝ってはいるものの、別にいまさら初夜なんて・・・という言葉とついつい楽しくて飲みすぎちゃったという言い訳。

夫の性格を良く知っている私としたら、「これがこの人だから、仕方ないか」と思う反面、怒りや寂しさも収まらず、どっかで穴埋めしてもらわなきゃという気持ちで一杯でした。

私にとっては、初夜というのは特別な日だったということや、寂しい想いをしたということを全て夫に伝えると、夫は、「新婚旅行中は、頑張るから。挽回するから。」と言い、新婚旅行中は、確かに頑張って、良い時間を過ごすことができました。

あなたの期待は、普通のことだと思います。
でも、女性と男性は違いますし、相手によってもいろんな考え、性格の人がいます。

自分の思いや考えを、相手が必ず理解して、受け止めてくれるというものでもありません。
性別も違い、育ちも価値観も何もかもが違う他人なのだから、理解してもらえない、受け止めてもらえないことの方が多いかも。

だからこそ、普段から些細なことでもコミュニケーションを取って、相手を理解しよう、相手に理解してもらおうと必死にお互いに努力していなければ、うまくいかないと思います。

気持ちがすれ違ったり、相手の気持ちを理解できなかったりして、寂しい想いをしたり、喧嘩したりするのは、当たり前のこと。
大切なことは、そこから、必ず何かを感じ取り、学び取り、一歩ずつ二人で前に進める関係かどうかだと思います。

何かを学んだり、感じ取ったりすることが出来れば、次は、ちょっとした配慮や気遣い、努力で、上手に相手を向き合っていくことが出来るからです。

既婚、二児の母です。

お気持ち、すごくよく分かります。
私も、結婚式の日の夜は、そんな感じでした^^;

親族だけのこじんまりとした式と食事会をして、その後、友人たちと二次会のような形で食事をしました。
友人たちとの食事の席で、楽しく過ごし、みんなでお酒も結構飲みました。
そのときは、まだ主人もしっかりしていたのですが、ホテルに戻るなり、一気に酔いが回ってきたのか、そのままベッドに倒れこむようにして眠ってしまいました。

主人とは、8年付き合っていましたから、主人にしてみたら「い...続きを読む

Q戦国大名で「頼」のつく名前の大名家は滅ぶ?

武田勝頼 土岐頼芸 豊臣秀頼 三大名とも、「頼る」 という字がついていましたが、滅びました。
これは偶然なのでしょうか?ご教授お願いします。

Aベストアンサー

偶然です。

「頼」がついて滅びなかった大名(当人)。

(1)六角定頼・・・六角家の全盛期を築いた人。父の高頼も家督を譲って隠居してから亡くなってます。ただし子の義賢が織田信長に敗北し、以後、六角家は衰退します。

(2)毛利秀頼・・・信長、秀吉に仕えた人。秀吉から信濃に10万石を与えられました。

(3)平岡頼勝・・・秀吉に仕え、後に秀吉の命で小早川秀秋の家老になった人。関が原合戦後に2万石を貰うも、主君の秀秋死後に浪人。しかし家康から1万石を与えられ大名に。

(4)蜂屋頼隆・・・土岐、斉藤、織田、そして秀吉に仕えた人。秀吉から4万石を与えられました。

(5)相良頼房・・・九州の小大名。関が原では最初は西軍につくも東軍に寝返り2万石の所領安堵を受けました。

(6)小笠原貞頼・・・信長に仕え、ついで秀吉に仕えるも秀吉の怒りをかい改易に。しかし徳川家康が召抱え3万石の大名に。小笠原諸島はこの人が発見したとのこと。

(7)有馬則頼・・・秀吉に仕え1万石の大名。秀吉没後は家康に接近し関が原でも東軍につき、合戦後は加増を受け3万石に。

(8)諏訪頼忠・・・武田に謀殺された諏訪家当主、諏訪頼重の親戚。頼重死後は浪人していたものの武田家滅亡後に諏訪に舞い戻り諏訪家の再起を図りますが、徳川家康に破れ臣従。家康の関東への移封にともない武蔵で1万2千石を与えられます。息子も頼のつく頼水という名で関が原合戦で功績を上げ信濃に2万7千石の所領を賜りました。

(9)新庄直頼・・・浅井長政、織田信長、そして秀吉に仕えた人。秀吉から3万石を与えられました。関が原合戦では西軍につき、合戦後に改易に。しかし後に許され家康から3万石を与えられ大名に復帰しました。

(10)吉見正頼・・・大内家、つぎに毛利元就に仕えた人。元就に1万5千石を与えられました。

(11)村井長頼・・・前田家家老で1万石。既に隠居していた時、主君利長の母が江戸に人質に行くと聞き、付き従って江戸に赴き、江戸で亡くなった忠義の人。



「頼」がついて滅びた人。

「原長頼」・・・信長、秀吉に仕えた人。秀吉から3万石を与えられました。関が原合戦では西軍につき、西軍の敗北後に自害。

「石川頼明」・・・秀吉に仕えた人。1万2千石を与えられました。関が原合戦では西軍につき、西軍の敗北後、東軍に降伏しますが切腹に。

「木下頼継」・・・大谷吉継の次男ですが秀吉に可愛がられ厚遇を受けた人。2万5千石を与えられました。関が原合戦では西軍につき、敗北後は領国に逃げ帰りますが病死。15歳という若さでした。

「宇多頼忠」・・・豊臣秀長、秀吉に仕えた人。1万3千石を与えられました。娘が石田三成に嫁いでおり、関が原合戦では、佐和山の城を守備するも東軍に攻められ自害。息子も頼のつく頼重という名で、こちらも父と同じく佐和山の城で自害。なお頼忠は所領を返上して娘婿の石田三成のところに身を寄せていたという話もあり。


なお、石高などは書籍によって微妙に違いがあるので、必ずしも正しいとは限りませんが、私の手元にある本の数字を書いています。また、この他に石高など不明な人もいまして、大名(1万石以上)に該当するかどうか分からない人も、まだいます。

このように「頼」のつく大名は結構おり、滅びなかった人も二桁を数えられるので偶然だと思います。

偶然です。

「頼」がついて滅びなかった大名(当人)。

(1)六角定頼・・・六角家の全盛期を築いた人。父の高頼も家督を譲って隠居してから亡くなってます。ただし子の義賢が織田信長に敗北し、以後、六角家は衰退します。

(2)毛利秀頼・・・信長、秀吉に仕えた人。秀吉から信濃に10万石を与えられました。

(3)平岡頼勝・・・秀吉に仕え、後に秀吉の命で小早川秀秋の家老になった人。関が原合戦後に2万石を貰うも、主君の秀秋死後に浪人。しかし家康から1万石を与えられ大名に。

(4)蜂屋頼隆・・・土岐、斉藤、...続きを読む

Q結婚初夜の下着はどんなのがいいですか

結婚が決まる前から彼とはセックスをしてきました。でも、結婚初夜って特別じゃないですか。皆さんはどんな下着をつけましたか、つけてほしいですか?清純派?かわいい派?アダルト派?

Aベストアンサー

 私(女)の経験ですが・・・

 特に新品とかかわいらしい下着ではなかったです、いつも付けているブラとショーツでした。(ただ、普段からブラとショーツがセットになった物を付けています。)

 実は、結婚式当日は夜遅くまで飲んでいたので、2人とも疲れてすぐ寝てしまいました(^^ゞ
 Hもなしです(爆)

 結婚後の初Hの時もいつもと変わりない下着だったと思います。
 すいません、そういう所は全く無頓着な2人だったもので(^^ゞ

 でも、結婚して1年半ほどたちますが、買ったばかりの新しい下着とかを付けてると「おっ、新しいね~」と言ってくれるので、男の人って意外と記憶してるものなのかもしれないですね。

 なので、新しい下着、欲を言えば、いつも買われる物とはちょっと違うデザインや色の下着だと「おっ?」って思うのではないでしょうか?

 なんか質問の内容が初々しくて、私では到底思いつかない気配りだなぁ~、と思わず感心してしまいました。

Q戦国時代、兵農一致の大名でも農繁期や長期の軍事行動が可能だった理由

一般に兵農分離の織田家以外は、農閑期しか行軍できないとされていますが、全国所々で農繁期や一年丸々の対陣が行われています。
(武田や毛利、上杉など)
農民主体の軍では物理的に農繁期は田畑を離れられないのに、何故そんな事が可能だったのでしょうか?

Aベストアンサー

謙信(当時は長尾景虎)の場合、永禄3年から10年まで8回、
秋の収穫期に関東に侵攻し、そこで越冬し、春の終わりごろから
夏の初めに帰国しています。
関東管領の立場上、外部からの要請という名目は奇麗ごとで、
他国領で略奪し、自国の食糧、燃料は温存して長期戦に備えています。


藤木久志著『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』
http://www.4gamer.net/weekly/biblo/002/biblo_002.shtml


人気Q&Aランキング