
「西行は出家の際に、追いすがる子供を縁側から庭に蹴落とした」という話を聞いた覚えがあります。
現代的な視点からすれば、仏門の修行以前に人間としてダメじゃないかと思うのですが、どうもこの話は仏教の世界では肯定的に捉えられているそうです。それにどうも疑問を感じずにはいられません。
ウィキペディアにも詳しく載ってないし、白洲正子「西行」にも詳しく書かれていません。
西行の「子供を蹴落としたエピソード」の内容や背景と、その行動が肯定的に捉えられている理由について教えてください。お願いします。

No.2ベストアンサー
- 回答日時:
1です。
そして、物語の作者としては、ここで読み手の涙を期待しているわけですね。子供を持つ親なら、子供を気の毒と思うと同時に、西行の内心つらい気持ちの両方が分かると考えてねらってきているわけです。
なお、この縁から落とすというエピソード自体は、簡潔ながら沙石集にもあるそうで(物語が先か、沙石集が先か分からないみたいです)、13世紀末には一定の事実として認識されていたであろうと、学術文庫の解説にはあります。

No.1
- 回答日時:
その話は、『西行物語』(鎌倉中期成立)に出てきます。
講談社学術文庫から全訳注が出ています。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061584979/sr …
まずそのエピソード自体が、おそらく歴史的事実ではなくて、仏教的価値観に基づいて作られたものです。
仏教的価値観というのは、家族ですらも迷いの元、執着の元となる、だから捨てなければならないという価値観です。
現在の我々には、そのままでは首肯しがたい価値観かもしれませんが、愛というものが時に嫉妬を生み、あるいは憎しみに転換し、愛のために他者との闘争や戦争にまで発展することも考えると、仏教的世界観の言うことも理解できる部分はあると思います。
とにかく、当時の仏教的価値観に則って、物語は作られたと見るのが妥当でしょう。
ですから、
>どうもこの話は仏教の世界では肯定的に捉えられているそうです。
これはある意味当然ですね。
実際に蹴飛ばしたと見るのではなく、子供への執着を泣く泣く断つ話として理解してください。物語でも、子供をいとおしく思うけれども・・・という趣旨になっていますし、他の部分でも残してきた我が子を思う箇所は出てきたと思います。
歴史的事実の可能性が全くないか、厳しく諭したことくらいはあったかもしれませんが、かなりオーバーに書いていることは間違いないと思います。
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