dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

よろしくお願いします。一時は伊達の配下になりながらも
独立し、天童氏などの宿敵を滅ぼし、毛利、長曽我部、薩摩、みたいな地域大国になり
最上100万石の大大名に。
ただ、それなのに毛利、長曽我部のような他の地域大国に比べると
あまりに影が薄い気がします。当主を映画化したようなものもありません。
大大名ながら最上氏がここまで影が薄い理由はなんでしょうか?ご教授ください

A 回答 (7件)

いまの山形県に行くと県庁のある都市?の駅前に


すごい立派な騎馬武者の銅像が、どんとあります。
最上義光どのの銅像、ひょっとしたら仙台の
伊達政宗さんの銅像よりかっちょええかも(爆
最上義光は領主になるまでに実父や同族と
戦って同族を大勢やっつけて大名になったため
かなり恐ろしい武士として印象されていますが
領地統治が上手く領民の支持が結構あり
最上家は彼の次の次の代ぐらいで改易され
別の武家が移転してきましたが
領民の多くは最上の殿様のほうが良かったと
いったそうです。
最上義光は伊達政宗の母の兄です、正宗の母は
伊達の敵から嫁にきて、また正宗より弟を跡継ぎに
しようとして内紛になり正宗を毒殺しそうになった
弟も正宗に討たれ、この母子は憎悪がありました。
その母の叔父の最上義光も伊達政宗と宿敵で何度も
合戦し両者、豊臣の家臣になったので
かろうじて両者はツブシアイの決着はつきませんでした。
しかし最上義光の娘は豊臣秀次の嫁になり
秀次派の粛清のトバッチリで処刑されました。
また最上義光の後取りの家親は謎の急死をして
義光の晩年は、暗いものだったようです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
地元では大きな銅像があるんですね、勉強になりました。
伊達氏以上に、北の王国的なイメージが私にはあり
知名度の低さが残念です。

みなさんの言われるとおり中央合戦に参加せず、伊達氏と内輪もめ
だけをしていたのが問題なんでしょうね。

お礼日時:2009/02/18 21:16

あくまで個人的意見です。

山形に親しい後輩がいるのですが、やはり県民性というか気質っつうものかなあと思います。

山形というところは、実は大変な温泉地です。どこへ行っても温泉があり、しかも車で15分離れた程度の場所でも泉質が変わっていたりして温泉好きにはたまらないところです。
しかし、山形が温泉王国だということは東京にはほとんど知られていません。観光ガイドブックも山形についてはほとんど触れられていません。全てはアピール下手の東北人気質によるものかと思われます。

最上義光は現地では英雄ですが、大河ドラマ独眼流政宗で原田芳雄が「腹黒い策士」として悪役の名演技をしてしまったためにそういうイメージがついてしまったかもしれません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
気質はあるかもしれないですね。
最近、脚光があたっている宮崎もどこ掘っても温泉がでる土地で
ありながら、湯布院、別府の大分、黒川の熊本に比べて全くの無名
アピール上手、下手はたしかにありそうです

お礼日時:2009/02/28 02:36

最上氏の治世で何か見るべきものが有るのですか?


それがないから影が薄いのだと思います。
武田、上杉、北条、毛利、島津のように数ヶ国を制圧する大大名になるか。
大友宗麟みたいな特色がなければ一般に知名度が低いのは当然と思われます。
宇喜多直家、十河存保、姉小路あたりと同レベルではないかと思いますが。
    • good
    • 0

1 大名家としてはいったんつぶれたから。


2 中央の戦闘に参加していない
3 徳川家と関係が薄い

2と3は似たようなものですが、時代的には
2の中央の戦闘に参加していないとは「ドラマ化するときに絡んでない」ということになります。No3の方の指摘しているように、直接戦闘相手の伊達がメインだと結構な存在感。長宗我部が話題になれるのは、織田家・豊臣家・徳川家と直接戦闘があったからです。(徳川家とは、関ヶ原に出ただけというレベルですが)
3ですと、武田家などは武田遺臣がたくさん徳川家に流れているので、武田軍学などに典型のように、徳川時代での存在感が大きい。

まぁ西に方では、竜蔵寺隆信なんて存在感薄いヨなぁ
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ずっと北にいたからでしょうかね。

竜造寺は、結構マニアの中ではアクが強くて知名度高いですが
最上氏は大大名とは思えないマニア受けもしない存在なのが
ちょっと気になっています。

お礼日時:2009/02/18 13:30

確かに影が薄いですが、


NHKの大河独眼流正宗には結構出てきますよ
レンタルであればみてください、
尚「天地人」にも出てきますよ
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
確かに、伊達氏との抗争メインですよね。
なんかちょっと残念なんですよね。

天地人見てみます

お礼日時:2009/02/18 13:28

現在の関東地方より北は戦国時代でもやはり「蝦夷」と見られていたので注目度はかなり低かったのではないでしょうか。

あの伊達氏でさえ、豊臣秀吉時代では蛮族の酋長程度にしか見られていなかったようです。最上氏の羽後の国はそれよりも酷い未開地扱いしか受けていなかったようです。史料が少ないのもその理由の一つでしょうね。
ただ最近では上杉景勝の側妾に過ぎないような「直江兼続」があたかも大人物のような扱いでクローズアップされるようなこともあります。
最上義光もそのうち、脚光を浴びる日がくるのではないでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ただ、直江兼続は大谷吉継と並んで歴史ファンには人気が
ある武将ですよね。
自分としては知る人ぞ知る人物に脚光があたりちょっと
残念です。

加賀百万石との違いはやはり位置なんでしょうかね

お礼日時:2009/02/18 13:27

素人なので参考程度にしてください



まず大きいと思われるのは、史料が残されていないということでしょう 
全盛期を築き上げたのは最上義光だと思いますが、彼に関する史料はほとんど残されておらず、また残された史料も対立する伊達氏によるものであるために、今ひとつ実態が把握できないと言った所なのではないでしょうか
また、跡継ぎ問題によって崩壊した(改易された)点もあまり印象がよくないと思われます。 


ただ、最上氏は100万石にはいってないと思いますが 確か50万石ちょっとだったと
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます
57万石だけど100万石と称していたんですよね。

資料が少ないんですね

お礼日時:2009/02/18 13:24

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!