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満州事変付近の時代に三人の政治家が満豪地域の権益に関して自説を主張していたそうで、一人が「満豪はわが国の生命線である」という松岡洋右氏と田中儀一氏の「貧国日本の富国日本ならしむべき唯一の方法は支那の資源を利用することである」という意見。そして「東三省はあくまで中国の主権に属する中国の領土せある」というしげ原喜重郎氏の三つがあげられています。で我々現代人の多くはしげ原氏の意見がもっとも全うだと考えるが、当時の人々は他の二人の意見を支持したそうです。その理由がなぜなのか満豪をめぐる歴史認識や当時の政治 経済 教育 報道 をふまえてどなたか教えていただけないでしょうか?よろしくお願いします

A 回答 (5件)

 まず、狭い日本の国土では、長男以外が農地を持ちにくく、人口も急激に増えていたため、移民する場所が必要でした。

アメリカは排日移民法が成立したため、日本国民はポーツマス条約で正当な権利のある満州に希望をもちました。
 しかし、
尼港事件、共産パルチザン事件108件、発砲・武力衝突事件25件、満鉄の被害事件約2000件、営業権の否認・制限多数、日本企業への不法課税400件、日本人居留民への圧迫多数、排日・反日教育の実施多数、朝鮮人への圧迫80件・・・と
非常に困った事件が多発しました。
 日本政府は当時「幣原外交」で協調路線をとっていたので、話し合いで解決しようとしましたが進展せず、現場で見ていた関東軍が見るに見かねて、事変を起こしたといった、ところでしょうか。(政府の承認無く、武力行使するために、先制攻撃されたとする。)
 我慢に我慢を重ねていた日本国民は、軍部に期待し、満州問題と国内問題(移民・世界恐慌下の不景気)を一気に解決してくれたことが、うれしかったのでしょう。

 また、25万の張学良軍を1万5千の関東軍で制圧できたのは、満州人たちの協力があったためです。
 日本政府の満州国に対する要求は、日満議定書によれば、日本の満州における財産・権利の保障と共同防衛だけです。
 
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この時代は様々な事柄がありますので時系列で考えていく方が理解しやすいと思います。



1920年 戦後恐慌
1923年 関東大震災
1927年 金融恐慌
1929年 昭和恐慌
1932年 昭和恐慌終了

1932年(昭和7年)に経済成長率がプラスに転じているので恐慌の終了とありますが私見では昭和恐慌前の状態になるのは昭和10年程度だと思っています。

経済状況としてはわずかな期間に様々な恐慌に遭遇し、殊に昭和恐慌の時は東北の農村部の没落が激しく、娘の身売りが起こったり、都市部においては企業の倒産が相次ぎリストラ、失業者が増え浮浪者になる者、故郷に帰るにもお金がない為、線路を歩いて帰る者が続出した時代です。
そんな時に1931年、満州事変が起こります。
時代状況と満州事変がリンクしているため国民は戦争で経済回復したと思ったわけです。

1929年の昭和恐慌の際とられた経済政策は緊縮財政と金輸出の解禁で経済は更に悪化。その後、高橋蔵相の赤字国債発行による農業資本整備、軍拡、工業の振興が行われ景気回復と考えるのが順当な評価だと思います。
戦争で景気回復したわけではないと思います。

満州事変を画策した石原莞爾に代表される、満蒙権益を確たる物にし満州の資源を利用して国力の増大を計り、対ソ連、対支那の防衛ラインの確立、将来訪れるであろう食料問題を解決する。という考え方を松岡、田中が支持したわけですが、二人の立場を考えると理解できると思います。
松岡は満鉄理事ですし、(後に総裁)田中は陸軍出身の政治家ですから。
対する幣原は満州事変を軍部の謀略と見てますから中国の主権を尊重する立場をとったものと考えられます。

当時、満州事変は謀略とは国民は知りませんでしたから軍部の主張を支持したと考えます。
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日露戦争が終結した時、日本中が熱望した賠償がとれず、代わりに獲得したのが満州における鉄道など日本の優先権でした。



この為、資本の投入や植民などかなりの権益が生じていました。  そしてさらに鉄鉱石、石炭などの重要資源が豊富であったので、満蒙地方に対する領有の思想がうまれたのです。

しかし当時の国際意識は中国での権益を奪い合いながら日本の独走には懐疑的でブレーキをかけようとしていました。

このような情勢を打破するべく関東軍が独自に画策したのが柳條溝事件で、当時の反日運動が満鉄の軌道を爆破したという口実で満州軍閥を制圧し主要都市を占領しました。  そして満州国を設立、日本の支配下においたのです。

このような経過でしたから日本のナシヨナリズムは日本の国益の伸張と歓迎した訳で、これが当時の世論の大勢でした。
しかしその後の情勢は日本の膨張主義を認めず、国共の内戦も満州軍閥の張学良が和解を周旋して共同して抗日戦にあたるようになりました。
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以下に私見を述べます。

印象論なので参考には成りにくいと思いますが‥‥。
まず,当時の日本人は領土を広げることが悪いことだとは全く思っておりません。
また,中国自体が主権のある国家だとさえはっきり認識していない節があります。
「俺も行くから君も行け/狭い日本にゃ住み飽いた/海の彼方にゃ支那がある/支那にゃ四億の民が待つ」などという歌(「馬賊の歌」)があるくらいですから。

それから‥‥質問の趣旨と直接の関係はないので恐縮ですが,質問文の誤字が非常に気になるのでその点を指摘させてください。
「満豪」ではなく「満蒙(まんもう)」,「田中儀一」ではなく「田中義一」,「しげ原喜重郎」ではなく「幣原(しではら)喜重郎」です。お節介失礼しました。
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確かに満州事変に対する日本国民の世論は「よくやった」という賞賛の嵐だったそうです。



理由としては、まずは中国が内戦中だったこと。
日本が満州を取らなければ、ソ連に先に取られてしまい、どっちみち中国人(満州人)が民族自決できる政府を作れる可能性が低かった(少なくとも当時の日本人はそう思っていた)ということでしょう。
ソ連の脅威さえなければ、日本人は満州で利権を得ようという考えには走らなかったと思います。

そして第一次世界大戦後に日本は一気に好景気になり、その後ガクンと落ち込みました。「やっぱり戦争は景気を良くするんだ」という印象が国民の間で定着したのではないでしょうか?

あと蛇足ですが、当時の日本国民は柳条湖事件の真相を知らず、「中国人が卑怯にも日本の満鉄を爆破しやがった」と思い込んでいたことも挙げられるかもしれません。
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