のとは一体どのような考えをを持っているのでしょうか?
というのも授業でトルストイについて学んでいるとき、トルストイ主義と呼ばれるキリスト教的な人間愛を説いたとありました。
キリスト教について調べてみてもよく理解できませんでした。キリスト教的な人間愛とは人類みな平等ということなのでしょうか?

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A 回答 (4件)

#2さんが触れていらっしゃいますが、キリスト教の教えは宗派によって異なります。



トルストイ主義とはトルストイ独自によるキリスト教のことで、その中心にあるのは「悪に対して悪をもって報いるな」という教えです(マタイ伝)。

この教えに基づいて、トルストイは兵役や裁判を否定し、反戦と死刑廃止を訴えます。また、権力と結びついた正教会を批判し、正教会から破門を受け、死ぬまで和解を拒否し続けました。ちなみに私はトルストイの墓があるヤースナヤ・ポリャーナに行ったことがありますが、トルストイの墓は十字架も何も無い、気づかないくらい小さな小さな土盛でした。

また、トルストイ主義の考え方として、「自然と結びついた簡素な生活」「勤労を重んじ家族生活を大切にする」ことが挙げられます(опрощениеといいます)。自分も財産を放棄しようと考えました。

ドゥホボール派というキリスト教の一派があります。彼らは農民のユートピア的な共同体の理念を追い、私有財産を認めないという思想を持っており、19世紀の前半に激しく弾圧されます。そのため、ロシア以外の各地に移住するのですが、彼らのカナダへの移住の費用を出したのがトルストイです。

余談ですが、自分の理念を実現させるため財産を放棄しようとするトルストイと、子供のために財産を守りたい妻との間で衝突し、彼は家出をして鉄道の駅で死んでしまいます。

トルストイ主義を理解するためには、やはりトルストイの作品を読むことが重要だと思います。トルストイは宗教論に関するものもいくつか書いていますし、文学作品もたくさん書いています。トルストイ全集などに収録されていますから、機会があれば読んでみられてはいかがでしょうか。

また、中村喜和編『イワンのくらし いまむかし』や木村毅著「ドゥホボール教徒の話」という本の中にも、わりと詳しく触れられています。非常に読みやすい本なので一読をお勧めします。

http://www.seibunsha.net/books/09.html
http://www.ko-bun-sha.co.jp/mokuroku-24.html
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この回答へのお礼

回答有難うございました。

お礼日時:2006/06/21 19:05

キリスト教的な人間愛とは人類みな平等ということなのでしょうか?



いいえ神様から見れば平等です。なぜなら神は行いではなく心を見ます
そして信じるものには平等に天国にいけます
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この回答へのお礼

回答有難うございました。

お礼日時:2006/06/21 19:04

>キリスト教的な人間愛とは人類みな平等ということなのでしょうか?



これは違います。
信仰心や行いにより差があります。

深い信仰を持っている人と、信仰心の薄い人とでは、同じではありません。
また、同じ信仰心をもって礼拝していても、清貧に生きた人と、金儲けに走った人では、おなじではありません。

また、キリスト教の教えに反した事をした場合、悔い改め方によっても差が出ます。

何がキリスト教の教えかは、宗派により異なりますから、同じ事をしても、キリスト教の教えに反する、反しないは、宗派により異なってきます。
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この回答へのお礼

回答有難うございました。

お礼日時:2006/06/21 19:05

どんなにいやしい人間でもすべて神の子、人類みな兄弟。



ってことじゃないかと・・・。
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この回答へのお礼

回答有難うございました。

お礼日時:2006/06/21 19:06

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Q義母はキリスト教、義父は仏教のお葬式

義母はボケており会話はもうできない状態です。今は点滴のみでいつ亡くなってもおかしくない状態です。
義母は結婚後病気をきっかけにキリスト教に入ったそうですが義父はキリスト教が大嫌いです。そこでもし義母が亡くなった場合、お葬式はどちらの宗教でやるべきでしょうか?
義父は義母のところへキリスト教の関係者がきたとき追い返しております。

Aベストアンサー

 既にお気づきとは存じますが,葬儀をどのようにすれば良いかだけではなく,その後のことも考えなくてはなりません。
 御義母様と御義父様は別々の宗教宗派を信仰されていたので,それぞれの信仰されていた宗教宗派に従って葬儀を行いますと,その後のこともそれぞれの宗教宗派の法式によって行うことになりますから,遺族の負担は重くなります。
 
 質問文によりますと,御義母様が先に亡くなられて,御義父様が喪主となって,その葬儀を仕切られることと存じます。そうなりますと,御義父様はキリスト教の法式の葬儀をせずに,ご自分の信仰している宗教宗派の法式による葬儀をなさるであろうと想像します。
 
 どのような法式により葬儀なされても,キリスト教を信仰されている方は,神の国(天国)に召され,仏教を信仰されている方は,仏の国(浄土)に行くそうですから,亡くなられた方が迷うことはないようです。
 
 本人が信仰していた宗教宗派に関わらず,祭祀を引き継ぐ者の信仰する宗教宗派の法式に従って,葬儀やその後のことをなさることが多いように感じます。
 

Qキリスト教、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教・・・などなど、さまざまな宗教の考え方や特徴を知りたいです。

最近、宗教について興味を持つようになりました。たとえばイスラム教では女性の地位が低かったりヒンドゥ教にはカーストがあったりと、宗教によってさまざまな考え方の違い、特徴があると思います。そんな宗教の違いなどについて分かりやすく解説していただけたら幸いです。

Aベストアンサー

 こんにちは。

 宗教事情と言いますか 実際の生活日常にどう現われているかについてよりは 考え方をめぐって理論的に捉えようとしてみます。

 ヒンドゥイズムは古代では ブラフマニズム(バラモン教)ですが この宗教はすでにいわゆるカーストが定まったところで起こっています。侵略と支配が出来あがったところで そのおしえが持たれます。
 ひとつには 宇宙の原理ないしその力としてのブラフマン(梵)とひとの《わたし》としてのアートマン(我)とが一体であると説きます。梵我一如と言うようです。
 もうひとつには 輪廻転生かつ因果応報の説があります。梵我一如を身に現わしたとされる司祭(ブラフマナ)は 過去世で善い因を積んだ結果そう成ったというわけです。
 そしてこの場合 低い身分の人びとは 過去世で悪い因を積んだ結果だというのですが それだけではなく いま現在善い因を積めば そして生まれ変わり続けていつの世にかは よき身分に生まれると説きます。

 ブディズムは このブラフマニズムを批判し否定して起こりました。
 ただ その内容は必ずしも明確ではありません。
 低い身分のまま生まれ続けるという六道輪廻は 目覚めた状態(ブッダ)に成れば断ち切ることができると言いますが 輪廻転生が全体として否定されたわけではありません。
 ひとは仮りにモノが集まってその存在となって生まれて来たものだから 《わたし》が確固とした存在だとは見るものではないようです。(諸法無我)。何ものにも依存しないブラフマンと一体でありうるというアートマンであるとは見ない。ただし 誰もがブッダの状態に成ることができるというその《仏性》を身に宿すとも もう一方では説くようになります。
 ですから一般には 《梵我一如》をブディズムのおしえだと捉えているのではないでしょうか。

 イスラームは 単純です。《神(アッラーフ)》が直接にムハンマドの口を借りて ひとの思いやおこないをすべて〔と言っていいほど〕おしえの中に示しているということです。きわめて具体的な内容を示すかたちで表現されていますから。 

 ▲ (クルアーン=コーラン)~~~~~~~~~~~~~~~~
 まことにわれら(* アッラーフ=神 の自称・複数形での語り)が 汝(ムハンマド)に啓示したのは ノアとそれ以後の預言者たちに啓示したのと同様である。われらは アブラハム イシマエル イサク ヤコブの各支族に また イエス ヨブ ヨナ アロン そしてソロモンに啓示した。また ダヴィデに詩篇を与えた。(4:163)


 おまえたち(* ムハンマドを含めた信徒たちのこと。むろんアッラーがムハンマドの口を借りて語っている)は言うがよい。
   《われわれは神を信じ そしてわれわれに啓示されたものを アブラ
   ハムとイシマエルとヤコブともろもろの支族に啓示されたものを モ
   ーセとイエスに与えられたものを 信じる。
   また もろもろの預言者が主から与えられたものを信ずる。われわれ
   は これらのあいだでだれかれの差別はしない。
   われわれは神に帰依する。》
    (2:136)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ちなみに セム語は三個の語根子音から成るのが 一般です。
 《S-L-M》は ヘブル語でも シャローム( SaLooM )と言って挨拶に用いる語です。アラビア語では 定冠詞(アル→アッ)を付けて 《アッサラーム(al-SaLaaM = 平安を!)》です。
 同じ S-L-Mから派生する語として イスラーム iSLaaM は 《降伏・服従》の意をも伴なう《身をゆだねる》つまり《帰依》のことです。
 その帰依した信徒を表わすムスリムは 《〔わたしはそこで自らが健全・安寧(S-L-M)であると知覚し認識し これを受け容れて わたしは〕 すこやかならしめられた》と言っています。〔  S-L-M > muSLiM。(初めの m- は いわゆる過去分詞の接頭辞)というわけのようです〕。
 つまりは ブラフマニズムやブディズムで目指された《安寧としてのさとり》の状態は ムスリムとしては その名前じたいの中に堂々と名乗っているというわけです。《われ やわらがしめられたり》と言っています。
 ひとこと悪口を言えば つねにいつもいつも《われはアッラーを信じる。アッラーに帰依する》と言っていなければならないのかと思ったりします。そんなことぢゃ 信じていないのではないか。弱いのではないかと思ったりします。
 
 さて ムハンマドに乗り移って語ったアッラーフの言葉の中に アブラハムやモーセのほかに イエスも出て来ています。そこで クリスチアニズムについてです。
 これは ひとことで言えば 人がついていけないほど すっ飛んでいます。なにしろ ヨセフとマリアという夫婦から生まれた人間であるイエスは この世のものではないなぞの霊としての存在である神の独り子であり みづからも神である。こういう出で立ちです。

 いくらかは分かるようなところを示してみますと。
 ひとは誰でも《仏性》を宿すと言ったりしますが クリスチアニズムもひとには神の霊が宿ると言います。
 ブラフマンとわたし(アートマン)とが 一体となるという説に対しては 神〔の霊〕がわたしをおおい包む。そこでわたしは 無条件に只で(無料で=恩恵として)癒されやわらがしめられたと告白する。
 ただし これはすべて ひとりの人の主観の内において起こる出来事であり その主観内面におさまるものであると知っています。ですから 神が人間の言葉でそのまま語るということは まぼろしとして――文学表現において――触れたりすることもあるにはあるようですが 基本的にはないと思っています。
 神をひとは見ることが出来ない。それは 非思考であると捉えます。言いかえると その信仰の内容を 言葉にして伝えることはあるにはあっても その人の主観の問題であると捉えています。言いかえると 二人以上でこの信仰内容をおしえとして具体的な表現において共有するということは すでにもはや非思考の信仰ではなくなると見ています。すなわち 教義と組織を伴なった宗教は 信仰の自殺行為であると見ます。そういう信仰です。
 (教会組織は わたしに言わせれば 犯罪行為です)。

 さらに言いかえると もし人と人のかかわりやつながり あるいはきづな これらのことを《愛》と言うとすれば そのような愛は 非思考つまりなぞにおいて神のほうがなんとかしてくれると思っているという意味です。人もその一端をになうと言ってもいいでしょうが――そして人間の為し得る努力という努力はすべておこないますが―― 基本は 絶対他力です。隣りびとを愛せとは 自分と同じくらいは――もしくは自分を思う前に一秒くらいは相手を先に思うかたちで――愛しなさいということです。

 こんにちは。

 宗教事情と言いますか 実際の生活日常にどう現われているかについてよりは 考え方をめぐって理論的に捉えようとしてみます。

 ヒンドゥイズムは古代では ブラフマニズム(バラモン教)ですが この宗教はすでにいわゆるカーストが定まったところで起こっています。侵略と支配が出来あがったところで そのおしえが持たれます。
 ひとつには 宇宙の原理ないしその力としてのブラフマン(梵)とひとの《わたし》としてのアートマン(我)とが一体であると説きます。梵我一如と言うよ...続きを読む

Q仏教のお葬式でキリスト教徒は・・

仏教のお葬式でキリスト教徒は・・
家族の中に1人、61歳にして
最近韓流の影響でキリスト教徒になった者が居ます。
それを私と姉以外に秘密にしています。
先日我家でお葬式がありました。

我家は代々近所の真言宗のお寺にお願いしているのですが
そこのやり方では、葬儀後自宅の神棚にお祈りします。
皆が指示通り、頭を下げたりしてる中、
キリスト教徒1名は微動だにしませんでした。

初七日に、大声で読経する際に
「私は心の中で祈るので」と1名だけ読経しませんでした。

これは自分が支持している神様がいるので
その他の者には祈らないという事なのでしょうか?
だとすればそれはキリスト教の教えからきているのですか?


宗教の違いがあっても、「亡くなった人の宗派」の形式で葬儀があげられるのに
異教徒だからといって、それに添わない事は宗教の自由なのですか?
キリスト教ではそういう教えなのですか?たまたま家族がこうなだけですか?

ちなみに家族が通ってるのは大久保にあるプロテスタントです。
教会に通う様になってから、おかしくなったので
本人に質問しても、まともな答えが返って来ず分かりません。

真顔で「人はイエス様が作ったんだよ!!」とか言って来ます。
全ての罪はイエス様が許してくれると信じてるので
謝ったり、認めて反省とかしなくなって厄介です。これ正解ですか?

仏教のお葬式でキリスト教徒は・・
家族の中に1人、61歳にして
最近韓流の影響でキリスト教徒になった者が居ます。
それを私と姉以外に秘密にしています。
先日我家でお葬式がありました。

我家は代々近所の真言宗のお寺にお願いしているのですが
そこのやり方では、葬儀後自宅の神棚にお祈りします。
皆が指示通り、頭を下げたりしてる中、
キリスト教徒1名は微動だにしませんでした。

初七日に、大声で読経する際に
「私は心の中で祈るので」と1名だけ読経しませんでした。

これは自分が支持している神様がい...続きを読む

Aベストアンサー

昔から「宗教はアヘン」とも言われてますね。

私が思うに どんなに自分が別の宗教をしていても

「郷に入っては郷に従え」で 自分の宗教の教義とは違うからと

頑なになるのでなくその家のやり方に倣うのが 本当だと思います。

キリスト様も「絶対に プロテスタントを貫け!! 他を受け入れるな」

とは教えてないのではないでしょうか?

信仰は自由ですが、お葬式とかは、その家のやり方に倣うのが

正しい宗教のように思います。


大久保にあるプロテスタントかどうかはわかりませんが、昔、統一教会が

韓国で女性信者を集めて、ウエディングドレスを着た大勢の女性達に

牧師みたいな人が、男の写真をばらまき、受け取った写真の男が その女性の

結婚相手で その場で 結婚式、、、というのがありましたね。

中三トリオで有名だった 森昌子、山口百恵らと一緒だった桜田淳子は

それで結婚したはずですが、、、。

記憶が曖昧ですが、、、。 あの頃、かなり週刊誌で騒がれてましたね。

韓国発、、、は気をつけた方がいいです。

創○学○と同じで、こういうのに のめり込んだ人間とは 近づかない方がいいです。

>真顔で「人はイエス様が作ったんだよ!!」とか言って来ます。
全ての罪はイエス様が許してくれると信じてるので

こういうことを言い出したら、素知らぬ顔をして 

聞こえなかったふりをして その場を離れてしまいましょう。

しかし61歳にもなって その方 どうしちゃったんでしょうかねぇ~。

人生、本当に一寸先は闇ですね。

(桜田淳子は検索すると 広告塔になってみたいですね)

昔から「宗教はアヘン」とも言われてますね。

私が思うに どんなに自分が別の宗教をしていても

「郷に入っては郷に従え」で 自分の宗教の教義とは違うからと

頑なになるのでなくその家のやり方に倣うのが 本当だと思います。

キリスト様も「絶対に プロテスタントを貫け!! 他を受け入れるな」

とは教えてないのではないでしょうか?

信仰は自由ですが、お葬式とかは、その家のやり方に倣うのが

正しい宗教のように思います。


大久保にあるプロテスタントかどうかはわかりませんが、昔、統一教会が

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Qキリスト教を信仰している人は、キリスト教の何を信じ

キリスト教を信仰している人は、キリスト教の何を信じているんですか?

私から見たら、聖書は昔の文学小説にしか見えないんですけど・・・

昔の文学小説を信じているキリスト教徒は、他のイスラム教の教えは信じないのはなぜですか?どちらも同じ昔の小説な気がするんですが。。。

Aベストアンサー

基督教を薦める人物

信じる人物が薦める神なら、鰯の頭でもモバイドオキ神でも同じ

Qキリスト教徒と仏教徒について

 私の家は、日蓮宗でその前が確か真言宗だったそうです。熱心ではありませんが、お寺の行事に祖母が参加しています。
 でも私は、キリスト教のカトリックに興味があります。昨年、ヨーロッパを訪れた時に、たくさんの教会を見学し、お祈りに使う十字架も買いました。
 洗礼も受けたいなあと思いますが、将来結婚するときやお葬式に出席するときのことを考えると迷います。
 私の家族は誰一人もキリスト教徒ではありません。私はいま13歳です。

 今、私はキリスト教徒なのでしょうか、仏教徒なのでしょうか、それともどこにも属していないのでしょうか。
 そして、もしキリスト教徒になったとしたら、家族や友人とどう付き合っていけば良いでしょうか。
 
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

私もカトリックに愛着を感じているひとりです。もしあなたが洗礼を受けたいと思っているのなら、ちゅうちょすることなく洗礼を受けられても何の問題もないと思います。カトリックでは他宗教を全く否定していませんし、洗礼を受けたからといって、あなたのこれからの人生において不利益を受けることは何もないはずです。あなたが洗礼を受けていなくても、イエズス・キリストを信じているのなら、あなたはキリスト教徒だと思います。家族や友人とは今までどうり普通に付き合っていけると思います。洗礼を受けるか受けないかはあなた自身が本当にそれを望んでいるかどうかにかかっていると思います。宗教に縛られるのがいやなら単にカトリックについて勉強し続けるだけでも良いと思います。

ただカトリックに関してはひとつお伝えしたい事があります。それはカトリックでは1960年代に第二バチカン公会議というのがありまして、永い間伝統だったラテン語によるトリエント・ミサをやめてしまい、日本語によるミサを行っているということです。私自身はそれによってカトリック教会は実質的に「自殺」してしまったと思っています。聖ピオ十世会というセクトは今でもトリエント・ミサを行っています。日本でも東京と大阪で定期的にミサを行っています。ただしそのメンバーは聖体拝領を受けるのと同じくらい靖国神社に参拝するのが好きというような右翼的思想の人たちなようです。それでもよければあなたが聖ピオ十世会を訪ねてみるのも選択肢のひとつだと思います。

私もカトリックに愛着を感じているひとりです。もしあなたが洗礼を受けたいと思っているのなら、ちゅうちょすることなく洗礼を受けられても何の問題もないと思います。カトリックでは他宗教を全く否定していませんし、洗礼を受けたからといって、あなたのこれからの人生において不利益を受けることは何もないはずです。あなたが洗礼を受けていなくても、イエズス・キリストを信じているのなら、あなたはキリスト教徒だと思います。家族や友人とは今までどうり普通に付き合っていけると思います。洗礼を受けるか受...続きを読む

Qムハンマド(イスラム教の開祖)のユダヤ教観とキリスト教観は?

1 ムハンマドは自意識として、その人生をユダヤ教徒として出発したのですか、キリスト教徒として出発したのですか、いずれでもないのですか。
2 一般論として後発の理論は先行する理論や実態の欠陥を克服する形で登場するのだと思います。ムハンマドにとってユダヤ教の欠陥は何でしたか。また、キリスト教の欠陥は何でしたか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

偉大な宗教家として歴史に名を残した人は、えてして、単なる宗教家ではなく、政治的な能力でもすぐれていることが多いような気がします。そう、まさに今、チベットのために戦っているダライ・ラマ14世のように。彼は、インド、中国、米国、日本などの大国間の政治力学を利用してチベットのために戦っており、極めて社交的な性格であるうえに、ウィットに富み説得力のある話術を英語で使いこなし、世界中の世論を味方につける能力を持っています。

キリストの場合は、ユダヤ人国家がローマの属国であったという状況の中、ローマへの反逆も辞さない一部過激はとは一線をかくした人物です。聖書の中には、キリストを憎悪するユダヤ人たちが、なんとかしてキリストに反ローマ過激派のレッテルを貼ろうと試みるものの、キリストが政治的センスにすぐれ温厚な性格であることによって、彼をわなにはめようという試みは、ほとんど失敗してしまうシーンが出てきます。あの、「神のものは神へ、カエサル(皇帝)のものは皇帝に返せば良い」という有名なセリフは、別に宗教的に深いことを語っているのではなく、「ローマによる穏健かつ寛容な支配が不満なのか。税金くらい払え」という意味であるように思われます。

仏陀の場合はさらに過激で、2つの大国にはさまれたシャカ族の王子として生まれ、おそらくは将来を悲観し、政治から逃れるため出家してしまったとすら解釈できる人間です。仏陀が出家のため宮殿から出ていこうとすると、妻は子供が出来たと言って出家を止めようとします。しかし、仏陀は、「それでも自分は出ていく。子供には『邪魔者』とでも名づければよい」と言い放った人物です。

ムハンマドはイスラムの公式見解から言うと、おそらく、ユダヤ教から出発したのでも、キリスト教から出発したのでもありません。初期イスラムは商人のための宗教という性格が強く、もともとが政治・経済的な背景を濃厚とした宗教なのですが、この商人のための宗教という側面は、忘れられがちです。イスラムの教えでは、ムハンマドが天啓を受けイスラム教を作ったということになっているかと記憶していますが、天啓というのは、たいていは過去の経験に基づいた経験則をバックグラウンドにして、それが突如として本人の自覚もないままに、いきなり無意識から意識に上がってきたものにすぎません。他宗教からの影響関係を言えば、明らかにムハンマドはキリスト教ではなくユダヤ教から影響を受けています。イスラムに見られる食のタブーや割礼(ペニスの包皮を切り取ること)の儀式などは、ユダヤ教的な要素です。キリスト教がローマで成功した理由のひとつに、キリスト死後の早い段階で、「割礼は不要である」と宣言し、ギリシャ・ローマ文化になれた人々に安心感を与えたことが指摘できます。なにしろ、ユダヤ教徒の割礼の儀式はローマ人から見ると不気味な悪習であり、ユダヤ人が機を捕らえては奴隷、使用人、孤児などに割礼を施そうとするたびに、ローマから「割礼はユダヤ人の中で行うこととし、他者に強要することはあってはならない」という命令を食らっていたのです。

さて質問2についてですが、ムハンマドは勢力を拡大していく中で、既に精密に確立された教義を持つユダヤ教との論戦で、大苦戦をすることになります。ユダヤ教徒からは、ムハンマドは天使の概念を理解していないなどとの批判を浴びるわけです。ムハンマドは論戦ではなかなか勝てませんでしたが、商業・貿易などの社会的要素においては、ユダヤ教を圧倒することになっていきます。ムハンマド本人がどの程度自覚していたかは分かりませんが、彼からみたユダヤ教は、一神教としての純粋性が低いものであり、ムハンマドはそれを乗り越えることで、ユダヤ教・キリスト教・イスラムの中で、もっとも純粋な一神教を作り出すことになります。ユダヤ教は一神論だと思っている人も多いのですが、実はユダヤ教における神の概念は、神は1人しかいないというよりも、民族ごとに守り神がついているが、ユダヤ人についているヤーヴェこそが最強の神だという発想なのです。聖書の楽園追放の物語を読んでいると、りんごを食べた2人を見て、神々(複数形!)が、あ~だこ~だと議論しているシーンが出てきたりして、なかなか愉快です。
ムハンマドはこの不純物の混ざった一神教というユダヤ教の特性を一掃することにより、1民族のための宗教ではなく、あらゆる民族のための世界宗教へとイスラムを育て上げていくことになります。

ムハンマドから見た場合のキリスト教の欠陥は、偶像崇拝の禁止が徹底していないことだと思います。また、神にざんげをする場合、キリスト教ではプロテスタント系を除けば、ほとんどのケースで聖職者を通じて神にざんげをするのに対し、イスラムでは個人が直接神にざんげをするという原理によって、神と人間の対話(および契約)という性格が強いものになっています。あるフランス人キリスト教徒が書いた説に、イスラムの本質はユダヤ教の再興であるというものがあり、これはキリスト教徒の立場からすると、ある程度の正当性がある議論だと思います。

なお、ユダヤ教・キリスト教が共通して持っている問題点があるのですが、イスラムはこの影響を、ほとんど受けておりません。一神教の弱点のひとつに、「唯一絶対の創造主がいるのなら、なぜ世の中に悪などという不要で有害なものまで作ったのですか?」という質問に、正面突破では反論することが出来ないことがあげられます。ユダヤ教・キリスト教は、いずれも神と悪の最終戦争という思想をもち、前者においてはダニエル書、後者においては黙示録にその思想が表明されています。なぜ、一神教であるはずのユダヤ教やキリスト教に善と悪の最終戦争などという二元論的思考が紛れ込んでいるのかというと、おそらく、ペルシャのゾロアスター教の影響だと思います。ゾロアスター教は典型的な二元論的宗教で、神と悪の対立という概念を持っています。イスラムはこの、神と悪による最終戦争という思想を持っているようには見えません。それだけ、一神教の純粋性だけを見れば、イスラム教が最もすぐれた宗教だということになります。

ただ、現代社会においてはイスラムには悪習といわれても仕方がない要素が混ざっています。最大の問題点は、「目には目を、歯には歯を」という古い復讐原理に基づく刑法を、今に至るまで持っていることではないでしょうか。ムハンマドより以前のキリスト教や仏教でも、このような復讐原理は見られません。キリストは右のほほを殴られたら左のほほを殴らせろと教えました。仏陀は不幸の連鎖を止めない限り、涅槃への到達は不可能だと説いています。つまり、ムハンマド以前の段階ですでに、イスラム刑法の問題点が指摘されてしまっており、イスラム刑法はこの意味で、極めて非近代的で問題の多い法思想なのです。ヨーロッパ近代法の基本思想が、復讐の連鎖を止めるため、法権力の執行権を国家に一元化するという傾向を示し始めるころになると、ますますイスラム刑法の問題点が浮き彫りになってきます。非イスラムの現代人から見たら、イスラム刑法にたまに見られる、鞭打ちとか手の切断とかの処罰は、極めて残酷で非近代的なものに見えてしまうわけです。

偉大な宗教家として歴史に名を残した人は、えてして、単なる宗教家ではなく、政治的な能力でもすぐれていることが多いような気がします。そう、まさに今、チベットのために戦っているダライ・ラマ14世のように。彼は、インド、中国、米国、日本などの大国間の政治力学を利用してチベットのために戦っており、極めて社交的な性格であるうえに、ウィットに富み説得力のある話術を英語で使いこなし、世界中の世論を味方につける能力を持っています。

キリストの場合は、ユダヤ人国家がローマの属国であったという...続きを読む

Qキリスト教に初盆って?

2月に友達のお母さんが亡くなりました。
彼女はキリスト教を信仰していらっしゃいました。
(他の家族は信仰していません)
お葬式も教会でありました。
もうすぐ、仏教徒でいう「初盆」なんですが・・・
キリスト教にも「初盆」ってあるんですかね?
初盆参りは行ってもいいのかしら?
どなたかご存知の方、教えて下さい。

Aベストアンサー

 「記念日」という形で命日に集まったりします。
 お友達を励ますためにお見舞いをするのは喜ばれるでしょう。行ってもいいと思いますよ。ただし、盆提灯やお供えはないですから、悪しからず。

Q一神教のイスラム教、ユダヤ教、キリスト教の神は互いに悪魔をつくりだし、争いあっているのでは?

 言葉の存在を考えると、言葉全てに対象がなくては、存在できないこともわかります。存在するもの全てに対象が必要なのです。
 神が存在するのならば、その対象も必ず存在していなければなりません。神が絶対的善ならば、絶対的悪も存在することになります。
 絶対的悪とは悪魔のことです。悪魔の存在を無にするには、絶対的善の神の存在を否定して、無にするしか方法はないのではありませんか?

Aベストアンサー

こんばんは。
#8です^^ご質問ありがとうございます**
>>自分達の信じる神だけが善であるのですから、他の神は悪とし、それを滅ぼそうとして争いが生じているのではありませんか?

私は神様は一人しかいないと信じています。
それは、天地を創造し、イエスキリストをこの地に授けてくださった、父なる神お一人です^^
ですから、“ほかの神”はいないと思います。
ただ、事実、父なる神以外の存在を神だと考えていらっしゃるかたも大勢います。それはサタン故に、または人間自身の私欲によって生み出されたものだと思います。神様が戦われるのは、サタンであり、また人間自身の罪です。ですから、神様のご計画は決して人間を傷つけることではなく、その罪を滅ぼすことにのみおかれていると思います**
ただ、争いのほとんどが、人間自身の意思によって行われているものであり、またサタンの計画によって起きているのだと思います。全てが神様ご自身の御心によるものではないと思います***
神様がいるから争いが起こるのではなく、サタンの存在ゆえに、私たち自身の罪ゆえに起こるのです。
私たち人間の血が流れることを喜ぶのはサタンです。神様は私たちと共に心を痛めてくださっていると思います***

ご質問の意図とズレてしまっているかもしれません・・。お許しを!

こんばんは。
#8です^^ご質問ありがとうございます**
>>自分達の信じる神だけが善であるのですから、他の神は悪とし、それを滅ぼそうとして争いが生じているのではありませんか?

私は神様は一人しかいないと信じています。
それは、天地を創造し、イエスキリストをこの地に授けてくださった、父なる神お一人です^^
ですから、“ほかの神”はいないと思います。
ただ、事実、父なる神以外の存在を神だと考えていらっしゃるかたも大勢います。それはサタン故に、または人間自身の私欲によって生み...続きを読む

Q米国、もしくは英国のキリスト教の葬式

米国、もしくは英国のキリスト教の
一般的な人間のお葬式を見たいと思います。
それが含まれている映画。
もしくは、ネット上の動画、等、
ご存知でしたら、教えて下さい。
もちろん、実際のお葬式でなく
映画などの作り物で構いません。

Aベストアンサー

アメリカ映画、「マイ・ガール」がいいですね。
主人公の女の子の家が、なんと、立派な葬儀屋
なんです。結構長々と葬式の場面があります。
死者には、化粧を施します。なかなか楽しい
映画ですね。カールキン?が男の子です。
英語は大変聞き取りやすく、英語の勉強にも
なります。

Qイスラム教徒がクリスマスを祝い キリスト教徒がラマダンを行なう

年末にクリスマスを祝い、余韻も覚めやらぬ正月にはお寺(神社にも行くでしょうが)に初詣に行く。
一見奇妙なというか節操のない、日本人のこの習慣は、十七条憲法において聖徳太子が神道も仏教も同様に認めたことに端を発しているのだそうです。
先ほどプライムニュースで、堺谷太一だったか渡部昇一だったかが言ってたのですが、同じ理屈で、イスラム教徒がクリスマスを祝い キリスト教徒がラマダンを行なうようにすると世界平和に多少は近づきますか?
仮にそうだとした場合、宗教感は置いといて、取りあえずイベントとしてのムードを積極的に盛り上げることで実現できそうな気もするのですが、どう思われますか。

Aベストアンサー

一見奇妙なというか節操のない、日本人のこの習慣は、
十七条憲法において聖徳太子が神道も仏教も同様に認めた
ことに端を発しているのだそうです。
    ↑
聖徳太子一人が認めたから、といってそれで
日本人全体の行動が決まってしまうわけでは
ありません。
また、そんなことはあり得ないということは
おわかりになるでしょう。
日本人一般にそういう下地があった故の話です。
聖徳太子はそれを公認した、というだけです。


同じ理屈で、イスラム教徒がクリスマスを祝い キリスト教徒が
ラマダンを行なうようにすると世界平和に多少は近づきますか?
    ↑
宗教の違いで戦争が起こることは、現在では
ほとんどありません。
領土や資源が戦争の原因になっています。

これはカトリックとプロテスタントの争いに端を発した
30年戦争を契機に、顕著になりました。

EUは石炭と鉄鋼を巡る戦争を防止するための
組織が基になっています。

パレスチナ問題も、宗教紛争ではなく、領土の
争いです。

イラク戦争は石油戦争でしたし、アフガン戦争も
根底には資源問題があります。

シリアの内戦をはじめとする中東のごたごたも
一見すると宗教間の争いに思えますが、
実際は領土や資源です。

このように、宗教は直接戦争の原因にはなりませんが
間接的に戦争をやりやすくしている、ということは
あると思います。

パレスチナ問題にしても、同じ宗教なら、そう簡単に
武力に訴えたりしないだろうと思われます。

ということで、平和に近づくと思います。



宗教感は置いといて、取りあえずイベントとしてのムードを
積極的に盛り上げることで実現できそうな気もするのですが、
どう思われますか。
   ↑
時間はかかりますが、実現可能だと思います。
しかし難しいですよ。
ムスリムがクリスマスを祝う、なんてのは
想像もできません。
キリスト教原理主義者などは、進化論さえ否定
しています。
多神教である日本だから、そんなことが出来るのです。

可能だとは思いますが、そういう運動を展開してから
数百年掛かるんじゃないですか。

一見奇妙なというか節操のない、日本人のこの習慣は、
十七条憲法において聖徳太子が神道も仏教も同様に認めた
ことに端を発しているのだそうです。
    ↑
聖徳太子一人が認めたから、といってそれで
日本人全体の行動が決まってしまうわけでは
ありません。
また、そんなことはあり得ないということは
おわかりになるでしょう。
日本人一般にそういう下地があった故の話です。
聖徳太子はそれを公認した、というだけです。


同じ理屈で、イスラム教徒がクリスマスを祝い キリスト教徒が
ラマダンを行なうよ...続きを読む


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