「しこくはちじゅうはっかしょ」or[「しこくはちじゅうはちかしょ」?「しこくはちじゅうはつかしょ」?
テレビでさえいろいろ違うし、
文字は「四国八十八か所」があり、「四国八十八ヶ所」や「四国八十八箇所」もあります。
正しいのはどれでしょうか。

A 回答 (2件)

しこくはちじゅうはっかしょ が正しい。


四国八十八か所 が正しい。
(四国ではそう使っている)
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正しくは「はちじゅうはっかしょ」です。


「はちじゅうはちかしょ」とよんでも通じはします。

文字はどれでもかまいませんが、八十八箇所が正式です。(これは「○かしょ」「○かげつ」などの日本語表記の正式なものです。それぞれ箇所、箇月)

参考URL:http://www.tv-asahi.co.jp/announcer/special/dora …
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Q「そそる」「そそらる」どちかが正しい?

興味をそそられるテレビの番組をみる
興味をそそるテレヒの番組をみる
どっちが正しいのでしょうか。

Aベストアンサー

こんにちは。3/31のご質問以来ですね。

ご質問:
<どっちが正しいのでしょうか。>

どちらも正しいです。

1.「興味をそそられるテレビの番組をみる」:

(1)「そそられる」の「れる」は受身または自発の助動詞になります。

(2)受身「らる」の場合は、「受身」「受動」の意味になります。

(3)自発「らる」の場合は、「自然に興味が沸き起こる」という自発的な意味になります。

(4)主語は「話し手」になります。これは番組を見る、という動作の主体にもなります。

(5)つまり、「私が、テレビの番組に、興味を、そそられる」という、主語+客体+目的語+受身・自発の述語の並びになっていた文を、テレビの番組にかかるように修飾関係をまとめたのが、「興味をそそられるテレビの番組」となります。

2.「興味をそそるテレビの番組をみる」:

(1)「そそる」のは他動詞で、「興味を」がその対象となる目的語になります。

(2)意味は「ある感情、感情の現れである行動を起こすように誘うこと」になります。

(3)主語は「テレビの番組」になります。

(4)つまり、「テレビの番組が、興味を、そそる」という、主語+目的語+述語の並びになっていた文を、テレビの番組にかかるように修飾関係をまとめたのが、「興味をそそるテレビの番組」となります。

3.つまり、両文の主な違いは「そそる」「そそられる」の主体が異なる、という点です。

4.自分の気持ちに焦点をあてたい場面では「そそられる」、TV番組の内容に焦点をあてたいときは「そそる」を使い分ければいい、ということです。

5.それは対象がTV番組ではなく人や抽象的な物などでも使えます。
例:
「彼女は、男心をそそる」
「彼女には、男心をそそられる」

いずれも同じような意味ですが、上は「彼女」の魅力を主体的に捉え、「彼女」を魅力を放つ能動的なイメージを持たせているのに対し、下はあくまで主体は男性で、「男性が自分の意志ではどうにもならない」という受動的なイメージを強調している文になります。


以上ご参考までに。

こんにちは。3/31のご質問以来ですね。

ご質問:
<どっちが正しいのでしょうか。>

どちらも正しいです。

1.「興味をそそられるテレビの番組をみる」:

(1)「そそられる」の「れる」は受身または自発の助動詞になります。

(2)受身「らる」の場合は、「受身」「受動」の意味になります。

(3)自発「らる」の場合は、「自然に興味が沸き起こる」という自発的な意味になります。

(4)主語は「話し手」になります。これは番組を見る、という動作の主体にもなります。

(5)つ...続きを読む

Q「さえも」と「さえもが」の違い(外国人質問)

「さえも」と「さえもが」の違い(外国人質問)

語感や使い方や意味合いとか、宜しくお願いします。

Aベストアンサー

文法的、意味的に考えると、
「さえ」は、極端な例を提示しそれ以上を類推する、
「さえも」は、極端な例を提示し、強調する、…
「さえもが」は、極端な例を提示し、強調する。「が」は新情報(で驚き)を表す、
それぞれ強調の程度に差があるだけで、大きな意味の差はないと思われます。

次のような例文で考えてみましょう。
 彼はずっと賛成派だったよ。
 (1)その彼さえ先頭に立って反対している。我々も反対運動に参加しなくちゃ。
 (2)その彼さえも先頭に立って反対している。これで反対運動も盛り上がるだろう。
 (3)その彼さえもが先頭に立って反対している。もう賛成する奴なんてだれもいない。
このように使い分けることはできます。

しかし、単独の文章なら(3)の後文を(1)の後文に持ってきても使えます。同じように(1)の後文を(3)へ入れ替えても問題ありません。「さえ」が使える文章なら、「さえも」や「さえもが」と置き換えることができるのではないでしょうか。それぞれの使い方に制約はないでしょう。

Q「~さえ」と「~まで」の使い方のちがい

「~さえ」と「~まで」の使い方のちがいを教えてください。
例文 「海には魚さえいませんでした」「海には魚までいませんでした」
日本語の勉強をしている外国人の友人に質問されました。
外国人にも理解しやすいようにお教えいただければ助かります。

Aベストアンサー

「~さえ」は、
最低限想定されるもの(こと)に言及しようとする意図があります。
「~まで」は、逆に、
より重要な要素を持つもの(こと)に言及しようとする表現。

「漂流中は水さえ飲めなかった」は、
最低限必要とされる水を飲めなかった、というニュアンス。
「漂流中は水まで飲めなかった」は、
食糧が無かったり、日をさえぎるものが無かったり、鮫が寄ってきたりと散々な目に遭ったが、そういったことよりもさらに重要なこととして、水が飲めないということがあった。
というニュアンス。

「海には魚さえいませんでした」

・海には最低限魚がいないとおかしいのに、それがいなかった。
というニュアンス。

「海には魚までいませんでした」

・海には貝やら海藻やら小さな生き物がたくさんいるが、それらがいないだけではなく、食物連鎖的にはそれらの上位に当たる魚もいなかった。
というニュアンス。
または、
・海が汚れ、瓦礫が多数流れていたり、水が濁ったりしている。
しかし、そういったことよりもさらに海にとって重大な要素であるはずの魚までもがいなかった。
というニュアンス。
  

「~さえ」は、
最低限想定されるもの(こと)に言及しようとする意図があります。
「~まで」は、逆に、
より重要な要素を持つもの(こと)に言及しようとする表現。

「漂流中は水さえ飲めなかった」は、
最低限必要とされる水を飲めなかった、というニュアンス。
「漂流中は水まで飲めなかった」は、
食糧が無かったり、日をさえぎるものが無かったり、鮫が寄ってきたりと散々な目に遭ったが、そういったことよりもさらに重要なこととして、水が飲めないということがあった。
というニュアンス。

「海には魚さ...続きを読む

Q古典分法の問題です。 「乗る」「包む」「漕ぐ」「思ふ」「往ぬ」「飽く」「居り」「勝つ」の活用の行と種

古典分法の問題です。
「乗る」「包む」「漕ぐ」「思ふ」「往ぬ」「飽く」「居り」「勝つ」の活用の行と種類を教えてください!

Aベストアンサー

みんなこういう質問には冷たいね。
辞書をひけば済むからね。


原則的には、現代語で五段活用なら古典文法で四段活用です。
「乗る」:乗らない、乗ります、乗る、乗れば(ラ行)
「包む」:包まない、包みます、包む、包めば(マ行)
「漕ぐ」:漕がない、漕ぎます、漕ぐ、漕げば(ガ行)
「勝つ」:勝たない、勝ちます、勝つ、勝てば(タ行)
行はそのままで、四段活用と答えればいい。

気をつけなければならないのは、「思ふ」と「飽く」
現代語は
「思う」:思わない、思います、思う、思えば(ワ行)
だが、古典は「ハ行四段」。
「(おも)う」じゃなくて「(おも)ふ」だからね。

「飽く」も現代語は
「飽きる」:飽きない、飽きます、飽きる、飽きれば
で上一段活用だが、古典文法では「カ行四段活用」


あとは「往ぬ」「居り」ね。
これは変格活用だから覚えるだけ。
「往ぬ」:ナ行変格
「居り」:ラ行変格

Qそこらじゅう?そこいらじゅう?

『そこらじゅう』と『そこいらじゅう』はどちらが正しいのでしょうか?

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

『そこらじゅう』(其処ら中)が正しく、『そこいらじゅう』は、『そこらじゅう』の類語・同義語
かと思います。


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