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お世話になります。
どなたか「習慣」と「癖」の違いを教えていただけませんでしょうか。双方重なる部分もあるのではないかと思いますが、明確に言葉にできません。
私の勝手な解釈は、習慣は意識的にやることで、やらないと(またはやると)気分が悪いこと、で癖は無意識に知らず知らずにやること、といった所かと思いますが、必ずしもそうとは言えないような気もします。
もしかしたらこのカテゴリーで質問するべきことでは無いのかも知れませんが、心理学的な内容でもあるかと思いまして質問をさせていただきました。
よろしくお願いいたします。

A 回答 (5件)

こんにちは。


「習慣」とは反復学習によって獲得された「一定の行動パターン」であり、「癖」というのは、そのような行動や行動の選択などに見られる「個体の特徴」だと思います。
「習慣」にしましても「癖」にしましても、どちらも同様に「個体差・個人差」というものがあります。ですが、このふたつには、その「個体差」というものを決定している要因に大きな違いがあります。それは、「習慣行動における個体差」、即ちそれぞれの個体の「行動パターンの違い」を決定しているのは「環境や目的」といった「外的要因」であるのに対しまして、「癖」としてそれを特徴付けているのが「個体独自の反応や判断」といった「内的要因」であるということです。

習慣行動として我々の行動パターンを決定しているのは、そこに与えられた環境や目的といった「外的要因」です。動物でしたら巣から餌場までの距離や範囲、人間でしたら通っている会社や学校の場所などによって習慣行動のパターンが決定されますよね。
このように、我々が日常の習慣としている行動のパターンというのは、元々は自分に与えられた環境や条件に基づいて繰り返し選択され、必然的に組み立てられたものです。ですから、全く同じ環境や条件が与えられるならば、目的を達成するための行動選択に個体差というものは必要ありません。この場合、与えられた条件が個体ごとに異なるために行動パターンの違いが発生するわけですが、飽くまでそれは個体の内的性質が反映した結果ではなく、与えられた環境によって外から決定されたものですから、「個体差」ではあっても「個性」ではありません。

これに対しまして、「癖」というのは環境や目的といった外的要因ではなく、個体・個人がそれぞれに持ち合わせる「価値判断」や「反応様式」といった「内的要因」が行動の特徴や行動選択の基準に反映したものです。この「内的要因」が「癖の正体」です。このため、仮に与えられた環境や目的が全く同じものであったとしても、それに対して選択される「反応や行動」には少なからず個体差というものが出てきます。これは、哺乳類や鳥類など、他の高等動物でも全く同じです。つまり、同じことをするにしても、ひとそれぞれに、また個体それぞれに「個性」というものがあるわけです。
例えば、仮に双子の兄弟であったとしましても、勤めている会社が違うのであれば、それに伴う行動パターンが同じになることはありませんよね。逆に赤の他人でも同じ社宅に住み、同じ会社に通うのであれば、自ずと同様の習慣行動が形成されます。ところが、与えられた環境や目的はふたりとも同じですし、行動パターンに違いの発生する要素は何処にもないのですが、にも拘わらず、Aさんは毎朝始業30分前に出勤するのに対しまして、Bさんに至っては何時も遅刻ぎりぎりというのであれば、それは明らかに「個性」であり、価値観や性質といった個体に特有の内的要因がそれぞれの「行動の特徴」として表れ出たものです。
従いまして、我々動物にとって「習慣行動」とは、与えられた外的要因によって必然的に決定される「一定の行動パターン」であり、そして「癖」といいますのは、そこに表れ出る「行動の特徴」であり、それは個体に特有の内的要因が、行動様式や行動選択の基準に反映したものということになると思います。

回答は以上なのですが、質問者さんは「習慣行動」と「意識行動」の関係にまだ何となく疑問をお持ちのようですので、お役に立つかどうかは分かりませんが、ここから先はそれに就いて私の考えを述べさせて頂きます。但し、たいへん長いので、この先は暇なときにお読み下さい。

最初に申し上げました通り、習慣行動というのは与えられた環境や目的に従って選択された複数の行動が反復学習されることによってパターン化されたものです。ですから、そこには達成すべき目的というものがあるのですから、それは本来「計画行動」であり、状況に応じて適切な判断を行なわなければ正しい結果は得られないわけです。ですが、それが習慣行動になってしまいますと、パターンを形成するひとつひとつの行動は既に熟練運動として体得されており、我々はその順番を間違えるということもありません。
例えば、我々は朝起きて顔を洗い、歯を磨きます。これは自らの健康維持や社会的なマナーといった目的に従って選択される行動ですよね。ですが、このような単純作業であるならば、我々は別に何も意識はしませんし、特にその理由を考える必要もありません。
つまり、本来ならばそれは歴とした目的のある計画行動であり意識行動ではあるはずなのですが、我々はほぼ無意識のうちに難なくそれを達成してしまうというわけです。そして何よりも奇妙なことは、我々は本来の目的というものを全く意識していないのにも拘わらず、歯を磨くという行動を毎日せっせと選択してしまうということです。

とはいえ、いくら無意識と言いましても、朝家を出て、ふと気が付いたら何時も通り会社に出勤していたなんていうのもちょっと極端な話ですよね。家を出たならば通りに向かい、バスに乗ったら幾つ目で降りて会社まで歩く。習慣行動というのはこのように複数の行動の組み合わせですから、当然その中には意識行動も無意識行動も混ざっていますし、無意識である日もあればそうでないときもあるはずです。ですから、ひとによっても様々な習慣行動というものを意識行動か無意識行動かのどちらにきちんと分類するということはできませんし、それは然して意味のあることではありません。注目すべきことは、習慣行動の場合、我々は特に目的を意識することなくそれを実行してしまういうことです。
「さあ、今日も右の奥歯から磨くぞ!」
「ネクタイは締めたからこれから会社に向かえばいい」
果たして我々は、常にこのような目的を意識して習慣行動を実行しているのでしょうか。本来ならば、それは目的を達成するための計画行動です。ですが、逆に考えますならば、理由など考えずともできるようになってしまったものを習慣行動と言うのではないでしょうか。つまり、習慣行動というのは、パターン化された行動を選択することによって結果的にその目的が達成されてしまう計画行動ということになるのではないかと思います。ですから、特に意識しなくとも毎日の目的が自然に消化されてしまうというわけですね。
では、理由など考えなくても実行できてしまうというのはたいへん便利で結構なことなのですが、本来の目的を意識せずに、我々は毎日、どうやってその行動を選択しているのでしょうか。

厳密に言いますならば、動物の脳内で行動の選択に必要なのは「目的」ではなく「動機」です。「欲求」と言った方が手っ取り早いかもしれませんが、何れにしましても、それは大脳皮質で扱われるものではありません。
「本能行動」を除く我々哺乳動物の行動とは、大脳辺縁系で発生する「情動」に伴って選択されるものであり、大脳皮質には行動選択に関する権厳は一切ありません。ですから、大脳辺縁系における情動の発生とは「モチベーション」、即ち「行動の動機」、もしくは「欲求の発生」を意味します。そして、大脳辺縁系とは脳内では「無意識」の領域です。
つまり、普段我々は大脳皮質の論理的な判断によって有意識の元で知的に目的を達成していると思いがちなのですが、実は、実際には感覚情報を元に大脳辺縁系に発生した「情動」に従って無意識のうちに行動を選択させられているだけというのが、ぶっちゃけた話舞台裏ということになります。これが、我々哺乳動物が大脳皮質で目的というものを認識しなくとも「学習行動」を選択することのできる理由です。
このようなものを「情動行動」というのですが、だからといって我々が無闇やたらと感情行動に走ってしまうことがないのは、それは脳の年齢が成人に達しているならば理性的な判断を扱う大脳皮質のサポートがそれなりにしっかりとしているからです。
このように、我々哺乳動物が行動選択に必要なのは目的ではなく、情動に伴って発生する「モチベーション(行動の動機)」です。では、「目的」とはいったい何かと言いますならば、それは行動選択のサポートがしやすくなるように、特に人間の大脳皮質によって後から付け足される「概念」ということになると思います。敢えて人間と申しましたが、計画行動のできる知能の高い動物であるならば、その結果を目的として捉えることは幾らでも可能だと思います。

ではここで、癖というものに就いても少し考えておきたいと思います。
「癖」というのは「無目的」であるから「習慣」とは違うという考え方があります。ですが、ただいま申し上げました通り、動物の行動選択に必要なのは大脳皮質内で論理的な概念として扱われる「目的」ではなく、大脳辺縁系の情動反応や本能行動を司る生命中枢による生得的な価値判断に従う「モチベーション(行動の動機)」です。
我々哺乳動物の脳内で「学習行動」の動機とは「情動の発生」であり、癖という行動にも情動という動機があります。何故ならば、癖には個体差・個人差というものがあるからです。本来、癖というのはそういうものですよね。
習慣行動ももちろんそうなのですが、このように個体差・個人差のあるものは生得的な本能行動ではなく、遺伝的な体質を除いては全てが生後の体験によって獲得された「学習行動」です。そして、哺乳動物の学習行動とは大脳辺縁系に発生する情動に伴って選択されるものです。従いまして、一見「無目的」であるように思われます「癖」ですが、それが学習行動である以上、脳内では情動という、歴としたモチベーションが発生しているということになります。

良く、女のひとが髪の毛を耳の後ろに掻くという仕草をしますよね。薬指でやるひともいますが、小指でやるひともいます。これも個性ですね。私は、小指で何気なくやるのが色っぽくて好きです。
大脳辺縁系内で情動を発生させているのは「扁桃体」という神経核です。ここには身体内外のあらゆる感覚情報が入力されており、それに対する「価値判断」が下されることによって「快情動」か「不快情動」のどちらかが発生します。これにより、我々動物は「接近行動」か「回避行動」かの選択が可能になります。
髪の毛が前に垂れてくれば邪魔ですから、それに関しては不快情動が発生しますので、これを耳の後ろに掻くという行動は、発生した嫌悪刺激に対する「回避行動」ということになります。このような選択を行なう扁桃体の反応というのは、自分にとっての利益・不利益に基づく「価値判断」です。従いまして、これによって問題が解決するならば、髪の毛を掻くという行動を選択することによって、脳はひとつの「利益」を獲得したということになります。このように、髪の毛を耳の後ろに掻くという行動には、顔の皮膚の表在感覚によって発生した嫌悪刺激に伴う回避行動という「モチベーション(行動選択の動機)」が存在し、それは扁桃体に入力された感覚刺激に価値判断が下されることによって生み出されるというわけですね。

では、その女のひとは、実際に髪の毛が前に垂れてきてもいないのに、どうして無目的な癖を繰り返すのでしょうか。それは、髪の毛が邪魔だという表在感覚以外の感覚刺激に対しても脳内では同じモチベーションが発生するために、同じ行動が選択されてしまうということが考えられます。では、どうして異なる感覚刺激であるにも拘わらず同じ反応が起こるのか、ということになりますが、実は、逆に動物には同じ刺激であってもそのたびに違う反応が表れることさえ幾らでもあるわけなのですが、この辺りのメカニズムに就いてはまだはっきりとは分かっていません。
何れにしましても、ひとつはっきりとしていることは、モチベーションが発生するということは情動反応が発生しており、選択される行動は快情動か不快情動のどちらかに準ずるものであるということです。これがどういうことかと申しますと、それに伴って接近行動か、あるいは回避行動が選択されるということは、発生した情動に対する問題の解決という「利益」が獲得されるということです。
つまり、髪の毛が邪魔でもないのに髪を掻くというのは全くの無目的な行動ではあるのですが、それには何らかの感覚刺激に対して発生した情動に伴うモチベーション、即ち行動選択の歴とした動機・理由かあるということですね。加えて、行動が選択されるということは価値判断が成されているということなのですから、脳の方の立場にしてみれば、全く何の利益もない行動を無闇やたらと選択しているというわけでは決してないということになるわけなんです。
他の回答者さんが仰います、癖というのは無目的な行動であるというのは常識的に見て間違いのないことだと思います。ですが、先に申し上げました通り、習慣行動には確かに目的というものはありますが、必ずしもそれが意識される必要はないというのもまた事実です。では、目的のあるなしによって習慣行動と癖の区別を付けることができないということでありますならば、こちらのモチベーションというのは、習慣行動ではどのような意味を持つのでしょうか。途中から癖の話になり、先送りして参りました結論は以下のようになります。

我々が目的を意識しなくとも習慣行動を選択できるのは、大脳辺縁系の情動反応に伴うモチベーション(行動選択の動機)が発生するからです。これにより、我々は朝顔を洗うために洗面所に狩り立てられ、何も考えなくともせっせと会社や学校へと出掛けて行きます。一度パターンが選択されてしまうならば、あとは車に弾かれない限り無意識行動でも一向に構いませんし、何か特別な問題でもなければ、今日はこのまま引き返してサボってしまおうということにもならないはずです。
つまり、質問者さんは「習慣となっているものはやらないと気分悪い」と仰いますが、実はその不快感が正に情動であり、これが習慣行動を実現するためのモチベーションそのものであるわけなんです。「気分が悪い」というのは、例えば不安状態といった不快情動です。このため、発生した不快情動に基づく回避行動として、我々は日々の習慣となっている行動を無意識のうちに選択してしまうということになります。そして、癖も全く同様で、何らかの理由で抑止されるならば不快情動が発生し、それはストレスになります。つまり、このようなモチベーションの役割に就きましても、習慣行動と癖の間には主だった違いは見当らないということですね。

ということなものですから、それは無意識行動であるのか意識行動であるのか、はたまた合目的であるのか無目的であるのか、いったいどのようなモチベーションによってその行動は選択されるているのか、自分なりに色々と検討を致しましたが、結局、どれを使いましても習慣と癖の違いを明確にすることはできません。このような理由から、習慣とは行動パターン、癖とは行動の特徴であり、各々は個体差を決定する要因が異なるというのが、私の回答ということになりました。

この回答への補足

大変興味深く読ませていただきました。本当にありがとうございました。
ご自分のご意見ということでお書きいただいた部分についても、とても理にかなっているように思いました。貴方はとても知識がお深いため、専門的な部分については、はっきりと把握するのが難しいところもありましたが、全体的にわかりやすいものでした。
やはり習慣と癖というものの線引きははっきりとできないようですね。それはそれで一つの結論として納得のできるものです。
皆さん、本当にどうもありがとうございました。

補足日時:2006/04/08 10:06
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この回答へのお礼

お手間を取らせまして申し訳ありません。まだ全体を読んでおりませんが、ゆっくりと拝読させていただきます。
取り急ぎ、お礼まで。

お礼日時:2006/04/07 19:41

minofenvさんの仰る無意識下の車の運転は基より楽器の演奏、お芝居、スポーツなど恰も無意識下のあるようですが、訓練の結果、習慣化し高められた結果でしょう。



「くせ」はその行為そのものが発生当初から意識下になく継続している状態だと思います。

この問題、結論はもっと奥深いものが有る様ですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
なるほど、当初から意識しているかいないかという考え方もありますね。
しかし、考えれば考えるほど深みにはまっていく感じです。英語では癖も習慣もHabitという単語なので、必ずしも分けられるようなものでも無いのかも知れないとも思いますし。
お手数をおかけしてすみません。

お礼日時:2006/04/07 19:35

No1です。



その通りです。すいません、日本語が少し不明確でした。
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この回答へのお礼

重ね重ねお手数をおかけします。どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/04/05 10:15

習慣=物事を行う際に自己の意志が働いている。


くせ=その行為が無意識下にある。
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この回答へのお礼

回答いただきましてありがとうございます。
やはり意識的かどうかというのは関連していることには間違いは無いようですね。
しかし、たとえば車の運転というのは習慣か、癖か、どちらに分類されるものなんでしょう。おかしな質問かも知れませんが、自動車学校にいるときには意識してアクセルやブレーキなどを操作しますが、次第に無意識で行うようになります。アクセルやブレーキなどの操作は癖なのでしょうか。
重箱の隅をつつくような質問で申し訳ありませんが、こういうことを人と話していたら袋小路に迷い込んでしまいました。
よろしくお願いします。

お礼日時:2006/04/05 10:13

習慣はなにかしらの意味のある行動です。

例えば散歩や早起きなど。
癖は意味のない行動です。例えば貧乏ゆすり、髪をいじるなど。
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この回答へのお礼

素早い回答をどうもありがとうございます。
意味のある行動、ない行動というのは、それをすることによって、何らかの結果が出てくるものと考えれば良いのでしょうか。
なんとなく分かるのですが、言葉にするのが難しいので確認のために書かせていただきました。
ありがとうございます。

お礼日時:2006/04/05 10:03

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