ブルジョア自由主義は民主主義と対立するものだったと習ったのですが、
19世紀にトクヴィルが主張したアメリカの自由民主主義では
なぜか自由主義と民主主義がくっついてて、そこがよくわからないんです。
アメリカではタウンミーティングとか1832年の選挙とかで
民主主義が根付いたというのはわかるのですが、
自由主義はどこに見られたのでしょうか?
ご存じの方いらっしゃいましたら教えてください。m(_ _)m

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A 回答 (2件)

ド・トクヴィルは、デモクラシーは単独では危険だけれど、リベラリズムを加えることで安定する、と考えていたのではありませんか。


彼は当時アメリカでデモクラシーが急進化しつつあったことに危惧の念を持っていたことが知られています。新大陸であるアメリカでは、人の生活水準とか知的水準について、やや過分に「平等」が信じられていましたが、その結果として、多数の意見が少数の意見よりも正しいのだ、という風にどうしても素朴に結論づけられてしまいがちです。彼はその点をデモクラシーにおける「多数者の専制」として批判したわけです。(無論、その背景には、19世紀知識人特有の大衆の政治能力への不信があったのでしょうが)
つまり、彼にしてみれば旧来的な「少数者・独裁者による専制」ももちろん悪いが、かといって単純に流れやすい「多数者の専制」もまた困る、という考えがありました。したがって、このデモクラシーの弱点を矯正する手段として、社会にリベラリズムを加え、単一の意思が社会を貫徹しないように社会の多元化を図ったわけですね。(事実、この意味でトクヴィルはアメリカにおける宗教団体や各種結社など、自発的な協会組織の存在に非常に注目していた人でもあります)

ブルジョア自由主義は、例えばギリシャのように、私的な部分、経済的な部分を労働力たる奴隷に委ねることで、財産を持つ市民が公的な部分に政治という形でコミットできる、という仕組みが基本ですから、民主主義とはもちろん対立しますよね。
財産を持つ階級だけのものであった参政権がだんだんと一般民衆に拡大されてきたのが近代のデモクラシーの輝かしい成果です。ただ、選挙権を拡大すれば政治の質が低下する危険性もあるし、国政に関与する能力と時間があるものだけが政治に関与すべきだ、という批判は常に存在してきました。そのような中で参政権が拡大してきたのは、労働者の増加がキーになっています。
どんどん増加する労働者たちが社会への不満を蓄積させて、やがて革命という形で爆発しないよう、いわばガス抜きのために普通選挙が実施されてきた経緯があります。
リベラリズムというのは、近代国家の成立とともに、国家でも介入できない個人の領域を確保しようとして生まれてきたわけですから、労働者層の増加(特にアメリカで均質な労働層が増加した)ことは、リベラリズムの進展にとって大きな要素だったと思います。
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この回答へのお礼

詳しい解答ありがとうございます。感動しました。
トクヴィルは、「民主主義は多数者の専制」だが、アメリカで起こってきたその危険な流れは「自由主義の多元性」により中和できると考えたということすね。つまり「政治的自由主義は、独立後のアメリカには特別見られなかったが、トクヴィルが思想面に持ち込んだ」ということでしょうか?

また、普通選挙がガス抜きということは、実際は普通選挙は民主主義の現れではなくブルジョア自由主義的な政策だったということになるのでしょうか。

色々言いながら申し訳ないのですが、正直言って私にはかなり難しい解答なので、neil_2112さんのご解答を完全に理解出来たと言えません。とにかく後でじっくり見させて頂きます。ご解答ありがとうございました。

お礼日時:2002/03/08 23:47

貧富の差の拡大だと思います。


アメリカには、現在も文字の読めない大人がたくさんいます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。とてもよくわかりました。
お答え頂いたのは経済面での自由主義ですね。
よろしければ政治面での自由主義(ブルジョア主義)が見られる点についても
どなたかお教え下さると嬉しいです。

お礼日時:2002/03/04 12:33

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Q社会民主主義と自由民主主義

 民主主義には、
社会民主主義と自由民主主義があるようなのですが、
語感から何となくイメージは湧くものの、
違いを教えてくだされば幸いです。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 基本的に(むしろほとんど)NO.4の方の回答の通りだと思います。以下、もう二十年も昔の大学時代のうろ覚えの知識で補足を少々。

 民主政体(治者と被治者が同一である政治体制)に、二種あります。多数決により全てを決定できる絶対民主制と、多数決によっても奪うことの出来ない個人の権利や国家作用を認める自由民主制です。後者の、法律の限界を規定する規範を憲法と言うので、立憲民主制とも言います。
 なお、法律で奪うことの出来ない個人の権利を認める主義を自由主義と言います。
 形式的に「憲法」が存在しても、その改正手続きが法律と同じ(軟性憲法)ならば、絶対民主制ですね。必然的に立憲民主制の憲法は、改正手続きが法律より厳しくなります(硬性憲法)。共産圏は私有財産制を認めないので、絶対民主制になりやすいのでしたかね(うろ覚え)。日本は、基本的人権の保障・硬性憲法なので立憲民主制すなわち自由民主主義ですね。

 次に、自由を強調して「近代国家は、基本的人権たる自由権を侵してはならない」とすると、「競争に負けて死ぬ自由」というのも保障しなければなりませんね。このような近代国家の最も出発点的な国家間を自由国家観と言います。このときの国家モデルでは、国は徴税・防衛・警察だけしていれば良いと言うことになり(国家は出来るだけ手を出さないと言う意味で消極的国家観とも言います)、「小さな国家」でよいということになります。
 これに対し、自由国家観では競争に負けたものは死を待つのみであり、また競争も形式的平等になり(つまり既得権を持つ奴が有利なので実質的に不公平)、弱者に酷であるとともに、経済活動が却って沈滞してしまう不都合が生じました。
 そこで、自由競争原理にある程度制限を加える(実質的平等)と共に、敗者の生存を確保するため、自由権にある程度の制限を加えて国家が積極的に関与することを認める福祉国家観(積極的国家観)が生じました。社会民主主義とはこの福祉国家間を意味するものと思います。
 日本国憲法は基本的人権として自由権(内心の自由、表現の自由など)の他に、生存権(幸福で文化的な最低限度の生活の保障)を保障するので福祉国家観、つまり社会民主主義の国と言えます。
 もっとも、憲法25条をプログラム規定(つまり載せているだけ)との判例・実務ですので、極めて不完全だと思います。小泉政権では市場主義経済への指向が著しかったので、さらに自由国家観の強い政治体制になってしまいました。
 補足になってませんでしたか?やっぱり

 基本的に(むしろほとんど)NO.4の方の回答の通りだと思います。以下、もう二十年も昔の大学時代のうろ覚えの知識で補足を少々。

 民主政体(治者と被治者が同一である政治体制)に、二種あります。多数決により全てを決定できる絶対民主制と、多数決によっても奪うことの出来ない個人の権利や国家作用を認める自由民主制です。後者の、法律の限界を規定する規範を憲法と言うので、立憲民主制とも言います。
 なお、法律で奪うことの出来ない個人の権利を認める主義を自由主義と言います。
 形式的...続きを読む

Qいまの日本は民主主義というより資本主義ではないですか? 民主主義と資本

いまの日本は民主主義というより資本主義ではないですか? 民主主義と資本主義の2つの主義が両立して成り立っているのに、なぜ日本は民主主義を前面に押し出し、資本主義とは言わないのですか?

Aベストアンサー

たしかに民主主義は、資本主義の制約として働いています。しかし、資本主義の制約は民主主義でなくともよいわけで、聡明な独裁者がいろいろな制約のルールを作ってもよいではないかとも考えられませんか。

卑近な例では、進まぬ行財政改革や公務員改革に対して、現行の民主主義のシステムを嫌悪して政治のルールを破ったり無視したりしてでも新しい事態を作っていく首長が一部で人気を集めたりもしています。結果的に聡明であったかどうかは別として、このような国家的実験がいまのロシアで過去に行われたことはよく知られています。トップダウンで物事を解決していく政治システムとなっていました。

人間が行動するためには「正しい」とか「善」であるという意味付けとか、価値の付与が必要です。人を思いどおりに動かすという権力にも正統性が必要ですね。人が警察官の指示に従うのは法律によって警察官に権限が与えられているからです。為政者例えば総理大臣は日本で最も権威のある憲法に則って権力者となっているため官僚はその指揮に従います。法律は憲法に則って国会で決められたから国民はそれに従います。

しかし、何が正しいとか、善であるかは相対的なものであり、容易に判別できるものではありません。あなたの最愛の人が警官に追われてあなたの家に逃げ込んできました。警官が家の戸口に立ちました。最愛の人を守るためいないというのか。うそを付くのは悪いので警官に引き渡すのか。戦場です。人を殺したり傷つけるのは悪いのか。祖国を守るため、また横の仲間を守るため敵を銃撃するのか。

権力の正統性も同様です。その源泉は神であったり、自然法であったり、長く続いていることであったり、人民の総意であったりと権力者は自己の権力が正統であることを説明します。人民がそれを受け入れるか受け入れざるを得ないということであればなんでもよいということになります。

大衆社会になってからはメディア、うわさなどを巧みに使って人民にその気にさせるという作業が行われており、100人がそう言えばそれが事実か真実かとなってしまう状況ですね。ナチスなどが有名です。


そこで民主主義が資本主義の制約とか修正のために登場したというのではなくて、資本主義がもたらした国民の生活の状態、裕福に資産を持つ人や、雇われて仕事をするしか収入がない人、従来からの大地主や貴族などいろんな人があって、これ以上資本主義を徹底したい人や、なにも持たないので従う人、怖さを知らない人、このままでは没落してしまう人などいろいろな経済的立場として存在し、争議や内乱も含め政治的な主張や軋轢を繰り返かえすという状況が生まれたと考えます。

それぞれの国の歴史的背景、対立の勢力分布、対立の根の深さなどいろいろな要素があってなにも持たない人をどう取り込むかという解決の方法が、日本では働くしか収入がない人を政治参加に取り込む方法であったのではないかと考えます。

彼らを取り込む以上彼らの主張の一部を受け入れることとなり、結果資本主義の制約なり修正が生まれました。日本では、こうした修正した資本主義経済が発展したところ、国民が全体的にそれなりに豊かになってきたため本人の経済的立場というものがあまり気にされなくなりました。経済的立場からの発言や団結なども少なくなりました。この事態には宣伝の効果も大きいと思いますが、国民全体の所得が向上したのも事実であると考えられます。


近年の資本主義重視への揺り戻しは、小さい政府や規制緩和の動きとしてみられ、新自由主義的な政策と呼ばれますが、初期にも政府は何もしないほうがよいという考え方はありました。ワーキングプアというような現象を生み出しましたが、個人の責任をより強く吹聴することによって、社会の仕組みの変化により生じたものであるというという事実がぼかされているとも見えます。

働かざるもの食うべからずという言葉は聖書や旧ソビエト連邦の憲法の条文であり、また資本主義では持てるものは別に働く必要もないわけですから、自己責任というのは資本主義由来の言葉とは少し違うのではないかと考えます。

「持てるものが楽をして儲けて何が悪い。儲けやすいように変な規制なんか廃止しろ。わしが儲けた金に何で税金なんか払わせるのか。」そのように言ってはみもふたもありませんので、使い方や制度が悪いという問題を国民全体に啓蒙し小さな政府に誘導する必要があります。

大衆というものは、自分を自宅にプールがあるような人とは比較しないで、となりの人が海外旅行に行ったことをうらやましがるように出来ていますので、うまく不平不満をその人たちの身近に見つけてあげ誘導することが大切です。そうすれば結果的に投票者当人に不利益になることでも受け入れられます。

そこで資本主義は後ろに隠すべき物です。

たしかに民主主義は、資本主義の制約として働いています。しかし、資本主義の制約は民主主義でなくともよいわけで、聡明な独裁者がいろいろな制約のルールを作ってもよいではないかとも考えられませんか。

卑近な例では、進まぬ行財政改革や公務員改革に対して、現行の民主主義のシステムを嫌悪して政治のルールを破ったり無視したりしてでも新しい事態を作っていく首長が一部で人気を集めたりもしています。結果的に聡明であったかどうかは別として、このような国家的実験がいまのロシアで過去に行われたことは...続きを読む

Q民主党と自由民主党の大連立って自由民主党ってこと?

民主党と自民党が大連立し、谷垣総裁が首相になる可能性があるとありました。

結局、民主党は自分たちで駄目と判断し、自民党にくっつき、自由民主党になるのでしょうか?

Aベストアンサー

大連立は有り得ても、政党同士の合併はないでしょうね。
自民側としては、迅速な成立が必要な復興支援政策に無闇に反対するわけにも行かず、かといって賛成してばかりでは存在感が薄れるため、与党側に入り込んで存在価値を示したい、といったところでしょう。
非常時にはこうした大政翼賛会的な国会が必要だと思います。

大連立したとして、国民としては、どさくさにまぎれて変な法案が国会を通過しないように十分監視しなければなりません。

Q自由主義と民主主義の違い

日本国憲法において、自由主義と民主主義とはどのように位置づけられているのでしょうか?またその違いは何なのでしょうか?

言葉の解釈だけでいうと
自由主義=国民の権利、自由を最大限に保障しようとする考え方

民主主義=国民自らが政治を求めるという考え方

とありますがこれらは対立するのでしょうか、それとも次元が違う話なんですか?つまり自由主義の国と民主主義の国が存在するのか、自由主義でかつ民主主義であるという国が存在するのか、どういう使い方をするのかが疑問です。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

もう収束されているかもしれませんが補足まで。
それぞれの定義はすでにほかの方々がご回答されていますが,
憲法において,ということに絞ってみます。

「民主主義」は,日本国憲法前文に「そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来し,その権力は国民の代表者がこれを行使し,その福利は国民がこれを享受する」とあります。つまり,日本の国政は国民が行うものと明確に規定されています。

「自由主義」は第3章で規定されていることではないかと思います。すなわち,「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」(第13条)。中でも,例えば住居・職業選択の自由(第22条),財産権(第29条)では,経済活動の自由が明確に規定されています。

参考URLは憲法をオンラインで読めるサイトです。

参考URL:http://kenpou.jp/

Q自由主義と民主主義が共存できないとは?

安倍 晋三氏の著書に、「アメリカには、封建制度の歴史がない。生まれながらにして平等な社会が原則であり、…(中略)…だから自由主義と民主主義が対立することなく共存できた。」とあるのですが、裏を返すと、「封建制度で不平等な社会では、自由主義と民主主義が対立し共存できない」という意味に取れます。自由主義と民主主義が対立するとは、どういった場合をいうのでしょうか。どなたか教えてください。

Aベストアンサー

参考程度に聞いてください。私は阿部氏の書籍も読んだことはありませんので阿部氏の本意は分かりません。

まず、阿部氏の自由主義という言葉の意味ですが、おそらく古典的自由主義を意味していると思います。つまり、個々人の自由な活動の保証こそが重要であり、国の関与は極力少ない方がよいとする思想です。この古典的自由主義を徹底すると力のある権力者の発言が優先される世の中になります(力有る者が無理矢理力無き者を黙らせれば言い訳です。)。力のある者の少数意見が重視されれば、多数意見が重視される民主主義に反することになります。もっとも、米国の建国時のようにスタート地点が同じであれば特に力のある人もいないため、自由主義を徹底しても数こそが力となりますので、結果的に多数意見が優先される民主主義が成立します。

封建制度を一度経験してしまうと、スタート地点が人によって大きく異なりますので、人によって発言力に大きな相違が生じます。要は大多数を占める農民の意見より少数の侍の意見が重視されるわけです。このため、自由主義を徹底すれば力のある侍の意見が幅をきかせてしまい、民主主義が成立しません。

現在の日本は、国民皆平等主義を採用し地位という相違をなくした上で、累進課税や高い相続税という国の関与を通じて一部の国民に権力が集中しないようし、民主主義を維持しているのだと思います。

なお、阿部氏の意見に多少不満を言うと、米国は確かに建国時はスタート地点が同じであったかもしれませんが、今はすっかり金銭的相違がスタート地点から相違していると思います。総じて日本は民主主義を重視しており、米国は自由主義を重視している気がします。

参考程度に聞いてください。私は阿部氏の書籍も読んだことはありませんので阿部氏の本意は分かりません。

まず、阿部氏の自由主義という言葉の意味ですが、おそらく古典的自由主義を意味していると思います。つまり、個々人の自由な活動の保証こそが重要であり、国の関与は極力少ない方がよいとする思想です。この古典的自由主義を徹底すると力のある権力者の発言が優先される世の中になります(力有る者が無理矢理力無き者を黙らせれば言い訳です。)。力のある者の少数意見が重視されれば、多数意見が重視さ...続きを読む


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