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居合はあまり剣道のような試合がないと聞きました。
形ばかりで勝負試合がないのはどうしてでしょうか?
形稽古は仮想敵を切るとのことですが仮想敵は自分の思い通りに動いてくれる最良の敵。実際に剣術試合があったらそれで勝てるのでしょうか?
それとも居合は剣術試合の勝負などは念頭になくインナーマインドの追求が主体なのでしょうか?

A 回答 (9件)

アメリカで使える伝統空手と護身術を教えている者です。

 また、居合い道を「追加的人生の支え」としている物です。

居合いは真剣を使った物です。 剣道は「安全性を高めた棒」です。 まったく意味合いの違う物です。 剣道をやっている人がいくら「武道」と言ったところで「武道」を教えないわけですから居合い道と言う武道と比べることは出来ません。

真剣とはどういうものであるかまず考えてください。 もし誰かが包丁を持ってかかってきたらまず何を考えますか? 「切られるかも」とまず感じるでしょう。 もう少し実感できるように表現すれば、まな板の魚や肉と同じ「待遇」を受ける、と言うことです。

30センチも無い包丁を3倍もの長さに伸ばした物でかかってこられたらどう思いますか? それも比較的に軽い「切り方の自由」と「切れ味」を最大限に持ち上げた世界的有名な「武器」でかかってこられたらどう思いますか? 登山ナイフ、バタフライナイフ等とは比べ物にならないほど肉や骨をスパッと切れる刃物なのです。

竹刀ではとても「感じる」ことが出来ませんね。

今「感じる」と言う部分をフィーリングを高めるために括弧でくくったことに気がつきましたでしょうか。

居合いは「刀を決められたどおりに振り回す」剣舞を音楽無しに踊る、と言うことでは決してありません。

刀は「身を守る」為の物と言う奇麗事を象徴する物でも決してありません。 「わが身を守る」と言う事は単なる結果であって、刀を使うということは「相手を殺す」と言う事なのです。 お分かりでしょうか。

ここが私にとって、武道の真髄、と言う究極な面が居合いにはあるために、一撃必殺の空手道をより武道に近づけるために私は居合い道を始めたのです。

一撃必殺とは?の疑問をどれだけの日本の自称武道家は感じているのでしょうか。 崩しや捌きの必要性を論じる自称武道家は、その技術を最大限にきわめて「何をする」つもりなのでしょうか。 勝つため? まさかでしょう。

一人の人間をどのようにしたら簡単に「殺せる」かを追求し、ころしたいという人間の一面を満足させる物ですね。 お分かりですね。

私は奇麗事は奇麗事として「はっきり奇麗事を言う」ときもあります。 しかし、奇麗事は奇麗事としていわなくてはならないときがあるから「わざと」奇麗事を言うのであって、奇麗事を言って「武道」を何かすばらしいものであると飾り立てようとはしません。 

なぜなら、武道の醜い部分や人間的卑怯なことを隠すことは武道を理解してもらうことは決して出来ないと信じているからです。 今までこの100年、日本ではこの「奇麗事」が武道の真髄を壊したのです。 武道と言うものの理解が結局「奇麗事」になってしまったのです。

江戸時代の半ばになるまでに「武士道」と言う「奇麗事」を幕府が作り「幕府としての政策」として広めた事はご存知ですね。 それが今ではいかにも「武道」の一面として「武士道」を祭り上げているわけです。

そろそろ本題に移る最終準備をしますね。

冒頭では刀の攻撃を受ける側の立場を書きました。 今度は刀の攻撃をする方の立場になってください。

居合い道の型で見て分かるように、これは分かって欲しいです、人殺しを一瞬にして「空手の一撃必殺」より何十倍も高い確率で「達成する」事を動きとして何年もかけて習います。

なぜ何年もかけるのでしょう。 ただ、決められた動きに忠実に床から何センチ、体から何十度と習うわけです。 それが出来るようになるのに何年もかかるのだと居合い道は言っているのだと思いますか?

何かほかに「習うことがある」はずだといつか感じなくてはならないのです。 感じなくてはならないと教わらないと居合い道ではないと言うことでもあります。

すばやく抜刀し相手がひるむ前に「相手と言う名前の人間の胴を真っ二つに切り裂く」のです。 

空手で相手の頭蓋骨をスイカのごとく砕くようになるために何年もかけて自己能力を伸ばすのとはわけが違うのです。 刀を持って前に立っている人に「剣道」の「胴!」や「面!」をするわけです。 一日の練習で誰でも「刀で人を切り裂く」事は出来ますね。

この一分もかからない私の回答を読んでどう感じましたか? 刀と居合い道の「非人間的」行動が「実感」出来たのではないでしょうか。 出来なかったらもう一度読んでください。 そして感じてください、自分が刀を持ち相手が防御できないうちにすばやく相手を袈裟切りで相手の左鎖骨を切り次々と「ろこつ」を切り進んでいく感触を。

人の命を自分の手中に握っているのです。 刀を持つと言うことは、居合い道の武道の精神、つまり人間性を高めるわけです。

剣道では決して入り込まない・入り込めない領域に、空手でも入り込めない領域に居合い道は居合い家を連れ込むわけです。

迷いに引き込みその迷いから真実を求める「武道がする教え方」がここに「生きてくる」わけです。

人間を切り裂く動作をするたびに「自分との戦い」を作り上げているのですね。 

私の居合い道流派には十何年か修行を積んでから習う「いとごまい」と言う型があります。 人間である自分から一旦離れる事への認識をこの型で教えていると私は信じています。

一刀両断への世界に自分を入れて十何年たった今、もう一度人間性を考え直すための「旅路への出発を報告」するわけです。

人を殺すことがいかに簡単なことか、空手道も同じ武道として同じ観念を持っています。 私の流派では初段補と言うランキング形でそれをしています。

スポーツとして作り上げられた剣道や柔道では「試合をする必要性を感じさせない武道」とはまったく違うと言うことなのです。 だから試合は無いのです。 武道であるからても試合は無いのです。 試合はあくまでも「練習」の一環です。 私たちはその訓練方法を「組み手」と言う名前を使っています。

武道であるものをスポーツ化することで武道と言う領域から外れると言うことになるのです。 

一生自分を人間として向上させ続けることを教える武道と「人間ができる一部の事をする」スポーツではまったく違う次元のものであるわけですね。

さて、奇麗事をきれいな言葉で感情を壊さない奇麗事のままで書いた回答のほうがよかったですか? それとも、武道を理解していない人からこの回答を書いた私自身が批判されることの可能性を感じながらも書いたこの回答のほうがご質問に合っていましたか?

これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。  

この回答への補足

よくわかりません。私はルネッサンス時代のダガー&レピア剣術をしています。当時と同じ様式、同じの鉄の剣で先端はゴムで覆われていますがゴムをとり先端を砥げば背中まで刺し抜かれる威力です。我々は試合重視ですし、試合は安全面を重視した基準ですが、竹刀等は違い鉄の剣を持った威力は充分わかっているつもりです。おそらく刃引きの真剣並みにリアルで危険です。
我々の目的は、いや、武術をしている人の第一目的は相手に勝つことではないでしょうか?その後に自分に勝つとか存在を正当化さる理由がつくのではないかと思います。
「人と戦う」これは武術、武道の根幹です。
レピア剣では人間性を高めないが、居合刀であれば人間性を高める、その差は勝ち負けを凌駕したところにある。
もし、動きのわからぬ異国の剣士が剣を構えて襲ってきても、勝とうが負けようが関係ない。刺し殺されても自己の迷いさえなければそれでよい。ということでしょうか?
私は茶道の事を思います。茶道は「楽しく美味しいお茶を飲む」とこが本来はあるはずです。が、現在の茶道は堅苦しく、作法を間違えないかとおどおどし、出されたお茶の秋の良し悪しなどは対象外です。お客様へのおもてなしが何時の間にか「こうしなければならない」とルール化されています。そこに本来の「お客を歓迎する精神性」があるとは感じません。
同じように居合も「人が戦う」という根幹が見えないのです。

補足日時:2006/06/25 18:49
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この回答へのお礼

アメリカであればSCAはご存知でしょうか?私は日本で最初のSCAメンバーであり、CoartBaronを授かっています。
また、HACAなどは刃引きの西洋剣で試合をしますね。
私の理解が足りないのか日本人の体格と空手のご回答とでは武道について差があるように読めるのですが。

お礼日時:2006/06/25 21:36

Gです。

 訂正しておいた方が良いと思い締め切っておられなくて良かったです。

>私の居合い道流派には十何年か修行を積んでから習う「いとごまい」と言う型があります。 人間である自分から一旦離れる事への認識をこの型で教えていると私は信じています。



私の居合い道流派には十何年か修行を積んでから習う「いとまごい(暇乞い)」と言う型があります。 この日本語の表現の普通の意味だけでなく、人間である自分から一旦離れる事への認識をこの型で教えていると私は信じています。 型と言うものが動き以上の物を教えなくては「剣舞」と成り下がってしまいますね。 

型を「短い剣舞」ではないという人なら「なぜそうではないのかを少なくても原稿用紙10枚ぐらい書ける筈です」

ではまたの機会に。 
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Gです。

 補足質問を読ませてもらいました。

>よくわかりません。

分からなければ仕方ありません。 しかし分からないからと言ってあなたを見下げていると言う意味では決してありません

学校で6年間英語を勉強してきた人にI'm not a girlは「私は少女ではない」と言う意味ではないと私が言っても「分からない」と言われたら私としては「仕方ないです」と言うしかなのです。

言語と言う複雑な人間の考えを表現する方法を説明するにも武道と言う物がどういうものであるかを「理解できる基礎」がなければ私の言っていることが理解できなくても仕方ないのです。 理解できないほど武道と言う物がそれだけ何年もかけて理解できるようにならなくてはなりません。 逆を言えばその分だけ「洗脳」されていなくてはならないと言うことです。 これを、私の弟子ではない人に押し付ける気持ちはまったくありません。

武道を最終的にどう解釈し理解し、そしてどう自分に使うかはそれを教える先生の教え方によって決まってきます。

英語も武道も結局は人間が使う道具でありどのように理解し解釈しどのように使うかは人によって違ってくるのは当然のことなのです。

車ひとつとっても、これを通勤道具としてみている人もいるでしょう、また、週末だけのドライブのためと見ている人もいるでしょう。 通勤に必要とする車の運転をする人にとって週末に車でとライブすることを趣味と言う人の気持ちは理解しにくいでしょう。 これはお分かりですね。

武道と言う物をどのように解釈するかはひとつの考えを理解しない人、毎日使っていない人にはその考えは「分からない」と言う事になるのです。 

>私はルネッサンス時代のダガー&レピア剣術をしています。当時と同じ様式、同じの鉄の剣で先端はゴムで覆われていますがゴムをとり先端を砥げば背中まで刺し抜かれる威力です。我々は試合重視ですし、試合は安全面を重視した基準ですが、竹刀等は違い鉄の剣を持った威力は充分わかっているつもりです。おそらく刃引きの真剣並みにリアルで危険です。

柔道の技でも空手の技でも、更に野球でもフットボールでも危険度はいつもあります。 竹刀を、刃引きの真剣並にリアルで危険だ、と言うのであれば私の言っていることが分からないはずです。 (別にそれが悪いと言っているわけでも見下げているわけでもありません。)

>我々の目的は、いや、武術をしている人の第一目的は相手に勝つことではないでしょうか?

そう考える時期と言う物も武道の道にはありますね。 しかし私が言っているのは「相手に勝つ」と言うことを重要視するのであれば私が言う武道の理解は難しいでしょうと言うわけです。

>その後に自分に勝つとか存在を正当化さる理由がつくのではないかと思います。

私はそうとは思いません。 正当化するのではなく、武道をどのように自分を生かせるために使うか、相手に勝つだけが武道ではないはずだと言うことに気がつく日が必ず来るように教える先生がいるかどうかです。 正当化なんてする必要がどこにあるのでしょうか。 人を殺すことを自分の身につけた上にそれをどのように殺さないようにする技術を自分に身につけるわけですから。 

しかしこれが分からない自称武道家や自称師範は「なぜ人を築けることを教えるのですか」と言われてやっと「奇麗事」を言って自分が教えていることを「正当化」しているのをshizumoさんは見ているからこのようなコメントがあるのだと思います。 (だから私は故意に「奇麗事」と言う単語を使ったのです。 きれいに聞こえるだけの意味の無いその場限りの説明、ですね。)

>「人と戦う」これは武術、武道の根幹です。

そう思うのであれば私の考え方を理解することは難しいと思います。 昔のことではないのです。 今自分がやっていることは今のことだからです。 人と戦うことが「基になっている」事は否定しませんが、それを今の時代には通用しません。 通用するのは「護身術」の領域でしかなく、私のように、使える護身術をトレーニングの一部と教えるのであれば、この事は忘れてはいけない物であり、人と戦うだけでなく、一対複数、何でもあり、と言うような条件も入ってこなくてはならないと私は信じるわけです。 いつまでも「一対一」「ルールの下」と言う事をしていれば護身術を教えることはできない、ということです。

>レピア剣では人間性を高めないが、居合刀であれば人間性を高める、その差は勝ち負けを凌駕したところにある。

上にも書いたように、居合いを自分のためにどのように使うかがこの違いを持ってくることになります。

私は副業のために拳銃のトレーニングをします。 その中で速射も入っています。 腰のホルスターに入れたままで撃ったり、西部劇のように彫るスターから抜いた時点で撃つ事も入ります。 言ってみれば居合いの抜刀をした続きて相手を切ることに似ています。 さてこの拳銃の訓練を武道の一部とするかと言うと私はしているのです。 なぜなら私が私のためにそう考えるからであってほかの人のためにそう考えるわけでも拳銃流派を作り出そうと言うことでもありません。 しかし、それができないと言う理由はどこにもありません。 日本の武道を拳銃の訓練に持ち込んではいけないということは誰にも批判される物ではないはずだからです。

同じことがshizumoの「異国の剣術」に武道的思想を取り入れてもまったく問題の無いことなのです。 shizumoさんがどう考えるかによって変わるだけです。 今まで誰もやらなかったからなんていうことで自分の考え方を妨げること自体が武道に反することでもあるわけです。

>もし、動きのわからぬ異国の剣士が剣を構えて襲ってきても、勝とうが負けようが関係ない。刺し殺されても自己の迷いさえなければそれでよい。ということでしょうか?

いいえ、オレンジとりんごを比べることが出来ないのと同じように、「迷いに喜びを感じさせる」事と護身術として身を守るために負けないと言うこととはまったく違う物です。 

もう少しこの点を(私の)武道の視点から書きますね。 身を守るために勝つのか、身を守るために負けないのか、どっちを武道家として選びますか? この二つは私にとってまったく違うことであります。

>私は茶道の事を思います。茶道は「楽しく美味しいお茶を飲む」とこが本来はあるはずです。が、現在の茶道は堅苦しく、作法を間違えないかとおどおどし、出されたお茶の秋の良し悪しなどは対象外です。お客様へのおもてなしが何時の間にか「こうしなければならない」とルール化されています。そこに本来の「お客を歓迎する精神性」があるとは感じません。

これは表面のイメージと何十年も茶道をやってきた人との考えの違いがある例だと思います。 私は茶道は分かりません。 そして茶道の「本来の精神性」を十分感じることは私にとって難しいことだと思います。 否定はしません。 しかし、『「お客を歓迎する精神性」がある』と言う事を前提にしていれば、そして、作動の理解を向上させることで必ずその精神性を「自然に感じる」事はできると思います。

武道とはそういうものなのです。 初心者には教える必要が無いものの(丁度幼稚園生について書いたことと同じように)その教える根底にしっかりした武道の思想があればその幼稚園生を導くことが出来、いつかその幼稚園生はその根底を見出すことになるのです。 理解するのが難しいですか? 導き方が違えばその幼稚園生はいつまでも幼稚園生のままであったり、まったく違う方向へ導いてしまうことになりますね。 ここが、教えることが出来る指導員の重要性と言うものが浮かんでくるわけです。 残念なことに、この教えることの出来る指導員が少なくなってきたのが今の日本なのです。

>同じように居合も「人が戦う」という根幹が見えないのです。

居合いを「人が戦う方法を教えている」と言う理解と解釈であれば居合いをそのように見てしまうのは仕方ないし、それが見えなければその「根幹としての理解」とマッチしないわけです。

そして、根底に流れている物をみるにはそれをいつか見させてくれる先生の基で十分な幼稚園からの大学院までの教えを伝授してもらわなくでは無理だと言うことでもあります。 相対性原理の存在を認め心底から理解するにはそれだけの基礎学問が必要なのとまったく同じです。

職人の技術を理解するには出来上がったものだけをみてすばらしいと感じるのか、その職人と同じ道を歩く事でその職人の本当の意味でのすばらしさを感じ取るかの違いでもあります。 

経験してやっと分かった、と言う事はたくさんありますね。 それを今回のご質問への回答の一部としてください。

この回答をコピペしていつかまた読み返してみてください。 異国の剣術であろうと、職人気質であろうと、居合いであろうと、空手であろうと、それをどうあなたが自分の全身の中で育てるか、どんな姿勢で教わるのか、によって、自分なりの表面だけの(幼稚園生の)理解のままでいるか、それとも、何か自分の人生の中で「終わりの無い武の道」を作り上げているかに気がつく日が来るはずです。

「日本人の体格」への回答と今回の回答との差を感じると言うことはそれなりに武道の奥の深さと言う物を感じたと私は理解しました。 それとも、矛盾があると感じたのでしょうか。 もしそうであれば私の日本語にまずさがあったとしかいえません。 申し訳ありません。

>居合は剣術試合の勝負などは念頭になくインナーマインドの追求が主体なのでしょうか?

その人の修行内容と達成のレベルと教える先生の考え方でこの質問に対する回答は変わってくるでしょう。 流派ではなく教える先生が弟子を導くと言う証拠でもあります。 私は私の先生に会うことが出来たことを私の空手人生に、知識的幅を持たせたのではなく、更なる意味を持たせてくれました。 (皮肉とも思えることは小学校3年生になるまでその先生の家の前をまったく知らずに毎日通学に歩いていたのです。 そして、いつも通った歯医者が真向かいなのです。)

ではまたの機会に、
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もう既に答えが出ているかも知れませんがNo.4です。


私は、とあるきっかけに水鴎流(すいおうりゅう)の演舞を見ました。
水鴎流は居合道としての「道」、つまり、作法にとらわれず、剣術としての
体系を400年以上維持しております。所謂「居合剣法」と言う物です。
水鴎流は居合の練習にも打太刀及び敵を高段者がつとめ、初心者が業の
理合が掴めるようにしているのが特徴です。又、私が習っている流派も
居合剣法で、刀は鞘には収めて居りますが、抜刀の速さは水鴎流に
負けておりません。しかも相手が反撃してきたことを前提に型が出来て
居ります。この時は打太刀(敵)も用意します。
また、新陰流の参学圓之太刀、九箇之太刀のような物もあり、
居合では有りますが勝てるように出来ております。
こうなると居合の定義すら曖昧になりますが、居合でも打太刀(敵)を
用意することは有ります。ですが、基本的に昇段審査及び試合は演舞
となります。
尚、大東流、杖術に詳しい者によりますと、
1)敵の斬り掛かりをを裁いて束で水月を付く(杖道の「水月」)
2)そのまま左手を用いて打太刀の腕を頭より後ろに押し上げる
(こうされると押し返すことが出来なくなる、柔術的発想だそうです)
3)右手を刀の柄にかけ体全体を用いて抜刀
4)左手を外し、右手は柄に左手は峰に添え打太刀を押し斬る
このようにすれば勝てるそうです。これは新陰流の応用でもあります。
拙い説明ですが、やってみると解ると思います。
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居合は剣術試合の勝負とは趣きが異なると思います。



居合は屋内での斬りあいを想定しているものも多くあります。
どちらかというと、一太刀で仕留めることを前提としていますので、一太刀同士での試合ということにもなりますから、試合そのものが難しいのではないのでしょうか?

インナーマインドの追求は後世に付随してきたものでしょう。
初期の居合はやはり、斬ることを目的にしています。

いわゆる、現代剣道のように防具+竹刀のスタイルができる前は、剣術でも形稽古が中心だったはずです。
剣術でも、一の太刀で仕留めることを目標としていましたから、試合=殺し合い(死合=しあいとも表記されていたようです)であったということです。
殺し合いをせずに済むよう撃剣(防具+竹刀)が発達したとも聞いています。
『斬る』ことを前提としているのが居合ですから、試合をあまりしないのもうなずける話です。

以上、師範から教えられたお話でした。
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No.2です。

補足になります
江戸時代においては居合は武家のたしなみだったと記憶しております。
現代の居合道は確かに形式美を求めることに追求した流派が多いです。
例えば、血振り(刀で空を斬り刀の血を振り払う)の角度は45度、
その時の前腕と二の腕の角度は135度。納刀は三角納刀をしない、目付は・・
等きりがありません。
これらを黙々とこなすことで精神を養うのが居合の主眼と推測されます。
座禅みたいな物と解釈してください。
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剣術から剣道と居合道が抽出されたと考えれば、


両者を単体で捕らえ、剣術と比較することはとても愚かなことです。

武道とは、本来伝えられて来たものから、特徴を抜き出して体系化したものです。
実際に格闘する空手ですら、空手の持つ半分の技しか体系の中には入っていません。
柔道も禁止技があり、締め・押さえも限定的です。

剣道も然り。剣とは名ばかりの竹の棒で、斬るとは名ばかりの打ち合いを主とする体系。
居合道も然り。座った状態で敵と相対することなど皆無でしょう。

ですので、実際に剣術の試合をしたら、という仮定は全くの無意味です。
例えるなら、ニンジンとジャガイモと玉ねぎだけ揃えて、実際にカレーを作ったらおいしくなるの?と聞くようなものです。
カレーのルーがない。肉がない。いや、”ない”のではなく入れなかっただけ。
剣道は、カレーのルーと肉だけを揃えたもの。カレーっぽいけど、カレーにならない。カレーでなくてもいい。

剣術試合を目的にするなら、居合道など存在せず、剣術だけが残る。
居合道が存在するということは、剣術の試合など眼中にない、ということです。

この回答への補足

では、居合の目的とはなんでしょうか?
武術の基本は戦って負けない(あるいは勝つ)事だと思います。勝負そのものを放棄する理由はなんなのでしょう。
2の方の言われるように形式美を求めることに変わったのでしょうか?

補足日時:2006/06/23 08:13
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居合道の経験者です。


居合で本当に人が斬れるかは江戸時代から既に疑問視されていました。
戸山流居合のような「人を斬るために作られた陸軍の居合道」ならば
勝てるかも知れません。ですがそれ以外の流派で剣術試合で勝てるかと
申しますと何とも言えません。居合道は基本的に太極拳や茶道のような
者とお考えください。
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 居合いは真剣や木刀などで行うので、そんなもので試合をやれば怪我人は必ず出るでしょうし、死人だって出る可能性もあります。

。危なすぎるから試合がないのだと思います。
 射撃も人を対象に撃つ様な試合はないですよね・・・同じことだと思いますよ。。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
刀そのものが危険であるから試合がないとの事ですが、
では同じ重量とバランスの安全な試合剣があればどうなのでしょう。
外国のメーカーでそのような製品があります。
刀以外にもロングソードや様々な剣があり、売りは実剣と同じ重量バランス。安全。
金属ではなく、外側に衝撃吸収剤をまいていますので、厚みこそ違いますが。

補足日時:2006/06/23 08:08
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