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「心」って何ですか。
脳ですか。体の一部ですか。

体から離れることのできる「心」が、別のところにあるのですか。

「我思う ゆえに 我あり」の「思う」をしているのは、どこですか。
うれしい悲しい淋しいと「感じる」ことをしているのは、どこですか。

A 回答 (17件中1~10件)

#13です。



「心って何?」について、最も重要なことを書き忘れていました。
忘れた理由? 多分、ご質問が「哲学」のカテでなく、「心理学」のカテだったため、と人のせいにさせていただいて...

最も重要なこととは? それは、「心」は「全ての創造の源泉」だということです。

このことがないと、そもそも何故我々が生きているのかの「意味」がわからなくなってしまいます。

そこで、「心って何?」の回答を改めて書かせていただくと、


心とは、この世界という「こと(情報)」の束が現れる「場」であり、全ての「創造」の源泉です。


この世界は固定された「物質的秩序の繰り返し」ではなく、日々新たに創られていくようなものです。「物質的秩序」からの「精神的自由」こそが「心」の原初的な衝動だと思います。「物質的秩序」というのは、文字通り物理的・肉体的秩序(制約)を含みますが、それだけではなく、人間自身が生み出した制度や道徳や常識などの無形の秩序も含まれます。それらからの「精神的自由」を確保して、「日々是新た」を生み出すのが「心」が持つ「創造」という運動だと思います。

何故、「心」はそのように「できている」のか? 何故なら、

「世界<外なる世界と内なる世界の両方>は”課題”として心に現れる」からです。

”課題”として現れるとは、どういうことか?

こうなって欲しいのにこうならない。
あーなって欲しいのに、あーならない。
どうなって欲しいかわからない。

ということです。

もし、世界が「課題」として「心」に現れないとすると、それは、何を意味するのか?

それは「精神の自由がない」ということです。すなわち、自動機械であるということです。物質的秩序に従うということです。きちんと管理されたロボットとして生きるということです。

世界が課題として「心」に現れることによって初めて、「精神の自由」の可能性が生じます。すなわち、物質的秩序に従うのではない新たな「創造」の源泉になるということです。

何故、「私」は「私」であって、「他の人」ではないのか(「私の心」が他の人と分離されている理由)?
それは、そうなっていることによって、「私」の特異性、唯一性を確保できるからです。

もし、「私」の特異性、唯一性がなければ、「私」の「創造」ということもなくなります。「私」の人生の意味もなくなります。「私」の特異性、唯一性があるから、64億人の人に、64億の人生の意味があるということです。

これは”特異性、唯一性”は意識的に確保する必要がるというような道徳論ではありません。意識的しようがしまいが、”特異性、唯一性”はいやでも確保されるように「心」のありようが初めからそうなっているということです。

こんな感じです。

そして、私が「すごいなぁ」と思うのは、以上のようなことが、決して、我々が意図してそうしたのではないということです。「そのように出来ちゃっている」ということ、これが、私は「すごいなぁ」と思います。
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この回答へのお礼

たびたびありがとうございます。どこまで理解できたのか不明ですが、再び感激しました。
ごちそうさまです(+合掌)。

すみません、哲学の知識がないので、(なるべく自粛して)感覚で書きます。
ここは「メンヘル」のカテではなく「心理学」のカテなのですが(笑)、私はメンタルわずらいです。
自分感(?)とか当事者感(?)が著しく希薄です。精神的卒乳が出来ていない、とも言います。
>「物質的秩序」からの「精神的自由」
:これを得るのが回復だと言われています。
「『物質的秩序』からの解放」という願望を消せるわけないのに「物質的秩序」にしがみついている、
とも言います。「心」が怖くて消そうとしていたとも言います。
実際、少し前まで、自分が生きていることを理解できず、自分はロボットだと思っていました。
自分はラジコンカーで、操縦する人(物理的・肉体的秩序+人間自身が生み出した制度や道徳や常
識など)がいないと動かないものだと思っていました。今は、ようやく「解放される願望」を受け
入れる訓練中で、まだ「心」が自分に馴染んでいない感じで、よちよち歩きなのですが。
>日々新たに創られていくようなもの
:私は今のところ「日々是喪失」という感覚の方が強いです。
>特異性、唯一性
:すみません、うまく実感できないのですが、当たり前に、もともと持っているということですね。
私は、「物質的秩序からの解放」という願望が、消えないで(消えるわけないですね)、ちゃんと病
気になったことを、すごいな~と思います。

以前、「17歳のカルテ」という映画(ご存知ですか?)の中で、アンジェリーナジョリーに「どう
して殺してくれないの?」と言われて、ウィノナライダーが「とっくに死んでるからよ。あなたは
心が死んでるわ。」と答えるのを見て、「私のことか?」「心って何?」と気になっていました。

とても参考になりました。長くてすみません。ありがとうございます。

お礼日時:2006/09/20 13:40

あまり書き込み過ぎかなっと思いましたが。



宗教だと悟とか「難しく考える」から、だめなんじゃないんでしょうか、羅針盤ない答えのない人生を手探りで生きてて行く。

事実、羅針盤・答えがないと思いませんか、そんな宗教・哲学あると思われますか。 人間はきっと脳が発達し過ぎたため苦しみに耐えかねて、絶対的な救い或は神を求めるように成ってしまったんでしょね。そんなの無いですよきっと。   親鸞聖人は「煩悩具足この身」悩みをもって人は生きるものだと、おしゃってるじゃないですか。   親鸞聖人はお年を召してから煩悩ますます盛んなりと。    晩年の2,30年は京都に戻られ過ごしたみたいですが当時は大飢饉であり食べていけないので、奥様と離れ離れになり苦労されたみたいです。目を覚ませば餓死による死体がごろごろ、奥様に付き添った手伝いの者も餓死の為に死ぬ。直筆も残ってる見たいですよ。

禅の老師の所に身を置かせて下さいっと言った女性が、10年後に老師もう駄目です疲れました、老師はもう10年辛抱しなはれ(しなさい)それからまた、10年女性はもう駄目です、老師はまた、もう10年辛抱しなはれ。人生とはこんな物かもしれませんね。

その老師のもとに悩みを抱えた方から手紙がきました、老師は返信しなかったそうです、後日其の方から無言のお諭し有難うございますと手紙が届いたそうです。(助言した所でその時は気は休まるでしょが、また人は悩むのでしょうね)

ある禅の人が迷った時はどちらでもいい言ったそうです(答えは無いからでしょうね)

質問の「こころ」とはと、回答が相当それたみたいな書き込みに成ってしまいましたが、なにか貴女は悩んでいるような気がしますから書きました。

  ただ、そのまま前進。
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この回答へのお礼

たびたびありがとうございます。

親鸞聖人のそのようなエピソードは知りませんでした。
親鸞聖人に興味を持ったのは、「人生の目的」「よくぞ人間に生まれたものぞという生命の
大歓喜」「最大の恐れから解放される感覚」などを「分かりたい」と思ったからです。

私は宗教には明るくないのですが、私の印象では、(めちゃくちゃ大雑把な解釈ですが)
たいていの宗教は「自分を愛しなさい他人を愛しなさい人間を愛しなさい」というような
ことを言っているように思います。

私は、悩んでいないわけではないのですが、考えたり、試行錯誤したり、右往左往したり
「せざるを得ない」人間くささも、無視しなくてもよいのではないかと思います。

お礼日時:2006/09/19 22:59

 心霊科学(スピリチュアリズム)からすれば、「たましい」ですね。



 自然科学的に一番突き詰めると、この本に書かれているような結論になるかと思います。非常に面白いです。

 ただ、一言では言えません。興味がおありなら読んでみて下さい。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121016 …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/19 10:40

30代初の女性が面白い事に興味を持たれますね(笑



浄土真宗の方ではよく他力本願(阿弥陀様にお任せする)っていいますが、世間一般では物事を人任せにすると思われがちですが、心が他力本願であるようですよ、禅も真宗も宗教ですから人の((苦しみ(心))を問題にし、解決を図ろうと・・・でも結局解決できないんでしょうね。禅は心に用事なし・真宗は心の問題は阿弥陀様にお任せする。ちなみに南無とは帰依する平たく言いますと従います阿弥陀仏とは真実平たく言いいますと事実。  川の流れはあるがままです風もあるがままです、川・風は分別しません(笑)人間は分別していますうんですよね、そう進化してきたんでしょうけど、分別するから苦しみなんですよねきっと、座禅しあるがままに成りますが座禅が終ると分別
の世界に戻ります(不安の世界)、だから、心はどうする事もできない。心の用事なし 阿弥陀のお任せ、それしかないのでしょう。  少し質問にそれたかもしれませんが、再度おじゃましました。一期一会です。(笑)
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この回答へのお礼

再度お付き合いいただきありがとうございます。
すみません、たぶん、ご回答を、ちゃんと理解することは、できていないと思います。
親鸞聖人の教えを解説したものを少し読んだことがあり、言語で説明された「他力本願」という言葉の意味は、理屈的には理
解していると思います。ただ、正直、実感として「分かる」ことはできませんでした。
「分かりたい」と申し上げましたが、煩悶をなくしたいとか楽園で暮らしたいというわけではありません。
今どきのメンタル系の書籍やサイトに、よく「あるがままを受け入れる」と書いてあるのですが、私の申し上げた「分かりた
い」はそれに近いと思います。私が「痛い・悲しい・ムカつく」と感じることを受け入れ、「川や風のようにあるがままでいた
いと思っているとういことを受け入れ、でも受け入れられないことがあるということも受け入れ、「結局解決できない」という
ことも受け入れたい、というとでした。それが努力でできることなのかも「分からない」し、できるとしたらどんな努力をし
たらよいのかも「分からない」ので「何が分かりたいのか『分かる』のが難しそう」と感じました、ということでした。
個人的感想になってしまってすみません。

お礼日時:2006/09/17 16:00

#11です。



回答を、もっと思いっきり単純化してみました。(^^)

この世界は3次元空間に置かれた物質の集合などではなく、「情報の束」です。
その「情報の束」が具体的なイメージに変換される「場」が「心」です。
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この回答へのお礼

お礼を書いている間に新しいご回答が(笑)。たびたびありがとうございます。
この世界は「心」が生み出した「イメージ」の集まり、という感覚がかなりつかめたと思います。
ありがとうございます。

お礼日時:2006/09/17 13:12

「理屈(智)では解らないもの」を「解ることができる」ところも、体の一部ですか。

←たぶん違いうんじゃないでしょうか、禅の雲水が座禅されるとき一瞬色々な囚われ(分別)から離れます、それが本当の自我或いはあるがままの世界と一体になるになる(一体である)。

喜怒哀楽・考え・分別・心(世間一般で言う心です)は、あるがままの世界(本当の自我或は超自我)から出てくる。そこを感じるのが悟(平たく言えば分かった)ではないかと、わたしは思います。

人の身体でも、内蔵・髪の毛等々自分の意志でありませんよね、あるがままで有り、死もあるがまま、生まれて来たのもあるがままです。

禅の救いと何かですが、あるがままの世界(本当の自我或は超自我)から、喜怒哀楽・考え・分別・心(世間一般で言う心です)が勝手に表に意識としてに出てくるんじゃないんでしょうか、自分の意志で無いんでしょう、俗にいう、生かされている。これはあくまでも私の意見です。
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この回答へのお礼

ふたたびお付き合いいただきありがとうございます。
「答え」が分かったのかどうか分からないのですが、参考になりました。
>色々な囚われ(分別)から離れます
:この感覚、経験してみたいものです。「分かりたい」ものです。
「分かる」のはとても難しそうですね。
「何が分かりたいのか『分かる』こと」が難しそうですし、「あるがままを『ちゃんと見る』こと」が難しそうですし。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/17 13:30

#7です。



>世界が現れる「場」・・・「世界」は「もの」の集まりではなく「こと」の集まり・・
>名前を覚えてそれに関わってそれについてあーだこーだと感じたり思ったりする営みの集まりってことですか。

「心」がどうやって、外界の「もの」を認識するかを考えるとわかりやすいかも知れません。

我々が外界の「もの」、例えば、リンゴを見たとき、「それはリンゴだ」と「心」が納得するしくみがどうなっているかを考えてみます。「心」はリンゴを直接感知して「それはリンゴだ」と判断するわけではありません。実際は、リンゴの視覚的情報が目に入り、目の視神経がその情報を捉え、それを脳に送り、脳が総合的に情報を処理して初めて「それはリンゴ」だと「心」が納得します。ここで重要なことは、外界の「もの」の情報は、「心」に直接伝わるのではなく、一旦神経を通って脳で処理された後に、初めて「心」に伝達されるということです。

乱暴な譬えですが、人間の神経は電気の信号線のようなもので、脳はその信号線が繋がっているコンピュータ(CPU)のようなものです。コンピュータの信号線と同様、神経も1,0の2つの値(興奮しているか弛緩しているか)で情報を伝えます。要するに、「心」は、直接「この世界」を知ることはできない。「心」は「2進情報」を通して間接的にしか「この世界」を知ることができないということです。これは、視覚だけの話ではなく、五感全てにおいて言えることです。

さて、この世界は3次元空間でできていて、そこには、大きさ、形のある「もの」が存在していると、「心」はどうやって納得したのでしょうか? それは、神経から伝達される「2進情報」を脳が処理した結果を貰って、「心」がイメージとして作り上げたということになります。言い換えると、この世界の実体は、実質的には2進情報でしかなく、この世界が3次元空間とその中に置かれた「もの」の集まりであるという認識は、「心」が生み出した「イメージ」であるということです。従って、この世界は、「もの」の集まりではなく、「情報」の集まり、あるいは、むしろ、刻々変化する「情報」を生み出す「こと」の集まりと考えることができます。

>先に「心」があって、「心」が脳を見て云々しているということですか。

脳は「心」という「場」に、この世界の情報を伝える「通路」だと思います。「通路」が破壊されると、譬え「心」という「場」は残っていても、この世界の情報が全く伝わってきませんから、何も感じることはできなくなります。要するに死んでいる状態になります。

>「論理空間上」にある
>これを、「ある」と実感して確信することはできないものですかねえ。

「論理空間上」にあると確信するには、逆の発想で、「3次元空間上」にあるというのは「心」が作り出した「イメージ」に過ぎないと確信(?)すれば、良いのではないかと思います。論理的には間違いないと思いますが。

それと、もう一つ、おもしろい考え方があります。
それは、ずばり「この世界は、心の中にしか存在しない」という考え方です。

何故か? まずは、簡単な例から。
10年前の世界は、今、どこかに存在するか? 恐らく、NOでしょう。それは、「心」の中にのみ存在します。

では、1年前の世界は、今、どこかに存在するか? 恐らく、NOでしょう。それは、「心」の中にのみ存在します。
さて、1秒前の世界は、今、どこかに存在するか? 恐らく、NOでしょう。それは、「心」の中にのみ存在します。
それなら、0.00000000000000秒前の世界は、今、どこかに存在するか? 恐らく、NOでしょう。それは、「心」の中にのみ存在します。

いかがでしょうか? 何かだまされたような気がしますか? 論理的には正しいと思うのですが。
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この回答へのお礼

再びお付き合いいただきありがとうございます。
ふと思いついた疑問を質問させていただいたのですが、質問者が、ご回答に、ついて行けなかったみたいです。すみません。
今回は、とてもわかりやすくておもしろくて感激しました。すべて、なるほどです。
「一瞬前の世界は、今、どこかに存在するか?恐らく、NO。それは「心」の中にのみ存在する」
これはおもしろいですね。なんだか天然のタイムマシーンに乗っている気分になって愉快でした。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/17 13:04

はじめまして。



「心」を一元的に説明しようとすると、何らかの不都合が生じます。
人は自分の信じたい事象を第一とし、それ以外の考え方に違和感を覚えたり、排斥しようとすることがあるからです。

心身一元論、あるいは心身二元論というのは、そういったものだと思いますし、魂や霊といったものも、そういったものかと思います。
霊とかいうとオカルトな要素も含みかねない話ですが、それら全てを否定するだけの証拠を集めることは現時点ではできないと思うので、私個人は安易に否定するつもりはありません。


「心って何ですか?」という問いには、「なんだかよく分からないけど、人間の感情や意思決定に関わる大切なものです」という答えが合っているように思います。
そして、「心」を意識するのには、他者の存在や一定の文化的な環境での成長が不可欠であることから、環境にも依存する要素なのだと思われます(有名な野生児の話や、虐待児の話など、肯定証拠はいくつか存在しますね)。


例えば「車って何?」と聞かれたときに、その回答にはある種の方向性があります。「車輪を用いて走る・曲がる・止まるという機能を持った乗り物です」という答え方と、「人や荷物を乗せて行きたい場所に早くラクチンに行ける乗り物です」という答え方です。心についても様々な見方があるし、どれが正しい/間違いだとは一概には言えないでしょうね。

ちなみに、以前こういう質問もありました。
私の書いた文が、いまの私のイメージに最も近い答えですね。
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=2166600


>体から離れることのできる「心」が、別のところにあるのですか。

現時点では、上記の考えについて否定も実証もできません。
ただ、信じるものにとっては、どちらかが「現実」になりえます。そして明確で客観性のある証拠なしに信じられることも、「心」のなす行為だと思います。


>「我思う ゆえに 我あり」の「思う」をしているのは、どこですか。
>うれしい悲しい淋しいと「感じる」ことをしているのは、どこですか。

今そう思い感じている「心」が、その答えの場所です。
他に言及することができないなら、「心」というしかないと思うのですが…。

脳がそう思っているという意見もありますが、私は目や耳などの五感なしでは脳はそう感じることはできないと思っていますし、育った環境があるからこそ、そういった思考ができるのだと思えば環境も重要な要素でしょうし、さらに言えば、そう考えられるだけの思考力を育てることなしにはできないことだと思えば、成長過程(他の感覚器官を経由した情報の入出力)も無視できないでしょうから、脳だけの機能だとは思えないというか。

そういった、ごちゃごちゃした訳の分からない時間的環境的発達的な要素が土台となって我々一人一人の思考活動を形成しているからこそ、それをまとめて「心」と名づけたと、私は見ています(脳はできるだけ手を抜くため、そういった大ざっぱな捉え方を許容する性質を持っています)。


きっと、簡単に説明できるものではないのでしょう。
色々と書かれた回答が、それを裏付けています。

長くなりましたが、参考になれば幸いです。
それでは。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>自分の信じたい事象を第一とし、それ以外の考え方に違和感を覚えたり・・・
:この上なく同感です。気をつけます。
それにしても、色々なご回答があって面白いです。
>どれが正しい/間違いだとは一概には言えないでしょうね。
:同感です。といいますか、どのご回答も、私が理解できさえすれば「へえ・・そうなんだ」と感心してしまいます。
>時間的環境的発達的な要素が土台となって我々一人一人の思考活動を形成しているからこそ、
それをまとめて「心」と名づけた
:なるほどです。脳だけでは心になりえませんね。

養老孟司さんの、「心」は、脳の「機能」である、心というモノはないというお話も、なるほどです。
(体か頭に手を突っ込んで「心」なるものを取り出して眺めてみたい気もするのですが・・笑・・。)

ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/17 12:46

>「心」って何ですか。



心は世界のこと。

世界観は多種多様ですね。
全世界=地球で例えると、
地球は上も下もない宇宙の浮遊物で
文句や奨励も意味がないのですが、
心が重力や磁場の責任に出来ないものであっても
地球が球体であるので、
人間の感覚、人生観
その基盤に生かされている心も、
地球が確かな基盤にしておくしかなくて
自分から一番遠いのは
地球上で自分の背中という世界になります。

>体から離れることのできる「心」が、別のところにあるのですか。

自分の背中より近いものにどうアクセスして
スムーズなネットワークを作り、
自分を運用する世界を利用すること。
水だと姿や自由度を変えながら地球を循環していますね。
人間の肉体を離れた自由度は想像力や記憶で、
それも心=世界です。

自分の背中を見るには、
悟りに至る「解脱」するのがいいのでしょうか。
何となくなのですが、私の心は
「心は水っぽくて、世界なんだな~」と。ほざくのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

心が「水っぽい」というのは、なるほどです。といいますか・・素敵です。
確かに水は、バーバパパも勝てないくらい、カタチを変えられて、ミクロサイズになって
岩に染み込んだり、海みたくマクロサイズになっていろいろ受け入れたりしてますね。
その循環を、妨害するダムみたいなものとか、挑発する濁流みたいなものなんかが多くて
困ったものですが。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/15 12:57

こんにちは。


(たいへん長いので、暇なときにお読み下さい)

「心」といいますのは、「大脳皮質」や「大脳辺縁系」といった、我々の脳内でも主に「高次の領域に当たる中枢系」の「反応」であり、それは「心」としてあるものではなく、「心の動き」として存在するものです。無数の神経細胞が信号をやり取りするという反応の過程や結果ですので、これが脳や身体を離れるということはありません。我々の身体の外に表れ出て来るのは、この「心の動き」に基づく言葉や行動、あるいは顔の表情といったものだけです。

「思う」というのは「大脳皮質」で行われます。
「感じる」のは「大脳辺縁系」というところです。
「思う」というのは「意識現象」であり、「大脳皮質」で行われる「知覚―認知」という作業の結果です。これに対しまして、「感じる」というのは「大脳辺縁系」を中心とした意識とは切り離された現象であり、こちらは「知覚―情動反応」というプロセスを辿ります。
この二つは、
「知覚―情動反応―知覚―認知」
あるいは、
「知覚―認知―情動反応―知覚―認知」
といったループを辿り、我々の「心の動き」を形作っています。そして、ご覧になれます通り、このようなループの中で、心の動きといいますのは意識と無意識が逆転したり混ぜこぜになったりしています。
我々は普段「心」というものを認識可能な「意識現象」と捉えがちですが、実際には大脳皮質内で意識に上る反応というのはほんの一部でしかなく、それ以外のほとんどは意識とは切り離された大脳辺縁系を中心とする「情動反応」を土台に作り上げられています。このため、我々の心の中で最も特徴的な部分が「感情」ということになります。

「知覚」といいますのは、視覚や聴覚、あるいは内臓感覚などから得られた身体内外の環境の変化をひと纏まりの情報に整理することを言います。先のループにあります通り、この「知覚情報」は、それぞれの認知作業を行う大脳皮質内の各「連合野」と、情動を司る「大脳辺縁系」の両方に送られます。
「認知」といいますのは、与えられた知覚情報と過去の記憶情報を比較したり組み合わせたりといった、意識を作り出すための作業です。視覚知覚や聴覚知覚、内臓知覚など、それぞれの認知機関は異なっており、各連合野での結果が組み合わされることにより、何が、どのような状態であるのかということが認識できるようになります。
例えば、向こうから知り合いの山田さんが歩いて来るとしますと、大脳皮質では与えられた知覚情報を元に、過去の記憶の中から山田さんの顔や姿といった「視覚記憶」や、山田さんという言葉「言語記憶」、またその言葉の意味「意味記憶」などが選び出されます。そして、こうして選び出された記憶情報を使って答え合わせをすることによって、「あ! 山田さんだ」と、我々はそれを「思う」ことができるわけです。
これによって初めて「自分は今、向こうから歩いて来る山田さんの姿を見ている」といった、「現在の自分の状況」を「自覚」することができます。そして、このようなことを「意識に上る」などと表現します。ですから、「思う」というのは大脳皮質内での「認知作業」によって発生する意識現象であり、自分自身で捉えることのできた「心の動き」の一部がということになります。

さて、大脳皮質といいますのは、唯一「意識」というものを取り扱うことのできる高次中枢であり、「思う」だけではなく、「考える」という機能も持っています。ですが、我々の脳内では、大脳皮質には「判断を下す」という権限が与えられていません。
もちろん、複数の情報を比較してどちらが正しいかを決めるということはできますし、このような論理的な判断は大脳皮質以外ではできません。ところが、では「自分にとってはどっちが得なのか」といったことになりますと、実は大脳皮質では判断を下すことができないんです。
「あ! 山田さんだ」、これが認知され、意識に上ったとしましても、「でも、それがいったい何なの?」、それが自分にとって良いことなのか悪いことなのか、このような判断が下せないのであれば、我々はそれに対して「何かを感じる」ということができません。つまり、大脳皮質には「思う」「考える」ということはできても「感じる」ということはできないんです。そして、我々の脳内でこのような、自分にとっての利益・不利益という「価値判断」を行っているのが「大脳辺縁系(その中の扁桃体)」です。

感情とは「大脳辺縁系に発生した情動反応に伴って身体に表出される情動性身体反応が、大脳皮質に知覚され、認知・分類の可能になった状態」を言います。
大脳辺縁系は入力された知覚情報に対して「利益・不利益という価値判断」を行い、「快情動」か「不快情動」のどちらかを発生させます。これにより、「怖い・怖くない」「悲しい・悲しくない」「嬉しい・嬉しくない」といった、我々の感情の元となる判定が下されます。我々の脳が与えられた情報に対して「何かを感じる」というのはこういうことです。
そして、このようにして大脳辺縁系に発生した情動信号は、他の中枢や、運動神経や自律神経を介して身体全域に送られます。この結果、例えば、
「怖くて身体が震える、足が竦む」
「心拍が上がり冷や汗が出る」
「顔の表情が変わる、思わず声が出る」
などといった様々な反応が「無意識」のうちに現れ出ることになります。このようなものを「情動性身体反応」と言います。

大脳辺縁系の価値判断に基づき、脳内や身体では「恐怖」という情動反応が発生しました。ですが、この時点ではまだ大脳皮質には知覚されていません。そして、これらの身体反応が体性感覚として大脳皮質に知覚されることにより、そこで初めて、過去の記憶を基にした答え合わせが行われます。その結果、いま発生している反応は「恐怖」という情動であると分類され、大脳皮質によって認知されます。つまり、「自分はいま怖いと思っている」ということが意識に上るわけです。
更に、このような自覚が得られますならば、目や耳から得られる他の情報と照らし合わせることにより、自分はいったい何に対してその情動を発生させているのかということも認識できるようになります。これを、大脳皮質における「情動の原因帰結」と言います。
このように、大脳辺縁系に発生した情動が、身体反応を介して大脳皮質に知覚されることにより、喜怒哀楽の分類が可能になった状態を「感情」と言います。

大脳辺縁系が情動を発生させるための価値判断に用いる判断基準を「情動記憶」と言います。
例えば、
「山田さんは良いひとだ」
「以前、山田さんと食事をして楽しかった」
このような具体的な記憶は大脳皮質の方に仕舞われているのですが、大脳辺縁系の「情動記憶」といいますのは、過去のそのとき、快情動を発生させたのか不快情動を発生させたのかという、たいへん簡単ものです。
大脳辺縁系は、この価値判断に基づいて山田さんという知覚情報に対して快情動を発生させます。この情動反応が知覚されることによって「嬉しい」という感情に認知・分類されると共に、目の前の山田さんという状況と答え合わせをすることによって、大脳皮質は「山田さんに遭えて嬉しい!」という原因帰結を行います。そしてこの過程で、山田さんに微笑み掛けて手を振るとか、「こんにちは」と声を掛けるといった行動が選択されます。このような、我々の脳内の「心の動き」に伴って選択される行動を「情動行動」と言い、これは大脳辺縁系の価値判断に基づく情動性身体反応に分類される、ほとんどが「無意識行動」です。

「山田さんに遭えて嬉しい!」、そう思ったから手を振ったのでしょうか。このようなことが自覚されたあとであるならば、それは「意識行動」かも知れません。ですが、ほとんどの場合、それは意識に上る前に、大脳辺縁系の価値判断に基づいて無意識のうちに選択されてしまう情動行動です。
そして、これが意識行動であったように思えてしまうのは、「山田さんに遭えて嬉しいから手を振ったのだ」、大脳皮質によって、このようなことがあとから理由付けされてしまうからです。この意識現象は、その出来事と一緒に記憶されますので、あたかもそれが自分の意思であったように思えてしまうのですが、実際にはそうでなはいと、我々の日常生活の、その70%近くが無意識な行動であるという統計によって示されています。
このように、我々の行動や生活は、必ずしも自分の意思によるものではなく、常に大脳辺縁系を中心とする「心の動き」に従っています。何故ならば、大脳皮質には、自分にとっての利益・不利益に対して判断を下す機能がないからです。

自分にとっての利益・不利益というのは、動物として生得的に定められたものもあれば、お金といった、生後学習に基づくものもあります。ですが、そこにはお金や名誉だけではなく、愛情といった価値判断もあります。
大脳皮質には「思う」ということはできますが、「どう思うのか」という判断を下すことができません。そして、この「どう思うのか」というのが、大脳辺縁系を中心とした「心の動き」であり、そして、それは我々が行動を選択するためにあります。
「自分の生活の全てが愛すべき我が子のためにある」
「恋人が愛おしくて仕方がない」
「あるいは、お金のためなら何でもします!」
心の動きは、常にそこへと我々の行動を推し進めてゆきます。それが70%であるということは、残りの30%は大脳皮質の理性的な判断が必死に抵抗を試みている結果であるとしても、決して言い過ぎではないと思います。もし仮に、大脳皮質の方にも価値判断の権限が与えられていたとするならば、これでは全く収拾が付かなくなってしまいますよね。このような、大脳皮質と大脳辺縁系の反応基準の違いを人類の苦難、即ち「悩み」と言います。
子供に対する愛情
恋人に対する愛情
お金に対する執着
そして、それに伴う行動選択にジレンマとして付きまとう苦悩
我々はそれを「人間の心」と呼びます。

大脳皮質の意識現象とは、このような心の動きを捉えたものです。ですから、
「どうしてこんなにも恋人が愛しいのか」
「自分はあのとき、何故子供を叱ったのか」
そのときは無意識であれ、情動反応に伴う様々な行動の結果を繋ぎ合わせてゆきますと、自分の心の動きというものを一貫して捕らえることも可能になります。更には、
「そのひとは何故そんなことを言うのか」
あるいは、
「そのような行動を執るのはどうしてか」
自らの体験に基づき、他人の胸の内を推し量る、このようなことをシミュレーションするのも大脳皮質の役割です。
行動の選択とは大脳辺縁系の価値判断に基づいて行われるものです。それは意識とは切り離された領域であり、如何に自分の脳内といえども、大脳辺縁系の奥に実際の判断基準を覗き見たり、それを自分の意思で自在に変更したりといったことはどうやってもできません。ましてや、他人の心を理解するというのはたいへん困難なことです。
にも拘わらず、我々は自分というものの理を知り、他人を理解することさえできるのは、一部の断片的な要素でしかありませんが、大脳皮質には心の動きというものをシミュレーションする機能が備わっているからです。そして、人類は大脳皮質のこのような機能がたいへん発達していますので、我々の身体を司るこの底知れぬ存在に、「心」という概念が宛がわれたのだと思います。
これが脳の営みであると判明したのは、それからずいぶんとあとのことでした。現在では、それは大脳辺縁系の情動反応を中心とする神経系の情報伝達であると考えられています。

だらだらと長くなってしまい、たいへん申し訳ないのですが、最後に「我思う、故に我あり」、この「思う」とは、これまでご説明致しましたように大脳皮質の意識現象です。これは、「知覚―認知」という作業によって実現するものです。ですから、ここに意識というものを客観的に扱う「別の意思」や、脳内のスクリーンに映し出される視覚情報を眺めているホムンクルスなとの存在を想定する必要は一切ありません。
いま感じている対象に原因の帰結が成され、視覚、聴覚、内臓感覚、このような知覚情報に基づいて自身の肉体が空間認知され、そして、その認識主体が自分であるという概念を含めて答え合わせをすることができるのであるならば「我思う」という意識現象は何の不足もなく成立します。
主体が自分であるというのは、小学校高学年くらいであれば十分に認識できる概念です。つまり、誰でも簡単に獲得できる生後の学習記憶なんですね。
但し、ひとつだけ違うことは、この体験だけは、自分以外の他人と入れ替わるということは生涯に渡って絶対にあり得ないということです。従いまして、「我思う、故に我あり」、この言葉の意味は、自分の存在というものを示す手段はこれ以外には何処にもない、と解釈されることになるのだと思います。

この回答への補足

丁寧なご回答ありがとうございます。
少し時間をかけて読解したいと思います。

補足日時:2006/09/15 12:10
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。プリントアウトして、何度か拝読いたしました。
脳内にこのようなシステムがあることをまるで知らなかったのですが、神秘的で感激しました。

実はこの質問をする前に、こんなことを考えていました。
(1)どうして私は平和を求めて(仲良くしたくて)戦争している(ケンカしている)のだろう。どうして私は「謝りたい」と思
いながら暴言を吐いているのだろう。「謝りたい」のは「どこ」で、暴言を吐きたいのは「どこ」?  ・・・?
(2)花子ちゃんが、木にブドウが実っているのを見つけて、食べたいな~と思って、手を伸ばしたけれど届かなくてムカついて、
「フン。どーせこのブドウは酸っぱいから要らないわ」と言って帰ったとすると、食べたいのは「どこ」で「ムカつく」のは
どこで「要らないわ」と言うのは「どこ」?  ・・・?

(1)は、よく分かりませんでした。情動記憶が一瞬で変化するということはなさそうですね。どちらも大脳辺縁系に発生した情
動で、「意識と無意識が逆転したり混ぜこぜになったりして」いる、「意識に上る」部分が変化している、ということで
しょうか。それとも、私が「人」を見たり「人の言動」を見たりしているため、そもそもその情動が発生する対象が変
化していて私がそのことに気づいていない(情動の原因帰結がうまく行われていない?)ということでしょうか。
(2)は、木にブドウが実っているのを大脳皮質が知覚して、知覚情報が大脳皮質と大脳辺縁系に送られて、大脳辺縁系で損得が
決められて、唾液が出るとか胃液がでるという身体情動反応が起こって、それが体性感覚として大脳皮質に知覚されて「アタ
シはおなかが空いている」と自覚してブドウに手を伸ばすのでしょうか。それともこれも無意識なのでしょうか。
手が届かないということを大脳皮質が知覚して・・(中略)・・頭に血が上るとか歯を食いしばるという身体情動反応がおこっ
て・・(中略)・・「アタシはムカついている」と自覚して、そのことに大脳辺縁系が「不快」を感じるのでしょうか。これも無
意識なのでしょうか。「不快」を消すために大脳皮質が情動記憶に反抗して「酸っぱいから」と言っているのでしょうか。

どこまで理解できたのか分かりませんが、とても面白くて参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/17 15:14

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