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他の質問に自分で書いておいて今一自信がないのですが、喜連川藩の藩主を「副将軍」として間違いないでしょうか?
もちろん副将軍と言うものは存在せず、鎌倉公方を副将軍と称した慣習からですが

http://www.town.kawachi.tochigi.jp/08tanbou/120/ …

こちらのページには
>行列の先頭で「天下の副将軍のお通り」と声に張り上げて通る姿・・・

と書いてありますが、形式的には他の大名と違って徳川氏の家臣ではなく、客将ですから幕府にあれこれ指図される筋合いではありませんが、こっそり自称するならともかく、公に「副将軍」と声を張り上げるのもどうかと思いますが、実際のところどうだったのでしょうか?
正室を国許に置ける特権があるとか、10万石格とかいろいろいわれのある家ですけど。
参勤交代も随意と言われながらもやったとかやらなかったとか、私もまだ勉強中です。

A 回答 (2件)

喜連川氏は、古河公方として活躍した足利成氏の血筋を引く、足利源氏の名流です。

江戸時代に5000石を与えられ、家格は大名格とされています。

家柄を誇り、近隣の代官所に旗本が赴任してきた時や、参勤交代中の大名にゆすりたかりをしていました。たいした金額ではなかったのでしょうが、幕府もお目こぼしせざるを得なかったらしいほど、憚りのある名門家の一つだったようです(その時の口上に副将軍云々が入っていたような・・・)。

明治維新後には、足利姓に戻していますね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
伊達家の大名行列をあてにしていて、領内で宿泊させてお金を使ってもらうために、街道の橋の下で釣りをして話しかけ、泊まらざる得ないように引きとめたとか、ルートを変えた年はわざわざ江戸城まで嫌味を言いに言ったとか、いやらしそうな殿様ですね。
5千石で10万石の見栄を張るのも大変と思います。
そういえば同じ副将軍の水戸家も、内情は苦しかったようで、身の丈に合わないことはやるものではないですね。

お礼日時:2006/03/21 18:43

天下の副将軍と呼ばれたのはご承知のように、「水戸黄門様」「水戸藩の中納言・水戸光圀」です。



光圀は「天下の副将軍」などともいわれているが、副将軍という幕府役職はない。
水戸藩主は、ほかの大名と異なり、老中などの幕府要職者と同様に参勤交代せず江戸に常住すること(藩主定府)と定められていた。
これは危急の際の徳川一門の補佐役の意味があったと考えられている。そうしたところから、いつのまにか副将軍と呼ばれるようになったようだ。

そこで、「河内ふるさと紀行」に記載されている、喜連川藩の藩主が「天下の副将軍」と呼ばれることですが、次のようなことに起因しているのではないでしょうか。

一つには、「本物の天下の副将軍様」の遺言があってのことと記されている事。

二つには、水戸家九代藩主・徳川斉昭公の第十一子が喜連川十二代藩主・喜連川縄氏として養子に入った事。

三っつには、その縄氏と兄弟に当たる「水戸家九代藩主・徳川斉昭公の子供である徳川慶喜」が、徳川最後の十五代将軍になった事。

これらのことから「天下の副将軍」と呼んだのではないかと思われます。

いずれにしても正式役職名ではないので、「本物の副将軍」ゆかりのある人物で、しかも徳川十五代将軍と兄弟である事などから、この呼称を使用したのかもしれませんね。

この回答への補足

ありがとうございます。
水戸藩でも自藩の者同士で「副将軍」と言い合うことはあっても、自称ですから他藩の者に対して自らを「副将軍家家中」などと、公に言うことはないと思います。
ところが、「河内ふるさと紀行」によれば往来で「副将軍のお通り」と声を張り上げると書いてあるので、奇異な感じを受けました。
現在この喜連川家と新田岩松家を調べていますが、いろいろ面白いことが出てきます。
昔読んだ小池一夫の劇画に、微禄の旗本ながら格式が高く、御三家同様、江戸城の下馬札を越えて乗馬のまま登城できる旗本が出てくるのですが、モデルはどちらかなと考え始めたのがきっかけで、この両家に興味を持ちました。
多分この劇画は、新田岩松を念頭において小池一夫氏が創造した人物と思いますけど。

補足日時:2006/03/21 07:07
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