dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

 参勤交代についていくつか質問させてください。
 (1)支藩と呼ばれるところの藩主には参勤交代の義務があったのでしょうか?なかった場合、たとえば本家筋の藩主とともに参勤したりしていたのでしょうか?
 (2)参勤する日は決まっていたのでしょうか?(この日までに江戸城に登城しなければならないというような。。。)全国の諸大名が一堂に江戸に会してどこの藩主も領土にいなくなるという時期があるはずがないと思うので、藩ごとに参勤する年や日時が決まっていたのかなぁと思ったので。
 (3)それから参勤中に、他家の領地に入るわけですが、この間に他家と交流があったりしたのでしょうか?例えば中のいい藩主と宴会のようなものが催されたり城内に宿泊したりなど。。。もしくはそういったものは一切なく宿場町や寺院などを淡々と利用して江戸を目指したのでしょうか?また他家の領国内に入る際は事前に連絡などをしていたのでしょうか?

A 回答 (4件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

参勤交代は、慶長7(1602)年に加賀の前田利長が人質として江戸に暮らしていた母・芳春院を訪ねて江戸へ出てきたのが始めとされています。当然、将軍家にも「挨拶」をしました。これを知った大名たちも、将軍家に気に入られようと、また、反意がないことを示すために、江戸へ出府するようになりました。当初は、全く統制がとれていませんでしたので、何時でも自由に往来していました。もちろん、出府しない大名も居ました。
そこで、3代将軍家光が寛永12(1635)年に「武家諸法度」全19ケ条を定め、その第2条に「参勤交代」を制度化しました。

>>(1)支藩と呼ばれるところの藩主には参勤交代の義務があったのでしょうか?なかった場合、たとえば本家筋の藩主とともに参勤したりしていたのでしょうか?

結論から言うと、「ありました」。
「支藩」と言っても、必ずしも、領地を接していたわけではありません。例えば、有名なところでは、赤穂の浅野家の本家は広島にいました。また、領地を接して分割していたような藩主は、交代で参勤しました。

>>(2)参勤する日は決まっていたのでしょうか?(この日までに江戸城に登城しなければならないというような。。。)全国の諸大名が一堂に江戸に会してどこの藩主も領土にいなくなるという時期があるはずがないと思うので、藩ごとに参勤する年や日時が決まっていたのかなぁと思ったので。

まず、参勤交代の期日ですが、「夏四月中」と書かれてあり、現代の太陽暦で言うと、およそ5月で、入梅以前に参勤するよう命じています。
その後、寛永19(1642)年(家光)になると、西国の譜代大名の参勤交代は2月。関東、東海の譜代大名は9月。外様大名は依然として4月、というように、時期をずらしています。これには、ご存知かとは思いますが、譜代大名をして外様大名の監視をさせていたためです。
また、(1)でも述べましたが、隣接する藩は、お互いの話し合いで交互に参勤しました。
例えば、「豊前」と「豊後」の藩主たちを見てみると、中津、杵築、府内の3藩が譜代大名。日出(ひじ)、臼杵、佐伯、岡、森の5藩が外様大名でしたので、杵築藩主能見(のみ)松平氏と府内藩主大給(おぎゅう)松平氏は交互に在国していました。また、外様大名の岡藩主中川氏と臼杵藩主稲葉氏も交代で参勤しています。このような制度を「御在所交替」と呼びました。
もう少し詳しく書くと、子、寅、辰、午、申、戌が中津奥平氏、杵築松平氏、臼杵稲葉氏、佐伯毛利氏。
丑、卯、巳、未、酉、亥が府内松平氏、日出木下氏、岡中川氏、森久留島氏、という記録があります。
従って、全ての大名が一同に会することはありませんでした。

>>(3)それから参勤中に、他家の領地に入るわけですが、この間に他家と交流があったりしたのでしょうか?例えば中のいい藩主と宴会のようなものが催されたり城内に宿泊したりなど。。。もしくはそういったものは一切なく宿場町や寺院などを淡々と利用して江戸を目指したのでしょうか?また他家の領国内に入る際は事前に連絡などをしていたのでしょうか?

当然、他家の領内を通るわけですが、この場合、通る方は、「およそ何日ころ通過します」と使いをたてて「礼」を述べ、通行される方も道や橋の整備などをして、まあ、お互いが気をつかいました。
しかし、他家との交流は、一切禁じられていました。もし、仲良くなって、幕府転覆などの話をされては困りますので、このことは、厳しく周辺の藩に監視されていました。あくまでも、使いの者が行き来するだけでした。
また、参勤交代は、行軍とみなされていましたので、途中で、他家の藩主と会ったりはできませんでした。

(よもやま話)
1.「下に~下に~」と先触れが声を張り上げますが、これは、自分の領内と、他家の領内に入る時、出る時。そして、江戸へ入る時だけでした。その他の場所では、供揃えも乱れて、雑談をしたり、景色の良いところでは、立ち止まって眺めたりして道中をしました。
2.大概の藩では、「道中奉行」が任命されており、通過する宿場をあらかじめ手配して回りました。そして、藩主が泊まる宿を「本陣」といい、その他の家来たちが泊まる宿を「脇本陣」と呼びました。また、宿に出入りするにも規則があり、到着は夜五つ(午後8時)までに、予約していた宿に入らないと、宿側も断ることができ、そのような時は、野宿しました。もっとも、行軍ですので、陣幕はもちろん、料理の材料、鍋、釜、そして、殿様用の便器などなど全て持って行きました。さらに、宿に宿泊しても、宿の料理人ではなく、家来の御膳掛りが宿の調理場を借りて食事を作りました。出立の時刻は七つ(午前四時)頃と定めてありましたが、遠い藩になると八つ(午前二時)~八つ半(午前三時)頃に出立しました。これには、幕府の許可を必要としましたが、陽のあるうちに行程を縮める必要がありました。
3.通行中のトラブル。
11代将軍家斉の頃、明石藩松平斉宣(家斉の第53子!!)が、御三家筆頭の尾張藩を通過中に猟師の源内という者の子ども(3歳)が行列を横切ってしまい、家臣はその子を捕らえ本陣へ連れて行った。ただちに、名主や坊主、神主までもが本陣へ行き許しを乞うたが、斉宣は聞き入れず、幼児切捨てました。
尾張藩はこれをおおいに怒り、使者遣わして「このような非道をするようならば、今より当家の領内を通らないでもらいたい」と伝えた。
どうなったと思いますか?
行軍を取りやめるわけにもいかず、まるで町人か農民のようにコソコソしたかっこうで尾張領内を抜けました。
さらに、数年後、猟師の源内は、斉宣が20歳になったのを期に、木曽路で得意の鉄砲で射殺してしまいました。もちろん源内は死罪になりましたが、子どもの恨みを晴らした、というわけです。

まあ、まだまだ面白い話もありますが、あなたの答えになっていたでしょうか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

こういう話を期待していました。ありがとうございました。

お礼日時:2008/06/01 21:37

No3.です。


そうそう、言い忘れましたが、面白い話をもう少々。

1.老中とか若年寄りなどの役職者になると、常に千代田城(江戸城)に常駐しなければなりませんでしたので、参勤交代は免除されました。また、江戸時代、江戸城とは呼ばず、舞鶴城(ぶかくじょう)、正式には千代田城と呼ばれていました。庶民はただ「御城」と呼んでいました。

2.また、その他にも役職(例えば、大阪城代、京都所司代など)になると、その場所に詰めていましたので、参勤交代はありませんでした。

3.なお、老中や若年寄りなどを任命されるのは、譜代大名で15万石以下の大名に限られていました。なぜなら、経済力がある上に権力まで持たれては、幕府転覆を図られないとも限らなかったからです。しかし、その役職になってからの功績で加増をされた大名もいます。これは、家康の家訓で代々守られました。

4.江戸在所中、大名は毎日、用があってもなくても登城しなければなりませんでしたが、朝五つ半(午前9時)頃登城をし、八つ(午後二時)頃には、下城しました。

5.では何をしていたの?大名同士で世間話でも?
とんでもありません。大名同士が結束されては幕府転覆なども考えられたので、一切の私語は禁じられていました。したがって、老中などの御用繁多な者以外は、それぞれ控えの間では、ただだ「ボケー」として座っているだけでした。

6.でも、親戚もあれば、友人もいたでしょう?
そうした大名同士が共に酒宴でも開く時は、必ず上屋敷で行い「別に騒動を招くような話ではない」と、旗本を呼んで立会いをさせました。

7.御城での湯茶の接待は?
全くありませんでした。御三家になると、茶坊主が登城した時一回だけお茶を出してくれました。また、茶坊主に賄賂などを贈って気に入られた大名にも、こっそりと、一回だけのお茶を入れて出してくれましたが、その後は、全く接待はなく、大名たちも弁当などを食べた後、お茶が飲みたければ、湯茶場へ行き、自分で出して飲みました。また、茶坊主に賄賂などをしなかった大名などは、知らん振りをされて、今で言う「シカト」され、冷遇されました。どんなに偉い大名も御城では、公方さまの家来だったから仕方ありません。
なお、当時は「将軍さま」とは呼ばず「公方(くぼう)さま」または「御公儀さま」、「大樹(たいじゅ)さま」とよばれました。良くTVで「将軍さまのお成り・・・」などと叫びますが、これは、単なるTVの視聴率を上げるための所業。

7.御城へ登城した大名の控え室には、夏はともかく、冬でも火鉢もなく、また、座布団なども一切ありませんでした。やはり、御城では、公方さまの「家来」でしかなかったから仕方ありません。

8.大名の登城や下城では、一斉に、各家の籠が出会います。籠から出る順番は、特に、決まりはありませんでしたが、下級大名が降りたところへ、御三家などが降りてくると、腰を深々と折らなければならなかったので、御三家などが降りるまで、下級大名は籠で待機していました。また、道路でそれぞれの籠が出会ったり、行き違った時は、お互いの籠の戸を開けて目礼を交わしましたが立ち止まることはしませんでした。しかし、相手が御三家や役職者などとなると格式が数段上のため、下級の大名は籠から降りて会釈をしなければなりませんでした。実に厄介でした。そこで、籠の先頭を行く者が、向こうから御三家や役職者の籠が来た、と言うと、下級大名の籠は、あわてて横道へそれて逃げ回りました。

9.大名が隠居すると、江戸在中が義務付けられていました。大名の正室が江戸で人質状態だったことは良く知られていますが、大名自身も歳取ると国元が恋しいものですが、隠居をすると人質同様に江戸に留め置かれました。そして、一生涯国元に帰ることは許されませんでした。ただ、御三家だけは国元に帰ることが許されていました。

まあ、話だしたら切がありませんので、これ位で・・・。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

長々とありがとうございました。大変ためになりました。興味深かったです。

お礼日時:2008/06/01 21:38

1、支藩も「大名」(通常1万石以上)つまり「立藩」を許されれば原則参勤交代は義務となります。

旗本も8・9千石級になると「寄合い」と呼ばれ、特に「交代寄合い」という旗本は参勤交代の義務がありました。ちなみに、有名な明治の軍神乃木大将は六本木ヒルズで生まれましたが、毛利長府藩の上屋敷です。毛利萩藩(いわゆる長州藩)の支藩です。
2、毎年春に一同に会します。その時期江戸市中は一種お祭り騒ぎです。ある意味パレードですから。だから江戸に入る前はイケメンを雇ってのぼりをもたせたり、荷物を腕っ節のいい日雇いにたのんだりということが普通におこなわれていました。
3、参勤交代は決められた街道にそって行なわれ、陣屋と呼ばれる宿屋に泊まりました。大名同士会いたいなら会えましょうが、一般的には粛々とことは運びました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

特定の旗本にも参勤交代の義務があるとは知りませんでした。ありがとうございました。

お礼日時:2008/06/01 21:37

(1)大名ならあります。

ただ参勤は本藩と一緒という場合もありますし、どちらかが江戸にいるように交代という場合もあり、それぞれの事情によって違いました。
(2)参勤する日は決まっています。もちろん道中でのトラブルで遅れたりすることはありますが、原則としては幕府の許可を得て出発も到着もしていました。
(3)参勤交代者同士の交流はありません。藩士同士のトラブルが起きた例もたくさんありますし、できるだけ他藩とは会わないように、様子を見て泊まる宿場も調整する場合もありました。
他藩の領国内に入る場合は事前に相応の藩士が挨拶に行っていましたし、土地の大名が自藩の船などを提供したりして便宜を図ったりすることはありました。またいきさつのある藩の領内は通らないということもありました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。やはりいろいろと事情があったわけですね。参考になりました。

お礼日時:2008/06/01 21:35

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!