これまでの質問に色々な方にお答えいただき、まことにありがとうございました。
しつこいようですがこれで最後の質問にさせていただきます。
もう一回だけおつきあいください。今回は単純な問いにします。
普遍性などないと否定する人に、もしも
「でも、生まれた人間は必ず死ぬよね。これは普遍的な法則ではないのかな?」
と聞けば、(普遍性否定派は)どう反論可能なのでしょうか?
※これまでの(前2回の)議論は全部いったん白紙にもどしてください。
したがって「宗教」や「神」や「数学」などという(錯綜しがちな)話題もいっさい
出ていない段階での素朴な問いだとしてください。
No.13
- 回答日時:
私自身は普遍性を否定する立場ではありませんが、普遍性を否定したくなる気分というのもなんとなくわかります。
「普遍的な真理」という言葉はたぶん、いろいろな場所で乱用されてきたのでそれに対する拒否反応みたいなのがあるのではないでしょうか。
例えば、奴隷の正当化。「黒人は皮膚が黒いから悪魔で奴隷として当然、これ普遍的真理なり」
はたまた、戦時中のプロパガンダ。「ドイツ人は野蛮人でフランス人は文明人。ドイツに対するフランスの戦いはこれ野蛮人vs文明人。これ疑いようの無い普遍的真理なり」
ここであげた例は非常にアホな例ですが、実際にあったことで、しかも当時は結構な大多数に、本気で「普遍的真理」と信じられてしまった。しばしば「普遍的な真理」っていうのは、暴力的に自分の主張を押し付ける際に使用されてきた言葉なのかとも思います。
特に宗教的感情が絡むと、えらく血なまぐさいことに。キリスト教が普遍的真理だ、仏教が普遍的真理だ、いやいやイスラム教こそ……、と言い出すともちろん互いに譲れない収拾のつかない議論に。
議論が可能になるためには、ある種の普遍性は必ず必要になると思います。
私自身普遍性擁護派です。
一方で、普遍性を否定する人を暴力的に排除する「普遍性」は、上に上げたお馬鹿さんたちと同じ、とまでは言わないにせよ、もしかするとちょっと似ているかもしれない、という思いを常に戒めとして持っていたいと個人的には思っています。
「普遍性手あか」論ですね。
そう言えば、最近気づいたのが、現代の経営学は「普遍法則」を立てません。
その代わりにハーバードのビジネススクールなどは3000から5000という膨大な量の
ケーススタディの蓄積があることで有名です。
ある経済学者とその理由について話したら、どうやらそれは
「マルクス(経済学)が過去にあまりにも普遍性を振り回しすぎた」
結果のトラウマのようです。
たしかに「普遍性手あか=トラウマ」説は根強いものがあるのは
承知しています。(事情があって、私がそれに気づき始めたのは
ごく最近です)
No.10
- 回答日時:
再度の5です
百尺竿頭進一歩。
正直、この言葉は知りませんでした。
とても勉強になりました。m(_ _)m
で、、どこかのサイト(此処?)で読んで、なるほど・・と想ったのですが、専門家とかインテリというのは、自分の専門範囲のことには詳しいですが、それ以外のことは何も知らなかったり、興味もなかったりするんです。ところが、この世はいろんなものが超複雑に絡み合ってできている縁起の世界なので、専門家というのは得てして偏った知識(偏見)しかないのだ。。。。という話を思い出しました。これが、いわゆる木を見て、森を見ずってやつなのかも知れません。
私も仏教にたどり着くまでは「精神論なんてくだらねーな」
「真理? お前はオームか」という人間でした。
でも、いろいろありまして、ようやっと、受信アンテナが伸びて、みごとに仏教を受信できる状態になったのでした。準備ができたのでした。
「生徒の準備ができると教師が現れる」とはよく言ったものです。
私の場合もみごとに現れました。
「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」ということわざがありますが、私のようにその意思、ベクトルがない限り、アンテナが出ない限り、それを受信することは困難だと思います。受信できるように説明してあげることは可能だと思いますが。
あと、お釈迦さまが説き明かしたのは自然法則(ダンマ)です。
公式のようなものです。
具体的にこれが原因でこうなって、このような結果が・・・という証明不可能な話ではありません。
証明不可能な話に説明責任を負わされても、それは不毛な議論なので、そういう話には沈黙したのだろうと想います。
で、気になったのは「普遍」と「永遠」を履き違えていないかという点です。
全てのことに低通する普遍の法則はあると想います。(無常、無我、縁起・・)
そしてそれを持ってして、永遠は無いと説かれているんです。
「永遠」を辞書で調べると、ある状態が果てしなく続くこととあります。
果てしなく続くということは、何の影響も受けないということです。
何の影響も受けないということは、それが単独・単体で成立するということです。
つまり「実体」を持つということです。
だからそのようなものはありえないということなんです。
全ては縁起であり、無我であるからです。
で、この宇宙が無くなって、また違う宇宙が誕生すればこの真理もその効力を無くすんです。
まあ、こんな話はご質問者さまには言うに及ばない話だと想いますが、もしかしたら、相手の方のイメージには「普遍」と「永遠」がごっちゃになっている可能性もあるのかな?と感じました。
この回答への補足
「百尺竿頭進一歩」のことばに共鳴していただいてありがとうございます。
百尺とは、目に見えるものさしの象徴のことですね。
ところが「普遍性」をはじめとしていわゆる「形而上」=「形にならないもの」を論ずるときには
そもそも目に見えるものさしは、あてにならないわけです。
ところが、私たちはルネッサンス以後の科学精神がしみついていて
知性を、目に見えるものさしではかることだと、どこかで勘違いしてしまっています。
それが、(通常の、目に見える知性の分野では)かなり知的な人間なら(つまり百尺竿頭の頂上近くにいる人間なら)
当然ながら、形而上のことも理解できると買いかぶってしまい、
そこで(期待との)誤差が生じるのかもしれません。
こちらがサッカーの指導者だとして、相手が初心者なら(仮にダンスでは上級者クラスでも)
そもそもサッカーの高度な技術を一気に要求もしないし
したがって腹も立ちません。
つまり形而上のことと形而下のことでは知性計測の基準が
違うことが、すべての行き違いと摩擦を生む根本原因であるということです。
みなさんがたには3回も手を変え、品を変え、しつこく
おつきあいを強要しましたが、どうやら解決のいとぐちが見えてきたようです。
まことにありがとうございました。
No.9
- 回答日時:
>「すべての結果には必ず原因がある。
」>というのはどうでしょうか?
仏教哲学的には(おそらく)正しい理論ですね。通常は反論を思い付かないでしょう。
でも「宇宙ができた、という結果の原因は何か?」とか問われた場合はどうでしょうか?
「ビック・バンだ」と答えた場合、「ではビック・バンが起きたという結果の原因は何か?」と問われてしまいます^^;そんなもん誰も知らないですよ・・・?
原因の原因の原因の・・・って遡って質問されたら不利になるのは明白です。
アナタが折角思い付いた包括的な命題「すべての結果には必ず原因がある」は普遍性の存在を証明したいのでしょ?普遍性を否定するのに個別事例を持ち出すのは常套手段なんですから、あえてアナタから命題を出す必要は無いのです。「すべて」は無数の「個」から成り立つのですから・・・。
ミリンダ王とナーガセーナの問答(車のたとえ)が参考になるかもしれませんね。もしご存知なら申し訳ない(参考URLをご覧下さい)
要するに、証明責任を相手に押し付けた方が勝つんですよ。(我ながら汚いとは思いますけどね、でも相手が認めないんだから仕方ないですよ・・・)
参考になれば幸いです。
参考URL:http://www.manduuka.net/i/p/r/milinda/mi11.htm
No.8
- 回答日時:
「例外の無い法則は無い、この法則にさえも。
」と、いう一言に集約されてしまうのではありませんか?
「全てに普遍性はない」と言う人は自己矛盾を抱えてしまうのです。
普遍性を絶対否定する人は『「普遍性は無い」という「普遍性を持った」ルール』に縛られているのですからね。
相手の主張を認めた瞬間に相手の主張は崩壊します。
なので『「普遍性は無い」という主張に普遍性は無いのかな?』という質問をされてみてはいかが?
P.S.
もしアナタに誤りがあるとすれば普遍性を論じるのに個別の事例を持ち出した事です。(人が死ぬ事は普遍性があるように見えて、人の定義や死の定義が曖昧なので普遍性を持たないのです。最後の細胞の死滅を死とするなら臓器移植をした場合はどうなる?とか例外は幾らでも思い付きますから)
なるほど、個別の事例には必ず反論可能ですか・・・。
うーーん。それなら
「すべての結果には必ず原因がある。」
というのはどうでしょうか?
No.7
- 回答日時:
#6です。
お礼の書き込みありがとうございました。
ごめんなさい、売り言葉に買い言葉みたいになってしまいますが・・・・・
>「ああ、普遍的真理ですね。それはないんだよ。」 と、堂々と「断言」できる人間のことなのです。そうして「断言」できる人間の根拠と、「心理状態」とは何か?
それはないんだよ、という人間の心理状態という前に、「普遍性はある」と断言される(少なくともその前提で話をされる)質問者さまの心理状態は??という疑問があるのです。
ですから「ある」というほうを先に証明すべきではないか?というのが、私の申し上げたいことなのです。
No.6
- 回答日時:
>「でも、生まれた人間は必ず死ぬよね。
これは普遍的な法則ではないのかな?」生まれた人間は死ぬ・・・というのは、人類史上、経験的にみんな死んできたというだけで、これからもずっと「人間は必ず死ぬ」ということの証明にはなりません。
よってこれは普遍的な法則とはいえません。
※ちなみに私は普遍性を否定しているわけではありません。
物事は「ある」ことを証明するのは簡単ですが、「ない」ことを証明するのは難しいのです。
ですから、「普遍性否定派」とおっしゃいますが、別に否定しているわけではなく、「あるとはいえない」ということなのではないですか。
「机の上にリンゴがあるよね」と言われても、自分には見えなかったら、「いえ、ないですよ」と答えますよね。
いきなり自分から「机の上にリンゴはないです」と言う人はいません。
今回のご質問もそうですが、質問者さまの方から「普遍性はあるよね」と話を振ってきたのです。
否定派の方から「普遍性はないですよね」と言っているわけではないのです。
質問者さまが「普遍性はある」という前提でお話をされているから、「いえ、私はその確かな証拠を見たことがありませんけど」と答えるしかないのです。
はい。eppさんのような、厳密さをもって
「いや、生まれたものが必ず死ぬというような自明に見える命題さえ普遍的に真であるとは言えないのだ。」
と言うのなら、それはほとんど絶賛に値する知的態度であって、真のインテリです。
したがって議論が紛糾することもありません。
今、問題にしているのはそうではなくて
「ああ、普遍的真理ですね。それはないんだよ。」
と、堂々と「断言」できる人間のことなのです。
そうして「断言」できる人間の根拠と、「心理状態」とは何か?
ということが不思議でしょうがないのです。
ご回答ありがとうございました。
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
理解できないのではなく、理解しようとしてないのだと想います。
だって、理解しようと本人がその気になったら、たいていのことは理解できると想うんです。(健常者なら)
仏教では「愚者」といいますよね。
人間は生まれから「愚か者」という性質を持ち合わせているという意味です。
なぜならば、我々の生みの親は因縁、つまり混沌であり、不安定だからです。
で、なんとか不安定な心を、安定させるためにタバコを吸ったり、酒を飲んだり、戦争をしたりしてるんです。
その中には間違った考えに固執するということもあるんです。
生贄を捧げたり、体に穴を空けたり、舌にピアスを入れてみたり・・・・それがなんであれ、そのようにすることで満足するのであれば、それは正当化されてしまうという傾向があるんです。
たとえば、タバコ好きの人は、タバコを一生懸命擁護します。
身体に悪いとわかっていても、なんとしてでもタバコを擁護するんです。
なぜならばタバコによって満足を得ていると錯覚しているからです。
そうやってなんとしてでも心の安定、満足を無意識に求めてしまうことを「渇愛」ということは釈迦に説法だと想います。
でも、ちゃんと説明してあげて、その気にさせてあげれば、きっと理解できると想います。また理解できる段階(心のレベル)に達していないという場合もあると想います。理解できるだけの安定が無い、胎ができていないのかも知れません。
「無知の知」という言葉がありますが、自分の能力に溺れている人は、自分が無知であることにも気づけなかったりするんです。仏教でも「自分が愚者だと気づいたら、もう愚者ではない」と経典にあります。
絵画の上手な人は、絵を書くことだけが好きで、それだけに夢中になってしまって、実は対象を全く見ていなかったりするのではないでしょうか。哲学の世界でも哲学することだけが上手で、実は、全くの戯論に終止している人もいると想います。
だから結論としては「愚者だから」ということになります。
自己正当化のための必死の思い込みですね。
直感的にはそうなんだろうと思ってはいます。
ただ、「普遍性否定派」は割合にインテリが多いんです。
したがっていわゆる「常識」がうそであることを暴いたり、論じたりするところまでは
話がとんとん拍子で進むのです。
(しかも本人にはインテリだという自負もあります)
だからこそ、もう一歩のところがなぜ分からないのかが
不思議でしょうがないのです。
禅で「百尺竿頭進一歩」と言いますね。
やっぱり最後の一歩は、ものすごい差なのでしょうか?
丁寧なご回答、ありがとうございました。
No.4
- 回答日時:
s_husky です。
ウーン!
通じなかったようですね!
哲学的な普遍性を問題にするのに熱エネルギーを持ち出しても???
ということです。
「普遍的な秩序は存在しないという法則」
と
「認識における普遍性と相対性の問題」
は、次元が異なっているということですよ!
えーーーと。物理学というものも現代では
「物理学」「応用物理学」「熱力学」のように
多岐に分かれていますが、本来(ギリシャの昔のような)は
ものごとの成り立ちの本質を考える学問として「哲学」だった
わけです。
その根源の部分を問い直ししているのだと思ってください。
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